音楽のすすめ 第2章 第20話 神々のたそがれ(’86-4)


(補足)
 赤字:2007年に新たに書いた部分
 黒字:1986年の日記からの引用

(2007年の加筆部分)楽劇「神々のたそがれ」に含まれる『ジークフリートの葬送』を、一人で鑑賞すると何か悪いことが起きる、というジンクスをいつの頃から意識し始めたのでしょうか。無理して聴かなくても済むなら避け、誰かが一緒に聴いて居る時にのみ、その部分を聴いております。長大な楽劇「ニーベルンクの指輪」全体像を描くことが難しかった時代から聴いてきたせいか、各構成要素をどう捉えたらよいのかは、悩む所です。平たく言うと、4部作の中で最も優れた部分はどこか?を考えてみて下さい。やはり「ワルキューレ」じゃないでしょうか。あの、むせ返るようにロマンチックな第一幕、開始を告げる豪快な第ニ幕、そして圧倒的な迫力を備えた第3幕終幕部。だいたい、「ワルキューレ」の抜粋を友人達に聴かせようとして選ぶときはこれらから選びます。これだけでも十分に完結した音楽では?これに色々付け加えた「ニーベルンクの指輪」全体はやや長過ぎますし、散漫な印象も避けられまいと、正直なところ、感じています。「ワルキューレ」は第1話(「音楽のすすめ」の第一話<ワルキューレの雄叫び>)で取り上げた曲ですが、もともと私はショルティ盤でこれに親しみました。それとの比較において、例えばワルターの第一幕盤は素晴らしいな、とか、ジークリンデ役として、個性的なヴァルナイが、メードルが、フラグスタートが、そして何年の録音のものが、という楽しくも悩ましい思いに耽るわけです。またブリュンヒルデが全体に占める役割は「ワルキューレ」では余り大きくない、と感じています。そして第二幕冒頭のホ・ヨ・ト・ホで聴かせるビルギット・ニルソンの凄まじい高音がもっともショッキング。私はテノールに冷淡ですので「ジークフリート」には余りこだわらず、鍛冶屋歌を精力的に歌う場面は凄いな、と思う程度。それが「神々のたそがれ」になりますと、ブリュンヒルデが主役だと思います。ライン河の旅に出掛けるジークフリートとの別れの場面の後半で盛り上がる所、あそこはゾクゾクします。それもヴァルナイの歌唱で。ニルソンでは私にはアピールしません(少なくとも両者のCDを比較すると)。でもフラグスタートのブリュンヒルデを実際に舞台で聴いてみたかったですね。こればかりは実際に舞台で聴いてみないと何とも断言できないと思います。

ジークフリートの葬送曲を聴くにあたり、Cは私に、実に気を使ってくれました。感謝しています。でも毎日のように「神々のたそがれ」のような曲を聴いて暮らすと、人世が暗くなりそうです。やはり「ニュルンベルクの名歌手」のような曲こそ、日常的に楽しむには相応しい!そういう意味ではCに賛成です。





(以下は1986年より収録)ここでKは私、Cは友人、Myはその夫人を表します。




4/19(土)
朝7時頃までぐっすり寝た。ベッドサイドをあらためて見ると、さりげなくシャーロック・ホームズ全集の一冊が置いてある。ちょっと開いて目を走らせると『唇のねじれた男』だということが分かった。今朝は家の居間の石段を直すための見積もりが、早朝に来るはずだと言っていた。庭からは既に人声が聞こえる。8時ごろゆっくりと下に降りると、C&My夫妻はコーヒーを入れていたが、僕にも用意してくれた。

庭に出てゆったりと日光浴を楽しむ。機能までの雨天がうそみたいに見事な太陽だ。庭先に住み込んでいる野生のリスがウロウロしている。
C「あのしだれ桜はこのお天気なら明日にも咲くんじゃないかな。もう寒さが戻ってこないことを願うよ」
アザレアもつぼみをつけているが、何もかも準備中という風情だ。
C「夏になるとあのあたりは花だらけになるんだ。ここに初めて引っ越した頃はびっくりするような花模様だったよ」

やがてカーペットの見積もり、石材の見積もり、と来客が絶えない。
C「古い家を買うか、新しい家を買うかという点で天秤に掛けると、古い家の方がベターだよ。起きるべきトラブルは大概は既に起きていて、どこを直すべきかはっきりしているから。新しい家だと、どうなるか分からないだろう?庭木だって新たに植えたら何100ドルもするけど、古い庭なら植木も十分大きくなっているものね」
My「ブルックリンのアパートを売る時はあちこちペンキを塗ったり、詰め物をしたりして、良さそうな物件に見せたの」
K「それは全く誰でもやっていることだよ」
キツネとタヌキの化かし合いだ。
K「今頃アパートは崩壊しているんじゃないだろうね」
彼等はあの立派なアパートを16万ドルで売ったという。それでも残金は30年賦で返すのだと言う。
C「Kは我々がこの家を現金で買ったと思っていたの?とんでもない。30年も掛けて払うんだよ。でもその内に金の価値がなくなるから借りた方が有利なんだ」
My「これもストラテジー」

昼過ぎに帰りの列車の時刻表を調べて欲しいと頼んだら、特に用事が無ければ今晩も泊まって行けと言う。Myが台所を調べたら自分の作ったロースト・ポークがあるから、これで食事しようと言う。
C「今晩は映画を見ようと思うんだ。レンタルのビデオ・テープを借りて一緒に見ようよ。そして明日はガレージ・セールを覗いたり、オークションに参加してみないか」
居間にあるテレビはソニー製の巨大なスクリーンのもの。これも去年買い替えたという。古い方のテレビは2階に持って行ったと言うが、僕の部屋に置いてあるのがそれだろう。
C「映画館に行くと一人4ドルはするだろう?レンタル・ビデオも4ドルだけど2人で見れば1人2ドルだから、いつもビデオを借りるんだ。日曜には放送の録画にいそしむけどね」
K「僕なんかまだビデオ・デッキを持っていない。日本じゃ少しづつ8mmビデオが普及しているが」
C「僕もいずれは8mmビデオを手に入れたいと思っている」

皆でマツダの車でチェスターのショッピング・センターまで買物をしに行く。
C「そのうち車もスバルに替えるつもりなんだ。スバルの日本でも評判はどうだい?」
そう言われても車のことは知らない。ビデオ屋に入る。
C「Kは何を見たい?」
K「英語の問題があるからね。あまりソフィスティケイトされていない映画の方がいい」
C「活劇とか?」
Cはカンボジアを舞台にしたシリアスなものを考えていたらしいが、Myが止めた。結局"Vacation in Europe"というコメディーを借りることにする。続いて去年とは違うクリーニング屋に入ったのだが、Myが古い方のクリーニング屋と争った(オリジナルにはbig fightをした)ばかりなのだそうだ。絹のドレスが上下に分かれていて、スカートの方がプリーツが多いので特別料金が必要なんだが、古い店では上下両方に特別料金をかけようとしたと言う。
My「両方とも同じ経営者なのよ。どうしてこう違うのかしら」

今度はCと2人で隣の電器屋(ラジオ・シャーク)に入り、ビデオ・デッキとオーディオ・アンプを結ぶ為の込み入ったコードを買う。さらに酒屋に入り、ワイン、ビール、ウイスキーを山のように買う。Cはジョニ赤を3本も仕入れていた。僕は'78年の赤ワインを勧めた。合計70数ドルも払っていた。
K「いつも、こんなにアルコールを買うの?」
C「いいや。週末の晩をゆっくり映画を見たり、音楽を聴いたりするための小道具さ」

側にレコード屋があった。
C「ここは大したものは無いけどね」
と言いつつ、入ってしまう。
C「多分、マンハッタンの安売り屋に行った方がもう少し安くなると思うよ。でもここにしか置いて無いものにぶつかった時は買った方がいいわけだ。何か探してみろよ」
カルロス・クライバーの指揮したブラームスの第4交響曲のCDをみつけ、これを指差してCにささやく。
K「これは凄いCDだぜ。僕のお気に入りのひとつ」
C「同じものを持っているのかい?」
彼は一旦は手にしたものの、いつの間にか戻してしまった。エディタ・グルベローヴァのアリア集のCDを見つけたので、昨晩TVで聴いた歌手だと教える。結局、フリッツ・ライナーがシカゴ交響楽団を指揮したワーグナーのCDをみつけ、それを買うことにした。
C「どうせ買うなら、僕の為に買ってくれたら?10枚買うと1枚おまけがつく。僕はまだ7枚しか買っていないんでね」
K「金を渡しておくよ」
C「今じゃまずい。あとにしてくれ」
彼は自分の財布から払って、自分のものとして買う。車に乗り込みながら、冗談を言う。
C「あとで、おまけのCDの10分の1だけ、日本に送ってあげる」

家に帰る途中、近所の(とは言っても、何もかも離れているが)家でガレージ・セールをやっている広告を見つけ、それを覗く。太った夫婦とその母親らしい3人がのんびりと日光浴をしつつお客を待っている。広い前庭には馬が一頭放し飼いにしてあり、くねくねした形のプールもついている。そこの主人に挨拶をしてから早速商品の吟味に取りかかる。Myが自分の甥のために幼児服を3着、僕はショルダー・バッグを7.5ドルで買う。
K「弁当入れに丁度いい大きさだ。僕は毎日ランチを持って行くからね」

ここの主人は貿易商でもやっているらしく、やや商売用の売れ残りの匂いがするものも積み上げてある。台所用品なぞは全くのガラクタだ。Myは厚手の布地を眺めつ透かしつして眺めている。草花のような模様のついたドレープ地の大きな布である。結局、大・小2種類あったうち、小さい方を見本に借りて自宅で実際に家具にあててみてから買うかどうかを決めることになった。本革のハンドバッグもあって上等そうだったが、留め具が壊れていた。またミノルタの双眼鏡が20ドルで出ていた。

家に帰り着くとCとMyはあれこれ意見を戦わせていた。
C「何となくダッチ・カントリーで使いそうな柄みたいだと思うよ」
My「そうかも知れないけど、この部屋には合うと思うわ。Kはどう思う?」
K「僕は好きだよ。華やかだし。何か家の中に植物でも置いてあるみたいじゃないか」
My「この背もたれ椅子は私の友達がプレゼントして呉れたの。いいものだけど、ただこの色と柄が嫌いなので(青色)、今の所はこんなレースを掛けて使っているの。ここにこの布地を掛けたいわ。ほらC、ご覧なさいな。よく映えるわよ」
ここまでくるとCに勝ち目は無い。あっという間にこれを買うことになり、かつ同柄の大きい方を買うことに決まった。
M「小切手帳を頂戴」
Cから小切手帳を受け取り、Myが一人でガレッジ・セールの家まで出かけて行く。

しばらくして彼女は大きな布地を両手に抱えて帰って来た。
My「ほらいい模様でしょ?」
C「ダッチ・カントリー風だがな」
どうやらダッチ・カントリー風とは古いとか、田舎じみてる、ということらしい。
My「あそこの家もそれほど立派じゃないわね。ちょっと中に入ってみたけど内部はゴタゴタしていたわ」
C「僕もそう思った。特に立派でも何でもない。大体が裏庭がないだろう?あんなに丘が迫っているし。何でもかも全部表側に持ってきているもの」
二人とも家のこととなると熱心なようだ。

My「何か飲む?私は赤ワインだわ」
C「僕はウイスキー。Kは?」
K「白ワインが好きだけど、夕食時にワインを飲むだろう?」
C「それじゃビールにしよう。ただし大きな瓶は飲めないぜ」
My「小さいグラスに注いであげる」
C「今日買って来たワーグナーのCDでも聴いてみないか?僕はちょっと小切手の整理とか事務的な用事を片付けたいんで、そばの机で仕事をするけど、その間勝手に聴いていて呉れ。僕のことは気にしないでいいから」
そう言いながら、余り仕事には身がはいらないようだ。今週の小切手の支払いが予想外に多かったらしく、ぼやいている。CDのセットは全部Cがやってくれた。
C「ワーグナーねえ。君とは趣味が違うねえ」
最初はマイスタージンガーの序曲だった。さっそうとした指揮ぶりだったし、ぶ厚い響きは心地良かった。
K「これはモノーラルだろうか、ステレオだろうか」
C「1960年というからステレオ初期だろう」
彼はワーグナーを嫌いだと言っているくせに、両手を大きく振って指揮のまねをやっている。仕事なんかそっちのけだ。
C「これだけは好きな曲なんだよ」
などと言う。
C「ほら、ここのところ全くワーグナー臭くない。別人の曲みたいだろう?だから良いんだ」
K「マイスタージンガーは喜劇だし、ハ長調だから」
C「それくらいは知っている。でも少し前にラジオを聴いていたら全くつまらない交響曲が掛かっていたんだ。ベートーベン風なんだが、僕の知っているベートーベンのどの曲でもない。ワーグナーのシンフォニーだったんだよ」
K「彼がシンフォニーなんか書いたかね。聴いたことがない」
C「僕はベートーベンの方が好きだけど君は嫌いだろう?」
K「とんでもない、ベートーベンは好きさ。でもベートーベンとワーグナーじゃ指向するものが全く違うよ。例えば病人のことを考えてごらん。どちらも救済されることを願っているんだが、ベートーベンは病気が完治することで救済されたいと望んでいる。ところがワーグナーは」
C「死ぬことで苦しみから逃れることを願うんだろう?死の讃歌だよ」
K「この最後の曲が問題だ。『神々のたそがれ』のジークフリートの葬送曲なんだけど、これを一人で聴くと何か悪いことが起こるんだ。縁起の悪い曲なので、今までこれを一人では聴かないように注意して来た」
C「オーケー。そこのところになったら飛ばしてしまおう。My、最後の曲はカットしてくれないか」
K「今は一人じゃないから大丈夫さ」
C「いや。君に悪運の曲なんか聴かせたくない」
K「大丈夫だったら」
C「My、そこは切ってくれ。Kは死の音楽を聴きたがっているんだから」

「神々のたそがれ」の『ジークフリートのラインの旅』が演奏されている間、押し問答があったが、Myは台所へ出て行ってしまう。結局、葬送曲は鳴り始めてしまう。Cは明らかに機嫌が悪い。Myは席に戻ってきた。じっと側で聴いていたが、曲が終わると一言いう。
M「フム、悪くはないわ」

Cのことも考え、ひとことささやく。
K「C、君には何も悪いことは起きないさ。もし起こるとしても僕自身に対してなんだから。それに一人で聴いたんじゃないし」
C「もう一度聴こう」
M「神々のたそがれを?」
C「いや、マイスタージンガーを」
再び堂々たる「ニュルンベルクの名歌手」序曲が鳴り響く。
K「僕がどうしてこの曲が好きかっていうとね、これは大学の入学式と卒業式の時に学生オーケストラが必ず演奏する伝統になっているんだ。僕は受験勉強時代に音楽を締め出していたから、久しぶりに聴いた最初の音楽がこのマイスタージンガー序曲だったんだよ。天国的だったね」
(続く)


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