第4-13話:NY-音楽の記憶


(2009年3月27日)
以下はニューヨーク滞在中から作っておいたメモを基に、1980年に原稿化、ほとんど原文のまま清書(1993年12月31日に完成)し、さらに短く2/3程度に縮めたものです。そして現在の状況も追記しましたが、ここでは区別していません。全てを黒字で書きました。


[帰国時の驚き]
帰国した時、上司が出迎えて呉れたのですが、車の中で「もう少し国内の動向に気を使ってくれれば」、と言われた時は、ハテ何のことだろうと思いました。色々と話を聞いているうち、分りました。つまり我々の留守中に家財を預けておいた会社が倒産してしまい、現在その荷物がどこにあるか不明と言うのです。なるほど、と思いましたが正直言って預けた荷物が全部姿を消したとしても、さほどショックは無かっただろう、というのが本音でした。あれだけ切り詰めて生活できたのだし、例え行方不明でも、そうですか、と言うしかありません。幸い、荷物はさる所から出て来たのでメデタシ、メデタシ。本人にとっては枝葉末節なことでも、他人にとっては一大事だったのです。ご迷惑をお掛けいたしました。

正直言って、ニューヨークに居るときは、本国の動向にはまったく気を使っていませんでした。それは「音楽のすすめ」第2章19話にある「ある人」のように、四六時中本国の指示をあおぐ、という態度を我々はとってこなかったのです。実際電話をかけたのは正月に互いの両親に挨拶したのがただ一つの例外でした。本国から切り離されて、自分達で生きていくんだ、という姿勢です。当時はそれが可能でした。今だったらインターネットの普及により、四六時中連絡がつきますから、便利な事もあり、面倒くさい事もあり、だと思います。当時の私自身としては、ああインターネットなんて無くて良かったな、と思うところです。本国の仕事とは全く別の「もう一つの世界」を築けたのは、幸いでした。

[気ままな生活]
私が最初に海外に行った時の記録は前記の通りでした。今思えば、何と言っても最初ですから、色々と戸惑うこともあったのです。でも少しでも若い日に、こういう経験をさせてもらえたのはラッキーでした。しがらみから解放され、自分の思う通りに時間を使えたのですから。仕事面でも指図を受けること無く、思うまま。その代わり全責任を負わなければならないのですが、最後に責任を取る用意さえあれば、精神衛生上は申し分ありません。有頂天になった生活でした。日本国内で受けるさまざまな拘束は、誰でもしばしば受けることなので、書く必要もないかも知れませんが、要するに若い人には何も任せてくれないのです。本当にそうか、何か違っていないか、等々。確かにそれらの疑問は年配者だからこその知恵があるのですが、また多くは有益ですが、それでも1%に満たない確率で含まれている若年者の才能を摘み取っているかも知れません。年配者は心しておかなければならないと思います。

もう一度ニューヨークみたいな生活をやれと言われても、今だったら知恵が付きすぎていて、巧く行かないかも知れません。昔は真正直で、思ったことはそのまま言葉にしました。周囲に気を使わなかったし、それを若さでカバーできました。馬鹿正直だったかも知れません。それが次第に歳とともに周囲に気を使い、相手の反応を測り、効果を計算して、慎重に言葉を選ぶようになりました。ウソではなくても、その方が世の中と上手く付き合っていく為には必要か、と。大人の知恵!

勝手気ままな生活ぶりは、音楽においてもそうでした。自分の好きな音楽しか聴かない。マンハッタンから戻ったら、即FM放送にスイッチを入れましたが、そこで聴くのはワーグナー、ベルリーニ、ヴェルディ等で、今聴いても良い?なんて全く尋ねようともせず、もし演奏が気に入れば、延々と聴きましたし、もし気が乗らなかったら即座に切り替えました。まったく躊躇なく。それを許してくれた妻には深い感謝を捧げなくてはなりません。音楽会の切符を買う時も、妻と一緒に行くか、それとも単独か、はひとえに自分の気分次第でした。後に妻に言われたのですが「Kが素晴らしい演奏だったとほめるのは、いつも私が行かなかった時ね」。これはある意味では深遠です。無意識のウチに、そう言う判断で切符を買っていたのかも知れません。友人達と一緒に行く場合も、音楽そのものに熱狂してノメリ込むのか、それとも親しい人と社交を楽しむか、という判断。

[千葉県Inにおける生活ぶり]
これは千葉県Inに居るときも同様でした。食事が終わると妻は、「さあ、あちらに行ってオペラでも聴きなさいな」と言って皿を洗うために立ち上がったので、私はそれに甘えました(今だったら、もし子供がそう言う態度だったら、「なぜ一緒に皿を洗わない!」と子供を叱るでしょう)。我が家には結婚当初TVがありませんでした。TV の無い生活というのもオツなもの。彼女は昼間にステレオ(ラックスWL550、SQ507XとLoD HS500のセット)を掛けて、そのスピーカーから少し軽い音楽を流して楽しんでいましたが、当時はステレオは高価な品だから、とうるさいことを言ったに違いないと反省しています。

TVはそのうち白黒テレビをあげようと義弟が申し出てくれたので、それを受けました。それも壊れて、カラーTVを安く質屋の売店から買って来ました。嵐の日にエイコラサと抱えて。そうしたら良く知っている芸能人のカラーの顔を初めて見てびっくりしました。青江三奈とか辺見マリは金髪だった!結婚後最初に住んだ千葉県Inの家というのは超小型の庭付き一軒家で、4.5畳が2間しかありません。ただこの家だけが他家からちょっと離れていたし、近所の家まで少し距離があったため、夜中にどんなに大きな音も思うまま。時折開くレコード・コンサートなど、好きなだけ楽しみました。狭くても住めば都です。友人を6人も呼んだ事があります。ただ当時は自分がアルコールに興味が無く(コレ本当!アルコールは2の次でした)、全くウッカリ用意していなかったことがあり、お客に言われて、そうそう、とポルトガルのワインを出したことも。こういうことの積み重ねが、人生の知恵を産むのですよ。

音の大きさはオペラに限らず、ピアノ音楽でも発揮し、キラキラと派手さの際立つレコードを多く聴いたと思います。近所に図書館があって、レコードも貸してくれたのですが、そこで借りたポリーニのショパン・エチュードのレコードにドギモを抜かれたのです。結局あとで、自分用のレコードを買いましたが、この図書館の存在は偉大だったと思います。各地に出来ると良いですね。この音に恵まれた環境で、唯一残念だったのは、ピアノを置けなかったことです。学生時代にアルバイトして買ったピアノは家が狭過ぎて置けず、結局妹にやりましたが、もしここにピアノがあったらなあ、と嘆き、せめてエレクトーンみたいな鍵盤楽器でもいいや、と思ったものです。結局、リコーダーという極端に小さい楽器を選び、これを銀座ヤマハで入手しました。当時流行っていたボウリングのレーン用の木材を使ったものだとか。何か楽器を一つ、手元に置きたいという切実な欲求です。

[職業生活との両立]
こういう生活を楽しんだワケですが、本人たちは楽しんでも、周辺では眉をひそめていたかも知れません。仕事面では、当初、本人は必ずしも与えられた課題に惚れ込んでおらず、気楽に考えていました。それが次第に仕事に興味が湧き出し、そして色彩がガラッと変りました。朝も夜もヒマさえあればパソコンのBASICソフトウエアとタックルするようになりました。特に訪米後はBASICと仲良くなりました。米国時代はFORTRAN-IVでした。これが難しい!しかし皮肉にも私の仕事でない、と不遜にも考えた課題(自分達で取った日本唯一のオリジナル・データを5,400個も押さえていました)を世に出そうと思い、頑張りました。やる気が起きたのです。上司と話し合って、第2編から自分の思うように自由に論文を書いてもいいよ、という言質を得てからは、本当に一生懸命にやりました。内容は省略。1年3ヶ月の間に英語文献を5ツ発表し、結論を出しました。しかもNNA学会賞を貰い、ますます、仕事が面白くなって、仕事中毒に近づきました。

この仕事が忙しかった時期にはあまり音楽には親しんでおりません。妻は私には2種類の時期があって、ある時期にはオーディオ、オーディオと騒ぎ、次の時期にはレコード、レコードと騒ぐと言うのですが、両方とも読むだけで我慢した時期もありました。世の中の紳士諸公が忙しく働く時、音楽を敬遠するのも分らないではない。それは「敬遠」であって、決して避けているわけではない。この仕事を済ませてから。あの計画を建ててから、あの見込みを見届けてから、等々ですよね。もし実際に音楽から卒業してしまったり、逸脱することがあれば、それは元々音楽がそれほど好きでは無かったということになります。ここで違いが出ます。天が与える全時間長は万人共通で限られているので、どうしてもその時期、音楽に近づく時間の余裕が見当たらない場合もあるのです。敢て近づこうとすると、破滅型になります。破滅型というのはカッコ良く、芸術家には必須でしょうが、私みたいな凡人は違う。生活が掛かっていますから、全体のバランスを考えなくてはなりません。「うまくやる」しかないのです。そういうやり方を馬鹿にしたり、超越することは無理です。そこに芸術家と芸術家に成り損ねる凡人の違いがあると思います。自分が凡人だと自覚して、この考えに基づいて、オーディオ機器も選択している積りです。中庸の美学です。

私自身は最も長い時間ラックス社のプリメイン・アンプSQ-507Xを使用し、Lo-Dブランドの日立HS-500のスピーカーを使っていました。それで満足できたから、それで良かったのです。考えてみるとその時期こそ、私が仕事で手一杯だった時期なんですね。それがやがてチエがつき、音の響きが、とか音の実在感が、とか低音をもう少し、等々の欲望が吹き出したのは後日。仕事の質も変化しました。音をトータルに捉えること。その好きな音楽に最も相応しい機器であること。その機器が、どんなにパーカッションを素晴らしく再生しても、私の趣味たる声楽をリアリティを持って再生できなければ、私にとっては残念な機器に過ぎないかも。その声楽も、ベルカント・オペラの繊細(かつ鋭い)響きをゾッとするほどのリアリティをもって再現して欲しいし、他方ワーグナーの永遠の響きを遠方からドッシリと再現して欲しい。この2点を満足しなければ私にとっては不十分です。自分が何を聴きたいか、という点を明らかにすることが何より重要。私にとっては声楽が優先しますから、ピアノの音はやや角が取れたような音でも仕方が無いと考えます。何事にも優先順位があります。

[私の職業生活]
仕事のことは余り立ち入らない事にしますが、世の中には何でも詳しく調べなければ気がすまないタイプと、細かさよりダイナミックに組み立てるのが好きなタイプの人がいて、その間にある差は大きい、ということを悟りました。前者は化学、地質学、生理学、医学等々の人々が含まれ、後者には理論物理学、地球物理学、進化論の人々が含まれます。それぞれに互いの悪口を言い合う根拠を持っています。そして、国別にもカラー(特色)がありました。ロシア人は典型的な前者であり、英国人は典型的な後者です。そして私自身は後者に属します。最近大学から本を友人Tmが出して、その2種類の流れの歴史が日本の学会史をも左右したと書いてあります。どちらが良かったのでしょうか?

とにかく私は自分の考えに基づいて、空想逞しくも理屈を考えて、まとめました。そして、それは前者の立場を標榜する人々にとっては噴飯やるかたないシロモノだったかも知れない。どちらが良いかですが、前者は慎重にデータ集めにセイを出し、その蓄積を大切にします。後者はなにか飛躍しようと試み、大きなことを目指します。前者は自分で取ったデータしか信じない、という態度が見え隠れしますが、後者はデータに少々の難点があってもそれはそれ、と割り切っています。ヒトの進化論も大陸移動説も、実はこの後者がもたらしたものです。こういういわば研究上の持論は、音楽の好みにも影響しているかも知れません。ロシアの音楽好きと、英国の音楽好きの違い。しかも進化論も大陸移動説も英国産ですよ。面白いでしょう?
セントラル・パークにて。妻は乳母車を押している。
セントラル・パークにて。妻は乳母車を押している。

この頃からXXX機構以外の委員会から声が掛かるようになって、常時10個程度(総計は概算で70種類程度?)の委員を引き受けました。正直申して、余り面白くないものも含まれました。年を取ってくると、もう使い物にならない例が多く、そういうヒトの使い方の一つとして委員にしたんだろう、という説も尤もに聞こえます。似た委員会が多いのも問題。委員会は何とかならないか、と思っていたら大学との相互乗り入れが奨励されるようになりました。

最後の10年間には、C大学との相互乗り入れが成立し、学位審査権のあるprofessorshipを得て、重ねてTH大学とも同様な関係に。学位審査等、新しい仕事が増えて大変でしたが、確実にこの方が生産的でした。海外とのネットワーク作りもこの時代。各地にネットワークの核があるので、そこを上手く掴んで、ここと思う所に重点的に参加していけば良いのです。ようやく海外との繋がりができた、と思った時に、私は体調を壊してしまうと言う、大変な不幸に見舞われて数ヶ月間は隠居状態になりました。ですから後輩に委託することにしました。幸い、後輩には優秀な人材が多かったし。

[職業に伴うシビアな話]
私には「オーディオに熱中する時期」と「音楽に熱中する時期」が交互に来る、とは妻の言ですが、その通り。今は、もっとえぐり出す音を聴きたい、と考えています。そして、やたらと聴く対象の音楽を広げない、というか、広げたくない心境です。ベートーベン程の音楽は決して余る程は世の中に無いのです。ワーグナーもモーツアルトも、バッハも同様。あれも、これも聴いてみたい、という好奇心は相変らずですが、実際にはあまり感心しないものもあります。無理に感心しようと思わないのです。持っているオペラのCDも整理することが必要だろうと思います。つまり余り聴かないものはそれだけ理由があるのですから、ここで整理しても良いでしょう。良く聞き込んできたオペラが何曲位あるでしょうか?30曲位で十分かも知れません。精選すれば20曲以下に収められるかも。今は自分の年齢と、自分自身に残された時間が気になっています。

私の職業生活の出発点は余り祝福されたものではありませんでした。今流行のPdfのはしりでした。30年前あれだけ続けたい、と切望していた分野から切り離されてしまったのが実情。それが過去と全く同じではなくとも、同じ言葉が通じる分野を行うよう復活できたので、今はシミジミと幸せを味わっております。もしアナタが本当はアレをやりたいんだが、と秘かにこだわっているなら、アレをやりたい、という事を繰り返し主張することです。20年間も繰り返して主張していれば、どこかの誰かの耳に残り、夢が実現しますよ。私の場合、ある役人が覚えていてくれました。ある時、たしかアレをやりたがっていた男がいただろう?と指名してくれたので、大手を振ってできたのです。決してそれだけでは無いのですが、日ごろ思っていたことが上手く実現しました。ジワリジワリと外堀から攻める方法が上手く行き、30年前には考えられなかったことが、驚くほどの速さで実現。MT省の主○官に、私の計画の新しさの説明もしました。30年前、自分の将来について悩み、不忍池のほとりのベンチでボンヤリ時を過ごしたことが思い出されます。

NIC機構というのがありますが、そこのある人が、私が30数年前にやった仕事を覚えていて、それがご縁で、NIC機構から声が掛かって今はやりの外部評価委員を引き受けました。その男、X氏は後にKY 大学教授に転出しましたが、あちこちで縁のあった人びととのご縁で、多くの思いがけないことが可能になりました。また、ニューヨークにやって来たWt氏と一緒だったOk氏(
4-11話を参照)は、昔はTH大学にいましたが、あとでKT機構に移りました。其の時に彼の紹介と、私の後輩のMt氏の努力のお陰で、ブラジルに行く事もできました。幸せです。その途中の20年間は全く無関係な仕事か、または一見無意味な仕事にも見えたことをやっていましたが、諦めてはいません。大切な事ですが、その空白の20年間に私がやった仕事もまた様々な点で、最後の10年間のキャリアに大いに役立ったと思います。これは決して20年間お世話になった方々に対するリップ・サービスではありません。これらに関連した内容はこの「音楽のすすめ第5章」第3話に記しました。御読み下さい。何かお役に立てば有り難いと思います。

既に還暦を過ぎました。大学で私がDstを与えた7人は今も時々夢に現れます(大変なトラウマです)。そもそも私は明日試験だというのに何も準備できていない、どうしよう、という種類の夢をまだ良く見ます。いかに重圧だったかを示しています。でも、その世界からは卒業したはずですから、音楽とオーディオにもっとのめり込みたい!単に「好き」でやって来たオペラ分野の、「深さ」を今度は追求したいと思っております。


(次回はマンハッタンにまた出掛けた時の話です。お楽しみに)

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