音楽のすすめ 第2章 第12話 メットで(’85-12)


(補足)
 赤字:2007年に新たに書いた部分
 黒字:1985年の日記からの引用

(2007年の加筆部分)ある晩オペラを楽しみ、翌朝には新しい仕事と取り組みます。いずれに対してもレスポンスを出そうとすると結構くたびれますが、そこは若さで頑張るしかないでしょう。肝心なのは、全てを通して言えることですが、ガッツですよ!それで頑張りましょう。緩急のリズムの繰り返し!

ニューヨークで夜の生活を楽しむには、実に様々な方法があります。私の場合は勿論オペラを見ることが一番ですが、ニューヨーク市にはオペラ/バレエ劇場が2つあります。それも2つとも同じリンカーンセンターの隣り合わせに。メットと、ニューヨーク・シティ・オペラ(NYC)です。NYCの本拠地はステーツシアタですが、オペラの無い晩にはそこでバレエをやっています。特に真夏にはオペラはやりませんので、その季節はバレエを見るのがお勧め。バレエの世界にもオペラ同様の様々な仕掛け、例えば年間会員制度とか、Ballet News誌の刊行とかあります。メットはアメリカン・バレエ・シアタが、ステーツシアタではニューヨーク・シティ・バレエがやっています。実は我々もアメリカン・バレエ・シアタの定期会員になっていましたし、Ballet News誌の定期購読者でした。

ニューヨーク・シティ・バレエは有名な振付師バレンシンの流れを汲みますし、アメリカン・バレエ・シアタの方は世界中から有名なプリンシパル(主役級)を集めて話題を提供します。我々の居たころはロシア産の多くのバレエ・ダンサーがプリンシパルないしゲスト・プリンシパルとして名前を連ねていました。例えばミーシャことミハイル・バリシニコフとかナターリヤ・マカロワがそうでした。ヌレーエフもゲスト・プリンシパルなら、森下洋子もゲスト・プリンシパルでした。日本から想像もできないことですが、ここではヌレーエフやミーシャの人気は抜群でした。まだロシアではなく、旧ソ連の鉄のカーテンが降りていた時代です。我々の居たころも、ボリショイ・バレエから米国に亡命する者が相次ぎました。例えばコズロフの亡命騒ぎはニューヨークの新聞のトップ記事になりましたし、続くメッセレル兄妹の亡命騒ぎもあります。色々な話がありますが、それを信ずればですが、彼等はリンカーン・センターに向かい合って建つメイフラワー・ホテルを根城にして、そこで缶詰とか乾燥食品で安く食事を済ませ、ギャラの残りで様々な商品、自動車等を買いまくっていたと伝えられています。そしてモスクワに持って帰ると、ブローカーが待っていたと聞きます。

でもメッセレルの時は驚きました。以前書きましたが、私の高校時代にはチャイコフスキーの「白鳥の湖」が好きだったのですが、僕の最初の買物はアンセルメ指揮「白鳥の湖」の抜粋盤だったのです。その中に印刷されたドディンスカヤ、ウラーノワ、セミョーノワ等の写真を眺め暮らしたものです。大学入学したあとで叔母から貰ったバレエ解説本(オリガ・サファイア著)や自分で買った本(松山樹子著)にはメッセレルの写真がバッチリ載っていました。それが亡命とは。そのうちソ連は崩壊してロシアになりました。


(以下は1985年より収録)さて、1985年のニューヨークに戻りましょう。ここでKは私自身、Cは音楽仲間、Wl、H、JFはYYY機構の同僚、KeはBBB部長、VolはYYY機構の所長を表します。またSVはECの人。



ニューヨークへは夕方早く戻ったのだが、今晩メットで「パルシファル」を観るために体力をセーブする。ホテルのベッドで少しウトウトまどろみ、6時ころ着替えて外に出る。リンカーン・センターへ行く途中、例のブロマイド屋のショー・ウインドウをまた覗く。6年前に飾ってあったジェニー・リンド(約100年前のスウェーデンのソプラノ)のロケットはまだそこにあった。値段がよほど高いのだろうか。6年前150ドルの正札が付いて居たのが、今や正札は外されていた。またシャガールも同様。シャガールは死んだばかりだし、さぞかし値上がりしたのだろう。

舞台の周りの額縁の模様など、あっと言う間に昔のイメージが戻ってきた。第1幕の終わりに全体の3割くらいの観客から拍手が起きた。6年前は3800人の観客のうち1人も拍手した者は居なかった。ワーグナーの遺言を全員が承知していたのだろう。今やその伝統も崩れようとしている。幕間の休憩時間に階段を駆け上り、昔なじみのファミりー・サークル(天井桟敷)へ行ってみる。その高さから見下ろす舞台は100mも離れているような気がする。お金が無かった時代にこれで十分楽しんだのだ。もし再びニューヨークに長期滞在する機会があれば、やはりここへ通うだろう。高価な席で1回見るより、安い席で10回観た方が良いのではないかと思う。

次の幕間には劇場地下へ降りて歴代のメトロポリタンのプリマドンナ達の肖像画と再会した。少し入れ替わりがあったようだ。ロッテ・レーマンとかキルステン・フラグスタート等は指定席のままだが、以前なかってリューバ・ヴェリチの数多くのスケッチや写真が展示されていた。またレナータ・テバルディのものも同様に多い。そしてマリア・カラスの大きな肖像画が仲間入りした。2階のロビーにはニューヨーク市立博物館の協力とかでレナータ・テバルディのトスカ、シモン・ボッカネグラの衣装、そしてリチア・アルバネーゼの蝶々夫人の衣装が展示してあった。要するに、引退すると飾られるのである。

真夜中過ぎのリンカーン・センターを出て、コロンバス・サークル経由、8番街、7番街、ブローウエイと夜のニューヨークをそぞろ歩いてホテルに戻る。深夜のニューヨークだが、それほど危険な様子は感じられない。本当のところ、ニューヨークはニューヨークなりの生き方があって、それを守る限り特別危なくはないのだ、と思う。それに夜のニューヨークも以前より少し明るくなり、人通りも多くなったような気がする。ホテルではシャワーを浴びて即ベッドに飛び込む。ああ、くたびれた。

4/12(金)
通勤電車をハウストン・ストリートで降りた時は全く気が付かなかったのだが、YYY機構の正面エレベータの前で何とWlと一緒に乗っていたことに気がついた。帽子など被っていたから判らなかったのだ。
K「てっきり来週の月曜日まで全く会えないと思っていましたよ」
Wl「うん。でも君の講演のために予定を振り替えたんだよ。コーヒーを入れてくるからね。そのあとで例のNRRシンポジウムの話をしようか」
一昨年、Wl氏が日本を訪れた時、彼に第4回と第5回のNRRをどう企画するべきか考えておいて欲しいと依頼されていたのだ。僕が試案を作り、色々な人の意見をも入れて数回改訂したプランを持ってきた。彼にプログラム案のコピーを見せながら説明する。

K「要するに、今度は社会事象まで対象に含めようという訳です。一般にはXXRがダントツなんだから、もはや物理事象だけではカバーしきれない。だから”Socio-Phsical Aspects”というのを大看板にたてて特徴を出そうというわけ。だってカプリ島でECがXXRのセミナーをやったんだから同じものでは仕方がないでしょう」
Wl「確かにそれは新しいポイントだと思う」
K「確約はできませんけれど、できるだけ日本政府が一部資金を分担できるように探ってみたいと思います」
Wl「XXX機構が分担するわけ?」
K「いいえ。SSS省かAES機構ということになるでしょう」
Wl「なるほど。するとNRR のスポンサーとしてDOE、EC、日本のSSS省、その他と共催になるわけか。それもいいね。ところで、もう一つ問題があるんだが、ヒューストンでやったみたいに大きな会議一つに纏めてしまうのと、小さい会議を幾つもやるのと、どちらがいいと思う?」
K「4〜5年に一度の大きな会議を一回やるよりは小さくても毎年やる方がベターでしょう。何しろ変化が激しいから。アメリカだけじゃなく日本で開催したっていいんですよ。SS氏もその点は了解していますよ。但しプロシーディングの編集委員会だけは英語国民が担当した方がいいと思いますがね」
Wl「うん。編集委員会の件はそうだろう。でも、例えばね、日本でやる場合の運営委員会は日本の組織がして呉れるんだろうね」
K「もちろんです」
Wl「ECを抱き込みたいんだけど、ヨーロッパで開催するとしたら?」
K「それもOKです」
Wl「わかった。君の案のコピーをECのSV氏に送って相談してみる。あとでXXX機構に連絡するよ。実をいうと僕も11月ごろ日本に行けるかも知れないし、うまくすると6月にもね。そのうち連絡する」
そうこうしているうちに10時頃になったが、11時から講演会だから準備もあるだろう、ということでお開きにした。

11時直前にYYY機構講堂に行って見ると、いるわいるわ、こんなに大勢の聴衆が集まるとは思わなかった。演者席から見て右側の最前列にYYY機構所長のVol、左側にPPP部長のKeが陣取り、その後ろに各部の面々が並ぶ。Cにスライドのセットを頼み、即講演に取りかかる。
K「手元にある原稿は日本語のメモなので、この場で英語に直しながらお話します。図表だけは英語版のコピーを何セットか持って来たので特に欲しい人に差し上げます」
あちこちから手が挙がり、到底不足だった。かのJF氏も手をあげたのだが、そこまで渡らなかった。もっと沢山コピーを作っておけば良かった。
K「7年前、親しい友人であるKe氏とH氏に手ほどきを受けて○○の仕事を始め、…」
と本題に入る。以前のYYY機構滞在中に行った仕事の復習から始め、日本へ帰った後にどの用に改良を行い、どれだけの成果を挙げたかを順を追って説明した。詳細をここに記したら、数ページを追加することになるので省略。

K「最後に、最新の結果をご覧に入れましょう。これは来月、京都で開かれる日本の会議で発表するもの、そしてこっちは7月に東京で開かれる別のシンポジウムで発表するものです。従って日本国内では未発表で誰も見た人はおらず、あなた方が最初に見るんです」
と、とっておきの最新情報を披露した。せっかくこういう機会を作ってくれたのだから、それに答えるだけのことはせねばならぬ。講演後に質疑応答があったが、割にスマートにこなせたと思う。ジョークを混ぜて答えたら皆さん笑ってくれたから。自分の話している外国語が通じているかどうかをチェックするためには、ジョークを試すのに限ると思っている。やっと1時間の大演説を終えた。

Ke「K、ビューティフルだったよ」
とオブライエンが握手を求めてやってきた。昨年のベルリンでの発表はもっと短いものだったのに随分と時間をかけて準備した。しかし今回のニューヨーク講演はほとんどやっつけ仕事の準備しかしなかったのだが、結果的には今回の方が楽だった。慣れた場所だからだろうか。あるいは結果を出したばかりの余熱のせいか。実際の話、準備ができ過ぎていると、やや冷たい話し振りになる傾向があると、かねがね思っていたが、これで味をしめた。これからも日本語メモ方式で行こうか。これなら大した負担ににならないし、もっと気楽に講演の機会をつかめるだろう。完全主義を狙うと半年もの準備でくたびれます。ともかく良い気分だった。自分から外国に売り込んで自分一人のための講演会を開いて貰った人は、日本のXXX機構では他にいないと思う。

昼食時にCが再び僕の部屋にやってきて、これからWlと一緒に昼食に出よう、という。ついでにタワー・レコードに連れて行ってくれる、というのである。ウエスト・ハウストン通りからヴァリック通りへ折れ曲がる。道すがらまた音楽の話になる。

Wl「何かニューヨークで聴いた?」
K「パルシファルだけ」
Wl「僕なんか昔君がくれた「トスカ」に行って以来、メットには行ってないよ。トスカの切符の件は覚えているだろう?ほら、Glから回ったものさ」
C「Kはトスカは嫌いだそうだよ」
K「まあ、そんなこと言わなくてもいいのに」
C「ところでパルシファルはどうだったの?」
Wl「だれが歌ったんだい?」
K「ジョン・ヴィッカーズ。でもがっかりした。全く声を無くしていたもの」
C「もう年だものね。ところで食べるのを後にして、まずタワー・レコードへ行ってもいいか?」

(続く)


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