ジャズ・オーディオの雑記帳
by 6041のS

グット・ベイトでジャズのLPを購入(10月16日)

知立のジャズ喫茶「グット・ベイト」でLPを9枚ばかり購入し、10時を過ぎて、夜も更けたというのにワクワクして聞いている。(グット・ベイトでは、売りたい人がジャズのLPを店に持ってきて、委託販売している)

9枚の内訳(ジャズといいながら9枚のうち5枚はジャズ以外)
1) In der Serie MOTIVE sind erschienen / Robert Stolz und sein Wiener Orchester :ドイツ・PHILIPS
 シュトルツのウインナ・ワルツは楽しいが、やや録音が悪い。
2) STRAUSS WALTZES FOR DANCING / GEORGE LIBERACE :米コロンビア
 こちらはアメリカのダンス用のウインナ・ワルツである。
3) Portrait / Klaus Wunderlich :ドイツ・テレフンケン
 テレフンケン録音で大変音が良いLPであるが、それだけか。
4) アルメイダ・ギター・リサイタル :日本、東芝
5) Mambo Mania / PEREZ PRADO :米RCAビクター
 毎度同じみのペレス・プラードであるが、米RCAのオリジナル盤ということである。
6) IN A JAZZ TRADITION / ERIC GALE :日本ホノグラム
7) THE NEW TANG / ASTOR PIAZZOLLA &GARY BURTON:米アトランティック
 ピアソラとゲーリー・バートンのデュオ。
8) CHEROKEE / CHARLIE BARNET :米サンセット
9) EARL BOSTIC plays sweet tunes of the SENTIMENTAL 40s :米キング






予期せぬ質問と予期せぬ答え(10月17日)

 皆さんは寺田寅彦という人をご存知でしょうか。彼は明治時代の著名な物理学者であり、随筆家でもありました。今年の2月4日の中日新聞読書欄に、外山滋比古さんが自分の愛蔵書に寺田寅彦全集を取り上げていました。寅彦を「心の師」と仰っているのです。僕も彼の随筆は好きで、今までも岩波文庫を買って読んでいました。その寺田寅彦全集が8月にブックオフに古本として出ていたのです。全17巻全部はそろっていなかったのですが、とりあえず彼の随筆を集めた1巻から9巻(7巻が欠)の8冊を買い求めました。1997年から98年にかけて刊行されたもので、定価は1冊3200円のものです。それを750円で買い求めました。こういう買い物が出来た時は、心がわくわくしてくるものです。

 今週になって久しぶりに、件のブックオフに行ってみると、まだ寺田寅彦全集が3冊ばかり売れ残っているではないか。値段を確認すると、3冊共に前のシールが750円となっていて、その上に少しずらして新しいシールが5000円となっていました。定価が3200円の本が、ブックオフで5000円はないだろう。ブックオフでは定期的に価格の見直しをしていて、場合によっては価格を下げることは、僕も今まで経験している。500円の誤りに違いない。そう思って僕は店員に確認しました。
「この本5000円となっているけど500円の間違いではないですか」ここで質問を打ち切っておけば良かったのだけど、僕はなぜそう思ったか、知った顔をしてもう一言いってしまった。
「ブックオフでは定期的に価格の見直しをしているでしょう。価格を下げる数値を打ち間違えたのだと思うけど」
対応した店員は、一瞬困った顔をして次のように答えた。「いいえ、そうとは限りません」
期待していた返事が返ってこないので、僕も一瞬固まってしまった。「エッ、値上げすることも有るの」「色々あります」「今まで値上げは見たこともないけど」「ケース・バイ・ケースです」
僕は冷静になって、店員を眺めてみると、まだ経験の浅いアルバイトの若者であった。本の価格よりも、客に店の経営に影響するような質問をされては、簡単に同意しては危険だと思っているように思われた。本人もよくわかっていないが、とにかくここは色々ある、で押し通すつもりのようだ。僕は質問を変えることにした。
「議論するつもりはないけど、この本500円で売ってくれますか。5000円なら買わないけど」「そうですね、500円でお売りします」

こうして僕は寺田寅彦全集を3冊手に入れた。結果は良しとしても、コミュニケーションとしては大変ギクシャクしたやりとりであった。
結果的に店員の予期せぬ(余分な)質問をした僕が悪いのか、対応マニュアルにこういうケースが想定されていない、店の不備なのか。皆さんどう思いますか。




気分転換(10月18日)

アフリカの草原で暮らすライオンであれば、家族で移動しながら狩をして、獲物をしとめたならば、たらふく食べて、満足したならば、後は昼寝をする。そのかわり獲物がいなければひもじい思いを味わう。大変分かりやすい生活である。
ところが人間となると事情が少し異なる。忙しく働いて稼ぐ人ほどストレスがたまりやすく、うまく気分転換しないと精神に変調をきたす。競争原理が働き、満腹感に浸って、もう昼寝しようという判断が出来ないためだろう。
そのうえ、食って、寝て、子供を育てて満足というわけには行かない。自分は何のために生きているのかと問うのである。社会的な中に自分の確かな存在感を感じていたいと思う。何か他人とは違った創造的なことを成し遂げて、自分の足跡を残しておきたいと思うのである。
この気持ちが強いと甚だ厄介なことが起こる。何かを創造するということは、エネルギーが必要であり、そのための刺激が必要である。規則正しい日常生活は刺激を著しく減じるものであり、満足できなくなってしまう。
たいていの人は程々の考えで生活する。仕事以外に適当な趣味を持って、そこにささやかな創造力を発揮して満足する。またそれ以上のことを要求すれば、仕事と趣味が逆転してしまい甚だまずいことになってしまうのである。ところが趣味というのも、物によってはなかなか奥が深く侮れないものもがある。
わたしの友人にバードカービングを趣味にしている者がいる。彼は自分の庭に3坪ばかりのログハウスを立てて、そこを自分の工房とし、バードカービングを楽しんでいる。(これはどうやら彼の夢のようである)
彼によるとバードカービングで最初の壁に突き当たるのは色を塗ることだそうだ。程々の形が出来ればいかに本物に似せて色だしをして、塗り分けることが出来るかが出来を左右するという。だが本当に生き生きと本物と見間違うようなものをつくるには、鳥の立体イメージをどれだけ観察して形に出来るかにかかっているという。そのためには鳥の剥製がほしくなるそうである。
今ではバードカービングの愛好者のために、東急ハンズのようなところで、鳥の目玉とか足とかを売っているようだ。それを買ってきて利用するのは、この世界では常識のようである。同時にあちこちの文化施設に作品が展示されており、そういった所を訪れて、その技術を目標に自分の腕をさらに磨くといった事も必要なようである。
最初は軽い気分転換のつもりで足を踏み入れたのだが、やってみるとなかなか奥が深く、いつのまにかのめり込んで行く。そして周りに同じような同行者の輪も出来て、人と人とのつながりも深まる。そして出来た作品は、なかなか人が真似しようと思っても簡単には行かない。いつしか知識も増え人に薀蓄を傾けることが出来るようになる。
たいていの趣味は、熱心に足を踏み入れるとこういったところまで行くのではないか。そしてここまで行けば自分のものになり、生きる楽しみの一つの回答であるかもしれない。




オクラと大根おろし(10月19日)

仕事の帰りにふらっと本屋に立ち寄り、川上弘美さんのエッセイ「ゆっくりとさよならをとなえる」を手に取った。ぱらぱらと目次をながめると「オクラの夏」というタイトルが目に入った。ぼくはこれだけでこの本を買ってみる気になった。
我が家でも夏になるとオクラを植える。それも5本や6本でなく20本も植えるのである。最盛期になると毎日毎日オクラで溢れてしまう。とても家族だけでは手におえないのであちこちに持ってゆき、みんなに食べてもらうのである。中にはオクラが好きで美味しいと言ってくれる人もいるので、せっせと運ぶのである。
家人が100円ショップでスライス器を買ってきた。今までのものが古くなって切れが悪かったので、安くても見違えるように良く切れる。本来は胡瓜をスライスして塩もみを作るためであるが、何でも切って見たくなり、オクラをスライスしてみた。これが予想以上にうまくスライスでき、醤油と絡めて食べると美味しいのである。
夏大根が取れるようになり、オクラと並んで大根おろしが食卓に登場した。そこでこれを混ぜ合わせるとどうなるか試してみた。大根おろしにオクラのぬめりが加わると、大根おろしがふっくらと空気を含んで、まるでとろろのような食感となる。それならばと、とろろを作る要領で出し汁を加えると、今までのオクラとはまた違ったさっぱりとしたオクラの食べ方を発見したのである。
我が家のオリジナルなオクラの食べ方の発見に得意となり、オクラ好きに紹介をしたのである。ところがオリジナルなはずのオクラのレシピが、川上弘美さんのエッセイに紹介されているではないか。
「オクラの実をハシから、小口切りにしていって、これを大量のダイコンおろしの中にまぜ合わせる。ダイコンおろしにまぶしつけたオクラは、必ず、しばらく、冷蔵庫で冷やすのがよろしい。冷蔵庫から取り出して、もう一度まぜ直し、レモン酢、ユズの酢、ダイダイ酢など、とお醤油をかけていただくのが、最高によろしい。トロトロのねばりが、ダイコンにまでうつるのである」細部の味のつけ方は違うにしても、基本的にオクラと大根おろしの組み合わせは同じである。
川上弘美さんはこのレシピを「檀流クッキング」(中公文庫)で読んで知ったと書いておられる。ぼくのオリジナルな発見と思っていたが、先人がいたのである。
それでも味のつけ方は違う。ぼくのは、とろろをイメージしただし汁を用いている、と、強がってみたが、やっぱり発見の価値は半減してしまうのは認めざるをえない。それに川上弘美さんの紹介しているレシピの味をぼくは確認していない。

今年はもうオクラは終わってしまったので、来年は忘れないようにして、川上弘美さんのレシピでの味を確認して、ぼくのバリエーションに加え、オクラ好きに自慢して紹介したいと思う。




無題(10月20日)

天使「ソービナル」の問いかけ

天使ソービナルは、ぼくに問いかける/おまえの人生で意味あることは何か
今すぐに答えてみよ

何と恐ろしい質問か/そもそもぼくの人生で意味あることなど
何があったというのだ/何と答えればよいのか

ぼくは何を創造したと言えばよいのだ/誰を深く愛したと言えばよいのだ
どのように一生を終わらせようとしていると言うのか

あまりにも目先にとらわれて/何も見えていないから、
天使「ソービナル」よ、今は問いかけないで欲しい/ぼくには何もないから

ジャン・コクトーは友人を訪れるエレベーターの中で「私の名はプレートにある」という声を聞き、エレベーターのプレートを見るとウルトビーズと書いてあるのを発見し、天使ウルトビーズの存在を確信している。彼は天使と共に在った。
ぼくに時々問いかける天使の言葉に、ぼくの心は常に痛む。意識したり、しなかったりする中で過去に犯した過ちを、どう悔い改めようとしているのか強制するのである。ぼくは自分と戦って、これにどう答えるのか回答を見出さなければならない。

「イール・ド・フランスの詩」(アンナ・ド・ノアイエ)
微かな風にそよぐ木の葉のもと、
朱き砂が舞うなかを、夜明けがやって来て、
おびえる野兎のように、住まいから出て静かに走る。
こわごわと、臆病そうに、用心深い目つきをして。

芝生は、突如、長い歓喜のように、燃えている鏡のように、
緑色の湖のように見え、
菩提樹の陰は、そこに横たわり、身投げする。
かささぎと、襟白鳩の翔び姿が、そこには映り、広がる。

耕地は、ひからびた薔薇のような、しおれた色合いだが、
遠くに、そのふっくらとした海原を輝かす。
夏の太陽は空へと昇り、先を急ぐ。
空中を、小さい青色の隼が滑るように飛んでいくのが見える。

ぼくは、本の中にこの詩を見つけた。素晴らしい表現力だと思う。やり直せない過去に捕らわれるのは止めて、感受性豊かに、自然や感情を言葉に映してゆきたい。




Tinaのレコード(10月21日)

Tinaのレコードを買ってきた。Spanish Groovin / Tinaと言うタイトルの30cmLPで、33回転にもかかわらずA面にはSpanish Groovin 1曲のみで、ディスクジョッキー用のレコード並みの溝の粗さである。音の作りも同じだ。(2000年USA製作)
Tinaは1999年から2001年にかけてアルバムCDを発表し、そのバタ臭いフィーリングを僕は一時熱心に聞いていた。最近はライブ活動に力を入れているようで、アルバムは出ていない。今までに出た7枚のアルバムのうち5枚を僕は持っている。

Tinaのプロフィール(オフィシャルサイトより)
ジャズサックス演奏者の父親の影響を受け、幼少の頃からブラックミュージックに親しむ。1stアルバム「Colorado」はオリコン初登場1位を獲得。近年はザ・ルーツのフックアップにより、フィラデルフィアにてライブ出演するなど海外のアーティストとの交流も盛ん。またソロ活動と併せて"NITRO MICROPHONE UNDERGROUND"のMACKA-CHIN、SUIKENと3人でユニット"MONTIEN"を結成。2枚のミニアルバムと1枚のアルバムをリリースしている。2006年の6月に渡英しUKのプロデューサーとのレコーディング等、R&B、SOUL、JAZZ、クラブ・ミュージックを独自に融合する。"アーティスト"Tinaとしての今後の活動が楽しみである。


アルバム(太字は所有するアルバム)
Colorado(1999年)
Orario(2000年)
Respeto〜Tina's cover album〜(2001年)
Tina best selection true love(2001年)
Cuore(2001年)

Tina(2004年)
Tina Complete Best(2005年)




中古のLP(10月22日)

久しぶりにハードオフへ行く。
入手したレコードの一覧。
・ベーム/ウィーン・フィル、NHKライブ 1975U(独グラモフォン全4枚)
・バッハ平均律クラヴィーア集/リヒテル(日本ビクター全3枚)
・ベートーベン交響曲全集スィトナー/ベルリン・シュターツカペレ(DENON全8枚)
この3つの全集はジャンク品扱いの低価格なので無条件で買う。リヒテルのバッハはCDで持っているが、LPが手にはいるとは思ってもいなかった。
・ベートーベン:ピアノソナタ17番、21番、27番ウィルヘルム・ケンプ(独グラモフォン)
・マーラー:交響曲第1番/スィトナー/ドレスデン国立管弦楽団(独グラモフォン)
・マーラー:交響曲第1番/メーター/ニューヨーク・フィル(CBSソニー)
・アシュケナージ/モーツァルト・リサイタル:ピアノソナタ17番、8番(ロンドン)
僕はアシュケナージが録音したモーツァルトのピアノ協奏曲は、大変すばらしいと思っているが、ピアノソナタはどうもぴんとこない。アシュケナージの肉づきの良いピアノの音色がモーツァルトと合わないような気がする。
・シューマン:幻想曲/ルービンシュタイン(RCA)
・シューベルト:即興曲全集/イングリット・ヘブラー(フォンタナ)
・栄光の巨匠達1000/弦楽奏者編(東芝EMI)
今回の買い物で面白いと思った1枚。おそらくSPからの編集ではないかと思うが、ヴァイオリンでは、クライスラー、ティボー、エネスコ、ブッシュ、シゲティ、ジョコンダ・デ・ヴィート、ジャネット・ヌヴー、それとチェロのカザルスの演奏を集めた1枚。ジョコンダ・デ・ヴィートの演奏するシャコンヌとかジャネット・ヌヴーのスーク小曲集などはLPではなかなか手にはいらないのではないか。
・ドビッシー:15のピアノ小品集/ワルター・ギーゼキング(エンジェル)
・ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」/ワイセンベルク(東芝EMI)
・ラフマニノフ:ピアノ協奏曲2番/ワイセンベルク/カラヤン/ベルリン・フィル(東芝EMI)
ワイセンベルクの演奏する「展覧会の絵」はなかなかの名演で録音も良く、気に入った1枚であるが、どうもカラヤンと組んだ演奏では、あざとさを感じてしまう。
・ショスタコーヴィッチ:交響曲第5番/バーンスタイン/ニューヨーク・フィル(CBSソニー)
・ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」/ストコフスキー/ニュー・フィルハーモニア(ロンドン)




ポアンカレ予想(10月23日)

昨夜のNHKテレビでポアンカレ予想を100年ぶりに証明したロシアの数学者、グレゴリー・ペレルマン博士について放送していた。

ポアンカレ予想とは、「基本群が自明な(=単連結な)多様体はn次元球面に限る」簡単に言うと、ロケットに紐をつけて宇宙に放ち、そのロケットが宇宙を自由に飛びまわり、地球に戻ってきた後で、その紐を手繰って回収できれば宇宙は球体である。

この100年前のポアンカレ予想を、多くの数学者が証明の解を求めて検討したが、なかなか成し遂げることが出来なかった。イタリアの某数学者はこの研究に没頭して、ついには結婚もあきらめた。特に難しいのは、紐が絡まってしまうことをどう解決するかであった。これを3次元で考えず、4次元、5次元で考えて答えを出し、それを3次元に応用するという賢い人も出てきたが、4次元、5次元は解けても3次元は解けない。(たとえとして、ジェットコースターの軌道を上から平面的(2次元)に見ると、軌道が絡まっているように見えるが、立体的(3次元)に見ると絡まって見えない。ということで、高次元のほうが易しい)

これに対して、まったく違った角度からアプローチした人がいた。アメリカの数学者サーストンである。彼は3次元宇宙がとりうる形はいくつあるかを予想し、宇宙は8つの形状もしくはその組み合わせで成り立つという、サーストンの幾何化予想を提起した。8つの形状の一つに球があり、それ以外は例えばドーナツのように穴が開いたリングが含まれている。これが真実とすれば、球以外は紐が回収できないので、サーストンの幾何化予想を証明できれば、ポアンカレ予想も証明できるという訳である。サーストン自身はこの問題の証明をあきらめてしまったが、この問題はトポロジーという数学の分野の問題ということで、多くのトポロジーの専門家が解を求めて研究したがどうしても解けなかった。

これを100年ぶりに解いたのがロシアの数学者、グレゴリー・ペレルマン博士である。彼はこの問題(サーストンの幾何化予想)を解くのに、トポロジーを用いずにまったく新しいやり方、微分と物理の温度の概念を導入して証明したのである。ペレルマン博士の解が正しいと証明されると、数学のノーベル賞とも言われているフィールズ賞の授与が決まったがこれも辞退してしまう。証明が認められれば十分だ、というのが返事であった。そして100万ドルの賞金も辞退し、仕事も辞めて、母親とともに田舎に引っ込んで、母親の年金で細々と生活しながら、一人数学の研究をしているという。

この話を聞いて思ったことが二つある。
一つは、何かを得ようとすると、何かを失うという事である。私たちは常にこの選択に迫られながら生活をしている。
もう一つは、こういう偉大な仕事をする天才は、自ら幸運を招くことが出来るように、不断の努力をしているということである。状況は異なるが、アルタミラ洞窟を発見した領主のソウトウラのことを連想する。




今日の購入レコード(10月24日)

今日初めて三好町にあるハードオフに中古のLPレコードを買いに行った。

・モーツァルト:ピアノ協奏曲26番/ヘブラー、デイビス、ロンドン(フォンタナ)
若きヘブラーの清楚なモーツァルトである。
・序曲、前奏曲集/カラヤン、ベルリン・フィル(東芝EMI)
カラヤンの芸面的な演奏もこういう曲では映える。
・牧神の午後への前奏曲/フールネ、コンセルトヘボウ(フォンタナ)
・ショパン・ワルツ集/ツィマーマン
若きツィマーマンの瑞々しいショパンのワルツ。
・マーラー:交響曲第1番/ラインスドルフ、ボストン(ビクター)
リビング・ステレオ録音に興味をいだいて。
・モーツァルト:バイオリンソナタ/グリューミオ、ハスキル(PHILIPS)
往年の黄金のコンビによる演奏。
・シベリウス&プロコフィエフ:バイオリン協奏曲/シェリング、ロンドン(PHILIPS)
シェリングのバイオリンの音色に魅かれて。
・シュトラウス:アルプス交響曲/ベーム、ドレスデン(HELIODOR)
・ショパン:スケルツォ&バラード/ルービンシュタイン(RCA)
・シューベルト:交響曲第9番/サヴァリッシュ、ウィーン交響楽団(フォンタナ)
・モーツァルト40番、メンデルスゾーン4番/ドラティ、ロンドン(フォンタナ)
・ドヴォルザーク:交響曲第8番/シルヴェストリ、ロンドンフィル(セラフィム)

以上の12枚である。

追加記入(昨日入手のLP)
・CBSソニー・ファミリー・クラブが発売した「ザ・グレート・コレクション・オブ・ホーム・ミュージック」シリーズのLPが14枚。
・筑摩書房が出した、ARCHIV原盤の「ルネッサンスとバロックの音楽」シリーズの3巻、4巻、5巻、11巻、12巻で全10枚のLP。

21日から今日(24日)までで合計63枚のLPを入手した。




「至上の愛」(10月25日)

僕のように、会社に所属して生活してきた人間は、周りには、ある程度共通の価値観を持った人間が多い。多少変わった人だといっても、その程度は違和感を覚えない程度である。ところが、客商売をやっているひとの話を聞くと、並外れた人がいるようである。
「コルトレーンのオリジナル盤「至上の愛」を人妻のパンティと交換した人」
数十年前の話として、ジャズ喫茶「グット・ベイト」のお客さんで、コルトレーンのオリジナル盤「至上の愛」を何とか入手したいと探しているお客さんがいた。Iさんである。ある時Iさんが奥さんと一緒にやって来て、マスターにどうにかならないかと相談していた。それを、たまたま聞いていたもう一人のお客さん、Yさんが、私は2枚オリジナル盤を持っている、と話しかけてきた。もちろんIさんはYさんに、1枚ぜひ譲って欲しいと懇願した。Yさんも「至上の愛」が好きで集めたもので、お金で譲るのは気がすすまなかったが、ふと見ると、Iさんの傍らに、若い、美人の奥さんがいるではないか。Yさんは、奥さんをじっと見て、言った。奥さんが今はいているパンティとなら交換しましょう。Iさんは奥さんに頭を下げ、奥さんは黙ってトイレに行き、脱いだパンティをYさんに渡した。商談成立である。
この話を聞いて、皆さんはどちらが得をしたと思いますか。何万円もするオリジナル盤を勿体ないと思う人もいるでしょう。
Iさんはヴァン・ゲルダー録音の音の良いオリジナル盤「至上の愛」を取り出しては聞いて、きっと悦に入っているでしょう。Yさんも、お金であれば、とっくの昔に消えてしまっているでしょうが、黄ばんだパンティであれば、今でも取り出して、眺めながら、過ぎ去った青春を懐かしむことが出来るのです。オリジナル盤は探せばまた入手できますが、思い出の詰まったパンティは二度と入手できません。
皆さんはどう思いますか。

僕はこの話を聞いて、長らく棚の隅でほこりをかぶっていた、コルトレーンの「至上の愛」日本盤を取り出して聞いてみる気になった。このアルバムの中で、コルトレーン自らが次のように綴っている。「・・・1957年から聖なる神の導きにより、ある霊的な、何ものかを私の心に感じました。それは、私の生活をより豊かに、より充ち足りた、より生産的な方向へと誘ったのです。(中略)私はここで特に言いたいのは、常に神が私たちのそばにおられるという点です。神は恵み深く慈愛に充ちています。神は愛そのものであり、私たち人間はすべて神の愛の中にいるのです。神はまさに「至上の愛」なのです。・・・」

コルトレーンには悪いが、僕はコルトレーンの説く「至上の愛」よりも、Yさんが思い描いていると思われる「至上の愛」の方により共感をおぼえる。「至上の愛」を聞いてそう思った。




物事のとらえ方(10月26日)

中学の教科書「国語」に目を通していたら織田正吉の随筆が載っていた。
「半分だけ飲み物の入った瓶をテーブルの上に置きなさい。楽天主義者はそれを見て、「しめた、まだ半分ある。」厭世主義者は「ちえっ、もう半分しかない。」という。」(バーナード・ショー)
「江戸という所は住みにくい。水まで金を出して買わなければならない。」「江戸は住みよい所だ。水を売ってでも生活できる。」(江戸の小噺)などを引用しながら、物事には二面性があり、ユーモア感覚とは物事が持っているこのような二面性をすばやく感じ取る所にある、と書いている。

同じく外山滋比古の評論に「転籍苔を生ぜず。」の解釈の仕方がのっていた。A rolling stone gathers no moss. という英国のことわざが語源であり、一箇所に長く腰を落ち着けないで、絶えず商売変えするような人間に、成功はおぼつかない。もっとはっきり言えば、そういう人間にはお金はたまらない、という意味で使われる。ところがアメリカでは逆の意味でとっているという。つまり、優秀な人間ならば引く手あまた。席の温まる暇もなく動き回る。いつもぴかぴか輝いて、苔のような汚いものが付着するひまもないと。このように解釈が違ってくるのは、そこに暮らす人々の社会的背景が異なるための必然であると言っている。

最近一時的に流行した本「他人をほめる人、けなす人」は、このような見方を類型化して整理したものである。「楽観家と悲観家は、一見したところでは、本質的には同質のもので、しかも反対の長所と短所とを備えているもののように思われる。楽観家は、より行動的、積極的である。けれども、困難を実際よりも小さく見なし、危険な路上で思いがけないリスクを冒す事がある。これに反して、悲観家は必要以上に慎重で、多くの好機をむざむざ逃がしてしまうことにもなりやすい。要するに、両者を適度に混ぜ合わせたところが理想のように思われる。」わかり易いが当たり前のことであり、読んだあとで何も感動がない。こんな物が話題のベストセラーになるようでは、いかに物を深く考える人間が少ないかということであり、情けない。もっとも僕もこの本を買った一人だが。ただしブックオフで100円出したのみである。

どちらかというと、物事を楽観的に見たほうが生きるのには楽である。五分と五分ならやって見よう。





久々のオフ会(10月27日)

本当ならば晴れるはずの天気が、猛スピードでやってきた台風の影響で、雨があがりませんが、それでも朝からキット屋の大橋さんを通じて知り合った6人の音楽仲間が、僕のオーディオを聞きに集まってくれました。大橋さん、第九のIさん、タケさん、デカチョーさん、I瀬さん、I原さんです。

今日は、大橋さんから譲ってもらったJBLダブルウーファー・システムのスケール感を聞いてもらいたいと思って、ジャズのビッグ・バンドを立て続けに聴いてもらいました。その後デカチョーさんが持って見えた、友人のプロに作ってもらったという3本足つきのウエスタン指定箱の音を、キット屋の指定箱の音と聞き比べました。きりっと締まった音像のはっきりした音です。それから第九のIさんの持って見えたノンオーバーサンプリング兼デジタルフィルターなしのDAコンバーターの音を楽しみました。これも音像のくっきりとした鮮度の良い音です。それと併行して、グット・ベイトのマスターからお借りした録音のすばらしいジャズのLPを紹介したり、皆さんが持ち寄ったCDとかLPの色々な音楽の紹介がありました。それぞれの皆さんが、音楽を愛し、自分のイメージする音を持っていらして、意見を交換することの出来るのは、自分のポジションも良くわかり、大変楽しく、参考になりました。

オフ会が終わると、皆さんはそれぞれ帰宅されます。そして僕一人がまだ部屋で余韻と対応しています。今日のオフ会を、皆さん楽しんでくれただろうか、とか、こんな音楽をもう少し紹介すればよかったかな、とか、色んなことが浮かんできて、そして疲れがやってきます。そんな時にはやっぱり音楽を聴きます。その時々の体調により聞く音楽は異なりますが、今日はバロックのLPを1枚取り出して聞きました。
「アルビノーニのアダージョ:バロック名曲集」パイヤール指揮/パイヤール室内管弦楽団(エラート)です。最初にパッヘルベルのカノンの通奏低音が静かに流れ出すと、本当にほっとした気持ちになります。その後バッハのカンカータBWV.721、147、167、140のコラールがパイヤールによって演奏されると、とても気持ちが落ち着き、アルビノーニのアダージョが流れ出す頃にはまた元気が戻ってきます。そこで、もう少しバッハが聞きたくなりました。
カンタータ第140番「目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声」カール・リヒター指揮/ミュンヘン・バッハ合唱団、管弦楽団(アルヒーフ)を静かに聞きとおしました。音楽って本当にいいですね。

今日のような充実した1日を過ごすことが出来たのも、わざわざ我が家に集まって、一緒に音楽を楽しんでくれる仲間がいればこそというものだと、あらためて感謝の一言です。




最後の晩餐の修復(10月28日)

今日の夜、NHKのニュースで、イタリアでレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「最後の晩餐」の修復が終わり、これを高精度デジタル画像で保存し、今後の修復にも役立てると報道していた。この絵は、映画「ダビンチ・コード」で取り上げられ、キリストの向かって左側に、首をキリストと反対側に傾けているのが通常言われているヨハネではなく、マグダラのマリア(キリストの妻)を描いたものだというところから、物語が展開していく。
本物は、ミラノのサンタ・マリア・デル・グラツィエ修道院の食堂の壁に描かれている。レオナルドはフレスコ画という、壁に塗った漆喰が生乾きのうちにすばやく絵を描き、漆喰の乾燥と共に絵を壁に半永久的に定着させる方法を使わずに、通常の絵と同じ絵の具を用いた。そのため痛みが激しく、後からの修復が加えられている。
最後の晩餐とはイエス・キリストが磔刑の前夜に12人の弟子とともにした晩餐をいう。新約聖書の「マルコによる福音書」14:17-26 や「ルカによる福音書」22:14-23に記述されており、イエスは裏切者を指摘するとともに、パンとブドウ酒をとって自らの体であり血であると言う場面である。
テーブルの左端から順にバルトロマイ、ヤコブ、アンデレ、そしてユダ、ペテロ、ヨハネである。テーブルの右端からはシモン、タダイ、マタイ、そしてピリポ、ヤコブ、トマスである。裏切り者のユダが肘をついた右手に握っているのが革の財布で、そのなかには、師イエスを売った代償の銀貨三十枚が入っているはずである。

「わたしは苦しみをうける前に、あなた達と一緒にこの過越しの食事がしたくて、したくて、たまらなかった。わたしは言う、神の国でほんとうの過越しの食事をする時まで、わたしはもう決して、この食事をしないのだから。そしていつものように杯を受け取り、神に感謝したのち、弟子たちに言われた。これをとって、みなで回して飲みなさい。わたしは言う、今からのち神の国がくるまで、わたしは決して葡萄の木から出来たものを飲まないのだから。またパンを手に取り、感謝して裂き、彼らに渡して言われた。これはわたしの体である。しかし驚いてはいけない、わたしを敵に売るものが、わたしと一緒に手を食卓の上においている。人の子は定められているとおりに死んでゆくのだから。しかし売るその人はああかわいそうだ。これを聞くと弟子たちは、自分たちのうちでいったいだれがそんなことをしようとしているのかと、みなで言い合いを始めた。」ルカ福音書
この絵を鑑賞するために、聖書を知っているのは、有用と思う。

たまたま2,3日前に、ブックオフで「パウロ、神のライオン」テイラー・コードウェルを購入した。これは人間としてのパウロの伝記である。




キリスト教の誕生(10月29日)

2000年の夏に妻と二人でイスタンブールを訪れた。イスラムのモスクが立ち並ぶ、異国情緒に溢れた町である。古くはコンスタンチノーブルと呼ばれた東ローマ帝国の首都でもあり、ギリシャ正教の中心地でもあった。この町を散策すると否が応でもこの二つの宗教のことを意識してしまう。仏教と並んで世界の3大宗教といわれる中で、この二つは1神教として深いかかわりがある。その中でまずはキリスト教からその誕生について改めて知りたいと思った。

そんな思いが私のどこかに潜んでいた中で目にとまったのが「イエスの生涯」「キリストの誕生」の二冊の本である。クリスチャンでもあった遠藤周作が、日本人にも理解できるイエスキリスト像を作家の眼を通して描いたものである。非常に人間的なイエス象を提供しておりわかりやすい。この二冊を読み終えたときに、次に手にしたのが加藤隆による「新約聖書の誕生」という本である。イエスの死後どのようにして聖書が誕生し、ローマ帝国が支配した世界に浸透して行ったかを書いたものである。パウロというユダヤ教徒の回心とその果たした役割のおおきさが窺い知れる。

その次に面白かったのが、西岡文彦による「名画でみる聖書の世界」である。当初ギリシャ語で書かれた聖書を読めなくても、絵を見ればそれが何を意味するものかわかるように、ルールが成立しているのである。
例えば「受胎告知」の場面では、@聖母は赤と青の衣で描かれる。A天使は純潔の象徴ユリを持っている。B聖母は聖書を読んでいる最中だった。
「キリストの洗礼」「最後の晩餐」「十字架のイエス」「キリストの復活」など多くの名画が描かれているが、いずれの場面もそれぞれの約束事が成立しているのである。ユダヤ教のナザレ派として出発したキリスト教であるが、自分たちは神に選ばれたものであり、神との契約である律法を厳しく守ることが義務であるというユダヤ教を離れて、大きな愛を説くキリストの教えは、世界を支配したローマ帝国の中でいかにして支持を得、広がっていったのであろうか。この点についてはもう少し考察してみたいと思う。




人生の系図(10月30日)

人は誰でも生まれたときには、父親と母親を持っている。そしてその人間関係に影響されながら成長していく。しかし自分の大切な人生を豊かにするのは、そういった家系図のような関係のみではなく、よき友とか、よき師であるとか、あるいは仕事上の上司であるとか、同僚とかいった、出会いで生まれた人間関係でどのような系図が書けるかといった事が大切ではないか。
直接的な出会いのみに限らず、読書をする場合でも、音楽を聴くときでも、その作者、演奏者の人間としての生き方、価値観などにも目を向ければ、感動するような出会いに会えるかもしれない。自分の今の生き方が、そういった人の系図を通して影響されていることが思い当たるのである。

私の勤めていた会社では、鈴木さんという人がいた。この人はGMのスローン会長のことを引き合いに出して、土曜日、日曜日のうち一日はその週を振り返り、仕事の整理をせよといった。そうしないと時間に流されてしまい、考えが及ばなくなり、大切なことを見逃してしまうと。そして自分もその事を実行していた。それを見て私も実行するうちに、いつか習慣となった。これが素晴らしいと思う。いくら立派なことをいわれても、そしてそれが実行できても長続きしないことはどこかに無理がある。それを、かの人は努力すれば、持続可能なレベルでいつも言う。

科学という雑誌に池内了先生が次のように述べていたのが印象的である。「無知というのは物を知らないことでなく、考えようとしないことである。」私の仕事ではない、教えてもらっていない、そんなことは知らない、そういった理由で自分の行動に枠をはめ、新しいことの興味を抱くことを止めてしまう人は、益々無知になってしまうのではないか。

夏目漱石の草枕の冒頭は次のように始まる。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」この考えにいたく共感したのが、グレン・グールドである。
このように誰もが人生の系図を一生のあいだに作り上げて行くのであるが、自分の系図を充実させると共に、他人の系図の充実に少しは役立ちたいと思う。




ジャズの評論(10月31日)

僕はジャズとクラッシックの音楽が好きである。それに関連して、音楽に関する評論とか、解説とか事典類もよく読むほうだと思っている。その中で特にジャズについて解説した本を読むと、基本的には2つの視点で書かれているものが多い。

一つは、歴史的視点によるものである。スイング、ビーバップ、モダンなどの時代的に分類し、それぞれの時代に大きな足跡を残したジャズマンおよびその演奏について解説したものである。代表的な人に油井正一がいる。「生きているジャズ史」「ジャズの歴史物語」「ブルーノートJAZZストーリー」などの著作がある。他に大和明「ジャズ 歴史と名盤」「ジャズの黄金時代とアメリカの世紀」相倉久人「モダン・ジャズ鑑賞」「現代ジャズの視点」などである。この手法が従来の日本のジャズ評論の主流である。

もう一つの視点は、自分なりの好き嫌い、良い悪い、の判断基準を持ち、その物指によってCDなどの評価をばっさりと切ってしまうのである。現在活躍している寺島靖国がそうである。文庫本で出版された「相と哀しみのジャズカタログ」の中で中条省平教授が以下のように解説している。「寺島靖国はジャズ評論界にひさびさに出現した名文家である。ともかく元気で自信にみちている。良いか悪いか、好きか嫌いか、一刀両断の断言が気持ちいい。ジャズの基本はドラムのスピード。ジャズは曲だ。ジャケットも名演のうち。などの寺島テーゼがある。」「感傷的ジャズコレクション」「JAZZリクエスト・ノート」「JAZZはこの一曲から聴け」などの著作有り。僕も好き嫌いの寺島節を楽しんでいるが、評論としてみた場合は物足りない。
これに対して後藤雅洋は「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」という本を出し、ジャズは人で聴くものという提起をしている。これはジャズプレーヤーが何を表現しようとしているか、どう表現しようとしているか、という観点で考察したものであり、たいへん面白い。しかし彼もこれ以外の著作では、アイデア勝負であったり啓蒙的であったりして、もう一捻りほしい。
それとジャズの評論はどうしてもCDが中心となり、それも国内盤のみを取り上げる。大手のレコード会社は売れる物という事で新しいものがでて来ない。これでは面白いわけがない。

最近中山康樹の「マイルスを聴け」とか「エヴァンスを聴け」という本を読んでいる。これは読み物としても面白いが、それぞれの演奏者のディスコ・グラフィーとしても、大変重宝する。これ以外に「コルトレーンを聴け」という本も原田和典の執筆で出ているらしい。この種の本も色々出ると楽しみである。






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