キット屋倶楽部
音楽の
すすめ by F高
イラスト
R,シュトラウスの歌曲の世界 (2006.5.29)
皆様こんにちは。今日はリヒャルト・シュトラウスの世界をご紹介しましょう。友人の中にはあれだけは聴きたくない、という人も居りますが、僕にとっては、そんなことは無かったのです。僕は彼の楽劇でなく、むしろその歌曲に心を奪われたのです。

シュトラウスって言えば何と言っても、最近まで生きていました。亡くなったのは1949年、私は4歳の時です。4歳といえばもう記憶がしっかりして来た頃。最も好きな「最後の4つの歌」は1949年発表でした。中でも最後の曲「夕映えに(Am Abendrot)」は、初めて聴いた瞬間からこれは人生最後を表しているんだ、と理解しました。ゆったりしたテンポで流れ、弦楽器が耳をくすぐるこの音楽に抗うのは困難だと思います。彼がしばしば嫌われる理由はまず音楽自体が映画音楽風なことでしょう。まるでマントバーニ。下手をすれば軽薄さと紙1枚の差。でも正直言います。僕はこれが大好きです。この曲にはマーラー「大地の歌」と共通点があります。やがて訪れるであろうその時を待ち、それに備えて、と言うのは全く「夕映えに」の世界ですから。またリュッケルトの詩の世界とも一致します。

最近フラグスタートの海賊盤を聞き直したのですが、その中にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで歌ったこの歌の初演がありました。指揮はフルトヴェングラー。雑音が多いのですが、間違いなくフラグスタートが歌っています。フラグスタートみたいに精一杯ワーグナーの音楽を中心に歌ってきた人が最終段階に達した時、こういう曲を選ぶのも良いのではないでしょうか。フルトヴェングラーもフラグスタートもキャリアの終わりに近かったのですね。そして僕自身(実際大した仕事はやっていない)も人生の締めくくりに思いを寄せなければなりません。こればかりは、誰でも避けられないのです。若いときにはどんな無理でもこなし、どんな無茶な生活でも耐えられますが、その限界が分かった時、あるいは限界を囁かれた気分になった時、音楽の選択も変ってきます。振り向きもしなかったバッハの受難曲や、モーツアルトの鎮魂ミサ曲に大いに引かれるのも、この頃から。
この曲は誰のものが良いか、という問いに対してまず第一に推されるのはエリザベート・シュワルツコップ/ジョージ・セルのものでしょう。僕にとっての標準でもあります。シュワルツコップは賢明な女性だから、下手な記録を残さないと思います。レコードを出せば永遠のイチオシになりそうなものばかり。例のザルツブルク音楽祭の記録映画になった「薔薇の騎士」はたった一度、初日だけの出演だったにも関わらず、まるでシュワルツコップの記念映画みたいに撮られたのです。初日以外に歌ったのはリーザ・デラ・カーザです(指揮はカラヤン)。こういう記録を見ているうちにはっとしました。あの「夕映えに」は普段は誰が歌っていたのだろう?デラ・カーザのがありました。でも聴いてみて分かりました。しゃくなくらい、シュワルツコップの方が旨いのです。デラ・カーザの方は早々にCDのスイッチを切りました。あとでまた聴きます。

シュワルツコップもカラヤンも共に第2次世界大戦の最中はナチスにすり寄って、なんとか生き延びた人だから、シロかクロか大層複雑な気持です。でもその中を生きて来たのですから、賢明でなければならなかったと想像できます。ところで歌の出来映えについて、ここに強力なライヴァルが現れました。それはチェコのルチア・ポップが歌ったものです。グルベローヴァと共に収録されています。ルチア・ポップは大して興味のないソプラノでした。でもこれを聴いてびっくりしました。何とゆったりした表現だろう。泰然自若の風格を持っています。しかも!これは彼女の白鳥の歌だったのです。ポップはこの録音後6ヶ月で亡くなりました。その辞世の歌がこれほどの完成度で残されるとは!そのすばらしさを味わうには、「近い声」の装置で聴く事をお勧めします。今から13年前のことでした。

その録音を聴くと、シュワルツコップの方がやや遠いところから聴こえます。そしてシュワルツコップはまだ健在です。ただし写真に撮られるのを許しておりません。これを見てもシュワルツコップは賢明だなあと思うのです。かつてシュワルツコップは、リートを完璧に歌えるのはディートリッヒ・フィッシャー=ディスカーウと自分だけ、と答えていますが、それは傲慢というより彼女の厳しい芸術感の表れと考えます。オーディオ装置のリファレンスを決める際に、このシュワルツコップの「夕映えに」を選ぶか、それともポップの「夕映えに」を選ぶかで大いに迷いました。シュワルツコップを選んで、しばらくしてポップに換え、それからまた交換し、さらに交換し…。結局僕はポップを選びました。どうか自分の耳で聴いてみて下さい。どちらも極めて優秀です。

またシュトラウスの「子守唄」ではシュワルツコップがいいと思います。あの子守唄というジャンルに入る曲で、一言一句に意味を込めて歌った稀な例です。また有名な「あした(Morgen)」は同じエリザベートというファースト・ネームでも、シュワルツコップと競うべきはシューマンです。エリザベート・シューマン、作曲者から私のゾフィーちゃん(シュトラウス「薔薇の騎士」より)と呼ばれた彼女こそは、「あした」を歌うべき歌手として考えます。「たそがれの夢」という歌曲はこのシューマンも歌っていますが、かのジンカ・ミラノフの最後の日本公演で歌った曲というので聴いてみたところ、それほどではないかなあ、と思いました。曲そのものの性格から、たとえシューマンでもこれは難しいかも、とも。シューマンと言えば彼女の歌うシューベルトもまた素晴らしいものです。楽に寄す、アヴェ・マリア、糸を紡ぐグレートヘン、ます、野ばら等々あまりに有名な歌曲は、これさえあれば良いではないか、とさえ言いたくなります。やさしい歌だからどうだこうだ、と言うのは無駄です。レーヴェ等のもっと技巧的に難しい歌も、素人に歌う気を起こさせないようだったら、その価値は「?」が付くのでは?というのが僕の意見です。

先に述べたシュワルツコップの若い頃の話ですが、メットになかなか登場できず、結局引退直前に一度登場しただけですが、あれはフラグスタートが戦後なかなかメットに戻れなかったことと同様の理由でしょうか。それでも僕は彼女の現役時代の声、それも最後に近い時の声を生で聴くことが出来て良かったと思います。リート・リサイタルにおけるシュワルツコップは赤いガウン姿でしたが、その全身で表現する態度、姿勢の厳しさとか、なかなか参考になりました。
【筆者注】メット出演録によると、シュワルツコップは1964年に「薔薇の騎士」マルシャリン役で9回と、1966年にモーツアルト「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・エルヴィラ役で1回出演しています。(2007.1.9)
一般にリートはオペラより高級というイメージがありますが、そんなことはありません。確かにリートは僅かな時間に全てが凝縮されていますから、リート歌いは頭が良くなければ無理かも知れないけれど、本来オペラだって同じなんです。ただオペラではあの長丁場をどうやって乗り切るかとか、全曲中でのエネルギー配分はどうするか、等に十全の気を使わなくてはなりません。シュトラウスの歌曲に最も興味を持って来ましたが、シューベルトだと更に懐かしく、つい口ずさむようになりますし、それがモーツアルトになるともう故郷の原風景という感じになります。いずれにせよこれらを歌い継いでいきたいと思います。

シュトラウスの歌曲は玉石混淆です。いいものはいいし、そうでないものはそれなりに。いずれにせよ、これらの再生には「近い声」をよく再生するオーディオ機器が必要です。少なくとも歌手本人の技量チェックをし易いものを選ぶ必要があります。大変不幸だと思うのは、現在このようなドイツ歌曲を歌う歌手がどんどん減ってることです。リートを歌うことはもはや時代遅れなのかも知れませんが、それでも僕は上記のレコード、CDを常にそばに置いておきたいと思います。余りにリートが好きな余り、どんなオーディオ装置?という大橋様の言われる検事の耳が留守になってしまうことが多く、反省しております。
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