キット屋倶楽部
音楽の
すすめ by F高
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第34話 蝶々夫人の酷使 (2006.12.19)
皆様こんにちは。今日もまた寄り道しましょう。ヴェルディの「仮面舞踏会」と「ドン・カルロ」です。いずれのヒロイン(アメーリア、エリザベッタ)もリリコ・スピントの張った声で歌わなければなりません。「仮面舞踏会」はもともとスウエーデン王室の問題を扱ったものですが、これが不敬にあたると見なされて禁止され、舞台をボストンに映した版が流布しました。最近では両方の版とも上演されています。人妻アメーリアに好意を寄せるグスタフ3世ことボストン総督リッカルド、それを疑うアメーリアの夫レナート、そして周辺にいるジプシーのウルリカ、そして小姓のオスカル。

ウルリカ役として、手元にマリアン・アンダーソンのメット出演時の写真があります。黒人として最初にメットに登場したアンダーソン。1955年ですから米国では黒人のリトルロック高校事件(1957年)以前です。1957年は僕が中学1年生の時。黒人が米国で大手を振り始めたのは極最近の話。メット(ニューヨークの本舞台)に5回、地方巡演に3回という記録が残っています。そしてこの年だけの出演でした。このときのアメーリアはジンカ・ミラノフ、オスカルはロバータ・ピータースでした。アンダーソンは声が震えていますが、この役にはぴったり。一方ミラノフは、やや乱暴な歌い方だと感じました。

仮面舞踏会のアメーリア役と聞いて、すぐに僕の頭に昇るのはアントニエッタ・ステルラです。なにか悩み多いヒロインといった風情のステルラ、声があやしく揺れ、焦点が定まらないようで定まっているステルラ。まさに文学的なヒロイン像です(第3話「椿姫は永遠」参照)。その頼りない声で歌われるアリア<あの草を摘み取って>。そしてアリア<最後の願い>。後者の方はテバルディのも聴けます(前者のアリアではやや声がくたびれている)。テバルディは絶対にアメーリア向きの声を持っていました!僕はあの黄金の響きで歌われたアメーリアを聴きたい!にも関わらず、全盛期にテバルディはどうしても出演も、録音もしようとしなかったのです。我々から出るのはタメ息のみ。

他方、オペラ「ドン・カルロ」のエリザベッタ役は性格が余りはっきりしない(やや、人形みたいなキャラクター)のですが、誰が歌ってもエリザベッタはそう。むしろメゾ・ソプラノのエボーリ姫役の方に惹かれます。特に姫と称されるこの絶世の美女の称号を詮索するより、その歌<酷い運命よ>で明らかにされる情熱に惹かれます。カラスは舞台(エリザベッタ)は務めました(吉田秀和氏の「世界漫遊記」にも出ています)が、全曲録音はしませんでした。テバルディは全曲録音のみで、舞台に出演はしたことがありません。ネーデルランドの独立とか、宗教と王権の争いを含むシラーの戯曲。僕は3年前にマドリードに行った時、サラセン庭園(おそらく)を垣根越しに見て来ました。オリジナル5幕版はフランス語、4幕版はイタリア語ですが、今では5幕版でもイタリア語になっています。最近カラヤンのザルツブルク版を入手したのですが、そこのエボーリ姫役はジュリエッタ・シミオナートが歌っており、素晴らしい声と解釈を聴かせます。これと比べると、コソットのはまだ若過ぎます。またエリザベッタ役のセナ・ユリナッチは高音が自由に出るので、安心して聴けます(その代わり、低音がやや弱い気がしました)。そして、今までに聴いたあらゆる「ドン・カルロ」では、このカラヤン盤が最も満足なものでした。
ところで、「蝶々夫人」は僕が最初に生舞台で接したオペラです。それだけに思い入れが強く、特別な意識が残っています。第4回NHKイタリア・オペラの公演です。ここで主役はミエッタ・シーゲレです。妻も1960年代初めに砂原美智子さんの「蝶々夫人」を観ています。シーゲレに関しては日本人批評家からの注文が多く、特に女性声楽家陣から強い不満(僕の耳には不満だと聞こえたのですが)が聞こえてきました。でも僕自身にはまったく問題なく、シーゲレ万歳と言いたいような気分でした。特に第1幕で遠方から登場する蝶々さん一行の行列、その先頭に立って歩む彼女の姿には、ひたすらボーッとしたものです。特に高校時代以来じっと我慢して来たのが報いられたような気がしました。何よりバックの管弦楽がゆったりと流れ、音楽の大きな山を造り上げているのにすっかりイカレました。全てが美化されてしまった例。

手元にメトロポリタン・オペラの旧館時代の本がありますが、そこを見ると、当時までにメットに出演した僅か3名の日本人歌手の記録を見ることができます。いずれも蝶々夫人役で、まず三浦環(客演だったから、蝶々夫人だけでなく、他の曲にも出ている)、そして今井久仁恵、東敦子です。今井についてはあっさりと不十分だと仄めかされています。東についてはSquareと表現されています。Squareとはきちんとしているっていう意味ですが、やぼったい、四角四面という意味も含まれているんじゃ無いでしょうか。また最近の渡辺葉子はもっと好意的にOpera News誌に記載されています。実際、僕は渡辺には期待していましたし、今後はこの人かな、と思っていました。でも渡辺も2004年7月に亡くなりましたね。残念です。そして東敦子も亡くなりましたし。でも彼女ら全員は、日本人がオペラ・スターになるための、光栄ある下積みだったと思います。広い意味でね。まだ時代は花開いておらず、つぼみが散見する時代が続いていて、その中に我々は生きているのです。でも、こう言うのも慰めに過ぎませんね。

渡辺葉子林康子
「蝶々夫人」をメットで演じる渡辺葉子(左)と、スカラ座で演じる林康子
様々な演出がありますが、問題は「蝶々夫人」って主役は出っぱなし、しかも強いスピントの効いたソプラノで歌わなければならないことです。もし素晴らしい素材があって、それを惜しげも無くつぎ込むなら、全力投球すれば、名をなすことも可能でしょうが、長持ちしたいと思ったら、退散した方が利口かも知れません。東の欧米の活躍を調べると、ほとんどが蝶々さんだってことが分かります。メットやウィーンではネッダ役(レオン・カヴァルロ「道化師」)、ミミ役(プッチーニ「ラ・ボエーム」)も歌いましたが、あとはどこでもひたすら蝶々さんです。だから声を早くすり潰してしまったのでは、と思います。本人はそれは覚悟してのこと、と語っています。林康子も当初はベルカント物を主としていましたが、最後はスカラ座で蝶々さんを歌い、消えました。この「蝶々夫人」に関してOpera Newsには大変厳しい評が出ていました。どうしてこの歌手がスカラ座に留まっているのか分からないと。そもそもメットに出なかった林ですから、厳しくなるのは予想できました。でもスカラ座である程度の指定席を確保した最初の日本人歌手として、僕は林が消えたことを残念に思っています。
僕の持っているCDは次の通りです。
カラヤン(カラス)、エレーデ(テバルディ)、ラインスドルフ(モッフォ)、セラフィン(テバルディ)、サンツオーニョ(ロス・アンヘレス)、ラインスドルフ(プライス)

第1幕の登場の場がまず聴き所ですね。でも、その後に続くピンカートンとの2重唱、これも聴きものです。なにしろ長いから、きり無く長いから、この長丁場を持ちこたえるのは大変です。それこそリリコ・スピントの典型とも言うべき旋律ですから、聴き手の耳を捕らえて離しません。逆に言うと、それだけ強い声でないとダメ。第2幕にはもちろんアリア<ある晴れた日に>がありますが、第2幕の聴かせ所としてはそこだけかなと思います。ヤマドリ公の話なんて無くても可。第3幕では、まずスズキとの<桜の2重唱>を聴きましょう。幸せいっぱいの蝶々さんの喜びと期待に満ちた声が空間を満たします。

歌手にとっては最終幕を如何に仕上げるかが問題です。でも声さえあれば解決するんです。声が無くて演じるから苦労するんです。あのカマトト風のカラスの蝶々さん(子供っぽさを出そうと、全面的にパワーを抜いている)だって、この最後のアリア<可愛い坊や>では本領を発揮していますね。爆発力ですよ。爆発してカーテンが降りてしまえば、もう観客は満足してしまうんです。この爆発力が不足しているのが今日あちこちで観る蝶々さんだと思うのです。簡単に歌える役柄ではありません。アンナ・モッフォも可愛らしく歌っていますが、僕はやはり大型歌手が喉を全開して歌ってくれるのを期待します。つまり僕の私見では、この最後の大アリアは、テバルディかカラスに尽きるんじゃないでしょうか。

ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス
ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス(Opera News誌より)
ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスの声は魅力的で好感が持てますが、そのうち何か楽譜を見つめながら、反省文を書いている姿が目に浮かぶのです(実際、楽譜を見ながら歌ったに違いないと思いました)。ピンカートン役としてはモッフォ盤のチェーザレ・ヴァレッティの声が細過ぎるのが気になります。ロス・アンヘレス盤のユッシ・ピョルリンクも特徴の無い声。またレオンタイン・プライスは声がハスキー過ぎます。どこのパッセージでもそうですから、この人特有のものかも知れませんが、僕の好みではありません(他方、この頃出たヴェルディ・アリア集ではプライスは実に立派に歌っています)。1962年録音なのでもっと声は自在に出るかと思ったのですが。それに、プライスと付き合っているピンカートン役のリチャード・タッカーの歌いぶりに少し首を傾げたくなります。ここで取り上げていないテノール、カルロ・ベルゴンツイ(セラフィン盤)は立派な声と表現で歌い切っています。あと、ピンカートンという役柄が尊敬に値するならば!
「蝶々夫人」は全体をドラマティックに構成して歌わなければならないと信じますが、僕が気にしているのは、新人がアリアを披露する際に、しばしばアリア<ある晴れた日に>と並んで、同じプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」にあるアリア<私のお父さん>を取り上げることです。もちろん、後者は綺麗な曲だと思いますし、これも歌えるのは素敵なことです。ただ申し上げたいのは、これが巧く歌えたからと言って、それは何も特別なことを意味しないんじゃないでしょうか?天才でもなければ、プリマドンナの誕生でもなし。そういう種類の音楽ではないからです。プリマドンナになるには、爆発的な瞬発力がなければ…!と、思っていたのですが、今日(2006年11月12日)テレビで聴いた「題名の無い音楽会」で<私のお父さん>を歌った森麻季さんの歌にハッとしました。声の出方に影があります。良い意味での影が。ひょっとするとこれは良い歌手かも知れないな、というのが正直な感想です。反省を迫られます。CDも買って聴いてみましたが、少し突き進む力が弱い気がしました。しかし高音は全て出ています。

歌手を目指す方、「蝶々夫人」には気をつけて接した方が良いのではないでしょうか。そのような問題を抱えていますが、この曲は極めて魅惑的です。好きだからこそ、避けた方が賢明、と言っているのです。テバルディも若いうちは「蝶々夫人」を避け、随分遅くなってからこれもレパートリーに加えました。テバルディでさえこうです!でも、旨く行けばリリコ・スピントの素晴らしさを思いきりデモンストレーションできますよ。そういう録音を聴く時は、きるだけ「近い声」のオーディオ・システムでその美声を受け止めましょう。
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