音楽のすすめ 第2章 第23話 グレース・バンブリーの声(’86-7)


(補足)
 赤字:2007年に新たに書いた部分
 黒字:1986年の日記からの引用

(2007年の加筆部分)久しぶりのメットの光景。ここ行くと何か故郷に戻った気分です。まずはリンカーン・センターに地下鉄で着いた時、地下道の○○臭い所を通って、地下街に出ますが、ここにトイレがあります。使えるトイレですから覚えておくと便利。地下街にはCDショップもありますし、スナックとかもあります。ここからエイブリー・フィッシャー・ホールへ行く道と、メトロポリタン歌劇場へ行く道等に別れます。あるいは地上からですと8番街を通り、自動車ショーの会場を通り抜けてリンカーン・センターの大広場に出るか、ですが、案外遠い。夜中に急ぐ場合はどうしょうか、と実際悩むところ。

メット左手にはギフトショップがあります。ここは何でも少し高いので、慣れた人は敬遠するところ。ギフトショプでしか買えないか、ギフトショップで最も多く売られる商品なら魅力があります。例えばヴェルディ「オテロ」冒頭で出てくるハンカチ、あるいはシュトラウス「薔薇の騎士」の銀の薔薇。またワーグナー好きだったらば、「ニーベルンクの指輪」の各場面を表す美しい4枚の焼き物の絵皿。これは欲しかった。行く度に眺めつ、透かしつしていましたが、最終的に諦めたのは極最近になってから。あとは他の店にもありますが楽譜やCDや本の、めぼしいもの。私はカルショウの2つ目の自伝本をここで買いました。その為に海外旅行用のカバンは始めから大きめのものを持っていきます。何となく宝塚の売り場をうろつくような気分ですから、少し恥ずかしい。

米国ではめぼしいCDショップ等ではスター歌手のブロマイド写真をも売っています。サイン付きのもの、サイン無しのもの等々。彼女(彼)等の出るビデオの類いも。でもこういう店ではあっと言う間に時間が経ちますから、コンサート等の始まる時刻に遅れないように気をつけないと。カーネギー・ホールでも同様だったような気がしますが、はっきりしません。






(以下は1986年より収録)ここでKは僕、Cは友人、Myはその夫人、Ir、JG、WlはYYY機構の同僚、Keはそこの部長を表します。







Myがクロワッサンでパストラミ・サンドイッチを作って運んで来た。庭先のテーブルを囲んでランチをとる。金曜日の晩に買ったばかりのサクランボのジャムを少しつけると実においしい。ピクルスをつまみながら、
K「僕はピクルスが好きなんだが、ERS氏はピクルスとか漬け物は一切ダメなんだ。彼はそういうものには決して口をつけない」
My「彼は自らピクルス(困った人)だからよ」
ついでに彼女の姉のことを話してくれる。
My「私の姉なんか本当に貧乏なの。いい年をして十代のような着物を来て、無計画にお金を使うのよ。それでお金を借りたいなんて言うから、断っているの。計画性がなくて愚かだと思うわ」
ふと話題が変る。
My「昨日の映画はすごく各国を典型的に見せていたでしょう?あのイタリアのところがおかしくて」
C「イタリアはヘンテコリンなデザインが多いからな」
M「イタリアのプラスティックのお皿を見せてあげるわ。超モダーンなのよ」
Myはオブジェみたいな食器類を持って来た。

午後Cが除草剤を散布するために車のついた台を組立てるのを手伝う。
My「私たち子供がいないから、週末は時刻で動かなくなっちゃうの。子供がいたらもっと規則的にしないとね。Kが子供達を連れて来たらもっとキチンとするわよ」
C「もし君さえよければ、明日我々と一緒にニューヨークに戻ってもいいんだよ」
K「有り難う。でも着替えがないからね。今日の内に戻らないと」
C「初めに着替えの件を注意しとけばよかったな」

列車の時刻を調べ、残り時間を利用してMyと一緒に林の中の小川に行き、再びペニー小銭を投げ込んだ。グラッドストンーン駅まで送って貰い、サミット駅で乗り継ぎ、マンハッタン33丁目まで戻ったのは、4時ごろだった。メーシーで若干の買物を済ませ、歩いてホテルに戻る。すっかり暖かい季節になった。日曜のテレビの日本語プログラムでは木の実ナナの番組を放送していた。

4/21(月)
今朝Ir嬢と再会する。
Ir「ハーバードへ行っていたの」
K「短期コースを教えにかい?」
Ir「ええ。でも私はちょっとお手伝いしただけ。大学で教えるのは名誉なことだから奨励されているの」
K「日本じゃ兼任は難しいけどね」
Ir「ここでも謝礼を貰ってはいけないの。ただ、教えたということがキャリアになるわけ」

昨日は余りに暖かかったため、コートをCの家に忘れてきてしまった。彼に告げると明日にでも持って来てあげようと言う。
C「コートの他にも何か忘れ物はない?ジャケットとかスポーツ・ジャケットとか」
K「いや、コートだけ。都合のいい時に頼む」

今日の仕事始めにJGの部屋を訪問した。
K「君のやっているTTXの手法を詳しく知りたいんだ」
JG「正直なところ、以前と余り変わっていないんだよ。前にどこまで披露したか忘れたけど」
K「何であれ見せて欲しい。ところで国際相互比較の方の結果はもう沢山あつまったの?」
JG「いいや。まだ5-6通だけだ。ほれこれだけ。これは君が手で持って来たものだし」

これだけなら、単なる仕事上の話に過ぎない。ところがJGは普段は開けっ放しのドアを閉めると打ち明け話を始めた。
JG「Keが引退するのは知っているだろう?」
K「うん。あとは誰が継ぐんだろうか」
JG「多分Wlだろう。色々考えるとね」
K「彼はワシントンに行っていたから、もう空白時間が長いんじゃないの?」
JG「それはそうだが、過去の蓄積がある。此処もいろいろ変って行くと思うよ」
K「例えば僕の帰る日は新人が来る事になっているだろう?」
JG「ああ、Mcと言うんだ。もう会ったことがある。ニューヨーク大学にDdを出して来るんだ」
K「MIKも移っちゃったし。ところで君はまだ独身かい?」
JG「実はそうだ。今まで忙しくて仕事のことばかり考えてきた」
K「もうそろそろガールフレンドのことを考えてもいいんじゃないの?」
JG「しかり。僕もこれからは自分のことを考えるんだ。Kは僕だけがここで少し変った存在だったことに気がついていたか?僕は仕事、仕事で過ごして来た。でも、こればかりじゃいけない、いつか自分の道を見いださなくては、と考えてきた。それを実行に移そうと思う。つまり学校に戻るんだ。そして卒業したら、」
K「どうするの?」
JG「わからない。これから職を探す。つまりここを出て行く」

僕は目を見張った。彼は昨年に比べて随分老けたように見えたが、それは内的変化もあった故らしい。昨年はまだ若々しく、まだ新鮮さを保っていたのに(7年前に比べれば腹が出ていたが)、今は別の表情を見せている。
JG「K、もし日本にTTX相互比較プロジェクトに参加したい人が他にもいたら紹介してくれ。できれば8月までに。それまでは僕はここに居るからキチンと処理しておく。8月以降はどうなるか分からない」
K「100人も紹介したからって文句言うなよ」
JG「いいとも」
ニャッと笑う。
昨年の旅行記に、僕はJG君のやり方をやや批判的に書いた。Glの手足として利用されてばかりいないで自立せよと。彼は彼なりに分かっていたんだ。

昼休みを利用して地下鉄でリンカーン・センターへ行く。今晩とあさってのメトロポリタン・オペラの切符を2枚(カルメン、アルジェのイタリア女)、夫々35ドルで買う。お隣の州立劇場で週末の晩のニューヨーク・シティ・バレエの切符も一枚、14ドルで買う。エイブリー・フィッシャー・ホールではこれと思うものが無かった。メータ指揮のニューヨーク・フィルの定期演奏会があったけれど、演目に興味が持てない。ついでにオペラ・ショップに寄ってみると相変わらず『神々のたそがれ』と『ワルキューレ』の絵皿が並べてあったが値段表(昨年は125ドル)が外されていた。値上がりしたのだろう。新たに『パルシファル』の絵皿が加わっている。

午後はKeのテキストを読むのに費やす。かなり進んだ。夜はメトロポリタン・オペラに出かける。座席は平土間のやや左よりで最前列から3分の2の位置。8時開演で『カルメン』をレヴァイン指揮、グレース・バンブリーの主役でやる。演出は英国のピーター・ホール。前奏曲はものすごいテンポで進む。バンブリーの声はダントツに素晴らしく響く。太く力強い声で、ムラの無い発声だ。他の歌手とは格が違う。彼女が登場しただけで拍手が起きたが、全体としては拍手は盛大とは言えなかったし、燃えない聴衆だったと思う。他のジプシー達がむさ苦しい衣装で演ずる中、バンブリーのカルメンだけは真っ赤なドレスで演技する。フランス語をしゃべる観客が大勢きていて、各幕の幕が降りかかると、即、席をたってロビーに流れ出ていく。従ってカーテン・コールの拍手も少なく、急いで無理矢理にカーテンを上げている。せっかくのカルメンの名唱なんだから、もう少し報いても良いと思うのだが、フランス系は冷淡だ。バンブリーは精一杯愛嬌をふりまき、手を振ったりする。

今までバンブリーのイメージは何と無く生意気な歌手という感じだった。かつてオペラ・ニュース誌のインタビューで、『私はヨーロッパでは一番の女性歌手』などと言ったり、ニューヨーク・シティ・オペラで『メデア』を歌うのに『ギャラなんて問題ではない、芸術的動機だ』などと言うから、かえってメトロポリタン・オペラでメデアを歌わせて貰えない故の虚勢ととれたからである。しかしその生意気さは寂しさと表裏をなしているのではないか、という気がした。彼女は黒人なのである。

とにかく眠かった。こんなに眠いオペラの晩は初めてだ。妻が昔、メットではいつも眠たがっていたのを思い出す。日中の疲れが体に応えるのだ。幕間に地下ロビーの肖像画群を見物する。マリオ・デル・モナコの肖像画がピカピカの新作として仲間入り。不動の指定席はフラグスタートやレーマンである。その一方、昨年は油絵の中に混じっていたリューバ・ヴェリチの写真が消え、レナータ・テバルディの写真は遠い隅に移された。ニルソン、サザーランド、アンナ・モッフォやシュワルツコップの写真が仲間入りしている。ローザ・ポンセルの絵はまだメットに運び込まれておらず、その代わりに数多くの写真が並べてあった。正面ボックス席の入り口にはフレムスタートのカルメンの衣装が展示してある。終演は夜12時近かった。とにかく我慢して最後までつきあったが、ミカエラのアリアなぞ耳に心地よい子守唄みたいに聴こえる。ああ眠い。

(続く)


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