2008.9.29


第4-1話:NY-1978年最初の海外生活


下記の内容は私の海外活動の最初の日々です。一期一会という言葉があります。誰とどのような形で関わるか、という点が大きく後に影響します。私の場合を思うと、やはり原点はニューヨークだったのですね。あとで欧州にウエイトが移ったとしても、なおニューヨーク時代のことを忘れられません。その最も重要な日々をここに記したいと思います。以下赤字で書いた箇所は2008に書き加えたもの。

[アメリカに行く]
私が初めて飛行機に乗ったのは、RRR機構の主催する DC-8チャーター便で、ノンストップで日本上空を駆け巡る特別便でした。朝早く成田から乗り込み、イスも取り払ったガランとした機内に大小様々な測定器をセットしました。その時のセッティングをやってくれたのが、我家で私のオーディオを聴いてくれたTE氏でした。RRR機構のMO氏はこの航空機測定の代表として張り切っていて、ここでの出会いが後に影響を及ぼしたと思います。つまり私の就職先だったXXX機構では、まだ私の本当に好きなCOSNが出来ず、むしろ地上の諸々を扱う部署しか無かったのです。MO氏の仕事を横目でチラチラ見ておりました。それが20年後に突然にXXX機構にもCOSN部門ができることになり(待てば海路の日和!)、MO氏は客員として私のグループにお招きしました。私はここで約10年間過ごすことができたのですが、そこに至る20年間は、私は専門と少し違うことをやっていました。

XXX機構に行こうと決心した時、私は20代の終わり。実に長い時間を大学で過ごしたもので、様々な資格の全てを合わせると合計11年間も居たことになります。コレだけ居るとそこの臭みが染み付いてしまう。その間にあった幾つかの移転話、それらも魅力的ではありましたが、何か本人が燃えなくてグズグズと過ごす。今考えると随分贅沢に時を過ごしたと思います。結局、私はXXX機構で働くことに。

心を入れ替えて新しい環境に順応しましたが、その4年後に海外に行くことができて、そこで、ついこの間までやっていた課題と正面から取り組めました。海の向こうでやった課題が「○○をやります」、「これをやることは日本の将来にとって極めて重要です」とう表向きのふれこみとは少し違って、実は主に「▲▲」をやったのですが、相手方がそういう戦力を欲していた、というマグレ当たりもありました。

面接は口頭型式でしたが、前の人が質問に上手く答えられなかったという幸運(!)もあり、私が行くことになりました。産まれて初めての航空機旅行、しかも最初から海外だったのです。いつの日か、海外に行きたいと思っていましたが、実際の話として浮上してくると、今度は不安で一杯です。私の知識で海外でやって行けるかどうか等々、カッコ良さだけで済まない、現実の問題が山積み!音楽会どころか、オーディオどころか、まず生活できるかどうかが問題。それで頭が一杯でした。

相手方のことは私も良く知りませんでした。当たってから手当たり次第に行き先を選んだのですが、ニューヨーク、ボストン、サンフランシスコの3ヶ所にある研究機構や大学が候補に上がりました。最初にニューヨークのYYY機構から受け入れOKの返事が来ました。当時YYY機構にはHやWlと言う著名人(HやWlについてはこの「音楽のすすめ」第2章に詳述してあります)が居ました。最初から最も競争の激しい所に飛び込んだのですから、今思えば随分冒険をしたものだな、と言うところ。大体、住む所も決めずに、まだ2歳と0歳の娘を連れて、妻と4人、飛行機に乗り込んだあたり、今だったら頭がグラグラしそうな感じです!

[フラッシングに住む]
とにかく到着後に、直ぐ住居を決めなければと思い、あちこち探しに出掛け、クイーンズ区フラッシングに新築中だった安アパートと契約しました。契約書にサインをしたのが、到着後3日目でした。イタリア人の家主と仲の良かった近所のLC嬢の案内であちこち買物に出掛け、安物の家具や食器を買い込みました。ベッドはLC嬢の中古品を入手。とにかく動き回りました。それも赤ん坊達の相手をしながらですから、大変な思い。妻も本当によくやってくれました。またYYY機構にも顔を出して、挨拶等をして、数日間赴任が遅れることを了解して貰いました。こういう海外進出は少しでも若いうちにすることをお勧めします。若いと言うことは、それ自体、価値があるものです。
フラッシング到着当時。妻は乳母車を押している
図:フラッシング到着当時。妻は乳母車を押している。

住む家では大変苦労しました。商社マンの場合には「順送り」という事もできますが、我々の仕事ではそれは望むべくも無い事。従って、イチからスタートしなければならなかったのです。私はそれまで宿舎に住んでいましたから、借家を借りるノウハウも知らないし、学生時代は自宅だったし、全てが初めてでした。ニューヨークのタイムズ・スクエア近くのアベイ・ヴィクトリア・ホテルから、夜の7番街に初めて第一歩を歩み出した時の、胸のトキメキをご想像ください。羽田始発から成田始発になって最初の留学生でしたが、一度に太平洋を飛べず、ホノルルで一旦乗り換え(そこで入手したトロピカーナのオレンジ・ジュースが英語で買った最初の買物)、ロサンゼルス空港のホリデイ・インで一泊し、翌日ニューヨークに乗り込んだのです。ロスの街が碁盤の目のように点滅するのを、初めて上空から見た時の感動は決して忘れません。エリザベス・テーラーやジョン・ウエインがこの下に居るんだ!、と身震いしました。

[乳母車を押して]
到着した時からメトロポリタン歌劇場(メット)やカーネギー・ホールのことは気になりましたが、それよりも生活が優先。お金がないからポケットには大概往復の電車賃しか持っていません。だから色々見ても、見るだけ。それで済んだのです。地下鉄は一度乗ればどこまで行っても、乗り換えても、片道で25セント、往復で50セントで、均一料金。急ぐ場合は25セント硬貨(クオーター)を投げ込めば、それでも自動開閉機のトビラは上がりました。これがドンドン値上げして、今や片道でも1ドルを越えます。活動資金は日本から送ったウオール街にある第一勧銀にデポジットして小切手帳を貰ったのですが、日頃の小銭は近所のイーストリバー・セイビング・バンクに口座を開きました。早速アパートに電話を引かなければなりませんが、申し込みに行きますと銀行の口座番号は?と聞かれます。一方で銀行口座を開こうとすると、電話番号は?と聞かれます。どっちが優先するかなんですね。気を使ってくたびれました。銀行とニューヨーク・テレフォン社の間を何往復したことか。また口座を開いた後、最初に引き出せるまでに1週間程度かかりますが、その対策を怠ったため、約2週間ほど、懐と胃袋が寂しい思いをしました。

金曜日の夕方に銀行から100ドルずつ引き出しました。家賃とか多額の支払いは別として、食料品に1週間100ドルが我々の原則でした。それもアパートの近くのスーパーで買物をして帰りますから、実際に妻に渡したのはもっと少額になります。食料品は手を掛けていないものが安く、人手が掛かったものは高いという原則が分かりました。例えば、牛肉の塊は安いが、それから作るハム、ソーセージは高い等。また食料品には消費税が掛かりませんが、その境目が問題。お菓子には掛かります。妻は私の留守中にあちこち買物等に出掛けていましたが、ある時から近所にある教会でやる英会話教室に通い始めました。また始めからでは無いのですが、娘を見ているとやはり幼稚園に入れなくちゃ、と妻は考えたようで、自力でバスを乗り継いである幼稚園に通い始めました。またベビー・シッターの事も妻から聞きました。妻には感謝です!

妻はアメリカ生活と聞いて、別の絵を描いていたようです。TV映画「パパは何でも知っている」のような家。勝手口は、網戸とドアが2枚重なっている形。ああいうのは全くの夢の夢です。皆が夕方までに自宅に戻る生活、と言うのも決して皆がああではなかったようです。少なくともニューヨークのフラッシングではそう言う生活は縁遠い。基本的にアパート住まいですね。アパートの場合、入り口にメール・ボックスがあり、鍵で開閉しますが、そのさらに内側に鍵で開けるドアがあり、それからようやく内部に入れます。あれはあれなりに結構なものだと思います。アパートの床には何も無かったのですが、子供のたてる騒音を考えると絨毯が必要になります。我々はカーペットを敷いたのですが、後のことを考えておりませんでした。出る時にはやはり、剥がさなければならないのかな、と思っていましたが、イタリア系の家主が善人でしたし、娘達をかわいがってくれた上、カーペットはそのまま敷いて置いてくれ、と言われたのでホッとした覚えがあります。

アパートに引っ越したばかりの夜は、ハローウィンのお祭りだったので、早速子供達がやって来てお菓子等をねだられたのを覚えております。そういう楽しい話題ばかりではなく、アパート暮らしを始めたころ、ものを盗まれたことも。被害としてはショッピング・カートやベランダの植木鉢などが消え去りました。また妖し気な黒人がフラっと来て工具を貸して呉れ、というから貸したら戻って来なかったとか。やはり日本みたいに皆が善人という仮定は、ニューヨークでは通じないようです。またどこからかスペイン語を喋る数人がやってきて、アパートを借りたいから、って言うのですが、さすがに警戒して事務所を教えて済ませました。でも住めば都ですよ。大層暮らし易い街だったと思います。どうしても日本食が欲しかった場合、オリエンタル・フードの店も2軒ありました。"大道"と"青華"(豆腐まで売っていた)。でも我々は最後まで、食料は買っても炊飯器は買わずに済ませました。私は近所のスーパーマーケット"Dan's Supreme"、妻は"Key Foods"を愛用していました。植物園に行く通りではインド料理店も数多く、目立ちました。

[買物について]
デパートはコルベッツとガーツとアレクサンダーズの3軒。ウールワースもありましたが、そこは全くの安物ばかり。でも我々は愛用しました。最もデパートらしいデパートだったコルベッツは今は潰れ、ニューヨーク・テレフォンのオフィスになっています。あちこちの店をウインドウ・ショッピングするのが楽しみでしたが、ある店にクリスタルのバター・ケースがあり、ああいうのが欲しいな、と思っていました。私は当時そう言うキラキラとしたクリスタルが好きでしたから、C(当コラム「音楽のすすめ」第2章を参照)の家の玄関ホールの天井にクリスタルのシャンデリアが輝いているのを見て、驚嘆したものです。色々なことが思い出されます。最後にお世話になった(帰国の時、食器を売ってしまった後は頼りになる)マクドナルドとケンタッキー・フライドチキンの店。町中にあるロシア人、イタリア人、ユダヤ人、中国人、インド人、韓国人、そして日本人のための新聞。本当にインターナショナルな街です。少なくとも当時はそうでした。今は韓国人街になったようです。

あと特に記憶に残った店が数軒。まず到着後すぐに見舞われたのですが、トイレがフラッシュしないトラブル。水を押し出す器具を買いに金物屋に朝出掛けました。どう言えば意味が通じるか危ぶみましたが、何となく通じてホッとした記憶があります。またペンキを買うため、少し遠いNorthern Boulevard通りにあるペンキ屋へ。ここには2度行った覚えがあります。そして近所のジーンズショップ。ここではサイドに虹色の入ったものを購入し、帰国後も愛用しました。そして妻に感謝の意を表したく、かねてより計画していた"Papa's Fur"でのミンクのハーフ・コート購入。1,500ドル。猛反対する妻を説得しましたが、実際ニューヨークの冬の寒さはナミではありません。冬の夜、これなくしては外出は無理だと思いました。新聞の日曜版の広告をみると分るのですが、ニューヨークでは毛皮は贅沢品ではないことが分ります(当時は動物愛護はまだ盛り上がっていなかった)。毛皮の広告が溢れています(あとは家屋の売り広告と、アパートの広告)。一番安いのはウサギとラクーンで、次に安いのは赤キツネ。銀ギツネは高く、最も高いのは黒いミンクやセーブル。店屋はヌートリア(2,200ドル)を勧めましたが、こちらは手の届く所を入手。あとでフラッシングを再訪した時にはもう"Papa's Fur"は潰れていました。

私自身のためには、着いて暫くして17丁目にあるバーニーズのボーイズ・ショップで、裏側に模造毛皮を張ったスポーツ・ジャケット風の品を購入しました。30才を越えて何処がボーイかと言われそうですが、それでサイズはピッタリ。バーニーズというと日本では高級品の扱いですが、実際にはそんなことなく、単に品数が多かったからそこを選んだだけ。これは帰国時には、ムービング・セールで僅か5ドルで売却。また靴で困りましたが、それでも買ったことがあります。上着も40以上のサイズは多いのですが、私はその8割程度しかない体格だったから、苦労しました。また、どこへ行く時も赤ん坊を乗せた乳母車を引いて行ったのです。5番街のサックス・フィフス・アベニューのような高級デパートへも、見物だけしに行きましたが、やはり同様のスタイル(赤ん坊づれ)で。ブルーミングデールズへは帰国する頃になってようやく。庶民的なメーシーズとかギンブルズ、アレクサンダーズ(ブルーミングデールズの隣にある)は少し頻度が高いかな。B.オートマンには2-3回のみ。でも当時は買ったことがありません。新聞は主に週末だけ買いましたが、大概はニューヨーク・タイムズ。1ドルします。時折デイリー・ニュースやニューヨーク・ポストで、35セント。さすがニューヨーク・タイムズには感心したので、帰国後、もしこれを個人で買ったら幾らか、を調べたら航空便で各月15,000円程度と分り、諦め。でも、悔しいけれど日本の新聞は太刀打ちできないな、と思う格調の高さを実感。

乳母車を押しながら、歩いて行けるのは、主にフラッシング植物園とか、あるいはフラッシング・メドウ・パーク。青々とした草の広がりの中に、ニューヨーク・メッツの本拠地シェア・スタジアムがあり、また線路を挿んで国際テニス・センター(現在はビリー・ジーン・キング・ナショナル・テニス・センターと改称)があります。後者では新星コナーズ、エバート、またキング夫人、コート夫人等の古豪が活躍しました。メドウ・パークは余りに広く、未だに全貌を知りません。ただその端から、遥か向こうにマンハッタンの摩天楼群が見えます。素晴らしい眺めです!また、大昔に世界博覧会をやった時の名残とかで、地球儀の模型などがありました。

[マンハッタンに出掛ける時]
また週末には、よくマンハッタンにある博物館や美術館等に出掛けました。大概タダです。公園では北のブロンクス動物園から南のバッテリー・パークまで。ブルックリンの屋台の並ぶコニー・アイランド海岸にも。乳母車を押しながらの行楽ですから楽ではありませんが、クタクタになりながらも、雨に降られても、大いに楽しみました。何か楽しまなくちゃもったいない、という脅迫観念に襲われつつ。家族でタクシーに乗ったのは、最初にYYY機構に挨拶に行った帰り道だけです(但し家族はYYY機構の内部に入っておらず、妻も内部を見ていません。今思えば可能だったと思います)。ひたすら徒歩でフラッシングもマンハッタンも楽しみました。お弁当は持参品ですが、ティッシュの空箱を利用して、その中に手製のサンドイッチを詰め、ジュースの小ビンを何本も抱えたスタイル。そして、まずはタダで入れる所を優先して訪問。これは自信を持って言えるのですが、貧乏であることは少しも引け目で無く、当時程楽しく生活をした時期はありません。それは誰も知り合いが居なかったし、誰からも小うるさいことを言われず、自分達で生活の全てを設計できたからだと思います。その代わり、全責任を自分達が負うという生活。やはり若いということは楽しい!

ニューヨークは行き先としてポピュラーですから、色々と解説書が出ています。それぞれに著者の思いが出ていますが、私が最初に買った「米国での生活」は少し高級趣味の本でした。「米国では買物に行く際は必ずストッキングを履かなければならない」とか。「裸足でサンダルは御法度」とか、「化粧も必ずしなければならない」と書いてありました。でも経験から申しますと、そんなことはありません。日本並みです。少なくとも70年代のフラッシング地域ではそうでした。何となく分ったのですが、「○●しなければならない」と書いた著者は高級アパートの住人だったようです。お金持ちの世界のヒトであり、我々には無縁だと、後で思い知った次第。憧れを持つのは勝手ですが、必ずしもそういう生活ばかりではない、ということですね。フラッシングでは最も高層のアパートメント・ハウスは、同時に最も高級な所でもあったのです。マンハッタンのレストランで成功した日本人がそこに居ました。しかし何らかの理由で、帰国することになりましたが、直前に、家族を残して本人はベランダから飛び降り自殺してしまいました。勝てば官軍ですが、そのために支払う対価も大きいようです。

ここからマンハッタン南部にあるYYY機構に通って勤務しました。毎日地下鉄の始発に乗り、平均して家を出てから45分間で到着します。それも当初はタイムズ・スクエアで乗り換えて1番線経由だったのですが、後半はE線、F線に乗り換えて、グリニッチ・ヴィレッジ駅経由で行きました。これは凱旋門経由です。どちらも楽しかった。帰る時はさらに楽しく、一番線ルーズベルト・アベニュー駅で乗り換えて少しでも早く帰ることに。途中までKM(当コラム「音楽のすすめ」の第2章参照)と一緒のこともありました。朝家を出るのが7時すぎ、夕方家に戻るのが6時頃です。こういう生活の繰り返し。当時YYY機構は、入り口のsecurity検査が簡単だった上、ガードマンが顔を覚えてくれたので、単に入り口で身分証を貰い、それをピンで胸に付けて中に入りました。それだけで済みました。


[以下は2008年追記]
YYY機構も現在では職員による出迎えが必須ですし、しかも入り口の位置もハドソン河側の道から、ハウストン・ストリート側に移りました。そもそもビルの3分の1を売り払ってしまったので、昔日の面影はありません。余りセキュリティ、セキュリティと強調されるのも寂しいな、と思います。私はここを去る時、HONORARY MEMBERと金文字で記された盾を貰いました。今でもOBとして通せるかも知れませんが、でもその機構を統括するお役所がEE省からFHS省に変わりましたし、昔の記念品は使わないことにしています。

当初から日記を付けていましたし、また本国に出す手紙に色々と書いたメモを取っておいたので、それを基にしてこれを書きました。手書きからワープロに入力し直しましたが、1983年12月31日に清書が完了しています。この間に観たオペラやピアノ演奏会を全て網羅しているわけではありませんが、これらのバックグラウンドの上に、次に記す音楽日記をお楽しみ下さい。当WEBの主旨がオーディオであることを考え、音楽とオーディオの経験を中心に書きます。

(1978/79年の資料より収録。次回へ続く)



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