第4-6話:NY-ホロヴィッツのこと


以下はニューヨーク滞在中から作っておいたメモを基に、1980年に原稿化、ほとんど原文のまま清書(1993年12月31日に完成)し、さらに短く2/3程度に縮めたものです。青字は2008年に追記したもの。


[ホロヴィッツの演奏会]
1979.5.13(日)
ホロヴィッツの演奏会は2回あり、5/6と5/13で同じプログラム。我々が行ったのは5/13の方だ。(この5/13の方がライブ・レコードとしてRCAから発売された)。YYY機構のJFからホロヴィッツの5/6のコンサートの評が出ていたニューヨーク・タイムスの切抜き記事を貰った。それによると全プログラムが、今までホロヴィッツが取り上げたことのない曲だという。もちろん絶賛されている。

総立ちのスタンディング・オヴェイションに対してショパンの「ワルツ3番」や「英雄ポロネーズ」をアンコールに弾いた。ホロヴィッツは決して神経質なところはなく、むしろユーモラスなところすらある。もうアンコールは無いから早くお帰り、というジェスチュアを見せたりして笑いを誘い、今までのどのピアニストよりも親しみ易い感じがした(今思えばあれは自分は絶対、という確固たる自信があったからこその余裕だろうと思います)。最上の席だけあって、入口にはボーイが控えていて席に案内する。正面のやや左より最前列の2階。妻は平土間の右より後方にいて、少しのぞき込むと上から頭が見える(シングル・チケットしか買えなかったのである)。シングル・チケットで劇場に行ったのはこれが唯一の例。足元で死にかけた蝿がひっくり返って羽をビービー震わせている。

蠅は隣の人の所から僕の方へ移動してきたので、何喰わぬ顔をして遠くに蹴飛ばす。正直言って、ホロヴィッツの演奏に打ちのめされたわけではない。あの大きいフォルテにはびっくりしたが、例えばアシュケナージの時に感じたように「なんてきれいな響きだろう」とか、ブレンデルの時の「なんとギャラントな音だろう」という印象は薄い。しかしホロヴィッツを相手にする時は、他の人と同列には批評しにくい、というのが真相だと思う。RCAのライブ・レコードを買わねばなるまい。あの中に我々の拍手がそのまま記録されているのだから。(買った! 1980・3・26)

しばらくして再びYYY機構のJFがニューヨーク・タイムスの切抜きを持ってきて呉れた。 "ホロヴィッツの後継者は誰か"という特集だった。ポリーニ、アルゲリッチ、マレイ・ペライアが大きく取り上げられ、他にゲルバー、ピーター・ゼルキン、ルプー、ベロフ等のピアニストが取り上げられていた。アルゲリッチが最も鋭い才を持っているという記事であったが(この点は同感)、総じてアメリカ生まれ、またはアメリカで活躍するピアニストが過度に大きく取り上げられている感じは否めない。世界一は全てアメリカにあるはず、という半ばおめでたい錯覚があるようだ。 それはカラスが歌えば、どんな状態であっても最上の賛辞を得られるのと似ている。耳が麻痺している。ゆっくり弾いても味わい深いピアニストは沢山いるが(バックハウスは最早ニューヨーク向きでは無いのだろう)、彼等はみな欧州に行ってしまったのだ。

ホロヴィッツのよく動く両手をみていると、良く覚えたな、という印象を持つ。実際長いピアノ曲、それもコンチェルトみたいな曲でもホロヴィッツ級のピアニスト達は皆暗誦している。頭の構造の違いか、僕なんかはそう言う弾き方は、覚えている限りは大丈夫だが、何かの拍子にふと「忘れていることを思い出す」。これは悲劇だ。そういうメに会わないように、楽譜を至近距離に置いておかないと不安から逃れられない。娘もかつてピアノ発表会で、同じように「ど忘れ」を起こした事がある。ああ、と思ったがシンドイ思いをした。でも楽譜みたいなものが目前から消えている方が、上手く行くということも分るのである。暗誦なんてものより、動物的な勘で弾いてしまうから。また勘ほど音楽の進行を助けるものは無いんじゃなかろうか。

いつだったか、ホロヴィッツが久しぶりにモーツアルトのコンチェルトをレコーディングしたことがある。その時の指揮者はジュリーニだったと思う。そのTVフィルムを見たのだが、ジュリーニは「困ったものだ、何とかならないか、でもホロヴィッツだからな」という複雑な想いをしていて、それがアリアリと顔に出ていて面白かった。ホロヴィッツは自分こそ世界の中心みたいな態度だったし、おしゃべりだった。おしゃべりにかまけて録音という仕事をサッとこなさない。こなす必要が無い、とホロヴィッツ。難しいなと思う。私がニューヨークで実演を聞いてから暫くしてホロヴィッツは日本にも姿を現し、其の時に評論家の、かのY田氏は、「ヒビの入った骨董品」という名言を残したのである。但しY田氏も、ホロヴィッツの2度目の来日の際にはその評価を訂正した。

[チャイコフスキー"胡桃割人形"を観たこと等]
1979.5.14(月)
ホロヴィッツの翌日、アメリカン・バレエ・シアタの「胡桃割人形」を観に行く。丁度ホロヴィッツの前の日(土曜日)に、重要案件で来米中のSS氏とFA省○○アタッシェのY城氏がワシントンからニューヨークに着き、その日ペンシルベニア・ステーションで会った。雨の日だったから、やや肌寒い天気ながらボストンに行く時に買った青紫のチェック模様の半袖シャツと青いズボンで迎えに行った。ペン・ステーションでは「レコードをプレゼントするから」という手の、寄付金集めの男がしつこくつきまとう。日本の○○大学を知っているとか、ゴチャゴチャ言い、あんたはお金がありそうもないから小銭でもよい、と言われたが断わる。

あとで聞いた話(後述)では日本のW辺氏などはニューヨークで20ドル札しか持ち合わせが無い時に同じ目に会い、その20ドルを払ったのだそうだ。僕は1セントも出さない。向こうの方が良いものを食べているように見えたものね。SS氏とY城氏との件では、手紙で頼まれていたので、2人のためにエンパイア・ホテルを予約しておく。何とか無事に会えたので、土曜日にまずSS、Y城両氏をエンパイア・ホテルに送り、そこに荷物を置いた上でフラッシングの我家の夕食に招待したのである。車もエアコンも無い、庶民の底辺の暮らしぶりにどういう印象を持たれただろうか。その前に3人でニューヨーク・シティ・バレエを覗いてみたが、何か当日券はあるらしい。しかし結局やめることになる。メットの正面玄関を覗いてからエイブリー・フィッシャー・ホールへ行き、両氏は"Music in May"シリーズで、ネヴィル・マリナーの指揮する室内楽の切符を買って、日曜日を過ごすことになったようだ。

私の自宅には『ホロヴィッツ演奏会』とアメリカン・バレエの「胡桃割人形」しか持ち合わせが無かった。 しかし私はここではホロヴィッツの切符があることは、伏せたまま。その代わり「胡桃割り人形」の切符があるから、それを差し上げましょうと申し出た。其の分、妻の「胡桃割人形」鑑賞の機会は後送り。この晩はY城氏は別の所に用事があったので、私はSS氏と二人でした。「胡桃割人形」の音楽は大変キビキビしていて魅力的だった。クララ役がネズミや人形と同じ大きさになるのを、逆に背景のクリスマスツリーを相似形で大きくして表していたのは、おもしろいアイデアだと思う。クララはジェルシー・カークランド。主役級が途中ですべって交替したり、足をぶつけ合ったりするアクシデントも。アラビアの踊りが無かったような気がするが記憶違いだろうか。いつも目立つ、金髪のオカッパ頭の男性舞踏手がその日も目につく。2人いるのだが、似ている。まだソリストらしい。
セントラル・パークにあるアリスの像。右端に家内と娘達
図:セントラル・パークにあるアリスの像。右端に家内と娘達。

[ストラヴィンスキーの"ペトルーシュカ"を観ること等]
1979.5.28(月)
1978-79年のシーズン最後はアメリカン・バレエ団の「ペトルーシュカ」、W.シューマンの"Undertow"、ツェルニーの曲による"Etudes"であった。「ペトルーシュカ」は音楽にも余りなじみがなかったし、舞台付きで観たのは初めて。10年ぐらい前にラジオで「ペトルーシュカ」をやったとき解説で「結局ストラビンスキーがペトルーシュカで何を語ろうとしたのかついに分からない…」という批評があったのを覚えている。しかし幕が開くと、雪の降りしきるロシアの風景で、大変印象的であった。ストーリーそのものはつまらなかった(2008年現在、これは訂正します。素晴らしいと思う)。女のダンサー役は日本人の名(Yoko Ichino)であった。"Etudes"は「ペトルーシュカ」より遥かに面白く、刺激的だった。広い舞台を左から右に、右から左に移動するのは、大変だろうが大変面白い。

あとでアメリカン・バレエの団員名簿を見たらヌレーエフやマカロワに混じって森下洋子がゲスト・プリンシパルとして名を連ねていた。少し前に「白鳥の湖」のオデット/オディール役をやったようだ。以前、インタビューに答えて森下洋子は「外国からのお招きもあります。確かに外国に行けばいい仕事ができるとは思いますが、やはりM先生のような良い先生についていることも大事だと思いますし、…」と言っていたのを思い出す。昔、牧阿佐美バレエ団に大原永子、森下洋子の両名がいたころ、H野やO田といった友人達と「白鳥の湖」を観に行った。もちろん大原永子がお目当てだったが、マチネーと夜の2部公演で、我々が行ったのはマチネーの方。夜の公演は大原永子が主演し、マチネーの方は森下洋子であった。しかし昼と夜では主役もその他大勢の中に混じって出演(大原がオデットの時は森下が村娘)。


[2008年に記載]
私の仕事先だったYYY機構から少し南に行くとキャナル・ストリートがあります。店屋はボツボツとある程度ですが、いわば東京の秋葉原みたいなところ。ニューヨークの本格的なオーディオ・ショップが何処にあるか未だに知りません。Cが後で連れて行ってくれたように、田舎町にもオーディオ・ショップはあるのに、マンハッタンではサッパリ見つからない。何処かにあるのでしょうね。ニューヨークみたいに音楽がふんだんに溢れている場所では、余りオーディオは盛んではないように見えます。ただし私の知っている範囲では、という条件付きです。それはニューヨークですから、そこに居る人びとの住み方のスペクトルが広く、きっと何処かに凄いオーディオ・マニアが居るに違いありません。ただ全体としては、フィッシャー製品のような、いつでも音楽が流れる、という音のある空間しか知らない人びとと、マナジリを決してオーディオと向き合う純オーディオ・マニアに分割されていると思います。どっちが幸せでしょうか?

(ここまで主に1979年の日記より収録。次回へ続く)



 <<第4-5話へ マーク 第4-7話へ>>
音楽のすすめに戻る