キット屋倶楽部
音楽の
すすめ by F高
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第9話 歌手は年をとらない? (2006.616)
皆さんこんにちは。今日は歌手は年をとらないという話をしましょう。つまり何も歌手に限らず、ピアニストでもヴァイオリニストでも指揮者でも構いませんが、自分が最も親しんだ人は決して年を取らないものだ、というお話です。つまり聴き手が歌手同様に年を食って行き、しかも聴き手は自分の老化を認めないからです。だから古くから聴いている人は、その最初の出会いのままの関係でいるのです。僕の場合、大学に入って以来聴いた多くの人々がそれにあたります。即ち1963年にはエリザベート・グリュンマーはまだ(かろうじて)若手に分類されていましたし、ヘルマン・プライはこれからの有望な新人でした。当時バリバリだったのは、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカーウであり、シュワルツコップもまだ現役中でした。古い時代から生きて来たハンス・ホッターは既に大分くたびれていたかも知れませんし、アストリード・ヴァルナイもその類いでした。そしてマルタ・メードルは既に過去の人に分類されていたと思います。フラグスタートは1962年に死去しています。

もう少し前、フラグスタートの存命中に、偶然ですが彼女の写真をレコード紹介記事で見た事があります。今もノルウエー人の同業者と親しくしていますが、彼が日本に来た時に、フラグスタートをダシにして、当時稲毛駅前にあった店で1杯1ドルの時価、というビールと、小皿を分け合って食べたことがあります。そしてノルウエーからはフラグスタートの歌を入れたカセット・テープを送って貰いました。何かトクをした気分!またベルゲンのホテルで別のノルウエー人と同じテーブルを囲んだ時もフラグスタートの話題になり、僕が「キルステン」と言うのを「シーステン」と直されたのを記憶しています。放送局につとめる女性でしたが、フラグスタートは古い世代には人気があると言っていました。
テバルディとカラスは時折、タイムとかライフに記事が載っていましたが(60年代後半に大学図書館でよく見た)、現役バリバリではありませんでした。でも残されたレコード類は素晴らしい成果を示していました。ただ彼女たちの残したレコードは最善の時の、瞬間最高記録に過ぎないのに、聴き手達は誤解していて、常にそうだった、と考えたいと思っているから始末が悪い。「好きな歌手は年を取らない」はずです!シミオナートもかなり年寄りの類いでしたが頭の中ではまだまだ若く、ロジーナでも何でも一番旨く歌えるって感じで誤解していました。そういう状況の中でザヴァリッシュとかマゼール(当時はマーツエルと呼ばれた)とか言うのは、まったく新しい世代の旗手だったのです。新鮮さを買われたのがザヴァリッシュ指揮の「タンホイザー」実況。またこの頃、これからの歌手としてグレース・バンブリーが挙げられていました。写真を見ると、当時バンブリーは遠慮がちの表情を浮かべています。途中で出て来たヤノヴィッツとかプロヴェーンステイン、あるいはもっと後で主役を歌ったリントホルム、デルネシュ、リゲンツア、トーマスなどはまだ青い歌手でした。かのフランスの女丈夫レジーヌ・クレスパンでさえその気配が感じられます。

その中で新しい世代が登場して来ました。ビルギット・ニルソンがそうです。ニルソンはついつい若い歌手だと思いがちなのは、彼女が表舞台に登場してから日数がたって居なかったからです。実はニルソンとヴァルナイは同じ年齢です(ヴァルナイは1918年4月25日、ニルソンは同年5月17日生まれ)。ニルソンがラインスドルフ指揮の「ワルキューレ」に初登場した時はこれこそ20世紀最高のブリュンヒルデだと喧伝され、他に競争相手が居なかったから何を言っても可でした。ヴァルナイはまだバイロイトの重鎮でしたが、トップのソプラノはニルソンに譲りつつあり、今を時めくブリュンヒルデというわけではありませんでした。私自身もニルソンという名前はしっかりと、実にしっかりと頭に刻み込まれました。彼女の歌うヴェルディ・アリア集の放送を聞いた時、このような声の持ち主なら向かうところ敵なし、と断言したくらいです。そう言えば、お茶の水のレコード屋で、なぜカラスを忘れてニルソンばかり宣伝するんだ?といって抗議したこともあります(この抗議は的外れですが。つまり、ニルソンの声の素晴らしさを認めたからこそ、もっと古い世代のファンとしては騒いだのです)。またノーベル賞授賞式でニルソンが歌ったのをニュースで見ました。
実は、ニルソンの正規のレコード録音はブリュンヒルデとして3回、イゾルデとして2回、あとはエリザベート及びヴェヌスとして1回とか、ごく限られていたのですね。でもニルソンはニューヨークでは大人気でした。ただし私がNYに行っている時は税金問題でお役所と喧嘩中で、いつも不在。メトロポリタン・オペラの100周年記念演奏会の時でも、歌を2つも歌って泰然としていましたが、この時の様子はLDに記録されています。すでに65歳を過ぎていたのですね。最後に見たのはレヴァインの記念演奏会でワルキューレの雄叫び「ホ・ヨ・ト・ホ」をマイクを離れて歌いました。ですからまさか、彼女が老衰で亡くなるなんて想像できなかったのです。でも87歳の生涯を無事務めて昨年この世を去りました。逆算すると私がニルソンに初見参した時は彼女既に45歳だったことが分かります。決して若くなかった。ただ勝手に若いと思い込んでいたのです。

宣伝文句でなくても水晶を連想させる透明なイゾルデ、ブリュンヒルデでしたが、あれほどまぶしく見えたニルソンが、最近僕自身の耳に残る印象が少し悪くなっているのです。角がやや丸く聴こえるような気がします。かつて水晶のような、と形容された声のエッジが聞こえなくなっています。しかも音程が余り良くない気がしています。昨年、ヴァルナイの英語版自伝を入手して読みました。ここにヴァルナイの先輩にあたるマルタ・メードル、同年輩のニルソン、そしてヴァルナイの3人が並んだ写真が掲載されているのが目に止まります。文章から見るとヴァルナイは他の2名にも同情を持っているようです(少なくともそう見える)。メードルのCDを最近立て続けに聞いたのですが、メードルのイゾルデは敬服ものだと断言します。まったくああいう表現があったとは信じ難いです。「パルシファル」のクンドリーを歌った時の方はまだよく分かりません。少なくとも世の中に、メードル?ダメだよあんな歌手、とうそぶく某評論家は何回実演を聴くか、あるいはどんな再生装置で聞いたのでしょうか。やはりバイロイト音楽祭に登場した歌手達、それも1960年代までに登場した歌手達はそれだけのものがある人達だったと思います。

ヴァルナイについての感想を述べますと、やはり本人の言う通りバイロイトの養女だったと感じております。あれだけの曲をこなして平然としていたのは、やはりそれだけの事があったから。突然の飛び入りなんて朝飯前、と何でもこなした歌手。そういう歌手を座付き歌手、余り誇りの無い歌手、と貶めることも多いのですが、彼女は傲然としてそれを引き受けました。こなすだけでも大変なのに、その成果は素晴らしい歌唱ですよ。ヴァルナイは古くは一様にほめた記事が多く、近くなってから、逆に貶める評論が出てきました。そして最近再び讃える記事が目立つようです。これは実際に聴いたことの無い評論家が増えてきたせいと思います。そして僕自身はヴァルナイの実演の最後の機会を捕らえました(ミュンヘンで観た「エレクトラ」のクリテムネストラ)。また僕はニルソンをオペラや演奏会で聴きましたが、メードルは実演を聴いていません。このように決して新しくない歌手なんですが、彼女達は長く話題を独占していて、もっと若い歌手達はその間に後から登場して、先に退場していったのですね。
イタリア・オペラの世界のはやり廃りはもっと激しい。僕自身の記憶では既にテバルディやカラスの時代は過ぎようとしておりましたが、代りにニルソン(またも!)、サザーランド、プライスが登場してきました。いずれもなお有名ですが、いずれもとっくに引退したり、死亡しています。その後にでたモンセラ・カバリエとか、レナータ・スコット、ミレルラ・フレーニ達は皆、それなりに名前を残しました。しかしそこまで。さらに次の世代、シルヴィア・シャーシュとかカーチャ・リッチャレルリなどはあっという間に過去の人です。あまりに多くの歌手達が登場し、退場していきました。その間、カラスはますます輝き、テバルディは思い出深く、サザーランドは昔の大歌手として記憶に残りました(サザーランドはいつ聴いたかによって印象が違うかもしれません。僕は少し盛りを過ぎた時に聴いたのですが、それでもこの人は実演を聴かないと分からないな、と思いました)。

そして以前に第2話「ワルキューレの雄叫び」で書いた通りのことが、起きています。現代の歌手達は皆巧くなりました。ただ少しばかり小賢しく。おっと気をつけてくれ。こう書くと、年寄りの繰り言だよ、と言われるのがオチですね。でもスケールが実際に小さい!声が小さく、音楽の表現の幅が小さい。ここぞという所で思い切り、飛躍してみようとしない。そして音符の上だけちゃんと歌っている、そういう歌手が増えたことを言いたいのです。マイナス点がありませんからコンクールだったら優勝しそうな歌手達が増えたのですね。だから点をつけると彼女達が優勝するのです。でもティツイアーナ・ファブリチーニとか、ナタリー・デッセイ、ルチア・アリベルディとか、そういう歌手たちを未来から見るとどうなんだろう、と時々思ってしまいます。アリベルディは既に消えかかっています。デッセイが良いと言ってもカラスと比べてご覧よ。どちらがショッキングな存在か、は明らかですね。

例えばデッセイの弱みはコロラトウーラだけしか無いからです。高音域だけ目立つソプラノというのは、あまり歴史的にも名前を残しておりません。名前が残っているのはむしろ逆に、太い声を持った、あるいは太い声を底に秘めた歌手達です。だからもしデッセイが不滅の名前を刻みたければ、太さをもった役柄を歌うこと。もしその気があれば、の話ですが。太さを備えたソプラノであれば、かならず耳に残ります。あのネトレプコの歌う低音部には以外なほどの太さ、暗さがありました。耳に残ってしまうような太い声が、あのヴィオレッタ歌唱に認められました。だからまだ有望ですが、デッセイには残念ですが今のところ、そういうものが感じられない。ソプラノだからこそ、低い声が存分に出ること、これが必殺技だと僕は信じています。
低い声をタップリ含んだ曲の一番よい例は「ノルマ」でしょう。でもノルマ歌いという言葉があるように、あれは誰でも歌える曲じゃないんです。うまくいかないことが多いのです。ところが最近聴いたグレース・バンブリーの「ノルマ」実演のCDなぞ、いったいどうしてそんなに無理するの?と言いたくなるほど、ふと力が抜けてしまっている所があります。バンブリーの「カルメン」は実に良かったのですが、「ノルマ」はいけないようです。でも誰もが「ノルマ」を歌いたがるのです。シャーリー・ヴァーレットも同じです。彼女の「ノルマ」はその時は良いと思いましたが、あとでテープを聴き直してみると不安にかられます。「ノルマ」ってそんなに安易な曲じゃないのです。僕だけじゃない、世の中には過去のノルマ達を色々と知っているノルマ狂いが一杯いるのですよ!野心的なのは良いことですが、やはりバンブリーの声なら、アムネリスやエボーリ姫、あるいはデリラを完璧に歌えることを目指した方が賢明では?と思います。それなら確実に名前が残り得ます。

テバルディもかつてなぜ「ノルマ」を歌おうとしない?と言われました。そしたら「なぜ?あんなにカラスが巧く歌うのに」と答えたそうです。これは賢明です。あとはサザーランドも、カバリエも、もちろんヴァーレットもバンブリーも歌いましたが、ノルマ歌いと称するのは少々憚られます。さらにミラノフも、チェルクェッティも、ドイテコムも、スリオティスも、レイラ・ジェンサーも同じです。この中には良い所まで行った「ノルマ」もあります。カバリエの「ノルマ」はそれ自体が立派なものですが、しかしカラスと取り替えても可という程ではありませんでした。少なくとも僕の耳には。そう言いながら、もちろんこれからも「ノルマ」に挑戦し続けて欲しい!だれかカラスの後を継げるように。
と、まあ、罵詈雑言の限りをつくしましたが、こんな私の戯れ言なんか無視されても良いのです。そういう素人の雑言なんかにめげずに歌い続け、欠点を直して行く作業に取り組んで呉れるなら、それこそ本望です。これまでの書きっぷりからお分かりと思いますが、僕は50年間位のスパンで最上の歌姫を基準として選び、そことの比較で他の歌姫を評価したのです。その場合、他の歌手達は全て基準以下になってしまいます。もっと若い人達をエンカレッジする書きぶりの方が良いのでは、と反省を迫られます。またここで何に関する世界一かという問題ですが、何を基準に選んでいるか、が問われますね。声の大きさか、声の技術か、音色か、もありますが、そういうことより、意欲ですよ!ヨシッやってやろう!という意志の強さ。息の吸い方、吐き方、タイミングの取り方、等々隠れてしまうような技量です。崖っぷちに沿って逆立ち、アラベスク、車の暴走をして見せるような(それは偶然発見したのですが、本欄の四弦亭酔響様も書いておられた気がします。違っていたらごめんなさい)蛮勇も欲しく、ウッカリすると身の破滅ですが、あえてそれにかけようっていう意欲!それら全ての点で一番であることを意味しています。僕が選んだ場合、それはカラスだったということです。コントロールの効いた美しい声だけでは世界制覇は難しいと思います。

問題は、歌手が自分は成功したと錯覚しちゃっている場合です。これではどうしようもない。もう覚えきれないくらいの歌手達が登場し、退場するのを見てきました。それで生き残るのが本物に違いない。だれか交通整理してくれないかなあ。また音楽評論家の再生装置が本当に声の判定に相応しいものかどうか、も確認したいと思っていますが?
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