第12話 皆と一緒のNY(4/4)―中華街で

(補足)
 赤字:今回新たに書いた文章
 黒字:過去の文章からの引用


(これは2008年の加筆部分)
これは前巻の続きで、色々楽しんだあと、その仕上げをした部分です。楽しんでいる姿をご想像下さい。美味しい、ニューヨークを代表する「ニューヨークの哄笑」の行事であるメーシーズ・パレードだったのです。きっと、このあとTVニュースに「メーシーズ・パレードに200万人」という題で報道され、バックには取材した男の苦心のフィルムが流れたことでしょう。それこそ、「もっと騒げ!」という挑発だったのですが。米国人ってこの点は甘いのです。ここでは私も覚えている限り書きましたが、実際にこうだったのです。結構雰囲気を伝えているじゃないか、と満足していましたが、それをもう少し冷静に考えるとやはりニューヨーカーの「哄笑」になるのですね。乗せられないように気を付けましょう。ニューヨーカーとはお祭り騒ぎが大好きな市民たち。


フォルテ マーク

(下記は1997年の記録)
11月22日(金)
その夜は、少しでも量の少ないものを、と探したら、黒板にプティ・フィレ・ミニョンというのがチョークで書いてあったので、それに飛びつく。今回最後のアメリカ料理にしよう、とMM氏も言っていたし。飲み物はボストン・ラガーというアンバー・ビヤー(黒ビール)。YM氏は肉は"very rare"にして呉れと頼む。MM氏は普通の"rare"。KJM氏と僕はミディアム。不幸にしてYM氏のはスジだらけで硬く、気の毒だった。最後の4人分の肉だったらしく、我々が注文した直後に黒板のメニューは消された。YM氏のは我々のより若干大き目だったが、それこそ最後の肉片だったらしい。それがスジだらけの原因のようだ。そして付合せのポテトの多いこと。このレストランは全体として旅行者相手らしく、余り洗練されておらず、野暮ったい。設備も余り凝っていない。それでも各テーブルにはグラスに入れたローソクが灯され、ウエイトレスは愛嬌がよかった。彼女も女優の卵だろう。但し随分大柄なミニ女優だった。

11月23日(土)
そもそも、今日チャイナ・タウンに行くと決めたのは、感謝祭は米国人にとって神聖不可侵の日であり、その日は店屋もレストランも劇場もみな閉鎖されるから、曜日と時刻に無頓着なチャイナ・タウンにでも行かないと食べられないと予想したからである。日本を出る前から、Thanksgiving Dayを警戒すべし、YYY機構のスタッフだって家族と過ごす方が優先の日なのだから、と警告しておいた。Thanksgiving dayは月曜日だったので、前の日曜日に閉めた店を見てST氏は、どうせThanksgiving Dayに閉めるのなら、どうして前の日曜日には営業しようとしないんですかねえ、とこぼしていた。此処ではそんなに働いたり稼いだりするよりも、家族と過ごす方が優先。

タイムズ・スクエアに向かって歩きながらFR氏が横にやってきて、ところでキャロル・チャニングって知ってますかと尋ねる。実は昨夜のフリータイムにFR、TI両氏はフォンティーン劇場へ行って「ハロー・ドーリー」を観たそうだ。キャロル・チャニングが登場するだけで総立ちのオヴェイションになって不思議な気がしたという。だって70ナン歳のお婆さんですよ、足はヨロヨロしていたし、声は皴がれているし、どうして人気があるのでしょう?と聞かれた。しかも英語の会話がメインなので、なぜ観客が笑ったり感動したりするのか分からなかった、とFR氏は感想を言う。帰国したらビデオを借りて復習するとも言う。これで彼もミュージカルにハマったな、と僕はほくそ笑む。

メーシーズパレードには公称200万人の大観衆が集まり、タイムズ・スクエアは大騒ぎ。16年前のこの日は同じ街に居ながら、パレードは見なかった。幼児二人を抱えていては仕方が無かったのだ。空にはヘリコプターが舞い、道路には取材の放送局の男がマイクを群衆に向け、手をかき上げて、もっと騒げ、というゼスチュアをする。歓声を収録したいのだろう。我々のいた側は大人が多かったので効果が薄いと見たか、反対側の子供ばかりのコーナーに移ったら、子供達はギャーギャー大声をあげて期待に応えた。見るみる大混雑になり、脚立を持ち込んで見物する者あり、電柱に登って見る者ありで、いやはや大変な騒ぎだ。お向かいのマリオット・マーキーズ・ホテルの窓ガラスの内側にはぎっしり観客が貼り付いているし、側のレストランの中も同様だ。ブロードウェイは狂ったという感じ。

混雑の余り、もはや動くことができない。そして寒い。今までに経験した最低気温で、氷点下だ。風も強いし、コートのフード部分を外してきたのが失敗だったと反省する。暖をとるためコンソメでも飲みたいなと思う。全米から集まった中学生、高校生たちのブラスバンドやパフォーマンスの行列が延々と続く。向かいのビルの電光掲示板には"Happy Thanksgiving !" という文字が光っている。背伸びして見続けること約2時間。中学・高校生達が真剣に太鼓を鳴らし、笛を吹き、演技を続けるのを見ているうち、思わず涙が出てしまう。こういう雰囲気にのせられ易いのだ。なぜか分からない。Happy Thanksgiving ! と道路の両脇から交互に叫び合う。

そのうち巨大な風船人形がつぎつぎと到着する。ガーフィールド猫や、セサミ・ストリートのキャラクターや、ディズニーのキャラクター、スーパーマンや、海賊船等あれこれ。飛んで行かないように、何本もの紐を大勢で引っ張りながら行進する。それも子供達の仕事である。電柱にひっかかりそうになる度に群衆から悲鳴が上がるが、実に巧みに通り抜けていく。演出であろう。騎馬警官のパレードや消防夫たちのパレードが来ると大人達が歓呼して迎える。年配の観衆は盛大な拍手を贈る。6月に見たヒスパニック・パレードでは5番街に公称100万人が集合したが、今回はブロードウェイに200万人だ。紙吹雪が舞うのを2、3枚拾っておいた。狂乱のブロードウェイを見て、これぞアメリカと思う。

11時半ごろ、もう南部ニューヨークに移動しなければ、と思うのだが身動きが取れない。群衆をかき分けて突き進み、強引にブロードウェイを正面突破しようと試みる。道路は全面封鎖だが、地下鉄入り口は向こう側。41丁目を渡れば地下鉄に入れるのだが全く無理。進むことも戻ることもできない。側で小学6年生ぐらいの男の子が母親の側でベソをかいていた。その母親は必死の形相で子供を引っ張って群衆から脱出。周りが僕に「こんな所を通り抜けようとするのが悪い!」と怒鳴るから、「こちらも向こう側に出なきゃならないんだ!」と怒鳴り返してやった。分かった分かったと言われ、ようやく脱出に成功。途中で見たらカフェの店員たちもガラス窓にへばりついて見物中だ。だから今日はタイムズ・スクエアで食事など不可能なのだ。

FR氏がやってきて、Kも結構強引ですねえ、あんな混んだ場所にどんどん切れ込むんだから、と呆れた顔をしていた。もうタイムス・スクエアから地下鉄に乗るのは諦め、一旦50丁目まで歩いて7番線に乗り、地下で1番線/9番線に乗り換えよう、という戦略にした。自由の女神の像の所では、TI氏らは冠まで登ったが、僕は敬遠してカフェテリアで過ごすことにした。寒くて空腹だ。今回はじめてハンバーガーとコーラを食べる。止めておけば良いものをついフレンチ・フライも頼んでしまった。巨大な量。本当に米国人たちはポテトを無駄にしている気がする。何を食べても大きなポテトがついて、しかも大抵食べ残しているもの。

結局、夕食は中華街で全中国料理とでもいうべきレストランを見つけて入る。元気一杯のMM氏がいつものように中国語を使って注文。青島ビールで乾杯し、あとは老酒。ここでは僕はほとんど飲まず。左側に座っていたFR氏はチャーハンが好きと見えた。とにかく量が多くて食べきれない。味は良かった。問題はスプーンには油が付いたままだったから手がベタベタするし、ボーイはガチャガチャ音を立てて投げ出すように配膳するし、テーブル・クロスに穴があいているしで、余り洗練されているとは言えない。地下にあるトイレは詰まってフラッシュせず、そのレストランの壁の下半分がタイル張りで、まるで洗面所みたいな雰囲気がある。そういう所が欠点として意識し出すと、全てが安っぽく見える。横浜の中華街ならもっと丁寧だろう。ニューヨークに初めてきた中国人達はまずこのチャイナ・タウンで生活基盤を築き、成功すれば他所に出ていく。そうでなければ生涯このタウンの中で過ごすことになるという。

続けて4人でリトル・イタリーを散歩。ここはクリスマス風に飾り付けされていて、隣のチャイナ・タウンとはガラっと変わった雰囲気になっている。万艦飾のクリスマス・デコレーションを施したバーが開いていたので中に入った。YM氏は初め気が進まないようだったが、実はノンベエだから結局賛同する。YM氏は自宅やホテル自室で飲むのは大好きだが、バーと聞くと後ずさりしたくなるそうだ。彼はバーという言葉から日本のキャバレーのように女性が侍る場所を連想していたらしい。その気持ちは分かる。カウンタに腰掛け、Thanksgiving Dayにちなんで僕はワイルド・ターキーの水割り、YM氏とMM氏はスコッチの水割り。TI氏はカウアミルク(これが彼のお気に入り。ハワイの新婚旅行で覚えたという)。南京豆をつまみながらグラスを空にしたらYM氏がおかわりしていい?と聞く。今晩は僕のおごり。YM氏が言うにはオイスター・バーで最後に飲んだデザート・ワイン(トカイ酒)がとても好きだという。あんなにうまいと思ったことはない、と。そこでバーテンにトカイ酒はあるかと聞いたら残念ながら無いという。そこでいつか品切れだったキャンティ・クラシコ・レゼルヴェを注文した。1本60ドルだったがこれを4人で分けて飲む。


いかがでしょうか。この回の旅行は、XX実験をすることでした。真の日記には実際のやりとりが詳しく記されています(そのページ数はここにお見せした量の3倍)。そのやり取りは、今読んでも大層興味深いのですが、このコラムの趣旨と一致しないので省略して、飲食だけをピックアップしました。次回は、さらに若い時代に戻り、1987年私が外部団体の委託を受けて欧州へ行った時の日記の一部です。これらの全体から、オーディオや音楽の雰囲気がどういうものか、ご賢察頂けるのではないでしょうか。

(次回は私が他の団体からテクニカル・タームの通訳の依頼を受けて、欧州諸国を一緒に訪問した時の記録から記します。ここのファイルもそうですが、少しエンジンをかけて、2回分づつ掲載したいと思います。それを2回繰り返して、まとめを書いてから第3章を終了したいと考えます)

フォルテ マーク

まだパンナムビルがあったマンハッタン
まだパンナムビルがあったマンハッタン。この向こうにグランド・セントラル駅。
これは1978年の撮影だが、この付近は現在と余り変らない。




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