音楽のすすめ 第2章 第9話 ミュージカル開眼(’85-9)


(補足)
 赤字:2007年に新たに書いた部分
 黒字:1985年の日記からの引用

(2007年の加筆部分)1985年のフラッシングはすっかり昔(‘78)と変っていました。昔のアパートの関係者はまだいて、会えました。貧しかったけれど、それを上回る様々な機会を得ることができた、私自身の青春時代を過ごした街です。今でも行ってみたいと思います。でもフラッシングはオーディオを楽しむような環境ではありませんでした。勿論高級そうな一軒家の地区もありましたし、高級アパートもありましたが、それは問題外。実は我々の居た間に、その高級アパートから、帰国日の直前に飛び降り自殺された方がおられました。余りにテンションが高く、余りに競争が激しいからでしょうか。

当時の写真アルバムを見る度に、いつでも思うのですが、結構気に入っていました。教会が2つあり、デパートが当時2つあって、あらゆる日常雑貨をそこで間に合わせることが可能。でもオーディオ機器を専門に売っているような洒落た店は無かったと思います。売っているのはコルベッツで見る限り、いわゆる大衆オーディオで、赤白黄色のランプやダイヤルの多いもの。でも構わないと思います。それよりも、カーネギー・ホールやリンカーン・センター実物を拝めるのですから。実物に接するんだ、ということを実行できたからこそ、家では貧相なステレオでも満足して生活できました。ステレオというのは、私がベルリーニ「ノルマ」の実況放送を録音したいと思った時に買った代物です。FM放送の感度も問題があるし、レコードを掛けてもやっと鳴る程度でしたし。でも、だからこそ、我々が帰国する際には惜しげも無く、10ドルで売り払いました。幾らでも良かったのです。テレビも10ドルで、食器類も纏めて10ドルで、ベッドや安物のタンスも10ドルで。韓国人が大勢来て運び出しました。彼等は実際に働き者でした。日曜でも正月でも昼夜を問わず一生懸命に働く。あの姿にはいたく感心しました。そして我々のような金もない庶民はそれなりに行く所があったから(博物館とか美術館は大抵タダ)、生活は実感上、今までで最も豊かなものでした。そう信じることが可能でした。

劇場に行く時は、正常なら6時までに自宅に戻ります。それからシャワーを浴び、夕食を食べ、何とか出掛ける服装をして(普段は全くしないことですが、ネクタイを絞めたという意味)、ベビーシッターの到着を待ちます。その間1時間ですが、それは可能です。そして地下鉄で出掛け、8時からホールなり劇場で存分に世界の音楽家達に接して、深夜また地下鉄で帰宅します。ベビーシッターを家まで送ってから、最終的に解放されるのは深夜。ああくたびれた、と常に嘆きましたが、それは満足を伴う疲れです。ただ返す返すも残念なのは、ミュージカルの本場に居ながら、当時は無視していたことです。それが6年後にようやくミュージカルを観ることになりました。「42番街」です。観て良かったと心底思っております。大昔、どうして意地を張って観ようとしなかったんでしょうね。こういう経験があるからこそ、ミュージカルに対する偏見はここで吹っ飛んでしまった。実に楽しい!でも当面クラシックに集中したのは、アブハチとらずにならなくて良かったのかも知れません。

(以下は1985年より収録)ここでKが私、Maは隣にいた住人、またここでは引用だけですが、TLは昔のアパートのオーナー、STは日本の中学同窓生を表し、UkとHiは我が家の娘達を指します。



(4月7日の続き)
41st Avenueに沿ってUnion Streetを横切り、142-16番地のアパートにたどり着く。道端から見上げるとこれも前より小ぎれいになった。テラスに物を干す風景はなくなり、フェンスも新しいのに替わっていた。相変わらず赤いフォード・ムスタンクが停めてあったが、あの家族はまだ住んでいるのかしら。人影がないので、何とも言えぬ。TLのオフィスにあたる1階はシェードがおろされ、灯もついていないから閉まっているらしい。イタリア人だからイースターに事務所に居るがはずがない。隣のMaの家を見ると、2階の窓が開いていたから居るらしい。ふと考えついて、通り過ぎた花屋に戻った。イースターの花束を手土産にしようと思ったのである。昔、薔薇を12ドルも出して買ったことがあるが今度はチューリップにした。7本買おうとしたら、店員が9本まとめて買えば9ドルにするというので、黄色いチューリップを9本求める。春にふさわしい花ではないか。これを抱えてMaの家のベルを鳴らした。ドアが開かれた。
K「Ma、僕を覚えているかい?6年前に隣のアパートにいたんだけど」
Maは一瞬目を丸くして顔を眺め、思い出したようだ。
Ma「あの子供達と一緒に住んでいた日本人の」
K「そうさ。ケネディ空港までTLの車で送ってくれたでしょう」
Ma「まあ、よく来たこと。でも残念なことにTLは今日は留守なのよ」
まず中にお入り、というので玄関ホールのベンチに腰掛け、互いの記憶を取り戻す色々な話をかわす。家族のこと、TLの病気のこと、仕事の話。今回はたった2週間の滞在だというと、次回は子供達をつれていらっしゃい、と言う。大昔、帰国したあとでTLは我が家の子供達に、娘用のネグリジェをUkとHrに送って呉れたことがある。

2階からお婆さんが降りてきたので、Maが紹介する。母親だと言う。前にいたかしら。僕が是非写真を撮りたいと言ったら、まあこの格好で、と一旦陰に引っ込んで髪等をなでつけてまた現れた。Maの家の内部装飾はやはり何と言ってもイタリアの匂いがする。白い彫像がおかれ、ラテン風の敷物が床を覆い、そしてMaは裸足だった。
Ma「TLとよくあんたや、あんたの子供達のことを話すのよ。とっても会いたがっているわ。ニューヨークに居る間に是非いらっしゃいな」
と言ってTLのオフィスの名刺の電話番号のメモを呉れた。
Ma「多分、TLのところでまた会えるわね」
TLは心臓を少し痛めたらしく、今は寝たきりでは無いが、バリバリと仕事をやっている訳でもないらしい(Maは帰国後に手紙を呉れたが、あの日は母親と一緒に祖父の家に行ってイースターのお祝いをすることになったので、ゆっくりできなくて残念だった、と言ってきた)。

その足で学校裏の公園の側を通り、コルベッツの横を通ってキーフーズの側を歩いた。コルベッツは倒産したあと新しいテナントが見つからないのかメイン・フロアはガランとしたままだった。何年も経つというのにまだメドが立っていないようだ。我が家の普通口座があったEast River Saving Bankは健在だった。コルベッツの張り出し部分、昔は紳士服のコーナーだった所は今はニューヨーク・テレフォンのオフィスに変っていた。電話局もよく引っ越しを繰り返すものだ。

このまま帰るのは惜しく、少し遠いけれどクイーンズ・ボタニカル・ガーデンへ足を伸ばすことにした。「大同」のあったところであっと驚く。あのゴタゴタした木造の建物は根こそぎ無くなり、地面にはぽっかり大穴が開いて、周りは塀がめぐらしてあるのだ。あの店の経営者は韓国系だと聞いていたが、大もうけでもして、今度は大型ビルでも建てるのだろうか。それとも客がいなくなって売り払ったのだろうか。もっと先にあった玩具屋Playworldは健在。インド料理、中華料理等の並ぶあたりも昔のまま。あちこちにスシ・バーができているのも目立つ。日本にも噂が届いている通りだった。ガソリン・スタンドの向こうの植物園までの距離は以外に短かった。かつては随分遠いような気がしたのだが、どうしてこんな感じが違うのだろう。恐らく、以前は乳母車を押しているか、子供のヨチヨチ歩きと一緒だったから、実際以上に長距離のような気がしたのだろうと思う。

スパイスの効いたチキンのためか喉が乾いて仕方がない。植物園の入り口にキャンデー売りでもいるだろうと期待していたのに、誰もいなかった。植物園の事務所裏の自動販売機でコーラを買う。それを持って薔薇園のコーナーにある昔と同じベンチに腰掛けてしばし時を過ごす。残念ながら花は全く咲いていない。季節はずれのようだ。ベンチから見渡すと、近所に昔は無かった新しい高層アパートがそびえている(帰国後約1ヶ月にあった日本の中学同窓会で、STさんが6年前の我々と同じ時期にフラッシングのキセナ通りのアパートに滞在していたと聞いて驚く。どこかですれ違っていたかも知れない)。

かなりくたびれてマンハッタンに戻った。タイムズ・スクエアで降りてふと思いついて、ポートオーソリティのバスターミナルへ行ってみることにした。火曜の晩にプリンストンへ行くためのバス乗り場を確かめておくためだ。何でもリハーサルをやっておかないと不安でしょうがない。案の定、ポートオーソリティのビルは北ウイングと南ウイングに別れていることをすっかり忘れていた。南ウイングから入れば記憶を頼りに切符売り場を探せたであろうが、うっかり北ウイングから入ってしまったため、随分ウロウロしてしまった。その代わり、ケネディ空港行きのエアポート・エクスプレス・バスの切符売り場と乗り場の位置を確かめることができた。帰る時のことも考えておかなくちゃ。サバーバン・トランジット・ラインというバスの切符売り場でプリンストン方面行きバスの時刻表を貰い、さらに4階に昇ってそのバスの発車ホームの位置と、トイレの位置を確認した。

再び喉が乾いてきたのでオレンジを目の前で絞ってくれるのを飲もうかと思ったが、2ドルと表示してあるのでやめた。ともかくホテルに戻ろう、と足を急がせたものの、8番街の44丁目の横断歩道を渡る時、ふと右側を見て立ち止まった。マジェスティック劇場の看板が見えたのである。ここでミュージカル「42番街」をやっているのだ。前回は1年間の滞在中、一度もブロードウェイ・ミュージカルは見なかった。クラシックの演奏会に比べてミュージカルは大変高いからである。メトロポリタン・オペラ・ハウスの平土間席の値段がブローウエイでは格安席の値段になってしまう。何よりも家族の生活が優先だった6年前にそんな出費は不可能だった。

今回は一人旅だから、自分の責任で加減できる。余りミュージカルの分野の知識は無いのだが、この「42番街」は例外的に知っていた。中学時代からTVで2回、古い白黒映画で見たからである。もし見るんだったらこれ、と決めていた。試しにマジェスティック劇場のロビーに入ってみると、まだ当日券があるようだ。次回は3時半にオープンとある。現在3時だから、まだ間に合う。ここからホテルまで大した距離ではないから、一旦ホテルに戻り、荷物を置いてかわりに眼鏡を持って来よう。それでなお間に合えばトライしてみよう。今見なければ2度と見ることはないだろう。

ホテルから劇場に戻ると3時15分だった。さっきまで開いていたドアが大半塞がれ、正面の残された入り口からやっと潜り込む。行列に並んだら危機一髪、僕の所で打ち切り。あとの人はもうダメと言われてドアから押し出された。32.5ドルをアメリカン・エクスプレスで払う。2階の後ろの方だったから舞台からはかなり遠い。結構大きな劇場だと思うし、内部装飾もまずまずだ。昔の帝劇の旧館を思い出させる。

このミュージカルのストーリーは良く知っていたから、例え英語がよく分からなくても筋で混乱することはない。開幕でいきなり大勢のタップダンスが始まった。ブロードウエイの舞台に立つために、何千人という卵たちがウエイトレスやボーイのアルバイトをやりながらレッスンに励んでチャンスを狙っているのは良く知られている。その中から幸運にも採用された者だけが目の前に並んでいると思うと、真面目に見なくては、と思ってしまう。何と言ってもこの分野ではニューヨークは世界一の激しい競争社会なのだ。ちょっとでもミスをしたらすぐに役をおろされ、その後には何十人もの補欠が待ち構えているのだ。実際、舞台を見ていると主役とその他大勢との間に大きな技量の差はなく、ほんの紙一枚の差で幸運をつかむか、涙を飲むかに別れるのだ。その人が居なくてもちっとも困らないのだ。あとに幾らでも控え選手が居るからだ。だからこそ、こういう競争は激烈なのだ。一口に競争と言っても明らかに大差のある場合は競争にならない。紙一重の競争こそ真の意味で激しい競争と言える。それ故にニューヨークで成功しなければ成功したとは言えない。東京ならお情けで拍手を貰うこともあり得るが、ちっぽけなマーケットに過ぎない。

早い話、この「42番街」の映画版には、ニューヨーク公演の前にフィラデルフィア公演をすると言うプロットがあった。主役に予定された女優がフィラデルフィアなんて嫌だ、とゴネる話になっている。つまりニューヨークで成功することがどんなに大きな値打ちがあるかを物語っている。ミュージカルに限らず、何の分野でもそれは言えるだろう。隣席に初老の男性とその息子らしい大学生くらいのが陣取っていたが、いろいろな台詞の度にウンウンうなっている。面白い言い回しがあるのだろうが、悲しいかな、こちらはそれほど英語が達者でない。人より早く笑えたのは「しっかりせんか。それじゃ42番街じゃなくてまるで44番街だぞ」と言うところ(このマジェスティック劇場は44番街にある)、そして「テナーは皆短気だからな」というセリフ。

心地よいディキシー風のリズムに揺られながら劇場を出た。予定外の出費だったがいい思い出ができた。ホテルに戻り、小道具を置いてから再度夜の8番街へ外出。よく体力がもつなあ、と我ながら思う。小さな食料品店に入り、牛乳とトロピカーナと青リンゴを買う。夜ベッドの中で食べるおやつだ。TVは相変わらず真面目な番組が多い。
(続く)


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