第14話 JFAの欧州訪問記(2/4)―酒場の食事

(補足)
 赤字:今回新たに書いた文章
 黒字:過去の文章からの引用


(2008年の加筆)
英国オーディオというのは不思議な存在です。現在、英国と言えば素晴らしいスピーカー群を思い起こさせますが、オーディオ抜きの現場では、英国人って楽しんでいるのかな、少しガードが硬いかな、と思う節があります。何かスカッと抜けないのです。失礼ながらイタリア人みたいな青天井でなく、どこかに天井がしっかりついていて、全てはその下で処理しよう、としているようです。四方をみれば何処も曇っていて、しかも暗さを持っていて、それに満足しているような気性。

あの気性でどうして、あの素晴らしいスピーカーやオーディオ装置群を作れたのでしょうか。永遠の謎です。日本人に似ているよ、とは米国人Keの言葉ですが、どうでしょうか?あれほど世界を席巻したのに、今では欧州の端に位置する小国。日本もそうなるのでしょうか?私の周りでは、最近中国の猛烈な追い上げ戦略を考えると、いずれは中国、インドがアジアを席巻し、日本はかつて栄えた小国として、寂しい笑みを浮かべて、絶頂期を楽しむ中国やインドの傍らで過ごすことになるのでは。経済的な繁栄と、その中での文化の関係は色々考えなければなりません。私自身は、激しいばかりの生活でなく、音楽を楽しめる環境を維持したい。でも、それを今の中国やインドに注文しても無理だろうとも、思います。


フォルテ マーク

(下記は1985年の記述)
6月28日(日)
今日はお休み。それにしてもロンドンは緑の多い都市だと思う。セント・ジェームス公園は絵に描いたように美しい。Id氏は「大英帝国いまだ衰えず、だなあ」と嘆息する。MH氏は「切り売りするだけでも、後60年もつそうですよ」と言う。社会資本の蓄積の凄さをいやでも感じさせる。またハノーバー・スクエアまでバスで行ってそこで解散した。僕はMRA氏と一緒にピカデリー・サーカスまで一緒に歩き、軽食を済ませてから別れた。MRA氏はノルウェー以来ずっと胃痛を訴えていた。

さて、3年前に時間切れであきらめた念願のハンプトン・コートへ行こう!地下鉄でウオータルー駅まで行き、英国国鉄のハンプトン・コート行きの往復切符を買う。途中、全英テニス選手権大会をやっている最中のウィンブルドンにも停車し、30分ぐらいでハンプトン・コート駅に到着。枢機卿ウルジーが建て、ヘンリー8世が譲り受け、ジョージ諸王時代まで英国王の居城だったハンプトン宮殿。何よりもこの城を有名にしているヘンリー8世の6人の妃たち。

ついこの間ステート・アパートメントで火事があって絵画などが焼失したのは新聞報道で知っていたが、その火事の当時の現場写真を大量に陳列しているところはさすが英国人のたくましさか。それでも残った中にはヴァン・ダイクなどの絵が沢山ある。そのあとロンドンに戻り、ピカデリー・サーカス付近で夕食をとる。日曜日に店屋が開いているのはピカデリーぐらいなものだ。アバディーン・ステーキという安ステーキ屋で仔牛のエスカロップ等を食べて13.5ポンド。

6月29日(月)
6時に起床。リバプール駅から北海沿岸にあるLF機構へ向かう。今日からMBE機構のSA理事長が我々のグループに参加する。SA氏はおりしもロンドンで開かれていた世界CW会議の日本代表だった。元々はAP庁のおエラ方だったそうで英語は大変達者だ。1時間ほど乗ってイプサッチ駅でローカル線に乗り換えてさらに1時間半ほど揺られて行く。本当に暑い。LF駅には研究所の広報担当の人が待ち構えていて、まずは車3台に分乗して昼食をとるホテルに運ばれた。歓迎会で僕はビターを飲む。英国側の主人であるMT博士とSA氏もビターで、あとの日本人はオレンジ・ジュース。日本人は皆同じメニューにするのかと英国側は皮肉を言う。そこで僕は、日本人がよくそうするのは食事の時間を節約するために気を効かしているんだ、と弁明した。MT博士の右側に座って話していたら、あとで食事のメイン・テーブルの席次を決める時にGT博士が僕にお前さんはこちらへ来い、と言って彼とMT博士の中間に呼び寄せた。Ht夫人はMT博士の真正面、あとの日本人グループは左側にまとまる。

料理そのものは一種のフィッシュ・アンド・チップスをもう少し上品にアレンジしたものだ。おそらくタラだろう。僕とMRA氏はあれは美味しかった、とあとで感想を披露したがSug氏等はあんなまずいものはない、と断言する。Sug氏が言うにはハダック(タラ)は煮つけに限ると言う。あとで聞いたら彼等はいずれも中国製の醤油を垂らしたのだそうだ。せっかくラードでカリっとフライにした味が台無しになったんじゃなかろうか。でも、要は本人にとって美味しければ良いと思う。

LF機構はAP関係の人達には大変有名らしいが僕は今まで全く知らなかった。職員数は450人ぐらいか。MT博士のイントロダクションのあと、GT博士がスライド40枚を使って説明する。今日はSA氏も僕も日本語で質疑を行う。前回のSEでもそうだったが英国人は話しながらよく同僚にウィンクしたり目玉を上に向けたりする。あれは感じが良くない。SA氏と僕以外はノートを取るのに一生懸命だったから気が付かなかっただろう。Sug事務局長が御土産の山を差し出したり写真を撮ったりする時も目くばせを続けるのだ。切りのいいところでお茶の時間になり、別室で紅茶を飲む。部屋を変えるというのはビジネスとそれ以外を区別するための手段だろうと思う。帰りにLF駅まで送ってくれる車中で広報担当氏は自ら運転しながら「英国人は怠け者だけれど頭脳はあるんだ」と何度も繰り返す。これは大変な皮肉で、つまり日本人は働き者だけれど脳が無いと言いたいのかな。

ロンドンの日本大使館から電話。今晩の参事官主催の夕食会はケンジントンにある立派な日本料理店「HRC」だったが、そこに到着した時は9時半。AAM省からFA省に出向している参事官とACCロンドン支店長のSim氏が待っていて11時頃まで会食。11時半頃自分の部屋に帰ったら今朝出しておいたシャツのクリーニングが済んで配達されていた。ともかく今日はもの凄い暑さだった。日本でもこれほどの蒸し暑さはめったにあるまい。

6月30日(火)
5時にモーニング・コールがある筈だが4時に起きてしまう。早朝特別サービスのミルクとジュースとデニッシュ・ペイストリーをかき込む。即タクシーを拾って1時間も揺られてガトウィック空港へ向かう。全くこんなハードなスケジュールを誰が作ったのだろう。アリナミンを2錠飲む。MRA氏に「Kさん、顔色が悪いですよ」と注意される。ブリュッセル空港に着いてから町中には貸切りバスで行ったのだが、ここはJFAが雇った日本人の通訳氏が案内する。ベルギーは2カ国語が公用語なのだが通訳氏はフランス語でやるが、英語はからきし。既に大分予定に遅れてしまったので、予約してあったレストランはキャンセルし、途中のドライブ・インで昼食を取った。ラズベリーの砂糖漬けをデザートに取ったが、見かけと違って随分酸っぱいものだった。あれは頂けない。MLのECH機構に着いた時はもう3時半になってしまった。ともかく相手の人に会って、HLWの現場や入り口などを見学する。夕方6時半ごろまで見学が延びたにも拘らず相手方は盛り沢山のプログラムをやってくれた。勤務時間にうるさい欧州にしては大変なサービス。

Sug氏の希望で夕食は近所の中華料理となる。旅行業者XEEのTA氏は巧みに中国語を使ってオーダーしている。彼は台湾に60回も行ったのだそうだ。ワインで乾杯した後、SA氏はワインを続けたがあとの人達はビールに。10時40分ごろ解散したあと、SA、MH、Tomの三氏と僕の4人で町中を散歩することにした。やたらと人だかりして楽隊の音まで聞こえてきた。中世の番兵みたいな格好をした人たちがうろうろしていたから、何かお祭りをやっているのかと尋ねたところ、シャルル4世の記念祭だという。1年に1度、7月1日ころの火曜日にやるのだそうだ。広場の中央には中世の騎士や貴婦人、道化師みたいな扮装をした者達が踊ったり跳ねたり、花火を上げたり大騒ぎしている。音楽はバグ・パイプみたいな音色を持ち、そのメロディーには中世の臭いがある。せっかくだから近所の酒場に入って窓から見ようということになり、広場に面した酒場の2階に昇ってビールを飲む。先客に聞いてみるとシャルル4世とは10〜12世紀ころの王様だそうだ。親切によく見える位置に呼び寄せてくれた。やはり外国に行ったら、こういう所へ来なくてはね。昼間の疲れがいっぺんに吹き飛んだ。メトロポール・ホテルへ戻るとSA、Tom両氏がバーで待っていたのでジントニックを飲む。就寝したのは12時半。

7月1日(火)
ブリュッセル空港での待ち時間はカフェでビールを飲んで過ごす。機内で出た朝食は典型的なコンチネンタル風で、肉気なし、野菜なし、パンだけは3種類もあるというもの。ウィーン空港に着くと日本人のガイドが待っていた。今日は移動日なので他に用事はない。ガイドはどうやら元音楽留学生が宿願を果たせず転向したらしい。自分が音楽をやっていたことを言葉の端々に匂わせていた。確かにベテランらしい滑らかな口ぶりを持っているし博識だ。ウィーン市の観光ガイド免許を持っているらしい。

プラター(大観覧車、映画「第三の男」にでてきたところ)の公園に立ちより、旧ドナウ河を渡り、明日訪問する予定のIXXXのあるXNO-City(KS連合地区)をかすめ、河沿いの道を通ってウィーンの森へ向かい、カーレンベルクの展望台へ行く。XNO-Cityを維持するのにウィーン市民一人あたり年間13万円を負担しているそうだ。これは重い負担に違いないから、市民の協力を得るため、PRに大きな努力をしているという。ウィーン国立歌劇場の開場100年記念公演の切手シートとウィーンゆかりの作曲家の切手シートを買う。丘から市街に降りてくる途中に、小さな山小屋風の小屋を何軒も見かけたが、あれは難民の孤児たちの家なのだそうだ。市街地に入ってすぐ昼食のため、レストランに入る。オペレッタで有名なフォルクス・オーパーの斜め前のこじんまりした所。既にヴィーナー・シュニッツェルの定食が注文済みだった。この店もやはり団体観光客相手専門なのかもしれない。いずれにせよこの料理は好物だからワインとともに大いに楽しんだ。

昼食後はシェーンブルン宮殿へ向かう。ガイドは大急ぎで40室だけを連れて歩く。免許を持ったガイドだからこの宮殿のいろいろな鍵を持っているのだ。大広間は音楽会の準備がしてありベーゼンドルファーのピアノが据えてあった。1時間ほどでこの宮殿を出てベルベデーレ宮殿の庭園に行く。ここはスフィンクスの像の付近からちょっと眺めただけ。我々の泊まるメルクール・ホテルはシュテファン教会のもっと奥、ドナウ運河に近いフライシュ・マルクト通りにある。1人1泊1,200シリングというが、物価の高いウィーンでは安ホテルの類だろう。待ち合わせ時刻を決めて、各人、勝手に町中に。僕は「HiFi」、「EMI」、「Caruso」などレコード屋を5、6軒覗いた。国立歌劇場前の地下街にはハンガリー・プレスのCDが沢山バーゲンで出ていたが、結構値段は高いし種類も少なく、結局何も買わなかった。CDに関する限り、アメリカや日本の方がバラエティーに富み、量も多い気がする。

今晩はId団長氏の主催でMレストランで和食会。たった一晩しかないウィーンの夕べに何で和食なんだろう?地元の小さなケラー(居酒屋)でワインを傾けながらウィーン風の田舎料理を食べるとか、いささか観光地化されているかも知れないが、グリンツィンクでホイリゲ(新酒)を楽しむとかしたくないのかな。実は同じ不満を持っていた人は他にもいて、SA氏などは秘かに、Mの予約が取れなければいいのに、とぼやいていた。幸か不幸か予約が取れてしまった。あとでわかったのだが、このレストランで働いている女性のひとりがIk氏の奥様の親戚なのだそうだ。それで、ここにこだわっていたわけだ。食事そのものはおいしかった。食後、Id氏がこのような食事について皆さんの率直な意見をお聴きしたい、と言い出した時、SA氏は自分は自ら刺身や魚を注文することはないし、自分の好みはもっと脂っこいものであって、外国へ行った時はその土地の田舎料理を食べることにしていると述べた。始めに飲物の注文を取りにきた時、Sug氏がビールにまとめようとしたのだがSA氏は、いや自分は地元のワインを頼む、と言う。ウェイトレスがビールはサッポロと地元のものがありますが、と言った時はId氏とSug氏は国産愛飲派でサッポロを頼み、残りの人は欧州産に決めた。

Mレストランを引き揚げた後、MH氏はId氏をホテルまで送り届けたものの、すぐに息をきらせて駆け戻ってきた。「おもりをしてきましたよ。ナイトキャップを渡しておきました」と言う。ナイトキャップというのは寝酒用のウィスキーのことだそうだ。MH、SA、Tomの三氏と僕の4人で「2次会」に出かけた。ケラーがなかなか見つからず、結局ザッハー・ホテルよりもう1ブロックほど先のリンク(環状道路)の内側で、ケルントナー・シュトラッセと直角に交わる通りにあるケラーの看板を掲げた店に入った。残念ながら天井は高く照明は明るく客席数の多い店だった。我々が捜していたのは小さくて薄暗く天井の低い田舎田舎した店だったが。ワインとオードブルの盛り合わせを注文。4人編成の楽団が客席を次々にまわって客に合わせて演奏している。ロシア人もいるらしくコサック風の曲もやっていた。もちろんチップが必要だろう。


フォルテ マーク

テームズ川に映るハンプトン・コートの全景。1987年本人の撮影。
テームズ川に映るハンプトン・コートの全景。1987年本人の撮影。




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