キット屋倶楽部
音楽の
すすめ by F高
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第38話 様々な意見と異論 (2007.1.24)
皆様こんにちは。僕がうんと若い頃、オペラ・ハウスに対して抱いていたイメージは次のようなものでした。「真っ赤な絨毯、シャンデリアの煌めき、ローブデコルテの衣擦れの音、シャンパンの香り」。何のことはない、ナポレオン3世の時代の雰囲気。今思えば何とも妖し気なことを思っていたなあ、と言うところ。そして今、全くそういう雰囲気とは逆の生活をしています(やや夢に乏しいけれど、その方が着実)。そしてこの時代の匂いが相応しいオペラにオッフェンバックの「ホフマン物語」があります。僕はこの喜歌劇を最初に知ったのは中学生時代にテレビの深夜番組でみたバレエ付きの映画「ホフマン物語」でした。後にもう少し知恵がついてから、シュワルツコップのジュリエッタ役を含むクリュイタンス指揮盤とか、さらにサザーランドが全てのヒロインを歌うボニング指揮のものを聴くことになりました。またプレートル指揮でバルツアがジュリエッタ役を歌うレーザーディスクも楽しみました。どれが一番良いかですが、目で観た楽しみを含めれば断然プレートル指揮のものです!しかもこれはセッラの歌うオランピア役、コトルバスの歌うアントニア役も楽しめます。極く初期に出た盤でしたが、事前に確かめないで買っても成功した例です。妻は、若い日のドミンゴの歌うホフマン役が一番気に入っているようです。僕には、やはりバルツアのジュリエッタ役。あの真っ赤なガウンにくるまった姿なぞ、観るだけで幸せ感が得られます。

テバルディの演じる「ラ・ジョコンダ」
メットの大シャンデリア(Opera Newsによる)
そしてヨハン・シュトラウス「こうもり」。この喜歌劇も素晴らしい音楽だと信じます。だれが歌っても良いようなものですが、今手元にあるのはカラヤン指揮の旧盤、クレメンス・クラウス指揮のもの、そしてサザーランドの引退記念公演盤。特に印象の残ったのはシュワルツコップがロザリンデ役を歌うカラヤン盤でのチャルダッシュ。音楽を聴いているだけで舞台が目に浮かぶようです。昔、近所の人からLDを借りてダビングしたテープも楽しみましたが、これは大層残念ながら現在行方不明です。これらのオペラは仕事を済ませてから、ゆったりと楽しみたいものですね。

そして、ごめんなさい。最初に謝ってしまいます。実は今日は演出家に対して日頃から鬱積してきた、不平不満をさらけ出すため、まず謝っておきたいのです。演出の仕事が大切だってことはもちろんです!僕も決して演出が嫌いではありません。事実は全く逆なんです!僕は演出を自らもやってみたいとさえ思います。好きだからこそ色々と文句を並べるし、好きだからこそ、もっと自制して呉れないかなあ、と考えています。相手方の痛い所を予想できるからこそ、わざとそこを突くというイジワルな性格もあるし(!)
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僕の勝手な意見に対して、反対意見も当然あるでしょうし、なんだこりゃ、空いた口が塞がらないよ、という強力な反論も想像できます。まずおもちゃ箱をひっくり返したような演出、という下りです。確かにああいう種類の演出が欧州で非常に多いのは残念だと思っています。でも、新進演出家が必死に考えて出した新案を、そう簡単にこれは好きでない、といって捨てては申し訳ないと思わないか、という御意見もあるでしょう。しかし演出は一人で考えたものでも、オペラの上演の方もその上演だけ、というケースもあるのではないでしょうか。様々な演出が同時進行していて、いわば人気投票みたいにあの演出には何人観客が入った、この演出には何人観客が入ったと、常に比較できるわけではないのです。たまたま今年初めて「魔笛」を見ようという人が、たまたまそういう風変りな演出にぶつかったとしたら?不幸な結末になると思いませんか?未来の聴衆を永遠に失う悲劇も予想されます。つまり、同人雑誌の世界とは全く違うのですから、同人雑誌の積もりで演出するのはいかなものか、と申し上げたいのです。

それを承知で演出家が一見奇妙な演出にこだわるのは、オペラを自らの信じる価値感に拉致してしまうようなものじゃないでしょうか。一方、それではオペラは百年一日のごとし、でいいのか?という反論が出るでしょう。でも、いいかどうかは、観客が決めるのではないでしょうか。観客の絶対主権ですね。演出家に申し上げたいのは、自分達が一番勉強しているし、自分達が一番進んでいるんだ、という自負が鼻につく事がある点です。多くの聴衆、特に初めて新規参入しようかどうかと悩める小羊にとって、突然にしてアルフレードがサッカー選手になったり、ヴィオレッタが看護士になったりするのは正しいやり方とは言い難いのではないでしょうか。イヤだったら目をつぶって聴いてくれ、という御意見もあるでしょうが、僕自身は目をつぶって観ようとは思いません。あくまで本当に観たいのです。昨年11月号のOpera Newsに、シチリアであったディミトラ・テオドシュウ主演のベルリーニ「ノルマ」の評が出ていたのですが、結論は(声楽的に)良いノルマも(演出上)悪いノルマに勝てない、と評されていました。また、ローマ歌劇場の「さまよえるオランダ人」では、演出に最大のブーイングが投げられたとか(2006.12.15朝日新聞)。
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僕のような平凡なる民は、非凡さよりも伝統的な演出の方に傾くんじゃないか、と思います。演出家本人は新演出で満足しても、観客はそれで大不満かも知れないな、という点にも注意を払って下さると嬉しいです。最終的には観客自身、もう少し和らげても劇場支配人の責任が大きいと思います。ただし、そういう風変わりな演出は、一定のまとまった期間、継続して上演されないと定着の判定が難しいので、問題は複雑ですね。バイロイトにおけるシェローの演出だって、数年近く続いた後に受け入れられましたし、受け入れられればもはや古典なので、新たに破壊の対象になってしまいます。新しいものを根付かせるには、こういう困難、あるいは批判を承知して、それを甘受しないとダメなのですね。ルドルフ・アッピアは光と影という理論を主張しましたが古いワーグナー家に無視されました。それが第2次世界大戦後、アッピア流の背景と歌手達の古典的な装い、という組み合せで、ヴィーラント・ワーグナーの素晴らしい演出が考え出されました。一度ああいうヒントを与えられれば、あとは想像の翼をどんどん広げて行けばいいのです。でもヴィーラントは天才です。天才はほんの一握り。悲しいけれど真実です。

歌舞伎や能の世界をみて下さい。あれだって時代とともに変貌があったと思いますが、今のオペラほどの違和感はありません。最小限の約束事、大道具小道具等の大雑把な伝承はしっかりやっています。だからこそ、昔と今を比較できるし、役者の技量をも比較できるのです。オペラってそういうエンターテインメントなんです。神聖な芸術じゃありません。繰り返しますが、同人雑誌の世界とは違うのです。斬新な演出は芸術サークル内でやる分には何も問題はありません。芸術サークルではこれこそ前衛的で、先頭を切るものだ、っていう演出を楽しんでも構わないのです。大いに先鋭さを目指してもいいのです。でも大劇場を常に占拠してしまうのはいかがなものか。いやいや大衆は導かなければ彼等はダルで退廃的なものに流れ易いのだから、先進を自負する者は、教育的見地で彼等を導く義務があるとでも?僕はそう言う風には捕らえたくないのですが。
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さて、オペラを上演する事になったとしましょう。今度は反省するのは僕自身の側です。どうしてかと言うと、僕はオペラを楽しむというより、「歌唱技術」や「歌唱演出」を楽しんでいるってことです。そうだったら、演出家を非難するなんて、僭越ですよね。自分自身はオペラそのもの、オペラの音楽を楽しまないで、あの役をどのように表現するかってことばかりに気を使っているとすれば!プリマドンナ・オペラだったらなおさらです。また実際、僕はそう言うオペラが大好きなんですが、オーケストラがスンチャッチャばかり繰り返すようだったら、どうすれば良いんだよ、という不満も聞こえてきそうです。僕自身も大いに反省しなくてはなりません。

つつがないオペラ上演のためには、強力な指揮者が大切です。歌手主導といっても、実はコラボレーション無しに成功するはずが無いのです。では具体的にはどうしてやるか?それは指揮者です!指揮者がオペラの本質を良く理解していること、これが肝要です。そしてここぞ、という箇所で歌手に思い切り自由を与え、必要な所ではオーケストラに活躍して貰う、そのタイミングの取り方とバランスの取り方が大切!例えば、ヴェルディ「運命の力」の2つ目のアリアの最後にオーケストラの音階が上昇するところがありますね(たまたま今これを思い浮かんだため)。あそこは思い切りオーケストラが前に出て良い所なんですね。歌手も歌っていますが、歌手はフルヴォイスで歌っていますから、気を使わずに行きましょう。うまくオーケストラと歌手が合った時、観客の耳には心地よいカタルシスが得られますよ!

その代わり、指揮者の棒には100%従わなければなりません。物議をかもしそうですが、僕は演奏者間に民主主義は必要ないだろうと思います。その代わり、失敗したら完全に指揮者のせいです。オペラを成功させるためにそう考えたって不思議じゃないですよね。そしてその指揮者がその晩に上演するオペラを良く知っている事が肝心です。その曲の全貌を知る人は通常、指揮者だけだと思うからです。今、日本の指揮者達の多くはオペラハウスの経験が少ない。小沢征爾も伝統的なオペラは必ずしも得意ではないようですね。やはり「トリスタンとイゾルデ」を振らせようとか、「ノルマ」や「メデア」を振らせようという話が出て欲しいです。ウイーンの総監督ならフランス・オペラの指揮がメインでは困ったこともあるのではないか、と少し心配しました。今、小沢はウイーンからは長期病気静養中ですね。早い回復を願って止みません。そして「古くさい」種類のオペラももっと手中に収めて下さいね。

マリアカラス
リンカーン・センターの写真。左から州立劇場、メット、エイブリー・フィッシャー・ホール(著者の撮影による)
歌手とオーケストラの微妙なバランスを取る天涯孤独な役柄、それが指揮者です。あるオペラ公演が成功したら、それは指揮者の御陰なんです。歌手も指揮者の顔を立てましょう。そして、真の主権者は観客ですが、その利益代表は劇場支配人です。支配人は音楽のみならず、演出に対しても責任があるので大変です。演出と歌唱の両方に対して強い発言権を持っているはずです。責任のある地位、光栄ある地位ですから、是非頑張って欲しいですね。実は僕も昔はメットの支配人になれたらなあ、とタワケたことを思ったことがあるのです。ただしそこでイメージしたのは、ビングみたいな、あるいはジョンソンみたいな、独裁的な支配人でした。演奏家のオーディションに立ち会うことから職務が始まるイメージでした。全くの夢物語。
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以上のように演出家、歌手、オーケストラその他の各位に勝手なゴタクを並べましたが、その失礼の程を御詫びします。さらにエキサイティングなものにして頂きたい、という一念で、書きたい放題を書きました。偉そうなことを言いましたが、それじゃお前代わりにやって見ろよ、と怒鳴られても仕方がないですね。でも、いかなる状況のもとでも、僕はオペラが大好きです。これは確かです。

最初(第1話「ことの起こり」の終部)に述べた点にご留意下さい。つまりここで述べたのは、あくまで僕の私見です。僕だったらそう思うな、という程度。決して一般論として申し上げたつもりはありません。歌手に対する評だって、ソプラノ○●が大好き、メゾ・ソプラノ△▲は余り好きでない、というような価値観を伴う判断では、僕の個人的な趣味を述べたに過ぎません。でも好きさも嵩じると、ついつい一般論みたいな書きっぷりになりますね。実はそうではないのです。
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