キット屋倶楽部
音楽の
すすめ by F高
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第39話 オペラ指揮者と音楽全体の指揮者 (2007.1.24)
皆様こんにちは。再び寄り道して、ヴェルディの「リゴレット」と「運命の力」に触れておきましょう。僕は「リゴレット」は実に傑作だと思います。特に終幕部の4重唱のところ、あれが盛り上がって行くのを聴いていると、自分は何と幸せなんだろうと思います。一つ一つの声が個性を主張せず、単に「声」という楽器を担当するだけですが、それにも関わらずあの効果!またそれらを楽譜に書き留めたのですから、僕はヴェルディの才能を確信します。しかも「リゴレット」では旋律豊かで、何処からでも音楽に没入して行けます!一方「運命の力」は少々長過ぎるかも知れません。でも個々のナンバーは素晴らしいものです。ソプラノに与えられた2つのアリア<Madre, madre pietosa, Vergine(哀れみの聖母)>、<Pace, pace, mio, Dio(神よ平和を与え給え)>、そしてもっと前に、宿屋で巡礼や学生達との重唱に含まれる歌!ヒロインは多くのシーンでブーツを履いていなければなりません(「運命の力」は逃走劇で、ブーツを履いて居る時間が長い)から、お姫様の姿を期待するとアテが外れます。これは巧い演出でカバーしなければなりません。かつてビルギット・ニルソンの新録音アリア集を聴いて、これは大変だ、テバルディやカラス危うし、と思ったものです(これは杞憂でした。ニルソンはインタビューに答えて、「運命の力」はアリアしか知らないのに、今度は「運命の力」上演だと言って助手がブーツを抱えて来た時は驚いた、と述べています。この時ニルソンは降りて、急遽ジンカ・ミラノフの「トスカ」に変更されました)。最後に主要人物3名が皆死んでしまう、という凄惨な物語。そして「運命の力」というオペラはロシア帝室歌劇場の依頼で作曲されました。
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今日はまたまた予めごめんなさいと謝っておきます。色々とご批判のあることを承知していますが、まず話を聴いて下さい。そしてオペラを観ようっていう時、何も過度に禁欲的貧乏を気取る必要はありません。可能な限り、着飾って行きましょう。貧乏なら貧乏なりに着飾れば良いのです。というのは、だらしなく、締まりのない、装飾もタップリついた娯楽になる音楽、それが総合芸術とか舞台芸術とか言われるオペラの本性なのですから。純粋音楽とか純粋芸術とかいうのとは、発想がそもそも異なるのかも知れません。

モーツアルトはオペラ作曲家として成功することを、夢見続けました。それが生活を支える為に最高の方法だったから。シューベルトもそうですね(ベートーベンだけはそうしないで、貧乏に耐える生活を自らに課しましたが)。ワーグナーは総合芸術という有り難〜い理由をつけて、オペラの作曲に血道を上げました。歌手も大層儲かる職業でした。こういうオペラの位置を確認できないのが日本でした。軽薄だとか、歌手は露銭を稼ぐ唄うたいとか、様々な理由を付けて軽んじてきたのではないでしょうか。

僕の不平不満は下記の4つ。書き過ぎたかもしれませんが、問題を分かり易くするためにオーバーな例え話を記した次第。以下にオズオズと(!)お目にかけますね。
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(A)歌の産地は問題でないでしょう?
今日の合唱コンクールを聴くたびに思うのですが、夢や空や人生目標を歌い上げるような、立派な曲ばかりですね。また、あの課題曲は国産品でないとダメでしょうか?ある音楽TV番組で、もし自由競争になったら自分の音楽なんか上演されなくなってしまう、と心配した正直な作曲家を見ました。あれは本音?極論すれば全て自由曲、自由選択にしたら?と思います。モーツアルトやワーグナーと同じ土俵で切磋琢磨しても、なお生き残れる音楽に価値があるのではないかな。僕だったら、もっと弾むような、壮大な合唱が欲しい!ボイートの「メフィストフェーレ」のプロローグみたいな。あるいは、この世にはくたびれた、飽きた、という歌だって良いんです。タマには「空よ、夢よ」でない合唱も聴きたい!でも、これは趣味の問題ですね。たった今も、今年のNHK合唱コンクールに関するドキュメンタリーを放映していたのを聴いていました。確かに巧いのですが、あれを次回に繰り返して放送して呉れることはあるのでしょうか。クラシックというからには、繰り返し演奏され、定着することも大切だろうと思いますよ。

ただ、日本人作曲家の活動の場を取っておいて欲しい、等の理由があるなら、そういう理由によることを隠さない方がいいと思います。一番良い方法は日本人作曲家のためのコンクールを別建てで作ることだと思います。日本人作曲家が、必ずベートーベンやバッハより優れている、という保証があるなら、現行システムも問題ありません。

実は僕自身が合唱コンクールで、日比谷公会堂の舞台に立ったことがあるのです。小学6年生の時だったか、5年生の時だったか忘れましたが、あの時の無惨としか言いようの無いブザマな結果は身に染みております。合唱のはずが、途中でソプラノ・パートとアルト・パートがバラバラになってしまったのです。こんな結果は僕たちの学校だけでした。先生はもっと恥ずかしい思いをされたことでしょう。また僕はこの練習中に変声(!)が始まってしまい、途中でソプラノが出なくなったのです。自分からアルトへ変更を申し出ました。コンクールが終了した時の先生の悲しそうな顔を忘れられません。

(B)歌が巧ければ賞を独占できるでしょう?
芸術とか技術の分野では同情は無用だと思います。当コラムの「ルチア」で述べたように、カラスはダラスで同情されたから腹を立てたんです(第15話「ランメルムーアのルチアの陰影」参照)。同情されるなんて、何とブザマなんだろう、ってところですね。カラスはむしろ攻撃してくれる方が良く、それなら見ておれ、と観客を見据えて力一杯歌うという好戦的な性格の持ち主です。同情を拒否し、払いのける性格です。僕はその方が心地良いと思います。話は外れますが、かつてレコード大賞の最優秀歌唱賞というのを八代亜紀が3回連続で獲りました。4年目に「今度からは、今まで取ったことの無い人」に呉れるって、おふれが出たのですよ。なんだコレと思いました。別に僕は八代亜紀のファンではありませんが、本当に良ければ何年連続して取ったって構わないじゃないですか!美空ひばりが20年間独占したって構わないと思うのですよ。それを皆で等しく分かち合おう、なんてケチな平等主義を掲げたから、もうこれでレコード大賞も終わりだな、と思いました。案の定、ですね。自ら自分のクビを絞めたのですよ。このエピソードは、単に分かり易いと思うからそれを書きました。

(C)没個性を常には強制されたくないな
ヴェルディ、ワーグナー、ベルリーニ等は色々と天才的な作品群を残しました。その数や偉大です。そして西欧で指揮者になる方法は、ウィーン・フィルの場合だったら、まずオペラハウスの副指揮者になり、そしてオペラについて徹底的に鍛え上げられ、そのうち1年に一度位コンサートでも振らせてみようよ、ってことでオーケストラの指揮を任せられます。欧米の少し古い時代ではこうでした。そしてコレペティートルとかカペルマイスターという職を経るうちにオペラが何であるかを、練習用ピアノ譜を見ながら次第に身につけて行き、定常的には国立歌劇場付管弦楽団の指揮者として活動します。ウィーンの場合なら1年間に10回程度はオーケストラだけのコンサートをし、その際にウィーン・フィルと名乗るのですが、その指揮者に選ばれるのを最大の名誉としています。

ドイツ系の大概のところはこのシステムでしたが、ベルリン・フィルのようなコンサート専門の楽団があちこちにできて、特に米国でそれが目立つようになり、オペラでも歌手を助ける指揮者でなく、むしろオーケストラの方を中心に率いる指揮者が求められるようになりました。すると指揮者も初めから交響曲や管弦楽専門の人が多くなり、歌を離れ、オペラ離れが進み、従って楽譜至上主義になって行ったと思います。欧州の古い指揮者みたいに、練習の段階では歌手をあれこれ厳しく指導しても、ひとたび舞台の幕が上がったら、指揮者の役割はひたすら歌手を助け、息が切れそうだったら、声が不調だったら、オーケストラを抑えるという綱渡り的なこともこなすものだ、という神話も、もはや機能しません。そういう指揮者がドンドン増えて来ています。ウィーン・フィルとベルリン・フィルというオーケストラ界の両巨頭を比較するとこうなるでしょうか。

そういう世情ですから、歌手達も次第に機能的になり、ヴァーサタイル性(応用が利く)が求められるようになり、「声」という楽器の職人性を強調することになります。実際録音現場では、その職人たる歌手が交替したときに大幅に表現が変っては困りますし、テンポやリズムによって声質が変っては経済的にも困るわけです。あくまで声という一つの楽器の奏者であり、その分をわきまえて演奏しろ(歌え)というわけ。レコード録音する場合もその方が都合が良いのです。つまり個性を売り物にするな、お前の存在価値は将棋の駒に過ぎないんだから、兵隊さんに徹しろ、と言うのです。これが現状です。さしかえの効くように、駒になる準備をしておけ、と言われている次第です。合唱団の場合だったらその方がまとまりが良いと思いますが、問題はソリストの場合です。坂本スミ子さんが昔合唱団に入っていたら、お前の歌は周りと合わない上、ヘタだ、って言われたそうですよ(僕自身は自分がソリストだったら、という視点で書くクセがあります。気をつけないと!合唱団は全体として一つの個性を主張できるのは当然です)。歌手とは上品な言葉で表現すると「個性豊かな人達」ですから、社会の一般的ルールでは御し難いかも知れません。出来るだけ、そう言う「クセ」を和らげたい、できれば「クセ」は消してしまいたい、という希望が、録音チームにお金を出す側から出て来がちです。

でも、オペラってもうチョッと余裕を持って楽しみたいです!!もっと個性(悪い言葉で表現すると「クセ」)を楽しみたいのです。あの歌手が出るならこう、この歌手が歌うならこう、と予想しながら。人声とは極めてデリケートなものですから、強制しても無理です。一人一人のその時々の調子を見ながら加減しなければなりません。だからこそ、オペラ指揮者という独特の分野があるんです。歌舞伎役者を考えて下さい。団十郎がやるならこうだろう、先代はこうだったが、という比較の楽しみ。西洋人には歌舞伎もオペラだそうですね。それが○○スクールの○○メソッドによる、という風になって皆同じ演技をするようになったら、つまらないでしょう?

CD録音が盛んになると、録音に向いた演奏者を選びがちになります。またその方が安上がりです。敢て個性を売り物にする歌手や、演奏家を選ばなくなっても不思議はありませんね。カラスのような個性に対しては莫大な対価を支払わなくてはならないのですから。大統領よりギャラが高い、と文句を言われたカラスは、それなら大統領に歌って貰えば?と言い返したそうです。聴き手にとって聴きたい人と、売り手にとって売りたい人が食い違って来たのかも知れません。

(D)「おさらい会」システムって何だろう?
オペラと言ういわば原始的な動機に基づく音楽から、より洗練された音楽、つまり器楽等へと進むのも自然でしょう。そして洗練された音楽、即ち管弦楽にせよピアノ曲にせよ「長く残る」ということなしに、良い音楽はあり得ないと僕は思います。一度だけ演奏されたことがある、という程度では、試演会と大して変らないでしょう。

また僕は「おさらい会」システムっていかがなものか、と思っております。子供達の発表会ならほほえましく、ただ見守ってあげたい。僕自身も昭和20年代の後半(昔は男の子は珍しく、今だったらアガってしまう)に、ピアノおさらい会に出たことがあります。ここで問題にするのは、そういうのじゃ無いのですが、「おさらい会」は巧く運営しないといけないな、と思います。「おさらい会」では全てを発展途上にある者の中間報告会として位置づけています。でも、本当に優れた者を出すのなら、堂々と正当な対価を要求しても可、ではないでしょうか。ある団体ではどんなに優秀でも生徒あつかい、だと聞きますが、生徒の公演で入場料を取るのはどうかな、と思うのです。少なくとも全員が発展途上にある、としてしまっては、失礼なこともあるのでは? ここまでは「中間報告会」、ここからあとは「発表会」という、ラインを引いておくことも考えられそうです。音楽の会だけじゃなく、お茶の会とか、着物の会、香の会、歌を詠む会等でも同様なことが言えます。現実の話、現在残っている流派の創始者って、もとを正せば皆反逆者ですね。困った存在もあり得るのはもうチョッと代を重ねてからです。「おさらい会」を巧く運営すると、発表の機会が減ることもあるでしょうから、これは演奏者にとって両刃の剣ですね。でも、これからも是非良い演奏会を開き続けて頂きたいと思います。それには設計者の審美眼と、それを実行する者の技量を磨くことが求められます。少し辛口過ぎたかな?
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ここの最後に、夕べから今朝にかけてインターネットで知ったことをご報告します。調べ物をするためにインターネット・サーフィンをしていたのですが、そうしたら某指揮者のプロフィールが出ており、それは全く異なる専門から転職してきた人でした。それでは、とその指揮者の活躍の場を調べてみたら、学生を中心とする歌劇団でした。歌劇団というよりオペラ・サークルでしようが、僕はこんな学生達もいるんだ、と大層感心しました。自分達で出し物を決め(それも「ホフマン物語」とか「アイーダ」と言った難しい物、それも原語で)、それを進める為の照明係、衣装係、合唱等のそれぞれの自発的な奉仕の結晶として、出すのですね。まず好きでなければ成功するはずが無いのですが、彼等は立派にやっているようです。巧い、ヘタでなく、その大いなる精神と情熱を応援したいと思います。
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