第4-11話:NY-タイムズ・スクエアで


(2009年1月14日)
以下はニューヨーク滞在中から作っておいたメモを基に、1980年に原稿化して、ほとんど原文のまま清書(1993年12月31日に完成)し、さらに短く2/3程度に縮めたものです。青字は2009年に追記したもの。


[ミュージカル等について]
クラシックのことばかりに触れてきたが、事実ノン・クラシックの催し物は一度も行く機会がなかった。行きたいとは思っていたのだが、ミュージカルはオペラより高くつくのである。最低が12ドルする。下手をすると20ドル以上する。午後3時からタイムズ・スクエアのチケット・センターに並べば当日券が半額になる(トーファーという)ものの、ベビーシッターの手配のことを考えると、不確実なものに賭ける気はなくなる(当日の3時になってベビー・シッターを確保するのは難しいし)。一人だけ行くなら可能。

同僚のGl女史がYYY機構きってのミュージカル通らしく、JM部長もWl氏もミュージカルのことはGlに聞けという。彼女の推薦したのは何と言っても「コーラス・ライン」だった。その次に「Dancin'」。町中いたるところで、この2つの広告が目にとまる。(しかし1980年春、とうとう「コーラス・ライン」は三千数百回の記録と共に閉幕したという)。また「Eubie」とか「ドラキュラ」とか「Elephant man」とか。また「グリーズ」。「Ball room」、「アニー」もはやっていた。ニューヨーク・タイムズによると「アニー」は中年ミュージカルだという。これはバーナード・ショウの戯曲「人と超人」のパロディであり、この劇中の「アン」が「アニー」として出てくるらしい。ブルーミングデール百貨店の玩具売り場に、アニー人形を5ドルで売っているのを見つけ、プレゼント用に買った。「コーラス・ライン」は大劇場用のミュージカルとしては、ニューヨークの記録を持っているという(もっともオフ・ブロードウェイあたりの小作品なら15年ぐらいやっている出し物もあるという)。しかしこの時点の収入ランキングでは7位程度。1位は「ドラキュラ」であった。「Dansin'」はキャストが落ちたらしい。いつかラジオのインタビューで「あの頃は良かったですね…」なんて言っていた。YYY機構の5階エレベータ前に、映画やミュージカルの割引券がしばしば積んであり、「Eubie」や「Elephant man」、「Dancin'」の券も見た。

この秋は「ピーター・パン」のミュージカルが大人気だった。TVでもよく宣伝が出る。そして「Sarava」。もっと最近の「ウェストサイド物語」や「サウンド・オブ・ミュージック」など昔のもののリバイバルが、続々とあるという。ニューヨークはショウ・ビジネスのメッカとも言える所で、ミュージカルは常時50本もかかっているが、人気があれば10年でも続くかわり、ダメとなればどんなに準備し、お金をかけていても、初演後2日で打ち切られることもあるらしい。TVのコマーシャルを見ていれば分かることだが、前宣伝が長かった割には、あっという間に消えてしまったものが幾つもある。

カーネギー・ホールではライザ・ミネリのショウもあった。また近郊のホテルではポール・アンカなど。TVではカーペンターズ、パティ・ペイジ、シャナナなどの番組を見た。ブロードウェイの中心であるタイムズ・スクエアには日本のピンク・レディーの大看板が出ていて人目を引く。"No.1 selling female singers in the world"というふれこみ。Korvettesのレコード売り場にも彼女達のレコードが並べてある。映画は全く見なかったが、YYY機構近くの映画館では「ヘアー」をやっていたし、フラッシングでは「グリーズ」をやっていた。ミュージカル以外の映画では、何と言っても「Blood line」(オードリー・ヘップバーン)。そして「Boys from Brazil」、「Alive」、「Superman」。そういえば「グリーズ」は生舞台を見に行く積もりだったのについに行かず。もっとも「Superman」は夏休みにマイアミ・ビーチへ行く時と帰る時の2回も、飛行機の中で見た。毛色の変わったところではマジソン・スクエア・ガーデンで、ペギー・フレミングを花形とするアイス・スケート・ショウを華々しく宣伝していた。一度見たかったのだが日程が空かず。その後ロングアイランドの郡部でも再演したようである。
ハドソン・ストリートの地下鉄出入り口近く。
ハドソン・ストリートの地下鉄出入り口近く。

[Wt氏について]
帰国2週間前に、TS大に就職したWt氏から電話が入り、ニューヨークに来たいと言う。オールバニに来ていて、TH大のOk氏も一緒だと言う。もう我家の帰国準備は大概済んでしまい、鍋も皿も、またベッドまで売ってしまった後だから、フラッシングに来て貰うわけにはいかなかったが、ニューヨークを案内することにした。アベイ・ヴィクトリア・ホテルのシングル・ルームを予約しておいた。そしてケネディ空港からのAir Port Expressの終点にあたる6th Avenue,57th Streetの角で会うことを約束した。

久しぶりに会うと彼は口髭を生やしている。5番街からロックフェラー・センターへ行き、RCAビルの屋上に案内した。そして34th Streetまで歩き、デパートのメーシーズに行き、さらにペンシルベニア駅からリンカーン・センターへ案内した。あいにく手持ちの切符も無かったのだが、シティ・オペラに行ってみると「カルメン」の当日券がまだあって、Wt氏はそれを求めた。メットにも行ってみると、ちょうどその日のマチネーが始まるところで、大勢の観客が入り口に行列しているのにぶつかる。そのまま地下鉄でタイムズ・スクエアに戻り、ブロードウェイの風景を見物。カーネギー・ホールは閉まっていたが、Wt氏のために記念写真を撮り、7th Avenueと50th Street角のカフェテリアでコーヒーを一緒に飲んで、その日は別れた。

翌々日、再びアベイ・ヴィクトリア・ホテルで会い、チェックアウトを済ませたあと、セントラル・パークの奥深く、ベスタの噴水まで歩いた。そしてConservatory Pondの横から5th Avenueに沿って小雨の中をMuseum of Modern Artへ行く。Wt氏の希望でピカソの「ゲルニカ」を見るためである(このゲルニカは近くスペインのプラド美術館に返還されることになったと聞く。3.5ドルもするのを2回も見たのだが、いい時に行ったと思う)。6th AvenueのBurger Kingで昼食を大急ぎで済ませ、F trainに乗ってRoosevelt Avenue駅そばのラ・ガーディア空港行きのバス乗り場まで見送った。もっと時間的に余裕があったらメットやカーネギー・ホールにも一緒に行けたのにと思う。Wt氏はそのままヴァージニア州ワロップス・アイランドのロケット実験場へ飛んだ。昔僕が使ったIRNデータがワロップス・アイランドのものだったのを思い出す。そしてWt氏は1980年にニューヨーク州オールバニのニューヨーク州立大学のフェローとして契約したらしい。


[2009年に記載]
ここから後は2009年に書いたもの。ワロップス・アイランドというのは昔、ある事象の世界のセンターの一つでした。あとはネヴァダ州ボールダにある施設。あとの方は、落雷事故があって、そのあと2度と使用されなかったそうですが、わずか2年間稼働していた時の貴重なデータが旧Dp機構にあり、それを借りて僕は自分のDdを仕上げました。Wt氏はTS大学の前身から来た人で、私より2歳年上。旧TS大のNk教授のところで戦力を欲しがっていたので、彼に話をしたら大層喜んでいました。当時私自身はNk教授を良く知りませんでした。Wt氏の川崎の自宅を先輩のHs氏と一緒に訪問したこともあります。

実は私がラックスのアンプを実際に購入する前に、Wt氏はそれを買っていました。また彼からスピーカーは何にすればよいだろうか、と相談を受けた時、私は自分が欲しかった候補のスピーカーとしてダイナコA25XSを勧め、彼はそれを買った経歴があります。そのスピーカーは私もおおいに関心があったから、それを彼のリスニングルームで、ラックスで鳴らした音を聴いてみたかったのです。ダイナコは素晴らしい音を出していた。ホロヴィッツの弾く幻想ポロネーズを希望したら、それを鳴して呉れました。私は大迷い。ダイナコも良いし、ローディも良いし、はたまた当時聴いたばかりだった、JBLのランサー88の音も、はたまたタンノイのIIILZの音も忘れ難い。どうしましよう?

自分の欲しいものはまず友人に買わせて、その結果を確かめておく、というのが当時の私のキタナイやり方でした(1968年頃)。そしてスピーカーで最後まで残ったのは、タンノイのIIILZと日立ローディのHS500でした。決め手となったのは、某レコード評論家KKが選んだのがHS500だったことだった。その評論家KKはまだ若く、従ってお金も限られるからムダなものは買わないだろう、と判断したから。それは大きな判断基準ですよ。それに当時IIILZの値段はHS500より若干高かった。前者が一台65,000円、後者は一台87,000円。ところがどうしてか、暫くしてからその評論家KKは別のスピーカーに替えてしまいました。一方、ダイナコA25XSは一台35,000円程度。周辺にはタンノイIIILZを使っている友人は居なかったのです。あとで聞いた話ですが、大学にいた人の親戚がかの高名なオーディオ評論家Sfで、Sf氏はまだ小さなオーディオ・ルームで聴いていたと聞きました。

カラスの歌う、ヴェルディ「マクベス」(デ・サーバタ指揮、スカラ座響)のMRFの海賊盤を勧めたら、彼も買って呉れました。勿論私もそれを買ったので、あとで再生装置を比較することが出来ました。また彼がある友人の結婚式で、何か弾く事になった時、練習するピアノを探していました。当時彼は自宅にまだピアノを持っていなかったのです。彼は米国で結婚しました。その彼が死去したというハガキを数年前に彼の娘から貰いました。亡くなる2年前に逢った時、彼の髪の毛は真っ白になっていました。合掌。

(ここまで1979年の日記より収録。次回へ続く)



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