キット屋倶楽部
音楽の
すすめ by F高
イラスト
(2006.6.30)
皆様こんにちは。今日はウオルター・スコットの悲劇による「ランメルムーアのルチア」の話をしましょう。これは今でこそ良く上演されますが、かつてはロクに上演もされなかった、またはまともに取り組まれなかった、曲なんです。それはプリマ・ドンナ・オペラの曲であって、そのプリマ・ドンナというのはわがまま一杯のソプラノ歌手だし、という誤解がありました。昔読んだエリカ・ケートの自伝によると、彼女もそう思っていたし、イヤイヤ練習していたら、指揮者に「モーツアルトのように歌いなさい!」と怒られたそうです。現代の我々から見ても何となくその雰囲気は分かるような気もしますが、これは主としてドイツ語圏の話です。ドイツでは伝統的にメロディーを軽視し、全体の構成に気を配りますが、反面メロディー・ラインの強い曲は、あのイタ公の音楽、といって軽視するのが格好良いとされました。ドイツ流が主流を占めていた日本でも同様です。でもメロディーはそんなに軽薄なものでしょうか。音楽を論じる上でイタリアの影響は避け難いと思います。

現在僕が持っているCD類は下記の通りです。すなわちカラヤン(カラス)、セラフィン(カラス)、セラフィン(サザーランド)、ボニング(サザーランド)、プリッチャード(サザーランド)、プレートル(モッフォ)、タンシーニ(パリウギ)、ボニング-LD(サザーランド)、ランザーニ-LD(デヴィーア)、チラーリオVHS(モッフォ)、マリン(スチューダ?)、セラフィンLP(カラス53)、プリッチャード抜粋LP(サザーランド)、プラデルリ抜粋(スコット)、コボス抜粋(カバリエ)です。
少し長過ぎるかも知れません。僕はイスに座わってじっとしていられるのは40分位までで、あとは足を組み替えたり、コソコソしたくなります(済みません、堪え性が無くて!)。そして気になるのはトイレです。バイロイト風の長〜い座席の真ん中に座ったら、そして両脇の人がトイレなんてどこ吹く風、って顔をしていたらと思うと、もうムズムズしてしまいます。はやく席を開けてくれ!今まで一番長かったのは「神々の黄昏」を観た時でしょうか。6時間も掛かってその間に休憩が僅か1時間程度?でも「ルチア」では1幕の泉のほとりで主役2人が逢う場面とか、3幕の結婚式の音楽、そして<狂乱の場>、また4幕のエドガルドの延々とした死ぬ場面とか、いろいろ聴き所があるので退屈はしません。ただ、「ルチア」上演が成功するかどうかは、ルチア役のカリスマ性によりますね。今まで2種類もカリスマ性をもった公演がありました。まずカラスから!カラスのEMIへの最初の録音が「ルチア」でした(モノラル録音)。これは音がややグルーミーだったのですが、最近改善されたかも知れません。1959年にはステレオで録音した「ルチア」も出たのですが、その間カラスはこれを歌い、稀な賞賛を受けました。カラヤンと決別したのは「ルチア」が原因と囁かれています。考えてみればプリマ・ドンナとスター指揮者の組み合せが巧くいくはずが無いのですね。共に鼻っ柱が強かったし。

カラヤンとやったベルリンの「ルチア」は実況盤を早くから入手し、その音質がややマシだったせいもあって、これこそ「ルチア」決定盤だと思ったものです。「ルチア」を真に楽しむにはある程度良い音が必要です。でもベルリン盤の御陰で、本当の姿が分かったのは感謝ものです。でも最初に買ったのはプリッチャードの抜粋盤の中古品でした(1964年頃)。お茶の水の有名な店でしたが、店員の教育が悪くて、僕が裏返したり、矯めつ透かしつしていたら、ああだから日本人はいやだ、と聞こえる声で嘆いたのですよ。当時の僕は貧乏学生そのものだったから、お金が無いからこそ、注意深く調べていたのに!しかもその店で3枚組の「マリア・カラスの芸術」と題するコロムビア盤セットを買ったこともあったのに。 2度とそこで買物をしていません(現在、店は潰れています)。

カラスはニューヨークのメトロポリタンでもこの曲で出演して成功しましたが、ここでは成功例でない例を紹介したいと思います。58年のダラスでの「ルチア」。思う様にならない喉、それでもこれでビング(カラスを首にしたメット支配人)をねじ伏せてくれよう、何とかして意趣返しを!という強烈な意志。米国人の見聞きした話によると、「ルチア」のゲネプロでカラスはついに高音が出ず、悔しさの余り、別の楽器のせいにしたとか。それでも周辺の人間は事情を理解したから黙っていたという話です。つまりカラスは産まれて初めて、同情されたのですよ。これこそカラスが最も嫌うところですから、もうどうにもならない気分です!ただし一般の聴衆にはそのことが分からず、単に高音の代わりに叫びで置き換えてドラマティックに成功した、と思ったらしい。舞台で実際に歌う人間にとって、何で一番安心し、何が一番しゃくに触るか、という点は自明なので僕は彼女の心境が良く分かります。センチメンタルな同情でなく、「舞台の業」みたいなもの。カラスは2度と「ルチア」を歌いませんでした。本当にアリア一つも歌っていません。舞台に立つということは凄いことなんです!

そうして、もう一人のルチア、サザーランドの実質的なデビューがありました。サザーランドは何年間もアメーリアとかアイーダとか別種の役柄を歌って来ましたし、その意味ではデビューでは無いのですが、それでもセラフィンがサポートした59年のコヴェントガーデンの公演は伝説になっています。そのゲネプロにカラスとシュワルツコップという2人のソプラノが聴きに来てサザーランドを賞賛したことも、そのできばえに華を添えます。この時の実況がCDになっています。サザーランドはプリッチャード盤と同じようなテクニックの冴えを見せます。何と言ってもサザーランドは声があり、それも、どこまでも伸びる高音だから、みごとなものです。その気迫を考えると、この時期、このCDが一番良いのではないでしょうか。米国雑誌に粘液質と書かれても、彼女案外そういう向上心はあるようです。これでサザーランドは「ルチア」でカラスと交替しました。

サザーランドはこの公演のあと2回ほどレコード録音をしています。映像も複数あるのですがいずれも衰えてから。DVDの時代にそこに記録することがかなった世代と、間に合わなかった世代を考えると、サザーランドはやはり間に合わなかった世代に属します。80年に出た「ルチア」のLDは技術的にも、気迫の点でも何か言いたくなります。最初のレコードはプリッチャード指揮ですが、チオーニとか周辺が弱いと言われていますが、僕はこれの方がまだ完成度が高いと思います。むしろ後で出たパヴァロッティの出る盤の方では、抜けたものがある気がしてなりません。サザーランドも人間ですから、年齢と共に声も衰えるのですよ。
他にも良いルチアはいました。例えばレナータ・スコットなど、僕は好きです。でもエディタ・グルベローヴアを女王に持ち上げたりするのは好きでありません。技術的に品の無さを感じます。例えば<狂乱の場>の終わりに、Ah! si, ah! si, ah! si, per meという一連の箇所、あそこのAhのアクセントの付け方が、まるでチャルダッシュ風だと思えるのです。例は良くないのですが、スコットランドの姫君でなく、まるで女給さんが歌うような唄!いつ聴いても気に入りません。またもっと小型の歌手達、ルチアーナ・セッラとか、マリエッラ・デヴィーアとかを並べ、代わりにサザーランドを故意に無視しようとするのも好きではありません。そういう態度は意地悪にすぎないのになあ。

日本で観たルチア公演(これは前述のK 谷さんからのプレゼント)の中で特に印象に残ったのは、<狂乱の場>の衣装が素晴らしかったことです。長い、長い裾でした。僕はこれが凄く気に入ったのですが、ああいう衣装はこの先再登場することがあるんでしょうか?是非レパートリーシステムにして、演出の一部にとっておいて欲しいと思います。そう思うからこそ、新演出は慎重に、と申し上げたいのです!この楽譜にして55ページを超える<狂乱の場>は全体としては余り高音も無い(全体的な音の高さはせいぜい最高音から1オクターブ下のB)のですが、それでも最後の最高音Cをクリアしないとなりませんから、やはり難しいのです。カバリエの録音では楽譜に無いような装飾音は全部省いた、と称していますが、そういうのはルチアを聴く上ではつまらないんじゃないか、と思います。

ニューヨークで観た「ルチア」について当時の僕の日記には下記のように記されています。
「ニューヨーク・シティ・オペラにドニゼッティの「ランメルムーアのルチア」を観に行く。男性陣は荒削りな歌いぶりだったがルチア役のジョァンヌ・ロランディは細い声ながら音程は正確だし、コロラトゥーラの技術もあって良かったと思う。ただ声を張り上げると胸を潰したような音色になるし、またヴィヴラートが多い。しかし狂乱の場にしてもトリルの部分を間引かずに忠実に不安気なく歌っていた。難を言えば声量の限界で歌っていたような印象がある。しかしシティ・オペラの欠点はやはり合唱の非力さにあると思う。せっかくのコンチェルタートの部分も合唱のパワーが足りない。狂乱の場の舞台装置などどう見てもスコットランドというよりニューオーリンズの夜会みたいだった。また衣装や照明にも不満があり、どうしてああも原色を使うのかと思う。まるで宝塚だ。むしろ白黒の無彩色で陰影を付ける方が悲劇的なムードが出ると思うのだけれども。
少し古い録音になりますがリーナ・パリウギのルチアがあります。ウーゴ・タンシーニ指揮。このCDを初めて聴いたと時の僕の複雑な顔を想像してください。まるで極めて古い録音の関屋敏子みたいな声(あくまで印象です。実際の声ではなく)にびっくりしました。高音しか無く、あまりトリルも切れないみたいなので、びっくりするやら、笑い出したくなるやら。古い時代の録音を聴く時、常に気をつけなければならないのは、果たしてその録音だけで評価可能かどうか、です。1939年録音ですから、メルセデス・カプシールの「椿姫」より新しいのですが、カプシールの方は評価しましたが、こちらの方は何とも申し上げられない、と思います。実は僕はこのような声は「猫の声」と呼んでいて、どちらかと言えば嫌いな声質なんです。もしこれが何らかの技術的理由でそうなったので無ければ、僕はこういうのは好きではないとお答えしましょう。

最近の録音から拾うなら、シェリル・スチューダーの歌うルチアが、声楽的には一番成功しているのではないでしょうか。あらゆる音がスムースに繋がっているし、コロラトウーラの技術も万全だからです。それにもかかわらずなぜか寂しい。声があって、テクニックがあって、人気もほどほどあるのに。しかも最後のところで、ルチアの声は男声陣に埋没して聞こえないのですよ。この場面はルチアが舞台に登場する最後の場面ですから、ルチアの声をハッキリ目立たせて欲しいと思いますが。
万全の再生のためにはタメ息が聞こえ、唾がかかる「近い声」でお楽しみください。特に第1幕の泉のほとりの場面で出す、絶妙なピアニシモのトリルの階段。あれを楽しまなくてはもったいない。ただ、サザーランドのトリルとカラスのトリルでは本質的に違う気がしているのです。声の結晶たるサザーランドと、努力の結晶たるカラス。ルチアは「近い声」で御聴き下さい。このような曲を「遠い声」(サザーランドの大抵の録音はこれ)で聴くと大きな違和感を感じますよ。
さて、ここまで来ました。この後に続く5章分は大袈裟に言えば、僕の最も大切なエッセンスを示すものです。「トリスタンとイゾルデ」から「ノルマ」までが登場します。お楽しみに。
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