キット屋倶楽部
音楽の
すすめ by F高
イラスト
(2006.6.16)
皆様こんにちは。ヴェリスモというジャンルがあります。ジョルダーノ、マスカーニ、チレーア、そしてプッチーニ等を網羅します。現実主義という意味だが、ありふれたお針子とか、貧乏人の世界を描いたものでお姫様の世界だけを扱うのではない、というふれこみです。これは声楽的には開けっ放しの喉で歌うため、声をつぶすのが早い。歌そのものは最も平凡というか、耳触りがよく、これこそ歌!って感じなので流行ります。実際に素人に歌を歌ってご覧と言えば、まずヴェリスモが選ばれると思います。先に述べたように喉を全開するため、声の有無が全てを決してしまいます。あまり技巧でコントロールするという感じではないのです。多くの歌手達がここに分類されます。かのレナータ・テバルディはその代表だし、アントニエッタ・ステルラとか、最近ではミレルラ・フレーニ、そして我が国の佐藤しのぶまでを網羅します。声だけで勝負するので、声の無い歌手がこれだけに打ち込むのは危険とされます。

主に素材の勝負ですから技術の習得が不十分になりがちで、あまりトリルなどできません。テバルディも佐藤しのぶも、トリルの多い曲はやっとこさ、というところ。一方技術的にコントロールされた声というジャンルは、それでトリルを駆使したり、広い音域を上下するもので、マリア・カラスが得意とするものです。モンセラ・カバリエ、カーチャ・リッチャレルリなどがここに含まれます。ジョーン・サザーランドもこの類です。これはヴェリスモより古い時代のいわゆるベルカント・オペラを歌うのに必須です。いわば技術で勝負するジャンルです。ベルカントの原義からすれば美しく歌うなら何でも良さそうなものですが、実際には素材と技術では歴然とした差があります。
ここでは「トウーランドット」を取りあげます。先のトリノの冬季オリンピックでフィギュア・スケートで金メダルをとった荒川さんの御陰ですっかり有名になった曲です。その初演は1926年で、まだ新しい曲です。そしてこれが最後のグランド・オペラっぽいオペラです。お姫様がヒロインですから余りヴェリスモらしくないんですが(実際テバルディとかステルラは決して「トウーランドット」を歌わない。歌うのは同曲の第2主役リューの方で、その音楽はヴェリスモっぽい)、音楽の傾向ではヴェリスモのオペラに似ており、通常はヴェリスモの範疇に数えます。「トウーランドット」を歌う側に立ってみると余り歌いたくない曲ですが。それは声をつぶしてしまう危険な曲だからです。無制限に声を駆使し、ワーグナーにも比すべき声を使うからです。まだ日本人がこの役全曲を歌ったことは無いのでは? 例えば「エレクトラ」だったら、キャリアの最後に歌えば良いと言われますが、それは「エレクトラ」の響きは汚くて当然だからです。しかし「トウーランドット」は美しさの真っ最中でなければなりません。
僕の手元には以下の「トウーランドット」があります。
エレーデ(ボルク)、ラインスドルフ(ニルソン)、プラデルリ(ニルソン)、セラフィン(カラス)、メータ(サザーランド)、プレヴイターリ65ブエノスアイレス(ニルソン)、メータ66年NY(ニルソン)、レヴァインLD(マルトン)、プレートルVHS(ニルソン)、メータ(カゾッラ)、バルビローリ37ロンドン抜粋(ターナー)

最近この「トウーランドット」を比較してみたのです。取っ替え引っ替えして比較した11名のトウーランドット姫の比較結果は、サザーランドが一番でした。意外と思われるかもしれないが、理由が色々とあります。カラスを落としたのは、カラスの声に既に乾涸びたものを感じたからです。いかにカラスと言えども1957年録音ではトウーランドットの録音では限界でした。彼女がキャリアの初期にこれを得意としていたことは事実ですが、その時はまだ若かった。実況盤があれば是非聴いてみたいのですが、かないません。あっと言う間に歳を取ってしまうのがトウーランドットを歌う危険です。トウーランドットみたいな役をバリバリと歌えるのは5年以内程度、と囁かれるのも尤もだと思います。トウーランドットを歌った色々な人を思い出してみれば理解できます。

次にラインスドルフ盤は、そのリズム設定が気に入らなかったのです。ニルソンはこのレコード時には騒がれましたが、しばらくすると尤もらしい所に評判は落ち着きました。これは主として指揮者の責任です。またエレーデ盤のインゲ・ボルクになお惹かれていますが、音のトラックにミスがあるのか、どう調整してもある所でまるでモノラルみたいに聞こえるので、あきらめました。そして最後に残ったのがメータ/サザーランドとプラデルリ/ニルソンでした。その最後の判定は、録音で輝きがより薄いような気がしたニルソンを落とす事で決まりました。サザーランドはその声が最もトウーランドット向きで、録音も尤もらしく輝いていたのです。その秘密は、これはオンマイクで採った曲だったのです。指揮棒を振るのが夫君のリチャード・ボニングでなく、ズービン・メータだってことにも注意して下さい。これくらいオンマイクで採れば、そしてこれくらい華々しいフィナーレにするなら、合格といえます。僕は「トウーランドット」以外の曲でサザーランドは「遠い声」だと評しました。それは実際に録音された曲が大概オフマイクで採ってあったからですが、皆エコーがついているのも気になります。実際はサザーランドにエコーなんか必要なかったと思います。彼女は大きな声を持っていたのですから。この点は専門家でも誤解されている方がおられるようです。

ここでは落選しましたが多くの場合、ニルソンのトウーランドットが選ばれているのは、「トウーランドット」にワーグナー的要素があるからじゃないか、思われますが、それは誤解。ワーグナーなんかじゃありません。あくまで「トウーランドット」はイタリア・オペラそのものです。ニルソンもよくよく聞き込みますと、この曲を持て余しているらしいことが分かります。そして愛を歌ってなぞいないことも。ワーグナーのような巨大な声で歌い、しかも動き回らないでじっと立って歌っているイタリア・オペラの役、それがトウーランドットです。インゲ・ボルクの録音を補う(買い替えて)なら、解決するかもしれません。僕はボルクのトウーランドットを高く買っていますが、録音の輝きが少し足りないところがあって、残念ながら落としました。また今回の比較で分かったのは、エレーデという指揮者、なかなかできた指揮者でした。そしてカラス盤の指揮者セラフィンは中庸を行った指揮者だということです。何でも巧みに指揮できるが、積極的に何か主張したくて冒険をするような指揮者ではないようです。

話は脇道にずれますが、僕の父が若い日に修学旅行で宝塚に行った時、やっていたのが「トウーランドット姫」。それをいつまでも口ずさんでいた者がいたそうです。父自身がどういう趣味だったかは不透明ですが、シューマンの「流浪の民」でテノールのソロを歌ったというのがご自慢でした。でもわずか2〜3小節のソロでしょ?逆らわずにそっとして置きましたが。
間違えてはいけないのですが、トウーランドットに期待するのは、あくまで新鮮で、美しい、大きな声です。僕はそういう基準で選びました。サザーランドは全てを満たしています。また彼女自身、「トウーランドット」みたいな曲をオン・マイクで、思い切り歌ったことで満足しただろうと思います。彼女は若い時分にワーグナー歌手になるかどうか悩んだことがあるらしいのですが、夫君のボニングに反対されて逆に声を抑え気味に用いる方法のコロラトウーラ歌手になりました。またこれを歌った頃から、彼女のレコードの声には少しづつ、傷が認められるようになりました(トリルがおざなりに、声も小さ目になって行った)。“トウーランドットの呪い”はやっぱりあったのです。彼女は愛が何であるか分かっておらず、それを歌っていないという説も尤もだと思います。それにも関わらず僕のトウーランドットはサザーランドです。あくまで自説です。異なる意見の人がいても当然です。
オーディオ的な見地から言えば、これは「近い声」で再現してほしい。ここのサザーランドは正にこの声です。こればかりは全体が巧く行っても、声で巧くなければダメです。ただオーケストラが時としてややヘナヘナして聴こえたので、あれがあと一歩、力強かったらなあ、というのが最近の僕の感想です。でももう一度聴いて確かめないと。

この再生はしっかりした低音が必要ですが、よほどしっかりしていないと、ヘナヘナ感が出てしまいます。そうすると全体の印象が悪くなります。なんだ、この程度か、という誤解は恐ろしい。繰り返しますが、オーケストラのしっかりした低音、薄手でない低音域の出る装置で聴いて下さい。イタリア・オペラ離れした低音ですから、案外難しいです。
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