第4-12話:NY-サンフランシスコの楽しみ


(2009年1月28日)
以下はニューヨーク滞在中から作っておいたメモを基に、1980年に原稿化して、ほとんど原文のまま清書(1993年12月31日に完成)し、さらに短く2/3程度に縮めたものです。青字は2009年に追記したもの。


[サンフランシスコ歌劇場]
だだっ広いロスアンゼルス地域では、歩いて回れるハリウッドに泊まり、2日間の観光を楽しんだ。ビヴァリー・ヒルズをタクシーで回った他はもっぱら足が頼り。ニューヨークでひたすら歩いた癖が抜けない。有名なハリウッド・ボウルの野外スタジアムはホテルから僅か徒歩15分のところにある。もう夏のシーズンは終わったと見えて何もやっていなかった。ただ、ほんの少し前までコンサートがあったらしく、至る所に痕跡が残っていた。白い塗料を塗りたくった枝とか銀色の背景がセットしてある。舞台近くの部分はテーブル付きのマス席になっていて、後方は木のベンチ。ワインを飲み、ポテトチップやピザを食べながら聴くものらしく、空きビンや缶がゴロゴロしている。最後列に立つと"HOLLYWOOD"という看板が遠い山並みに埋め込まれているのが見える。たしか高校生の頃見たレコード・カタログにはハリウッド・ボウル交響楽団という名が沢山目に止ったが、近頃はお目にかからない。

ロスアンゼルスを発ち、サンフランシスコに到着した。ホリディ・イン・シビック・センターに泊まったが、その晩はもうくたくた。日中にGolden Gate ParkとかTwin Peakとかいう遠方の観光見物で駆けずり回ったからである。たまたまTVのスイッチを入れてみると、ちょうどニューヨークからの生中継でエイブリー・フィシャー・ホールのサザーランド/ホーンのジョイント・リサイタルの最中だった。

その翌日、サンフランシスコ市内を散々観光見物したあと、夕方になって有名なサンフランシスコ・オペラ、"War Memorial Opera House"へ出向いた。この有名なオペラ・ハウスの名は重々知っていたものの、外観がどうなっているのか全く知らなかった。写真で見た覚えもない。ここはサンフランシスコ平和条約を調印した会場であり、キルステン・フラグスタート(S)がイゾルデを歌ったところ(1935)、そして戦後レナータ・テバルディ(S)とマリオ・デル・モナコ(T)がヴェルディ「アイーダ」を歌ってアメリカ・デビューしたところ。そしてマリア・カラス(S)がドニゼッティ「ランメルムーアのルチア」をキャンセルして全シーズンを壊滅させて市民を怒らせたところ。いろいろな名歌手や演出家がまずここでスポットを浴び、そしてシカゴやニューヨークに出ていく。これがアメリカ進出の定石らしい。

市役所とか裁判所とかお役所のビルをキョロキョロ見ながら、やっと"War Memorial Opera House"というプレートのある建物を見つけた。思ったより小じんまりした入口である。このあたりは人通りも少ない。外にはビルギット・ニルソン(S)の久々のアメリカ公演のリサイタルを告げていた。ニルソンは税金問題で5年間アメリカに寄りつかなかったのだが、やっと解決してメトロポリタン歌劇場(メット)で特別リサイタルを開く、ということは知っていた。(たしか100ドルとか150ドルとかいう特別料金だった)。ニルソンは後で知ったことだが、金銭感覚が鋭かったという(大体ニルソンその人が、プッチーニ『トウーランドット』では稼がして頂いたわ、と言ったというエピソードが残されている)。やはり定石通りまずサンフランシスコで再開することから始めるらしい。


サンフランシスコの坂道で撮った娘達。
サンフランシスコの坂道で撮った娘達。

[ワーグナー"さまよえるオランダ人"を観る]
1979〜80年のメットのR.シュトラウス「エレクトラ」は予定と違って、ニルソン復帰に合わせてニルソンのエレクトラ、リザネック(S)のクリソテミス役というベスト・キャストに変更された。1978年に観たものが貧弱なキャストだっただけに悔しい気がする。ロビーに入ってシーズンのスケジュール表を手にしてみると、レナータ・スコット(S)のポンキエルリ「ラ・ジョコンダ」とかプッチーニ「ラ・ボエーム」とかがある。そして今晩は何だろうと思って見るとワーグナー「さまよえるオランダ人」であった。実はメットの「さまよえるオランダ人」はもともとサンフランシスコ・オペラのためにポンネルが演出製作したものだから、そのオリジナル版がここにあるわけである。確かにメットの「さまよえるオランダ人」は素晴らしかった。妻は観てらっしゃいよと言う。ベビー・シッターとして自分はホテルで待っているから、という。それは気が進まないし、もう一度見たものだから、とためらった。「でも切符があるかどうかだけでも聞いて見たら?」と妻は言う。窓口には誰も並んでいないし(実はホールに人影は全く無かった)、中をのぞき込んで売り子のおばさんに尋ねてみると25ドルの席があるという。実はサンフランシスコ・オペラでは25ドルは最高の値段の席なのである。しかし今まで7ドルの席を愛用してきた身には25ドルは異常に高いし、「ラ・ボエーム」ならともかく又「オランダ人」ではね、と気のない態度をしていたら妻はまた強く勧める。結局一枚だけ買ってしまった。7時開演なのにこの時点で5時ぐらい。

大急ぎで近所のレストランで軽い夕食を済ませ、ホテルに戻る。服を着替えネクタイを締めて(ニューヨークからずっとネクタイは外していたから)6時頃出かけた。ホテルとサンフランシスコ・オペラは距離は300m位しかないのだが、途中が暗くてぶっそうだから遠回りしても明るい所を通って行け、と妻は言う。オペラ座のある直前の横断歩道のところでロング・ドレスとタキシード姿の老夫婦が立ち止っていたから、ひょっとすると同じ所へ行くのかしらと思っていたら案の定だった。

昼間見た時は、いささか薄汚くさえ見えたホールが何と光り輝いていることか。そこにたむろしている人々の衣装の豪華さよ。女性の3分の2はファッション雑誌から抜け出したようなイブニング・ドレス姿だし、半分以上の女性達は毛皮のコートに包まれている。男性の半分はタキシードだ。プレミエとかガラ公演はどうか分からないが、メットだったら普段はファミリー・サークルならGパンでもおかしくない。しかしサンフランシスコの聴衆は何とエレガントなことだろう。察するところ、ここはサンフランシスコの社交界の溜まり場なのだ。ニューヨークではエンターテインメントが余りに多く、オペラもコンサートもバレエもミュージカルも映画も数えるのが面倒なほどあるが、サンフランシスコで古典音楽を聴けるのはオペラ座しかない。だからサンフランシスコ市民がちょっと気取って集まるとなると、ここしか無いのだ。特にお金持ちはここに集合することになってしまうのだろう。

少し早目に着いたので、お登りさん丸出しでギフトショップを探し回った。プログラム売りのおばさんに尋ねて2階にあると分り、階段を駆け登る(サンフランシスコはメットみたいにタダではプログラムを呉れないのである)。2階はティー・ルームになっているのだが、そこを通り抜けて左の奥に行くとウィングの部分が売店になっていて、既に混みあっている。例によって本とブロマイドと、細々したスーベニール細工が並んでいるわけである。フラグスタート(S)とシュワルツコップ(S)、それにマグダ・オリヴィエロ(S)のポートレート写真を買った。店員にアストリード・ヴァルナイ(S)のは無いか、と聞いたがやはり無いとのこと。マグダ・オリヴィエロの方は、以前デル・モナコと組んだジョルダーノ「フェドーラ」のレコードが出たときに初めて知ったのだが、突き刺すようなシャープな切れ味の歌いぶりに強い印象が残った。それで、どんな顔をしているのか野次馬的な興味があったのである。ニューヨークで見た本に、オリヴィエロの年令は不詳だが『42歳(unlikely)to 72歳(probably)』と書いてあって笑い出したことがある。

本をあさっていたら、支配人アドラーの就任25周年記念のガラ・コンサートの写真集と、戦前からのサンフランシスコ・オペラ記録集が目にとまった。後者はやや値が張るので、結局ガラ・コンサートの本を買った。シュワルツコップやテバルディ、リザネックにベルガンサ(MS)、そして初めて見るレイラ・ジェンサー(S)などが含まれていて、確かにこの顔ぶれは世界一流だ。太平洋を含む半球で世界一のオペラ・ハウスに間違いない。(シドニー市民は異議を唱えるかも知れないが)

客席はきらびやかな衣装の紳士淑女で埋まっているが、前方の3列目のど真中に2人分空席がある。こんな上等の席を手に入れたわけである。おそらくsubscriberの夫婦が都合でキャンセルしてその切符をギルドに寄付したのであろう。まわり中が常連らしく互いに声を交わしている。耳を澄ましてみると「おや、しばらく見なかったけれど何処に行っていたの?」「パリに行っていたのよ。夏になったらブラジルで御一緒しましょうね」こんな会話が飛び交っていた。やはり、ここは金持ちの社交場なのだ。オペラ・ハウスの内部はかなり狭い。また古びていて金ピカのメット新館を見慣れた目にはみすぼらしく見える。しかし、この舞台でかつてフラグスタートがイゾルデ役を歌い、テバルディがアイーダ役を歌ったのだと思うと特別な感動を覚える。「さまよえるオランダ人」の演出はメットと全く同じ。ただメットでは遥に離れたファミリー・サークルだったので細かい細工は見えなかったのだが、今度はかぶりつきだから、小道具の継ぎ目や役者の表情までくまなく見える。ある意味でこれは逆効果で、あの死体や骸骨がぶら下がっているシーンの不気味さが少しそがれてしまう。つまり作り物であることが明らさまになるからである。ワーグナーのような現実離れしたストーリーにとって、なまじの写実は想像力にとって邪魔になる。

[日本のオーディオ]
帰国後に思ったのだが、日本ではオーディオはどんどんエスカレートしているらしい。特にプレーヤーは狂気に近い。ラックスの最新版は45万円だし、手作りで260万円というのも見た。ベルトドライブが復活しているらしい。ダイレクト・ドライブが出て10年もたてば変わるものだ。また、いつぞや「レコード芸術」で、Ts氏の批評をめぐってIh氏が挑戦状とも言える非難文をのせ、次の号でTs氏が反論するという騒ぎがあった。これは痛快だった。サザーランドがドンナ・アンナを歌ったボニング指揮モーツアルト「ドン・ジョバンニ」が事のおこり。実際聴いてみるとボニングの指揮はピアニシモを多用していているが、そんなに悪い指揮ではない。この事件以来、「レコード芸術」の批評は複数批評家によるものに変った。

また久しぶりに「音楽現代」も買ってみた。面白かったのは、Bs氏が他の評論家の記事を正面から名指しで批判していた。Bs氏は十数年前、朝日新聞で読んだ評論に大変共感を持って以来、特に意識していた人である。この人が僕の大先輩にあたるんだと!彼によるとクセナキスは数学を振り回して作曲しているが自分も数学や物理学は分かるので、その目で眺めればクセナキスはサギ師に過ぎない、と言いきる。そしてあの林康子がニース歌劇場で何とドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」の主役をやってスタンディング・オヴェイションを受けたそうである。立派、立派。米国の友人達に上げた切符のお礼として、R.シュトラウス「ばらの騎士」、ビゼー「カルメン」、プッチーニ「トスカ」のパンフレットが日本に送られてきた。「ばらの騎士」の第2幕のセットは素晴らしいものだったとCは書いている。


[2009年に記載]
私の今まで入れ込んだ演奏家を並べてみると、戦前の大家から新々気鋭の演奏家まで網羅しています。数だけは多い。即ち、きっかけとなったレナータ・テバルディに始まり、マリオ・デル・モナコ(T)、ジュリエッタ・シミオナート(MS)という3点セット、つづくマリア・カラスとエリザベート・シュワルツコップ。こういう1950年代の歌手達を決して忘れません。そしてその時代に勉強し覚えた、少し以前の世代のキルステン・フラグスタート、アストリード・ヴァルナイ、ハンス・ホッター(Br)という歌手達。さらにビルギット・ニルソン(S)、同じ頃に台頭したジョーン・サザーランド(S)。さらに時代が下ってレパートリー限定で、エディタ・グルヴェローヴァ(S)、ルチアーノ・パヴァロッティ(T)、またアグネス・バルツア(MS)。ぐっと時代を下り、チェチーリア・バルトリ(MS)。

これらの歌手の周辺にいたその他の歌手達、すなわちヘレン・トロウベル(S)、リューバ・ヴェリチ(S)、ジュゼッペ・ディ・ステーファノ(T)、チェーザレ・シェピ(BS)、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカーウ(Br)、レジーヌ・クレスパン(S)、マリリン・ホーン(MS)もいますね。まさに百花撩乱です。ここに挙げたのは強烈な印象のあった人ばかりですから、強烈さでは少し欠ける人も数えると天文学的数字になります。つまり私は1950年代から1980年代までの40年間を聴いて来たので、大概の歌手達(主に女性歌手)なら責任を持って説明できます。

ピアニストではどうでしょうか。コルトーに始まり、ルービンシュテイン、ホロヴィッツ、バックハウス、リヒテル、ミケランジェリ。そして少し若いポリーニ、アルゲリッチ、そしてグールド。特に印象が残っているのはこの程度。あとはクラウスなど。ピアノは声楽に比べると、その出現年代を余り意識したことがありません。ヴァイオリンとなるとその傾向はさらに著しく、ハイフェッツを聴きまくり、またオイストラッフ、グリュミオー。ずっと古いシゲッティや、逆に新しいデュメイ。すこし遡ってチョン・キョン・ファ。

あまり深入りしないことにしますが、私は最近の演奏家では2007年のチャイコフスキー・コンクールで優勝した神尾真由子に注目しています。TVで見たのですが、顔は見るからに自信に満ち、というより生意気盛り、かなり野心家だと思いました。でもそれくらいでないと演奏家の世界で成功するのは難しいだろうと思います。彼女の弾くチャイコフスキーは独特の説得力を持って迫ってきました。あのヴァイオリンがストラディバリウスだということを後で知りましたが、よくぞ貸して呉れたものだ、と思います。雑音に気を取られず、信じるところを追求して頂きたいもの。

こういう長い年代に渡って聴くため、再生機器ももともとのアナログ再生から、ディジタル再生に変り、特に記録する媒体だけでも、テープによる機器に始まり、カセットディスク、Lカセットディスク、DATに、さらにMD、そして今のMP3等のコンピュータへ。これほど変化の激しい世の中になると、各媒体を如何にして互いに変換するか、という大問題が生じます。先輩の中にはその判断を誤って、全部DATへ変換するから、と言ってCDを放出された方もおられます。人ごとじゃなく、私も気をつけないと!

(ここまで1979年の日記より収録。次回へ続く)



 <<第4-11話へ マーク 第4-13話へ>>
音楽のすすめに戻る