キット屋倶楽部
音楽の
すすめ by F高
イラスト
第37話 歌手の技量 (2007.1.9)
テバルディの演じる「ラ・ジョコンダ」
テバルディの演じる「ラ・ジョコンダ」(Opera News誌による)
皆様こんにちは。僕はポンキエルリのオペラ「ラ・ジョコンダ」のアリア<Sucido!(自殺!)>を聴いて、カラスの声に目覚めました。チェトラ原盤のものです。低い胸声を響かせるカラスに目を見張りました。どういう訳か、胸声というのは声楽的には良くないとされている様です。僕には素晴らしい声だと思うのですが。テバルディが「ラ・ジョコンダ」に進出して成功した時も大いに喜びました。もっと昔、小学5年生の頃ディズニーのアニメ映画「ファンタジア」を観たのですが、そこで「ラ・ジョコンダ」の音楽が引用されていました。特にカバやワニの踊る<時の踊り>の音楽は耳にこびり付きました。後年聴いたアリアも耳に残るものですし、そう考えると「ラ・ジョコンダ」全体が素晴らしい音楽では、と思いたくなるのが人情。でも全体として評価するなら、「ラ・ジョコンダ」全体は必ずしも最上級とは思えない、というのが結論です。原因を探ると作曲家の構成力かな、と思います。一つ一つの場面を如何に繋ぐか、というところで構成力が試されるんじゃないでしょうか。モーツアルトはこれが一流でしたし、ヴェルディも「イル・トロヴァトーレ」で見られるように、次から次へと惜しげも無く新しい旋律が投げ込まれるので、やはり一流です。ワーグナーも言うまでもなく有能です。それが「ラ・ジョコンダ」では、音楽は次々と出て来ても、途切れて聴こえるのですよ。でも「ラ・ジョコンダ」の<Sucido!>の歌だけは疑い無く、イタリア・オペラの世界を代表する一つと確信します。
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そして、今日は「ノメリ」について考えましょう。場を制しようとする時、ドスを効かせるために、前ノメリにアクセントをつけることがあります。スタートを切るための足台のようなもので、それを蹴って速く進むのです。例えばカラスは前ノメリ型です。よくよく聴いて欲しい。マクベス夫人も、ナブッコもノルマもメデアも、そしてヴィオレッタも皆、前ノメリで歌っています。カラスの場合、声があった時代のものと声を無くした後のものを比べると、声が無くなってからの方が前ノメリは強く感じられます。ただカラスの歌唱で気になるのは、突然に爆発する火山みたいだという点でしょうか。穏やかな温泉付きの休火山とか、風景を楽しむ為の山では無いのですね。彼女の歌は時々、その音楽の弱さにカツを入れているかのようです。

カラスに関する本は沢山出ていますが、中でも興味深いのは彼女に対する悪口の手紙類をまとめた資料(カラス本は星の数ほど出ていますが、僕のところにも15冊程度あります)です。実はこれ、カラス自身が全て保存していたと言います。どんな悪口かというと、どうしてお前はあんなにギャーギャー叫ぶんだ、というもの。前ノメリに対する抗議ですね。1950年代はまだそういう時代でした。だからテバルディの方がましだ(僕はテバルディ本は2冊しか持っておりません)、と言われていました。これがカラス神格化の始まる前の実情です。

マリアカラス
マリア・カラス(Opera News誌より)
このギャーギャー叫ぶというのは、いわばでき上がった料理を満載したテーブルに掛かっているテーブル掛けを摘んで、思い切り空中に放り出す…ヒエーッと布を引っ張り回すようなもの….当然食料は皆こぼれて落ちてしまいます。つまり昔の亭主関白の時代に、亭主が気に入らないことがあると、ちゃぶ台をひっくり返して放り出したと言うアレです。もっと巧い表現が有るかも知れませんが、このテーブルをひっくり返すというのが、カラス流のアクセントなんです。その効果が大きいことを知ってしまうと、素晴らしいという賛辞を捧げることになりますが、効果を知らない、あるいは効果を認めない場合は、これは許し難い行為になります。伝統的にこれはダメ出しされました。例えば声楽家の四谷文子さんはカラスを名指しでダメ出しの標的にしています。声楽実技を専門にされた方々に、この傾向があるようです。「ノメリ」なんてとんでもない、アレはいったい何だ?叫び声では?と冷たい視線を向けがちです。でもオペラは舞台芸術です。芸術と言うのがおこがましくても、ピアノ伴奏でひっそりエレガントに楽しむ小コンサートとは違います。ソロで歌う場合(合唱は違います)、大劇場の満場の聴衆からワーっという大歓声を獲得するために独特の技術が必要なんです。そう、程度の問題もありますが、一種の「受け」を求めるのですよ。これを認めるか認めないかですね。今日ではカラスを全否定する人は極く少人数です。でもここまで来るのに半世紀近く時間がかかりました。でもカラスの声って、人に依っては生理的に受け付けられないほど嫌いだ、という人もいますし、それも不思議ではありません。
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シミオナートもコソットも前ノメリ型です。逆に1960年代後半以降のサザーランドの大半はノメリが弱い。そしてシュワルツコップは普段はノメリを見せませんが、そのかわり、歌っている間はずっと喉を緊張させています。常に緊張しているから、それから怒りの表情に転化したり、笑顔の下に見え隠れする「鉄仮面の強情」へ変貌するのは自由自在です。一方、後半生のサザーランドのフルヴォイスは遅れて出るから、それだけに声自体の魅力が減じて来ると、がっかりなさる方もおられるでしょう。彼女の本当の全盛期は59〜69年の10年間でした。声がある限りは、どう歌っても巧く行ったのですが、それにも賞味期限があります。一方テバルディはノメリが顕著ではなく、その代わり、音を開始したあと黄金の響きを加えることが出来ます(例えば「トスカ」第1幕)。もったいないくらいの黄金です。反面、母音で無い声が続く場合、あっけないくらい汚い声に変ってしまいます。引退の数年前からこれは顕著でした(「仮面舞踏会」が良い例)。でもその黄金の御陰でテバルディは一世を風靡しました。

またワーグナー歌手は後の時代ほど前ノメリが減り、つまりアクセントが曖昧になります。古い時代のロッテ・レーマンのジークリンデをとってみると、あれは至る所にアクセントがついています。これは情熱的だと思わせるのに有効です。ワーグナー歌手の中で、特にマルタ・メードルに惹かれるのは、彼女も前ノメリが強いからです。まるでイタリア・オペラの役をやっているみたいです。ヴァルナイは音楽全体に対し、可能なところに前ノメリ型アクセントを掛けています。ただヴァルナイのそういう前ノメリは一聴しただけでは分かり難く、ただヴァルナイが歌っているな、と気がつく程度(ヴァルナイのことだから、どこかにアクセントがあるはずだ、と思います)。エリザベート・シューマンもまた極めて魅力的な存在ですが、彼女の歌にははっきりした発声上の癖があります。いつ、どこで聴いてもシューマンの声だと分かります。ところがグアンドラ・ヤノヴィッツになると、そういう癖が激減しています。ワルトラウト・マイヤーも弱いし、もっと最近のルネ・フレミングにはそういうマジックは殆ど聴きとれません。最近の歌手で感心したのはシェリル・スチューダーと、アンジェラ・ゲオルギュー位でしょうか。

メゾ・ソプラノの分野では、シミオナートとコソットは共に前ノメリだと書きましたが、それもシミオナートの方が旨い。これはコソットは全曲至る所で前ノメリ効果を狙うからです。どこでも力んでいるから、全体の印象が薄くなるのです。力み過ぎです。シミオナートのような歌い方をする歌手として、リタ・ゴールがいますが、全曲を聴くとシミオナートに軍配を上げることになります。ゴールには気の毒だが、天与の才の差と言う外ありません。ところが最近の歌手達は、このノメリが弱いようです。さりとて彼女達はシュワルツコップほどの緊張を保ってもいません。そういう音は楽譜に書いてないから、と言われそうですね。音楽の始めも終わりも同じ声。またそういう発声が良い発声とされる時代になったからでしょうか?最近聴いた英国のキャサリン・ジェンキンスの声(2007年1月7日「題名のない音楽会21」)は典型的な「後だし」の声。個人的には、一拍遅れて声が出て来る、ああいう発声は余り面白くないと思うのですが、お好きな方も勿論居られると思います。
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今や時代はカラスのやったことと逆方向に流れ始めています。つまり昔の歌手達は、呼吸法も動員して全身で表現していたのが、今の歌手達はむしろそういう歌以外の要素を捨てることに努力を集中させているように見えます。そうなると、ベル・カントは成り立たなくなりませんか?ベル・カント・オペラとは「美しく歌うオペラ」という意味ですが、もっと慣習的なこと、つまり1オクターブ跳ね上げるとか、特に強いアクセントを付けるとか、を含めて考えると楽譜に書いてないものは不要、と割り切ってしまうのはどうかな、と思います。既にヴェルディの時代に、その様な写実主義の人がボツボツ見られました。つまりロッシーニやドニゼッティの時代には、ベル・カントの慣習が通じたので、何も要求しなくても歌手が自発的に歌って呉れた装飾歌唱が、ヴェルディの時代には、楽譜にない音符だから歌わない、という歌手の出現によってダメになりそうになりました。作曲家達はそれならばカデンツアの部分も、とばかり楽譜に精一杯沢山の音符を書くようになりました。

一旦そうなってしまえば、また皆がそれを受け入れれば、楽譜至上主義でも済むのです。ただ、それ以前に書かれた曲を、楽譜至上主義の時代の歌と同じに処理するのは誤りではないでしょうか。器楽でもそう言うのがあるでしょ?即興的に演奏すべきカデンツア!カデンツアがヴァイオリンに認められているように、歌手にもカデンツアは認められるのですよ。またジャズの世界でいうインプロヴィゼーションもそうですね。あるいは演歌の世界で言うコブシやウナリ。それがイヤだという作曲家のスコアは、膨大なものになってしまったのも無理からぬものがあります。R.ワーグナーとかR.シュトラウスの、あらゆる指示を書き込んだスコアを思い出して下さい。ああしなくてはダメ?

でも、舞台では、ノメリやカデンツアがどんなに効果を上げるかを考えて下さい。オーバーオールに効果が上がることも大切でしょう?全ての音楽が禁欲的な教会音楽ではなく、これは舞台によるエンターテインメントなんだってことを考えましょう。教会音楽というのは歴史的にうんと遡ると(10世紀ごろまで)男声のみの、それも単声の、装飾音なしのものだったのですね。トリルなんてとんでもないという中世の音楽。修道院の歌。それが時代を下ると混声合唱、つまりポリフォニー、も許されるようになりました。逆の場合を想像してみて下さい。つまりカラスが教会のミサを歌うのを専門にしちゃった場合ですよ。ああ、もったいない!でしょ?中世の音楽が全部ダメというのではありません。あくまで、ここではオペラという立場から述べたに過ぎません。中世のモノトーンの歌ではオペラになりにくいのです。オペラでない立場から見るのだったら、ここの結論は逆になり得ます。ですから、中世音楽を専門にされる方々、どうか誤解しないで下さいね。
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僕が求めているのは、生々しい「近い音」か、あるいはまとまりの良い「遠い音」です。僕自身に取っては、ベル・カント・オペラには前者が、ワーグナーには後者が当てはまります。もし「近い音」だったら、僕の場合、汗が飛び散り、血しぶきを浴びるような、そういう錯覚を起こさせるような音が欲しいんですよ。「遠い音」の場合は世の中全体が絶望の淵に沈むような音、あるいは逆に歓喜に包まれる音。「生」と同じで無くても、「生」を錯覚させる音が欲しい。必ずしもハイファイでなくて構わないと思います。これは音を作る作業に関わる方々と、鑑賞を専らにする者とで、やや違いがあるかも知れません。しかし、ハードウエアに関して僕はビギナーに過ぎず、偉そうなことは申せません。
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