2008.8.5

はじめに



私は声楽が一番好きですが、2番目にはピアノ音楽が好きです。もし健康を損ねないままだったら決して知り得なかっただろう世界も知りました。一時的な入院を経験して変った点としては、色々な異なる意見に対して、より寛容になったことでしょうか。また異なる趣味の持ち主や、異なる趣向に対しても寛容になりました。それだけ受容性が大きくなりましたが、その反面でもっと攻撃的な、もっと速く、もっと広く、という競争心が薄れました。そしてニューヨーク流のやり方に、やや距離を感じるようになりました。何とか元通りになりたいという強い欲望が、私にコレを書かせております。


第1話:ピアノ大好き−1


ただピアノ曲に関して私は余り言う資格がありません。声楽だったらある程度は聴いて来たし、振り返れば結構コレクションも出来上がっていたのですが、ピアノは若い時代に好きだったという程度です。だから分厚いコレクションはありません。現在持っているピアノのCDはおそらく100枚を少し越える程度しかない。そもそも私の育った時代、ピアノは高価な楽器の代表でしたし、それを自宅に持っているというのは余程余裕のある家でないと不可能でした。もちろん我が家にとってピアノは飛んでもなく高価な品。1951年、私が6歳で山口市にいる頃、親は私にピアノを習わせてくれましたが自宅にピアノが無い時代がずっと続きます。その後東京に引っ越しましたが、どこで練習したかというと、学校のオルガンやピアノです。少し早く登校するから、朝ピアノを弾かせて欲しいと先生に頼み、OKの返事を貰うや否や、直ぐ実行。悪童達が、ほら見てみろよ男がピアノを弾いているぜ、等と囁く声が聞こえました。今だったら男女を問わずピアノを習いますが、私の時代は周辺には男の子は私ただ一人。その先生はピアノ教室を開いていたので、それに参加しました(先生のアルバイトだったのでレッスン料も安い!)。壁には進行表が貼られていたので、誰がどの辺りを練習しているかは一目瞭然。今だったら学校の備品を使ってアルバイトなんて、と言われそうですね。日曜に音楽室の隣で「絵画教室」も開いていましたし、全てがおおらかだった時代です。

1954年夏休みに、私は骨折で3週間入院することになりました。これが回り回って、現在まで影響をもたらすことになるのですが、リハビリの為に役立つかも知れない、と親と親の勤務先の長だった人が、二人してお茶の水でオルガンを購入し、タクシーで運んできました。それも39鍵しかないベビー・オルガンです。音が足りないのは致命的でしたから、いつまでも本当のピアノが欲しいな、と思った次第。小学校の教室は音楽室の隣でしたから、音が良く漏れてきたのですが、午後になると決まって音楽の先生はある曲を弾くのです。また弾いてらア、と思っていましたが、その曲こそシューベルトの即興曲90-2でした(分かったのは4年後で、テレビ映画を見ていたらあの曲がテロップと共に流れてきたのです)。それは英国映画で、主人公の少年はピアニスト志望でしたが、その父親は厳しくダメを出します。そこを何とか、と頼み込んで1年間練習に没頭し、1年後に専門家に判断してもらう、というストーリー。一生懸命練習した1年後、プロの女流ピアニストに判定してもらったところ、ダメが出る。でもアナタはアマチュアとして申し分ないレベルに達して居ますよ、と映画では慰められたのですが。これに対し少年本人は、最後にアナタのピアノを何か一曲お聴きしたい、と頼みます。そして応じて弾いたのがこの即興曲90-2でした。
私の小学校時代の話に戻りますが、巧いか下手かの判定ではなく、とにかくその曲が聴こえてくれば午後2時頃だという目安が分かりました。また夏休みには良く山口県岩国市に行きましたが、親戚がピアノを持っているというので、それを借りようと思い立ちました。ところが出掛けようとした時、その家の者が病気になったらしい、と言われて遠慮。また岩国市は昔父が教えていた学校があるので、そこへ話をして許可を得て練習したことがあります。東京の小学校へ通う道筋にはポツンポツンと家が建っていましたが、ピアノがありそうな家を、羨ましく見上げて通り過ぎました。練馬区の麦畑やキャベツ畑のつづく田舎道。


シューベルト即興曲/ショパン前奏曲/ベートーベン・ソナタの楽譜(中央に1956年当時の月光の楽譜)
図:シューベルト即興曲/ショパン前奏曲/ベートーベン・ソナタの楽譜(中央に1956年当時の月光の楽譜)

ある中学校に入りました。そこは大学の校舎を譲り受けたものですが、ピアノ練習室と表札のあるところがありました。狭い空間が5ツくらいあって、それぞれにピアノを設置した痕跡(!)がありました。ある時、音楽の先生に、皆の前で「K、ピアノを弾いてごらんなさい」と言われました。トンでもない!と顔を赤らめたのですがあれは残念でした。その先生との様々なエピソードは「音楽のすすめ」に書いてあるので御覧下さい。あれから50年近く経ちますが、昨年(2007年)お会いすることが出来ました。東京国分寺にあるNTP機構のセミナーで講演した時、たまたまその日、先生の編み物展示会が駅前で開催されたため。先生は今ではピアノと編み物が趣味だと申されました。バレエの熊川哲也のファンとも聞きました。やはり舞台に惹かれるのは私と同じです。

高校時代は受験勉強でメチャクチャでしたが、特に3年生の間は音楽からも離れました。今思えば惜しいことをしたものです。大学に入ったところ、語学のクラスは指定席でしたが私の隣に座っていたHM君はヴァイオリンを弾くのが趣味。彼は寮に入っていました(僕も出来れば入りたかった!)が、寮の屋上で弾いて暮らしていました。彼はハイフェッツが大嫌い。私に「だってハイフェッツって無機的でしょ?」と言います。私はヴァイオリンに詳しくなく、ハイフェッツみたいな著名人をどうして嫌うのかな、と思った次第。そこで発見したのですが、その寮の食堂に、オンボロのピアノが一台あり、常に鍵は掛かっていませんでした。さあ〜 っと舞い上がったのですよ。これダ。またキャンパス内にある同窓会館にもピアノがあることが分かりました。嬉々として楽譜を抱えてピアノを再開。決して難しい曲では無かったのですが、久しぶりに弾くピアノに熱中。その後専門課程のあるキャンパスに移ったのでまたピアノ難民に。これは何とかして買わなくちゃ、と思った次第です。研究室の先輩がやっていた某私立大学付属高校の講師の口を譲って呉れたので、そこでせっせと稼いで貯めました。貯めると言っても、昔から講師は薄給と決まっていますから、1時間当たり500円にしかなりません。それを週に8時間教えました。これは延々と続き、5年間も教壇に立ちました。最終的には週10時間。そして追加した2時間はこの私立大学特有の制度で、その単位を大学に持ち越せるというもの。大学紛争の時代ですから、頼まれて担当した入試監督業では、ゲバ棒をもった者が乱入した時の処置法まで言い含められました。

やっとピアノを買えるかも、と思っていたら岩国市の祖父が倒れたとの知らせに、黙ってそれを両親に旅費にと差し出してしまったのダ。あれやコレやで遅れて、25歳の春にようやく待望のピアノを買いました。ある日、新宿の販売会社に行って、恥ずかしいからと業者に弾いてもらって音を選びました。音なんかどうでも良かったのですけど。アポロ社のピアノでした。結婚した29歳までこれを楽しむ。レパートリーは私にとって最初の出会いだったシューベルト92-2から始め、ショパンのワルツ、ポロネーズ、ノクターン、ベートーベンの幾つかのもの等。とにかく楽しい、楽しいの一念でしたから、夕方になるとさっさと帰宅しました。友人達から、これから飲みに行くんだけどどうせ貴君は帰るんだろ?と言われても平然と帰った次第。ひたすら至福の時を過ごしました。

婚約時代に家内の実家で最初に弾いたピアノは、シューベルトの即興曲90-4でした。結婚した時、最初に借りた家は狭すぎたので、観念してアポロ社のピアノは妹にやってしまい、またピアノ難民に戻りました。米国から帰ってから住んだ所はアパートでしたが、床面積も増えたので、ここでヤマハのピアノの大人しいのを買いました。サイレント・ピアノがまだ出現していなく、弦が張ってあるが音を大きくするにはエレクトロニクスに頼らなければならない、という代物。アパートでピアノを弾くにはこれしかムリ。楽しんだのはバッハのイタリア協奏曲、ショパンのスケルツオ、ショパンのエチュード、ショパンのプレリュート等々。それが猛烈に忙しくなり、無理ムリ無理。そして実質的にまたピアノ難民化。職場で新しいプロジェクトの開始に伴い、新人を募集したら1人の求人に対して8人が応募して来て、連日の面接。その応募者の中に、実は自分はヴァイオリンを弾くんだが、どこか弾ける場所はありますか?と聞いた男がいました。屋上で弾く人がいるから出来るでしょう、と答えたのです。XXX機構ではその所長が自らヴァイオリンに狂っていましたから。結局その人はOSK大学に就職してXXX機構には来ず。そして私は別のアパートに移りました。


アンドロメダ星雲
図:アンドロメダ星雲

私の体が不調だったのは、社会的に最も重要な時期と重なります。当時、ある雑誌の依頼があって、エッセーを連載したのですが、その最初の原稿を投稿するまでは元気そのものだったのですが、第2報を投稿する直前に連載は中止されました。しかし、その編集者がやさしい人で、いいですよ、体が御直りになってからまた出して下さい、と言われたのでホッとしました。数ヶ月間、連絡もしなかったのです。全く言い訳にもならないのですが、本人の状態からそうせざるを得ない状態だったのです。第2報は旧原稿そのままに印刷されていました。結局これは連載12回まで続き、最後は自分から辞退。この連載を書かせてくれた編集者は変わり者だったのでしょう。だって雑誌自体は普段我々の目に留まるような一般雑誌ではなく、高価な専門誌だったのです。思う存分書いたし、私も毎回出始めと終わりには自分の趣味の話も書いたので、良い記念品が残りました。何より良かったのは、書く間に様々な記憶が復活してきたことです。やはり頭脳は使ってこそ、なんですね。

国内会議最終講演で述べたことを紹介しましょう。我々が避けることの出来ない宇宙や地球の寿命に関する話。こういう話は途方もなく、ヘタすると気違いのようにも取られるので、最終講演の時まで待って話したのです。地球の寿命があと45億年強。これは太陽の寿命ですが人類はその中で生活しています。人類が生活できるのも太陽がある限り。どんなに工夫してもこれから逃れ得ない。ロケットに乗って他の恒星に向かえば、と考えたくなりますが、それは別の重大な生物学的問題(微小重力に耐えられる生物設計になっておらず、また宇宙線の被ばくを避けられないため)をはらんでいるので到底無理。あくまで45億年です。何が起きるのか考えたくもないのですが、全てが終焉に至るということでしょうか。人類が永々と築いて来た文化も文明も何の痕跡もなく消滅してしまう!もちろん、オーディオも消えます。ワーグナーの音楽も、トマス・マンの小説も、源氏物語も、全て、あったことさえ忘却の彼方に。もう一つ、「進化」という大問題があることを考えると、人類は数千万年以内に姿形も進化してしまう(我々がいつも触れる事を避けている大問題!)でしょうから、現在の形態はもっと短い時間しか無いはず。


クリムトの「接吻」による刺繍
図:クリムトの「接吻」による刺繍

人類が何等かの知恵によって、これから逃れることが出来たとしても、それで終わりではない。宇宙には2000億個の銀河系があり、それぞれの銀河系は2000億個の恒星を含んでいます。その中の一つが地球だということ。この一番根本にある大宇宙そのものの寿命が、有限らしいと言うこと。それは何を意味するのでしょうか。人類の浅知恵ではどうにもならない。宇宙は膨張し続けていますが、永久にその膨張を続けるのか、それともある所で膨張が停まり、逆転して収縮し始めるのか、という問題がありますね。これは結局、ニュートリノの質量ありや否や、という問題に帰結します。どうも質量あり、という説が有力。宇宙に寿命があれば、今存在しているものも、全てが消滅することを意味します。誰もそこから逃げられない。これをどう考えても、事態は変りません。宇C機構の故O林先生は太陽系以外の星への移住を勧められましたが、それも一時的な慰めしか得られない。一切合切がリセットされる! こう考えるのはpessimisticに過ぎますか? 何百億年後に起きる問題は考えない方がトク? 今年出た一般雑誌記事では、真の終焉は1,000兆年後だといいますが。

一時的な慰めになるピアノ音楽に戻ります。ショパンのエチュードを考えましょう。1970年頃にポリーニの新譜が出ましたが、それがショパンのエチュードでした。それはあらゆる図書館に置かれ、あらゆる者を震撼させたものです。私は本当にあのエチュードだけには脱帽です。どう言い訳しても、あれ程完成度の高いレコードを示されると、どうにもならない。そもそもエチュード・アルバムとして24曲を全て録音したピアニストって限られます。ルービンシュタイン、アシュケナージ、すこし古いがコルトーもありますね。そしてアルゲリッチはあることはありますが、正規スタジオ録音ではないらしい。ホロヴィッツなぞエチュードの全曲録音には見向きもしていません。決して技術的に楽だからではありません。ポリーニ盤が出て以来、これと比較されることを意識しなかったピアニストがいるでしょうか。完全、万全、あらゆる賛辞を捧げますし、それもノン・イクスキュースで捧げます。どんな見識の違いがあっても、このエチュード・アルバムの前には一もニもなく、完璧なメカニズムを目指す方向ではこれだ!と申し上げたい。イタリアの大伽藍。これに挑戦したポリーニには賛辞しかありません。もちろんメカニズム以外の「味」を求める方向もあるのですが、練習曲ということを考えると、やはりポリーニは凄い!

そして私もこのエチュードを買い求め、リファレンスとして使っています。冒頭の揺らめくような、万物を揺るがすアルペジョーネ。凄い!音楽としては単純な分散和音に過ぎないのに、叩きのめされてしまう。好き嫌いを超越しています。この曲の演奏の判断基準となり得ます。早速ながら私も挑戦してみました。一応、最初の曲は弾けるようになりましたが、余りのブザマさに笑う気にもなれない。私のショパンはエネルギー密度が水みたいに薄いし、入神の境地とは程遠いし、ぼけた写真を見るみたいです。他の演奏家達が開く演奏会でもしばしばエチュードは取り上げられますが、彼等は指は良く動くのですが、その音密度は今ひとつポリーニに及ばないかも知れません。そして私自身はもう指が動かない。あきらめました。


フォルテ マーク

このポリーニを聴いて感心した当時、私が使用していたオーディオ装置は、マイクロのMR-711に英デッカMarkVを繋いだプレーヤーと、ラックスのSQ507Xというプリメイン・アンプ、そして日立のHS-500というスピーカーの組み合せでした。

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