音楽のすすめ 第2章 第19話 トリスタンとイゾルデ(’86-3)


(補足)
 赤字:2007年に新たに書いた部分
 黒字:1986年の日記からの引用

(2007年の加筆部分)このようにして彼等は生活をエンジョイしています。ここでは日本で「トリスタンとイゾルデ」を聴いた時の話が出てきますが、実は大変な努力をしました。それは日本では電車で聴きに行き、電車で戻る必要があるのに、終電車が早いことです。これがニューヨークみたいに常に終夜運転していれば問題は無いのですが、最終電車を逃したら日本では悲劇です。この「トリスタンとイゾルデ」の際は、まず山の手線の品川回りで行ってNHKホールまでの徒歩での時間を測り、そしてそのまま代々木まで歩いて行って、そこまでの時間を測りました。結果的に代々木回りの方が少し短い時間でした。そこで代々木駅発千葉県津田沼までの切符を買って置きました。それからNHKホールまで何喰わぬ顔をして戻ったのです。終了時には急いで(というより飛ぶような速さで小走りに走って)代々木に行き、新宿からくる電車に乗ってお茶の水に、お茶の水では再び千葉方面行きに乗り換えましたが、それが最終電車でした。津田沼から新京成線に乗り換えて間に合いましたが、もし間に合わなかった場合は40分歩いて帰るつもりでした。「トリスタンとイゾルデ」のような長大な曲では、こういう注意が必要です。マチネーがあればその方を選ぶようにもなります。でも一般的にマチネーでは一線級の歌手は出演が難しいかも知れません。

「トリスタンとイゾルデ」のような曲でも、これでは楽しみ切れませんね。これでは終了時のカーテン・コールにも付き合え切れませんから、次回からは渋谷のホテルを取って聴かなけりゃなるまい、と思いました。本当に長い余韻を楽しむためにはそれらの条件整備が必要です。そうしないと折角のオペラも時計が気になって仕方がありません。どちらかと言うと上野の文化会館の方が歓迎です。あそこならギリギリでも間に合います。NHKホールと書いてある場合は注意しなければなりません。いわんや、現在のように千葉県の片隅の海岸に引っ越してしまうと、もう文化果つる所(自分でもこう言うのは失礼だと思いますが)ですから、上野でもどこも夜間の鑑賞は宿泊抜きには不可能になりました。ニューヨークでは電車が動くからいいものの、ベビーシッターのことを考えるとやはり不安が残ります。子育てが済むまで我慢しなさいってことでしょうか(ニューヨークには条例があって、ベビーシッター抜きに幼児を置いて親が遊び歩いていたら罰せられます)。ロンドンだったら、大概宿泊先が安いストランド・パレス・ホテルですから、オペラハウスのあるコヴェント・ガーデンから歩いて帰れます。ミュージカルの場合は時間が短いから(子供が居なければ)余り時刻を気にすることはありません。いやはや、オペラを楽しむのも、大変です。様々なインフラストラクチャが揃わないと!

そして「トリスタンとイゾルデ」の上演が始まってしまうと、それは素晴らしい夢幻的な世界でした。ただ、この時ギネス・ジョーンズがイゾルデを歌いましたが、あのアフロ・ヘアみたいな髪型が気になり、あれ何とかならないかなあ、と思った次第です。声は抜群に大きい。ニルソン以上、と古い日記に書いてありました。




(以下は1986年より収録)ここでKは僕、Cは友人、Myはその夫人を表します。またKMはYYY機構の友人、TSは日本のGGG機構の人。




K「僕は6日前に『トリスタンとイゾルデ』を舞台で見たんだ。丁度日本にウイーン国立オペラが引っ越し公演していたんだよ。ウイーン・フィルから合唱団まで含めて400人もさ」
C「何をやったんだ?」
K「マノン・レスコー、フィガロの結婚、トリスタン、そして薔薇の騎士」
C「2番目と4番目に興味があるね」
K「でもトリスタンはよかったよ。ボーッとした。10月にはロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場も引っ越し公演するし」
C「そっちは何をする?」
K「トウーランドット、カルメン、それから…」
C「カルメンは誰がやるの?」
K「アグネス・バルツア」
C「おや、それはいつかメットの『薔薇の騎士』で聴いた人だ。あれは良かった」
K「オクタヴィアンを歌ったんだろう?あとはコジ・ファン・トウッテにキリ・テ・カナワが出て、それからサン・サーンスのサムソンとデリラ」
C「サムソンとデリラか。バッカナーレの部分ならCDで持っている」

早速メリディアンのCDプレーヤーでバッカナーレを聴くことになった。妖し気な舞踏音楽が家中に鳴り響く。Myが台所から顔を覗かしてオリエンタル・ダンス風に腰をくねらす。

僕はダルキストの正面の最上席に座ったのだが、そばの小椅子にディッケンズのデヴィッド・カッパフィールドが置いてあった。背中側の本棚に目を走らせるとアメリカ人の家にしては珍しく古典が多い。フランクのヴァイオリン・ソナタをリクエストしたのだが、テープしか持っていないという。
C「君はいつも変ったものを注文するんだから。フランクと言うとどうも交響曲を連想するんだけど、あれを君はどう思う?」
K「シンフォニーの方はどうもとりとめが無くて。ヴァイオリン・ソナタの方は前は全然興味なかったんだけれど、約1年前からすっかり気に入って、今や最も好きな音楽の一つなんだ」

続いてドビュッシーの「海」の出だしの部分をスラットキン指揮のセントルイス響で、続いてラヴェルの「ラ・ヴァルス」をオザワで。
C「僕は以前はオザワが好きだったけれど今じゃ興味ない」
確かに、そこに響いた音楽はデリカシーがどうかな、と思われるものだった。
C「本当に上等のプレーヤーで掛ければLPはCDに負けないと思う」
K「ただ針がちびちゃうから。針の寿命は200時間位だろう」
C「いいや、十分気をつけていれば針の交換の必要はない。2,000時間でも3,000時間でも持つ」
K「僕なんか毎年交換するけどね」

8時頃、チェスターの中華料理店に行くことにした。その店ではアルコール類を扱っていないから、と言って赤ワインを1本持ち込む。前菜の他には3皿とって3人で分け合うことにした。食事の場で裏話が披露された。
C「僕はKは他の日本人達と一緒にいるつもりなんだろうか、と思って、もし招くなら皆招かなくちゃいけないのかな、と思っていたんだ。あるいは誰も招かないかだとね。でも皆別々の予定だったから、君だけを招いたのだ」
K「有り難く思っている」
M「Cは気がついていたのよ。Kを招いた時、Kは最高に嬉しそうな顔をしていたそうよ。でも」
Myは心配そうな顔をする。
M「Kは大丈夫?日本に帰ってからまずいんじゃないの?」
K「いいや。だって誰もウソはついていないよ。全部本当だもの」
My「でも気になるわ」
K「これもストラテジーなんだよ」
皆で笑い出す。

C「他の人達は日本語で話していたけど。彼等はあのワークショップのために来たの?」
K「うん。ワークショップとACSミーティングのために自費で来たんだ」
C「自費だって?皆グラントをとって(出張旅費を認められて)来たんだと思ってたよ」
K「グラントを取ったのは僕だけさ。彼は失敗したんだ」
My「ほら、見てご覧なさい。皆分かっているのよ。だってKは2年連続でグラントを取ったんでしょう?連続なんて例外的なんでしょう?」
K「3回目はダメだと思うよ」
My「でもKはグラントをとっているじゃないの」
K「Myの言うストラテジーさ。部長室の扉にグラントの公告が貼ってあったんだ。そこで部長がそこに居る時を狙って、皆にこのグラントに応募したい、って言ったんだ。部長の前じゃ誰も勝手なことはできないからね。それが成功したんだよ」

K「どうせ一年間で大成功するわけないんだから、むしろ現地の人々とのコミュニケーションに努めた方が得だと思うんだけどね。あとで大きな利益が得られると思う」
C「そう思うんだけれど、人によりけり」
K「実は昨日、KMとTSに関する話をしたんだけど、KMはもう少し遠慮深い表現をしていた。日本人はシャイだって」
My「C、あんたが上品でないのよ」
C「僕はドイツに2回いったんだけど、皆と一緒にコーヒーを飲んだり、おしゃべりしたり、コンサートへ言ったり美術館へ行ったり、丁度君がやっているような生活を楽しんだよ。」

駐在員の多くが日本の本社の方にばかり顔を向けて仕事をするのに似ている。アメリカのように属地主義の国ではアメリカに居る間はアメリカ人だという原則。アメリカで産まれれば両親が旅行者だろうと、何国人だろうと産まれた赤ん坊はアメリカ国籍となり、徴兵制の発動時はたとえ旅行中の外国人でも米国兵として徴兵の対象になる可能性もあろう国なのだ。

家に戻るとMyがニュースを見ようと言ってテレビのスイッチを入れる。
My「ガダフィは、まだ生きているのかしら」
彼女はリビアの戦闘のことで興奮しているようだ。
My「アメリカの施設を襲ったのはフランス製武器なのよ。フランスはリビアに武器を売ったんだわ」
K「世界中どこにでも、儲けるためには何でも売る商人はいるからね」
My「本当を言うと日本も若干責任があるのよ。殆どの西側の国の企業はリビアから撤退したのに、日本企業はまだ残っているわ。私の銀行の記録で分かるのよ。それにしてもフランスときたら。私もうフランス製品は買わないわよ。フランスは戦後マーシャル・プランであれほどアメリカの援助を受けていながら恩知らずなんだから」
そう言うのは余りに単純すぎる発想だと思うが、市井のアメリカ人の感情なのだろう。テレビの画面は予言者のようなカダフィ大佐の顔を大写しにしている。

おしゃべりを続け、Cの眠たそうな顔をみて、12時頃に寝室に昇ることにした。Cはあれこれ説明する。
C「もしレコードやCDが聴きたくなったら勝手に操作してくれ。テレビが見たかったらスイッチはこれ。コーヒーやビールが飲みたかったら、冷蔵庫なりヒーターなり御自由にどうぞ」
K「有り難う。でも多分明朝遅くまで起きられないだろうと思うよ」

(続く)


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