音楽のすすめ 第2章 第16話 1985年のエピローグ(’85-16)


(補足)
 赤字:2007年に新たに書いた部分
 黒字:1985年の日記からの引用

(2007年の加筆部分)ここでこの訪問記最後のオーディオ論議に花咲かせます。彼等というか、米国人の良くオーディオを知っている人々(自称でも可)がどの程度のものか、伺い知れます。現在の私みたいにおっかなびっくりでも自作する人は余りいません。Hのように「Hはフィッシャーしか知らないわよ」と言われる人が圧倒的です。自作までするのはJF位でしょうか。オーディオ好きといっても、私を含め、オーディオが好きなことは確かでも、生活を賭けてもとか、命を賭けてもというオーディオ狂ではありません。またそういう人々も広い米国のどこかにはいると思いますが、僕の知っている範囲内では見つかりませんでした。実に健全なのですよ。

ここで述べたように、Keの言葉「これからは星を眺め、花を愛で、写真を楽しみたい」というのは今や私自身の生活を表すようになりました。一見理想的なんですが、なかなかこれが難しい。もう働かなくても良いんだ、と言っても色々仕事が降り掛かります。お役所の某審査会の仕事、某研究機構の外部評価委員、時々ある外部セミナー講師等々。また知人からメールで時々入る各種問い合わせへの回答。今の程度の頻度なら問題は少ないのですが、いつまで体力がもつやら。体力と健康との戦いです。でも完全なフリー状態になったら、それもまた寂しいでしょう、というのが実情です。Keだって、引退宣言後の方がかえって各国を飛び回っていますが、あれだけ元気なんですから良いようなものの、やはり寿命も考えなくては、と思って悩む所です。Keはまだ翌年訪問した時にまだYYY機構に残っていました。

Keの後を継いだGHは世界中を飛び回っていますが、Keとは少し違う味わい。H、JF, PC, FE, Adなど殆どの人がYYY機構を去りましたし、Cはすっかり本来やりたかった仕事に熱中しています。お役所の管轄も代わり、EEE省でなくHS省の管轄になってしまいました。僕が第1回目の滞在を終えた時、彼等から貰ったHonorary Member として処す、と記した立派な縦も、今では思い出の品に仲間入り。私は良い時に行ったと思っております。私自身がそれまでに築いたネットワークをシャッフルして専門を変え、本来やりたかった仕事に専念するため新メンバー(今度はテキサスやフロリダが中心)のネットワークを築き直しましたが、その中に、たまたまH夫人の名前も含まれていたのが、むしろラッキーだったと言えますし、Keの後を継いだGHもそこに含まれるのもラッキーでした。

いかがでしょうか。かくして私の2度目のニューヨーク・ツア?は終わりました。なかなか海外旅費が認められないのですが、再度、再々度と、またまたニューヨークに行くことができました。音楽環境に限っても、ニューヨークでは様々な楽しみに会えますし、退屈するということがありません。それにオーディオが加わると、際限無くなります。ここではあまり私の職業が現れないように話題を選んだ積もりですが、それでも時々、職業が見え隠れしますね。ここには全体の約半分を此処に記しました。残りの半分はそれこそ職業そのものですから、避けましたし、それが正解だと考えております。




(以下は1985年より収録)ここでKは私、C、H、Al、AS、JFはそこの同僚、またKeはそこの部長、GHはこれからYYY機構に来る人、H夫人はニューヨーク大学の教授、KiとLは韓国人、MZは私の義兄を表します。




4月15日(月)
今回YYY機構に行くのは今日が最後。朝は色々と帰り支度で忙しい。著作物の別刷とか資料の数々をメール・ボックスに投げ込む。そこにCがやってきてどんな具合だと聞く。
C「今まで音楽の話は随分やったけど、仕事の話は余りしていないものね。君の今の仕事は何なの?」
K「個人としてはCO。プロジェクトとしてはTTXとXXX」
C「要するにINDか」
K「そう。FOもやるけど、それはいわば義務としてやるだけだね」
彼は、ドイツ滞在中に書いたペーパーがあるけど欲しいか?3部しかないので特に希望がある場合に限り呉れるというのだ。もちろん欲しい、と答えた。オレンジ色のカバーの掛かったのが2編あって、夫々の巻頭言が1ページほどドイツ語で書いてある。
K「これ、自分で書いたの?」
C「そうだよ」
K「いいや、このドイツ語さ」
C「ああそれは向こうの連中がやってくれたんだ」
K「そういえば君は、昔はCOLのRRもやっていたんじゃないのか?」
C「昔はね。その別刷も欲しいかい?」
貰えるものは何でも頂く。欲張って集めたものだから、大きなメール・ボックスもほぼ満タンになった。

ところで、とCは話をまたオーディオに戻す。
C「君は今どんなカートリッジを使っているの?」
K「普段使っているのはシュアーのV15typeIII」
C「それはかなり上等なものだな。それをどう思う?」
K「シュアーの一番いい所は、何でも安定してトレースしてくれることさ。本当に一番気に入っているのは英国デッカのマークVだよ」
C「デッカねえ」
K「何と言うか、芯があってエネルギーが詰まっている。一口で言うとブリリアントな音さ。君も気に入ると思うよ。ただ針圧が重たくてね、2.5グラムとか3グラムとか要るんだ」
C「そりゃ困る。僕は1グラムより重いのは使わない」
K「JFもデッカは好きだって言っていたよ」
デッカの良さ、そして難しさは使ったことのある人しか分かるまい。今日の昼はMyがやってくることになっているから、一緒にスシ・バーに行こう、と誘われていたのだが、昼直前にCが再度やってきて、Myが急用ができて来れなくなったと言う。そこで逆に僕がCとHを誘い出して近所にランチに行こうと言った。
H「どこに行くの?サンドイッチか?」
K「どこでも。場所だけ教えて呉れたら支払いは僕がする」
YYY機構ビルの真横にもコーヒー・ショップはあるのだが、そこはやめて、もう1ブロック離れたチェース・マンハッタン銀行の付近の店に3人で出かけた。3人ともサンドイッチをとる。また、前にWlが飲んでいた銅のバケツ入りのアイス・ティーをとってみた。

C「Kはニューヨークの朝食はどうしているの?」
K「ホテルの近所にハワード・ジョンソンがあるし。だいたいタイムズ・スクエアにはコーヒー・ショップやらファースト・フードの店は沢山あるだろ?」
C「マクドナルドなんかは余り好みじゃないな」
Hもこれにうなずく。僕はマクドナルドは2度入ったけれど、内容の割には割高だと思う。7年前、初めてYYY機構に出勤した時の昼食もやはりこの2人と一緒だった。あの時はスープ付きのサンドイッチで、Hが払ったことまで覚えている。そしてあの時オーディオの話を初めてやった。それがまた再現している。Cがリン・ソンデックのレコード・プレーヤーが欲しいという話をまた始めたからだ。
C「君だったら、どんなプレーヤーが欲しい?」
K「もし僕がお金持ちだったら、そうだな、ジャイロデック社のプレーヤーかな。アンプはラックスの管球式、スピーカーはタンノイのウエストミンスターというところ」
C「タンノイは落ち目だって聞いたけど」
K「いや、それは誤解だよ。15年くらい前にタンノイは一旦米国のハーマンカードン資本に買収されたんだよ。そのころ出たスピーカーには大した物がないんだ。ところが何年か前に米国資本から独立して以来、また良いものを作っている。僕の義兄MZのはタンノイの3番手のスピーカーを持っているし、別の友人もタンノイを使っている」
H「3番手ってどういう意味?」
K「1番手のモデルはウエストミンスター、2番手はGRFメモリーと言うんだ。義兄のはエディンバラ」
H「どうして"メモリー"なんて言うんだい?」
K「GRFというのはタンノイの創始者のイニシャルなんだけど、ご本人が死んだあとで見つかったメモを頼りに作ったスピーカーなんだ。それで"メモリー"と言うわけ」
C「やはり、本当にいい物はオリジナルの製品なんだよね。後続商品というのは決して最初のものを越えることができない」
K「そう言えばSMEのアームだって結局はオリジナルが復活したものね」
C「良い製品はそうやたらとモデル・チェンジするはずが無いんだ。だからこそ僕はリン・ソンデックが欲しいの。ところでさっき君がいったジャイロデックというのは聞いた事が無いけど、どこの製品だ?」
K「やはり英国製さ。割と新しいメーカーだけど。ふと感じるんだけど、日本で有名な製品が必ずしも米国では有名ではないみたいだね」

実際SMEもオルトフォンも殆ど知られていないだから。EMTなんて飛んでもない。
C「EMTって何?」
K「ドイツのメーカーさ。もの凄く高級なプレーヤーしか作らない」
C「全然知らないぜ」
K「一台1万ドルクラスだからね」
H「それじゃ知らなくても仕方がない。全然別世界のものだものね」
昔H夫人がHはフィッシャー(米国の大衆ブランド)しか知らないわよ(ここでH夫人とHは無関係です)、って言っていたのを思い出す。

さらに話は映画の話となり、日本製の「ゴジラ」まで話題に飛び出す。また以前タイムズ・スクエアに大きな看板が出ていたピンク・レディーも話題になる。
C「とにかく日本の歌手と言えばピンク・レディーしか知らないものね」
ピンク・レディーが米国のTV番組に登場したての頃、フラッシング時代にTVで見た事があるが、彼女達は殆どしゃべる台詞が無く、"Thank you"を5度繰り返した程度だった。あれで米国の芸能界を渡って行くのは大変だ。

C「YYY機構で色んな人から情報は得られたの?」
K「大いに!」
C「新人もいたろう?」
K「Alとかね」
C「彼は"Keの電卓"と呼ばれているんだよ」
Cは皮肉な笑いを浮かべる。どうやら真意は、AlはKeの従順なる子分ということらしい。
H「彼は理論しかやらないし」
K「NFなんて言っていたけど。でもNFは余り効かないじゃないの?」
H「その通り。NFはPPP学としては面白いが、YYY機構の仕事と言えるかどうか、怪しいものだ」
C「時々問題になるんだよ。彼の仕事は本当にYYY機構にとって必要かどうかって」
H「Keが彼にそれをやらせているからね。でもKeが居なくなったらどうなるか、僕は知らないぜ」
大変な話を聞いてしまった。Alには黙っておこう。Keは1986年度中に引退するのだ。

午後、部屋に戻ってから、また郵送物の整理をした。メール・ボックスに印刷してある通りに糊付けを試みたのだが、糊の乾燥が進んでいるらしく、全然くっつかない。こうなったら、キチンとガムテープで
舗装しないとダメだ。そこで、やっぱりCに後始末を頼むことにした。彼の部屋へ行って頼み込む。
K「C、やはりお願いするよ。荷物を何とか送ってくれ」
C「オーケー。それじゃ秘書に頼んじゃうよ」
かれはその箱を抱えて、秘書のAS嬢のところへ行き、送付方を頼み込んだ。ひょうきんなASは即座に引き受けて呉れた。
C「これで済んじゃった。引き受けた仕事を次の人にまたパスしただけでさ」
K「一番賢いやり方じゃないの?」

Keが僕の部屋に入って来た。
Ke「K、さようなら(farewell)を言いにきたよ。実は僕は来年早々に引退するつもりなんだ。でも僕はKのような人に会えてよかったと思っている。本当のところ、僕はもう都会の生活が嫌になったんだ。余生は田舎に引っ込んで、星を眺めたり、花を作ったり、写真をとったりして暮らしたいんだ。実をいうとニューヨークが嫌いなんだよ。だからこれからは田舎で自分のために生きたいと思っている」
僕はあっけに取られた。
Ke「でも、またいつか、どこかで会えると思うよ。一応ここでさようならを言うけどね」
本当にKeとはこれで最後になるのだろうか。

あれこれをしているうちに5時近くになったが、Cが顔を覗かしたので、一緒に帰る事にした。
K「本当いうと僕は帰国したくないんだ」
C「どうして?」
K「YYY機構とアメリカが好きだからさ。日本は故郷だから当然好きだけど、でも嫌いなところもあるんだよ」
C「どんな風に?」
K「日本の社会は契約の観念が薄いからね。僕にとって日本は好きで、かつ嫌いなところさ」
それはアンビバレンツ! PPP部の人々に別れの挨拶をし、握手をかわして回った。BBB部のJF氏は見当たらなかったので、Cに伝言を頼む。コンピュータ・ルームのPC女史は作業中だったが割り込んで挨拶をした。そしてエレベータ・ボーイやガードマン達にも。ハウストン・ストリートとハドソン・ストリートの交差点の角でCとも別れる。
K「元気でね。Myにもよろしく伝えてくれ」
C「必ず!」

明日の空港行きルートをあれこれ調べる、今日の昼食の時にも問題になったのだ。
H「明日はどうやってケネディ空港へ行くの?」
K「うん、それを考えているんだけど、ポートオーソリティへ行って空港行きバスを捕まえるか、タクシーを捕まえるか、迷っているんだよ。バスだと8ドルで済むし、乗り場も確かめてあるんだ。でも乗り場までの距離がちょっとあるから、大荷物を持つ身としては面倒だなと思う」
C「ホテルにリムジン・サービスは無いのか?大概あると思うよ」
K「うん。一応ホテルの売店で広告を見たんだけど。10ドル程度だったよ。ただし予約制でね」
C「それなら絶対リムジンの方が良いよ」
H「僕もそう思うね」
K「まあ、帰ってから予約してみるか」
結局、ホテルのロビーにあるギフトショップの所で、明朝のリムジン・サービスを予約して料金を払った。店員は乗車券を渡しながら、明朝8時半ごろにロビーで待っているように、と言う。メットの「リゴレット」を聴きたかったなあ。

4/16(火)
隣席の韓国人は若い世代だから日本語は全く話せず、従って会話は英語でやる。Kiという姓だが、ニューヨークで貿易をやっているという。元々カトリックの神父になるつもりで教育を受けたのだそうだ。その間にラテン語を少し習ったという。一時期、音楽もやっていたが韓国では音楽家になるのは女々しいという偏見があって断念したそうだ。それで米国へ渡ってビジネスを始めたという。Kiの子供達はニューヨーク生まれだから英語が達者だが、母国語がダメになっていると言う。

スチュワーデスが飲み物のサービスを始めた時、僕がマティニを頼んだら、彼もマティニを注文。彼がおごると言う。その次にサービスが回って来た時は僕がおごった。もう一度繰り返しがあり、マティニをたて続けに飲むはめになった。かつて僕はマティニが余り好きではなかったが、最近になって飲めるようになった。アメリカ人はマティニを最も好むという。お隣さんはマティニの中に浸してあるオリーブが特に好き、といい、スチュワーデスに自分のには特別オリーブを沢山つけて欲しいと言う。通常の3倍ものオリーブを串刺しにしたマティニを見ておかしくなり、僕のオリーブも進呈した。韓国人と酒を飲む時に気をつけなければならないのは、彼等は一人では決して飲もうとしないが、相手がいれば徹底してつき合う。従ってこちらが切り上げないと際限無くなると言う。だから、この時はこれでマティニは打ち止め。このことは以前に韓国の医者Lから伝授されたコツである。

(1985年はここで終了。次回から1986年分が始まります)





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