音楽のすすめ 第2章 第13話 H夫人に会う(’85-13)


(補足)
 赤字:2007年に新たに書いた部分
 黒字:1985年の日記からの引用

(2007年の加筆部分)ニューヨーク大学のH夫人は、元YYY機構所長だったHyの奥様ですが、夫君ともども有名人でした。そこにアクセスすることが任務でしたが、この結果は日本のXXX機構での仕事にも影響しました。

ここの終わり近くに、日米の建物構造の話が出て来ますが、考えてみればこれはオーディオ鑑賞にとって最重要なポイントではないでしょうか。しっかりと遮蔽された、ぶあつい壁に囲まれた構造の場合、よく声が響くのではないかと思います。でも、もし家の外側に広大な空間がある(田園とか森林とか)なら音漏れを気にする必要が全くない場合もあり得るのですね。ガッチリと遮蔽されたリスニングルームが良いか、それともアッケラカンと完全開放型のリスニングルームとどちらが良いのでしょうか。

これは欧風の家か和風の家かという問題みたいですし、実際またそう言う例が多いと思いますが、実は問題はもっと深い所にあります。完全密閉型が必ずしも完全な構造でないかも知れないということ。吸音材を詰めたり、反射板を置いたり、つまりレコーディングをする部屋みたいな構造をベストとするか、それとも全くオープンな構造か。色々なことを考える必要がありそうです。レコードでもCDでも録音された空間は殆どの場合、壁に囲まれています。物理的に考えると不十分かもしれない吸音材や反射板でも、そういうものを使って録音しているのが現実です。だからCDを聴く行為が、その時録音した環境を再現する、という風に考えるのだったら、分厚い遮音壁の部屋が欲しくなるのではないでしょうか。それに対して、およそ壁なんて存在しないような環境だったら、そこでは音は間違いなく広がりをもち、何にも邪魔されないで鳴ることができるでしょう。但し、そこで「音」と称しているものが大概はスタジオ録音されたものだってことを見過ごしているかも。つまり入力側の条件にメをつぶって、出力側のみ完全オープン環境といっているに過ぎません。勿論一部にはギリシャ悲劇をする野外劇場みたいな所で録音した例もありますから、いろいろ注意は必要です。それに、求めるものが「再現」でなく、「実演らしく」響くシミュレーションだっら、話は全然別です。

無限のお金を掛けられる幸せな境遇だったら、どちらの構造を選ぶでしょうか。結局は厚い壁環境を選ぶと私は思います。実際の生活を考えるとそれが最も精神衛生上、良い方向だと考えるからです。案外難しい問題を内包していますね。

そして1985年のニューヨーク、実はこのH夫人訪問が最大の目的でした。一部伏せましたが、大体このような内容の会見でした。そして私自身、一日中にかくも多い仕事をこなしたものだと、自ら感心しています。やはり昔は自分自身も若かったなあ、と思う次第。H夫人は堂々たる体躯をして、デンと動きそうもない女傑ですが、実はひょうきんさも備えた魅力ある女性です。偉ぶらず、今も親切にして呉れています。だからこそ、委員長席を長い間占めているのでしょう。



(以下は1985年より収録)ここでKは私、Cは音楽仲間、Wlも仲間、また「N」はH夫人の個人名、またCPはタイの同業者です。



彼らはタワー・レコードはなじみらしく、一本道のごとく道を曲がって進んで行くが、どうもCの言うバーゲン部門は閉鎖されたらしい。
K「これじゃ、前に見当たらなかったはずだ」
C「仕様がないなあ、どうする?正規販売部に入ってみるかい?」
3人連れ立って表玄関から入ると、入り口で持ちものを全部預けるシステムになっている。万引き防止のためだろう。荷物札をポケットに入れて、フリーハンドで階上に昇る。確かに大きなレコード店だ。古いコルベッツのレコード売り場よりずっと広くて、各ジャンルに仕分けしてある量が格段に多い。秋葉原の石丸電器だってこれと比べたらまるで子供だ。

当然、声楽のセクションに直行したが、日本では考えられないアストリッド・ヴァルナイと銘打ったヴァルナイのコーナーがある。すばり「アストリッド・ヴァルナイ」と銘打った2枚組のアルバムと、ビーチャム指揮の50年代はじめの「エレクトラ」全曲の実況録音盤がそのコーナーに収まっていた。作曲家別のコーナーではやはりヴァルナイ主演、カラヤン指揮ウイーンフィルの「エレクトラ」もあった。これは1964年のザルツブルク音楽祭の実況で、マルタ・メードルがクリテムネストラを歌っている。ミュンヘンでヴァルナイのクリテムネストラを聴く事ができたものの、何か彼女のエレクトラ役を歌ったものを聴きたいと思っていたので、即食指をそそられる。キャストから言えばメードル/ヴァルナイの母娘役が魅力的だが、1964年となると両人とも高音に衰えの見えてきた頃なのが気になる。ビーチャム盤の方はヴァルナイの声は万全だろうが、それを選んでしまうとメードルの悪女ぶりを聴く機会を失ってしまう。結局カラヤン盤をとり、また2枚組のアルバムも買った。でも、もうこれで予算一杯だ。もう少し金があったらなあ、と思わざるを得ない。

もう一人の女神であるフラグスタートのコーナーはついに見ずじまいに終わった。ふと壁をみるとフラグスタートのサイン入りのポートレートを売っているが値段がついてない。ヘレン・トロウベルのが80ドルぐらいだった。店内のスピーカーからはアルトの歌声が流れていたので、Cにあれはマリリン・ホーンだろうと言ったら分からないと言う。ホーンの歌は生でもレコードでも感心したことは稀だが、この時の歌はかなり優れたテクニックの持ち主であることを示していたと思う。あれは「サムソンとデリラ」かしら。ウエストミンスター盤(日本プレスだった!)のモーツアルトがあったので、Cに、このシリーズにウラッハのクラリネット五重奏曲があるんだ、と教える。

WlとCもかなりウワついていたが、結局両人とも何も買わず。そのままクラシックのコーナーを出て映画・ミュージカルのコーナーを通り抜ける。日本と同じく「ストリート・オブ・ファイヤー」とか「フット・ルース」が並ぶ。
C「どう思う、この店?」
K「素晴らしいね!」

レストラン探しにかかる。はじめ覗いた店は満席だったので次の店に決めた。グリニッチ・ヴィレッジの東端あたり。入り口に、当店のお客様にかぎりトイレの使用可、などと表示してあるのはやや興ざめ。パストラミ風のサンドイッチとミルクセーキみたいなのを頼む。Wlはアイスティーだったが、まるで小型のバケツみたいな大きな銅の容器で運ばれてきて、それを小さなグラスに移して飲む。変った飲み方だね、と言ったら、いやこれが普通なのさ、という答え。Cは例によって昼からビールを飲んでいる。この昼食はWlのおごりだと言う。
K「そりゃ悪いですね」
Wl「前に日本に行ったときKに世話になったもの。そのお返しの一部さ」
C「ところで2人で何か話し合っていたようだけど」
Wl「うん、NRRシンポジウムの件だよ。多分ヨーロッパで世話人会を開くだろうから、その時、KのボスのSS氏か、Kが来る事になるだろうね」
C「おやまあ」
彼はいつもの癖で、眉を少し上げて妙な顔をした。

食事を終えWlが支払いをしている間にCに頼み込む。
K「悪いけど、このレコードを僕の机の上に運んでくれないか。僕はこの足でH夫人の所に行くから」
C「いいとも。ところでHのディナーがあるから忘れないでね。Myも来る事になっているし」
K「もちろん。多分5時頃までにはYYY機構に戻れると思うけど。いずれにしても必ず戻るから待っていてくれ」

タワー・レコードの荷物を預けて身軽になり、そのままアスター・プラッツ駅に向う。H氏はバスを使え、と言っていたが、彼の呉れたバス・ルート・マップのコピーを良く見ると、どうも1番街550番地なんて所へ行くバスはないのだ。国連ビルから歩くとなると、ヘラルド・スクエアから歩くのと同じ距離になってしまうし。結局、地下鉄レキシントン線の33丁目で降り、1番街まで歩くことにした。この辺りはまともなニューヨークだから安心して歩ける。ニューヨーク大学の本部はグリニッチ・ヴィレッジのワシントン広場のそばだが、H夫人の勤務するセンターは国連ビルの並び、つまりイースト・リバー沿いにある。かなり大きなビルだから、見間違えることはない。3時の約束を厳格に守るつもりで前庭のベンチで15分ほど待つ。3時きっかりに玄関ホールのレセプション・カウンターでH夫人を呼び出して貰う。ガードマンは愛想よく話しかけてきた。

H夫人は正面奥の廊下から現れ、握手をかわす。
N「前にもお目にかかったことあるわね」
などと挨拶をかわしつつ、彼女のオフィスにある地下へ降りる。
N「何しろ広いでしょ。通路を間違えないようにするのも大変よ」
彼女のオフィスはまるで日本の大学や研究所みたいな雰囲気があった。つまり狭いし、いろいろな物がゴチャゴチャ詰まっていて、何かアメリカらしくない。椅子に腰をかけると、即討議に入った。この無駄のないやり方が僕は大好きである。雰囲気作りと称する世間話で長い時間を使うのは好きでない。まず日本で計画中のXXXサーベイの概要を説明した。
N「ともかく、全国サーベイをやるのは良いことよ。米国にはデータが無いの。だからカナダのデータを使っているわけ」

XXX機構で問題になっているTDX方式の測定器の話をしたところ、即座に話が帰ってきた。
N「TDXは問題のある会社よ。クオリティ・コントロールに問題があるの。Hy(ご主人。YYY機構の前所長)がTDXについて苦情を書いたレポートを出したんだけど、TDXでは怒っているの。TDXに言わせると自社製品の精度は1ヶ月あたりXXXXで、精度はプラスマイナス10%だと言うわけ。でも私達がYYY機構のRCを使ってチェックしてみると200〜300%ものバラツキがあるのよ」
彼女は具体的に測定例を挙げて説明を加えた。
N「だから」
と話を続ける。
N「もし、TDX製品を使うんなら、是非2つの点に注意なさいな。まず、必ずコントロールを用意すること、次に1つの容器中に2個以上のTDXフィルムを入れること。1つだけじゃダメよ。複数個で測って平均をとればバラツキの影響は押さえられるわ」
僕自身もコメントした。
K「TDXは計測結果の読み取り法を公開していないでしょう?企業秘密なんだろうけれど、いわば商業によって科学が左右されるのは望ましくないですね」

続いてTDX以外の方式についても話が出てきたので、YYY機構のAdのCCC方式についてコメントを求めた。
N「AdはCCCが好きよね。でも短期間で回収しなれればならないし、制約が多いし、処理が少し面倒な気がするし。でも、その精度については私としては何も言えないわ」
近い所にいる同業者としては言いにくい点もあるのだろう。逆に言えば、言葉を濁すと言うことは、彼女は否定的な意見を持っているということか。
N「肝心なことは目的よ。もし、絶対値そのものを知りたいのなら個々の計測器の精度が高いことが大切。予算の制約で計測器の数が少なくなってもね。でも、もし科学というよりRRXという発想でいくのなら、精度の悪さに目をつぶってでも計測例を増やす方がましだわ」
結局、TDX方式を採用するかどうかを最終的に決めるのはサーベイを立案する者自身である、という至極当然の結論となったのである。

さらに話は進み、日米の建築様式の違いについて話をした。ともかく米国のビルは壁が厚いから、と言ったところ、彼女はおかしそうに目をぐるぐる回して周囲を見渡した。なるほど、その部屋は日本並みにお粗末な構造だったのである。
N「今、ここの学生が新しい測定器を開発中なの。XXX用フィルムとTTXを同居させて同時に測ってしまおう、というわけ」
彼女は奥の部屋から小さな模型を持ってきて見せて呉れた。
N「これは、いわば展示用の模型なんだけど、学生が一生懸命製作中。何しろ人手がないでしょう?学生パワーに頼っているのよ」
大学は大体どこでもそうだ。大学院生なんて無給の研究員みたいなものだ。
K「XXX濃度とGMXレベルと言えば、ヨーロッパのペーパーに同時測定の比較グラフをみたことがありますが、驚くほど見事な相関があったんですよ。あれが本当なら、苦労してXXXを測らなくてもGMだけ測れば十分みたいな気がしますがね」
N「その論文はまだ読んでいないわ。でも、もしそれが英国のものだったら信用するわ」

約束の時間が来たので席を立とうとしたら、その前に、と言って
N「タイのCPをご存知でしょ。彼女去年の11月にまたニューヨークに来たの。それで、ついこの間もタイから国際電話を貰ったので、あなたが来るってことを知らせたわ。そしたらよろしく伝えてくれって頼まれたわ」

タイのCPは3年前にFA省のキモ入りでやった日本での会合で4週間も毎日顔を会わせた女性である。あとで綺麗なタイ・シルクのクッション・カバーを送って呉れた。
N「彼女の用事というのはね、タイでXXXを測っていたら、とんでんもなく高かったんですって。それが本物かどうかという点を相談してきたわけ」
K「タイの辺りの地域には凄く古いGNTがあるんです。たまたまそういう所で測れば高くてもおかしくないと思いますが」
N「やはりSGLの影響ね」
K「だからRRRをやる人も、もっとRKやSGLについて勉強する必要があるんですよ」
H夫人は自分自身が委員長を務める米国審議会の報告書を取り出してくれた。それはXXX機構で目下ゼミナールで輪講中のテキストだと告げると、今度はご主人のHy氏が委員長を務める米国委員会の報告書を出して、これをあなたの所にあとで郵送してあげる、と言ってくれた。ついでに、テキストの中で、我々のセミナールで不明だった点の質問もした。迷うといけないから、と言って帰り道も玄関まで送ってくれた。


(続く)


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