音楽のすすめ 第4章

2008.4.4

はじめに

私は長い間「源氏物語」を好んで読んで来ました。既に45年間になります。そもそもの始まりは18歳の時、叔母から貰った大学入学祝いの品の中に谷崎潤一郎の「源氏物語」があったことです。谷崎源氏を在学中に少なくとも3回は読んだはずです。それから長い時間を挿んで、39歳の時に、隠岐島へ出掛けた時、現地で体調をくずし、帰宅後、翌日から5週間入院の憂き目に逢いました。その入院中の読み物が、この源氏だったのです。続けて与謝野晶子の源氏を読み、それから調子に乗って、円地文子の源氏、田辺聖子の源氏、瀬戸内寂聴の源氏、はたまた村山リュウの源氏、船橋聖一の源氏等々と読み継いで行き、もちろん最初の谷崎源氏はスタンダードとして繰り返し読み続けました。退院後、それは延々と15年も毎晩のように続いたのですが、その間に様々な源氏物語またはその解説等を読みあさりました。それは国内で発売されたものを読み尽くす勢いでした。

そうなると当然ですが、原文が気になりますね。そこで岩波文庫の山岸徳平の源氏を、原文のまま読みました。また角川文庫の玉上啄彌の源氏は、原文と翻訳が左右対称に印刷されていたので、それを採用して原文参照でも読みました。その他数多いエッセイや、評論、感想文、疑似源氏、等々トータルで60種類の源氏に目を通しました。さらに英訳文にも興味を持ち、アーサー・ウェイリーのTail of Genji、その翻訳に関わるエッセイ等も。著名なもので読まなかったのは、エドワード・サイデンステッカーのTail of Genjiだけです。その代わり、サイデンステッカーの翻訳に関わる日記等は読みました。また橋本治の源氏や、丸谷才一の源氏エッセイも読んだし、女子学生達の意見をまとめたものも目を通しました。歌舞伎の台本にも目を通しました。雑誌類の特集号にも眼を通したのはもちろんです。一種の源氏狂いですね。世の中にはそういう人達が一杯います!

サイデンステッカーのそれを何故読まなかったかですが、これはハッキリした根拠は無いのですが、ただサイデンステッカーの若い日のエッセイを読むと、彼の考え方の根底にあるバイアスが少々強過ぎる気がしたせいかも知れません。2007年にまたサイデンステッカーの登場する新しい本が出たので、それも読みました。一方、アーサー・ウェイリーの方は、これは彼の天才的な語学力に参ったのです。決して源氏を忠実に訳してはいないのかも知れませんが、あのどことなく高貴な文体は魅力的です。瀬戸内寂聴の源氏が文庫本で出終わったので、それも読みました。阿部秋生の原文だけの源氏物語もありますが、これは私の源氏狂いに呆れた妻がプレゼントして呉れたもの。最も新しいのは、2007年に出た山本淳子氏の「源氏物語の時代」(第29回サントリー文芸賞)でしょうか。

結局私が打ち込んだ趣味とは、「声楽、オーディオ、そして源氏物語」だと言えそうです。何か象徴的です!いずれも長くて、それに耐えることから始めなければなりません。何も源氏でなくても、翻訳物の世界には長いものがゴロゴロしていますが、今の私はトルストイの「戦争と平和」をもう一度読みたいとは思わないし、トマス・マンの「魔の山」も同様です。その代わりトマス・マンの「ブデンブローク家の人々」なら、もう一度読みたいと思っています。こういう、起承転結が備わった、息の長い物が好きなんです!

トマス・マンが特に好きだったので、日本で文庫本になったもので、当時入手できた全てのマンの翻訳を読みました。殆ど同じ印象。もっと短いものでも良いと思います。例えば「トリスタンとイゾルデ」と題する短編がありますが、あれだけでもマンを味わうには十分だと思います。ただ「ブデンブローク家の人々」はそれを実感する貴重な一巻だと思うから、これを代表作に挙げているのです。マンの文章に興味を持ったのは、やはり30歳代の半ばに、新刊に「ワイマールのロッテ」があり、チョッと見てみようか、と手を出したのが始まりです(と言うか、ゲーテの「Die Leiden des yungen Werther(若きウエルテルの悩み)」の後続の話があるなら、是非読みたいという思いがあったため。でもウエルテルは青春文学の華ですから、できればその時期に読みたいもの)。御陰さまで、私の本箱のトマス・マンの本も総計30種類程度になりました。そもそも大学のドイツ語のテキストがトマス・マンの「Der Tod in Venedig(ヴェニスに死す)」でした。そして「Werther」も同様。あのころ、外国文学という授業がありましたが、そこでハンス・ノサックという現代の評論家の「Der Mensch in die heutigen Literatur(今日の文学における人間像)」というのがありました。その中でマンはあちこちが引用されていました。

トマス・マン以外はどうか、と言いますと、系統的に読んだのはシェークスピアの歴史劇でしょうか。37作のうち、特に歴史劇に興味を持っていましたから、リチャード2世に始まりリチャード3世に終わる薔薇戦争連続作が、中学生時代以来最大の愛読書でした。中学1年で最初に図書館から借りたのが「リチャード3世」でした。そのためか、大学時代、実際の舞台で見た最初のものが「リチャード3世」でした(第17代の中村勘三郎)。これは出来たばかりの日生劇場で観たものです。英語版も勿論買いました。ずっと後年、東京グローブ座でやった「リチャード3世」も観に行きましたし、今流行の狂言師、野村萬斎の演じる「ハムレット」や、女性が演じるシャイロックの「ヴェニスの商人」も観ましたが、これらは中学生時代にルーツがあります。また歴史物が好き、ということは実際英国史に興味があったことを意味します。これも中学生時代以来ですが、当時フランス人のアンドレ・マーロウの書いた「英国史」の文庫本を愛読書にしていました。これが嵩じて、大学で、何とかして英国地域研究コースに進学できないだろうか、とも考えたことも。しかし、トンでもないことでした(あそこは「全優」でなければ入れない!)。

以上の経歴をたどりましたが、現在、私にとって特筆すべきは「源氏物語」だけ。国文学の中では唯一愛着のあるもの。トマス・マンも遠くなり、英国史も遠くなった今、源氏物語は私にとって他と比較できないほど大事なものです。あれだけ読み続けられた、という事実だけとっても、その読書は他に競争相手のいない趣味だと言えそう。いや、あるとすれば、楽劇「トリスタンとイゾルデ」に代表されるワーグナーの音楽と「メデア」に代表されるイタリア・オペラを聴くことでしょうか。そういえば、少し話題がずれますが最近シルバー割引きで映画を安く見ることができるようになりました。それ以来、家内と一緒にあちこち観歩いています。昨年以来、「トロイ」、「トリスタンとイゾルデ」、「ベートーベン」、「ドリーム・ガールズ」、「ドレスデン」そして「クイーン」を見ましたが、中でも「トリスタンとイゾルデ」を見た時は、我々だけしか客席に居ませんでした。全館借り切り。ありゃま!と思ったのですが、ある意味では当然かも。朝一番の映写回でしたからね。

今までに各種の「源氏物語」を映画化したものが複数あります。正直言って、あれは皆詰まらないんじゃ無いか、と思います。映画化そのものが失敗なのかも。おまけにあの御涙頂戴式の宣伝では、私の意見では全く源氏物語を代表しておらず。ただの甘ったるいメロドラマになっています。前に出たのは全編の映画化でなく、その一部分のみだったからかも知れません。「藤裏葉」巻までだと単なるサクセス・ストーリー。いずれにせよ54巻の映画化は2時間に収まるはずもないと思います。源氏物語に秘められた「苦い成分」を入れて再度映画化を試みてください。そうしないと誤解の拡大再生産にしかならない。そういう映画化が実現した時、私は是非見てみたいと思います。今までの映画化は、極論すれば全て失敗だろうと私には思えます。

また「源氏物語」に戻りますが、色々読んだ御陰で、大体のことは分かるようになりました。長編小説ですから構造の把握が重要ですが、最も大切なのは登場人物の心の底にある、ゆらめくような影(深層心理)でしょう。様々な事態になった時、人間はどのように反応するのか。この点、女性作家たちの文章には一貫して情緒過多とでも言えそうな思い入れが認められます。それに対して男性陣の反応はもっとクールです。登場人物の裏側に見え隠れする人間の本性は、今日でもなお有効なものです。それでは紫式部という女性はこれを書いた時、そこまで考えていたのだろうか、という疑いも出て来ます。当然ですね。これは不可思議としか言いようがありません。そこまで見抜いたとすれば、紫式部は飛んでもなくクールな女性ということになりますし、そうでなければ、そう言う風にも見えるのも単なる「結果論として」いうことになります。どっちでしょうか。個人的には前者なんですが、後者の方もありそう。現代作家による源氏物語パロディーの類いに見られる多くはこの後者。これが60種類もの「源氏物語」を読んで得た、私の現在の仮の結論です。

この「源氏物語」に伴う音楽の響きを考えてみましょうか。これは以前から考えていたのですが、案外難しい。それは音源が無いからです。つまりCD音源から音を拾って、編集して素晴らしいものが出来たとしても、それを公開できない。著作権という重要な問題を孕んでいるからです。それでは、私の持っている音楽のイメージをそのまま、忠実に伝えられるか。これを考えると気が遠くなりそうです。でもやってみたい。文章で私の持っているイメージを復元してみましょう。そこには私が知っている音楽をちりばめましょう。本当に好きな音楽しか採用しないつもりです。どんな音楽を採用するかはお楽しみ。以前から考えていたことですが、前半にワーグナーの音楽を置くか、後半そうするか、あるいは声楽編を重用するか、それともピアノ音楽か、等々の悩み。時間が掛かりそう。でもやってみますね!

という訳で、ここには「源氏物語」の進行に合わせて音楽を並べる作業をします。冒頭に選ぶ音楽、末尾に選ぶ音楽、この選択は楽しみでもありますが、苦しみでもあります。まず全体は55帖として扱います。それは「若菜」巻を2つに分けたためですが、そうしないと「若菜」巻が余りに長いからです。「若菜」巻は全体で7年間近くを記述しています。7年間は十分に長く、その間に色々な女君達がこの世を去りました。こんなに長い期間を記述するのは、他には源氏の誕生から「帚木」巻までの12年間と、源氏の死後を扱う「匂宮」巻の6年間があるだけです。源氏の死による主役交代に合わせるため、必要だったのでしょう。本文の無い「雲隠」巻の扱いは考えた末に、記録の中に取っておく事にしました。音楽もそれに相応しいものを選びます。ここでは本編と宇治十帖編に分けておきます。


フォルテ マーク


「ノルマ」の楽譜一部
「ノルマ」の楽譜一部




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