キット屋倶楽部
音楽の
すすめ by F高
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第17話 オテロの真実 (2006.7.13)
皆様こんにちは。今日は「オテロ」をご紹介しましょう。「オテロ」。なんと毅然として響くことでしょう。オペラはシェークスピアの戯曲の後半に相当するだけですが、その方が性格がハッキリしますね。そしてアリゴ・ボイートの歌詞との共同作業は見事としかいいようがありません。いかに「トロヴァトーレ」のメロディーが好きでも、音楽としてなら絶対「オテロ」をお勧めします。これは音楽の格がちがう。「アイーダ」と比べても全く違う。「アイーダ」ではこれで万全だと思えたのに、「オテロ」を聴くと一段と味わいが深くなります。音楽の格と申しましたが、格なんて論じるなら、「オテロ」はヴェルディの代表であり、モーツアルトの代表は「ドン・ジョヴァンニ」、ワーグナーの代表「トリスタンとイゾルデ」、ベルリーニの代表「ノルマ」、R,シュトラウスの代表「薔薇の騎士」、プッチーニの代表「ラ・ボエーム」と並びます。いずれの曲も大好きです。
レコードでは古くは1954年のエレーデ指揮のデル・モナコの録音があります。また1959年にはカラヤン指揮のデル・モナコの録音。いずれもステレオです。またセラフィン指揮のジョン・ヴイッカーズのもの、ショルティ指揮のパヴァロッティのものがあります。また古くはフルトヴェングラー指揮のラモン・ヴィナイのものがありますね。これは色々好き嫌いがありますが、ぼくの好みでは、ずばり言ってデル・モナコにつきます。そうするとエレーデか、カラヤンかのいずれかを選ばなければならなくなります。

実はカラヤン盤が最近までイチオシでした。ところがよくよく聞き込んでみたら、エレーデ盤が捨てたものじゃ無いんですよ。おまけにカラヤン盤の冒頭の音楽に挿入されたオルガン。これが邪魔なんです!従来オルガンは問題では無かったのですが、今これが実に忌々しく出しゃばっているような気がしています。ウチの半導体式アンプで今まで聞いて来て何とも思わなかったのに、それが嫌みに聞こえるようになりました。真空管式アンプに切り換えてからそういう事態が生じた、と言えましょうか。
まず「オテロ」との付き合いの歴史を申し上げましょう。1959年のイタリア・オペラ東京公演のテレビ中継されたのを見たのが最初です。この時僕自身はまだ中学生で、テレビはモノクロでした。それでも珍しく両親がテレビでオペラを見ると言っていたので僕もつき合った次第。この当時オペラは日本人にとって夢みたいなものでしたし、それをいきなりデル・モナコでぶつけられたのですから堪りません。宣伝ではなく、これこそ世界最高のものだと思いました。おかしかったのはデル・モナコが顔にドーランを塗っていたのを、両親がこれは黒人なんだ、それが巧く歌うから喝采が凄いんだと評していたことです。ガブリエルラ・トウッチの歌うデズデモーナの最後の場面、オテロが寝台から落ちる場面など何とも言えない迫力!子供心にそれは感じ取りました。そして僕自身はトウッチの「椿姫」の放映を見る事を両親に予約した次第です。そしてトウッチはこれで待ちに待ったスカラ座への出演に繋がったのですね。

現在持っているのは以下の通り。エレーデ(デル・モナコ)、カラヤン(デル・モナコ)、セラフィン(ヴィッカーズ)、フルトヴェングラー(ヴィナイ)、エレーデ東京(デル・モナコ)、エレーデLD(デル・モナコ)、パターネLD西ベルリン(バイラー)、トスカニーニ(ヴィナイ)、ショルティ(パヴァロッティ)です。
イヤーゴの「酒の歌」!そして第1幕の金星を呼ぶ場面のうっとりするような音楽を聴いてください。実はこの場面が頭に浮かぶようになったのは後年なんです。1979年にニューヨークに行っている時、ボックス・オフィスでふと耳にしたこれが実に懐かしく、すぐに「オテロ」だと理解した次第。上昇音階がゆっくりと進むここの音楽は魅力的です。またデズデモーナに対して疑いの心を増して行くオテロ。この心理は堪らない気がします。イヤーゴが強ければ強いほど、これは増幅されます。イヤーゴは居たたまれない思いをしたのでしょう。旗手にはなれないし、デズデモーナには振られるし、いったいどうして呉れよう、と思ったのでしょう。

ヴェルディはバリトンが好きだったそうですが、ここでイヤーゴはオテロに拮抗するものです。実際「リゴレット」以来、「トロヴァトーレ」のルーナ伯爵、「運命の力」のドン・カルロ、そして「ドン・カルロ」のフェリペ2世と宗教裁判長等々、バリトン(ないしバス)のオンパレードです。「アイーダ」のナイル河ほとりのアイーダとアモナスロの逢う場面などうっとりするような聴き所ですし、実際あれが欠けていたら全体の締まりに影響すること必至です。ただ、如何にバリトン好きと言えど、表向きは節度を持って他の役と同等以下に装わせていますから、そういう所はヴェルディはかなりシタタカです。そういう目で編集したヴェルディのCDアルバムがあれば便利だと思うのですが。

最後の幕ではデズデモーナは実に美しく、テバルディはこれを最上の歌唱で飾ります。音楽自体の力が強く、誰が歌ってもいいようなものですが、それにしてもテバルディは抜群です。「柳の歌」あたりから、バックに流れる音楽の質を考えると、あそこの音楽はピカイチだと信じます。あんな質の高い音楽を書いたヴェルディは偉大なるかな、とも思います。デズデモーナの役は引退直前の歌手とか、ややかげりの出た歌手にこそ相応しいともいいます。その為か、あるいはそう言う要素を嗅ぎ取ったからか、カラスはデズデモーナを舞台で歌ったことがありません。カラスは音楽が完成しているよりも、未完成な方が良いみたいです。テバルディはメトロポリタンだけの通算200余回の出演のうち19回だけですが、他劇場を含めればもっと多数回歌っているでしょう(回数は統計ブックになっている)。「アヴェ・マリア」の場面はこの上なく美しく、背景に流れるオーケストラはさらに素晴らしく、ああヴェルディもこのような音楽を持つに至ったんだなあ、と作曲者に思いを馳せることになります。本当の話、もし「オテロ」が無かったら、「アイーダ」で終わっていたらどうでしょう?ヴェルディに作曲を引き受けさせた支配人に感謝する次第です。
この中でショルティ指揮のパヴァロッティの歌唱には若干ひっかかる所があります。何となく紅茶を飲みさしにして、試しに歌っていたら、録音され、発売までされていた、って感じです。熱が感じられない。熱がないのに要所要所では熱っぽさを出そうとするから、益々ウソっぽくなるのでは無いでしょうか。相手方も総崩れで、レオ・ヌッチのイヤーゴは声が小さめで、しかも焦点が甘いし、キリ・テ・カナワのデズデモーナは初めからワーブル(声の揺れ)に悩まされているのが見え見えでした。要するにこれは同じデッカ録音のカラヤン盤の敵ではありません。またオルガンの響きが付け加わっていると思うのですが、正直言ってそうなのかどうか、確かめる事が出来ません。どこにも記載されていないのです(僕のは輸入盤です)。ただ録音場所がオーケストラ・ホールとカーネギー・ホールの2カ所になっていて、最初の方のセッションでオーケストラ・ホールを使用しています。こういうことは耳で聴いていれば必ず気にする人がいるのだから、どこかに書いておいて欲しいものですね。音楽トラック1番と2番を過ぎるとピタッとオルガン風の音は消えます。オテロとの再会を祝する1幕の音楽、最後の「アヴェ・マリア」の所も、そしてオテロの死を表す所も、何となく、名歌手達がついでに歌ったって感じです。デッカってこんな会社だったでしょうか。悲しすぎて信じられません。テンポが甘いのは、ショルティの責任だろうと思います。

テバルディのLDに面白いものがあります。パターネが指揮したもので、テバルディは彼女だけイタリア語で歌い、残のキャストはドイツ語で歌うという変則的なもの。ここでのオテロはかのハンス・バイラーでした。テバルディはここでは相変わらす美しく歌えていますが、翌年、1年間引退生活を余儀なくされるという状態でした。まだキズは目立ちませんが。そういう風にしてテバルディもカラスも引っ込んでしまったのですね。「オテロ」と最も結びつきの強いトスカニーニの録音はさすがに古さを感じさせます。またフルトヴェングラーのものも、こういう表現もあったかな、と思わせます。
この悲劇をしっかり味わうには「近い声」で響くオーディオ装置が必要です。そして、何よりも邪魔が入らないように、予め、やらなきゃならない用事等は、済ませておくこと。これ大切!そして大砲のようなデル・モナコのオテロを御楽しみ下さい。バリトンを強調しましたが、やはり「オテロ」はオテロなんです。そしてこの役ばかりはデル・モナコの独壇場です。パヴァロッティやコレルリやドミンゴではカバーしきれない、何かがあります。一途さ、ですね。繰り返しますが、再生装置は「近い声」に適したものであること!
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