第5話:1995年マンハッタンを再び歩く


(2009年4月12日)
下記は、以前の第3章4話「ニューヨーク会議(食欲編)」に対応する「会議編」である。


[センチメンタル・ジャーニー]
6月11日(日)
凄まじく喧騒なニューヨーク、すばらしい。死んだように眠ったあと、時計を見るともう8時。ベッドメーキングが来る前に慌てて起きる。昨夜の戦利品を並べるとカバンが小さくて入らない。また一つ買わなくちゃ。特に、リンカーン・センター近くの本屋で買ったあの楽譜類が重い。外に出たらタイムズ・スクエアの地下鉄入り口が見つからなくて困る。入り口はあったのだが、日曜日には閉鎖されていたのだ。地下に降りて分かったのだが、この駅はポートオーソリティ駅と繋がっているのをすっかり忘れていた。

今日は第2の故郷フラッシングを再々度ながら、訪問することにした。クイーンズ区に入ったとたん、窓から見える風景は、すっかりくたびれたビル群だった。メイン・ストリート駅周辺は昔のまま。デパート「アレクサンダーズ」が潰れ、スーパーマーケット「Dan's Supreme」がキーフーズに、そして昔のキーフーズは「Associated」に名称が変わっていた。昔住んでいたアパートX46-16番の玄関で写真を撮る。たまたまいた住人は韓国系か。「大道」は無くなり八百屋に、「清華」は韓国食品店に。町中に韓国系が溢れている。そして公文式の塾が至る所にある。Kumonとか理科系トレーニング、とかいう看板が町中に見られる。旧キーフーズの隣に寿司屋を見つけたが、昔あったかしら?時間があったら行ってみたい。昔はお金が自由にならず、何を見ても見るだけ、また来た時に、と我慢大会をやっていたのが、20年後に訪れた時はその本家(米国)が今や国家財政の赤字に苦しんでいる。

フラッシングを後にしてマンハッタンに戻る。クイーンズ・ボロ・プラザで乗り換える時、上りと下りでホームのフロアが違うのを忘れていた。5番街駅で下車したのだが、今日はスペイン語が目立つ。実はこの日はヒスパニック・デーだったのである。ニューヨーク中にいる中南米系住民が5番街に集まっていたのだ。まずはセントラル・パークに入り、「アリスの池」をチラと見る。「ベスタの噴水」あたりでシュシュカバブを食べるつもりだったのに、売り子がいない。結局プラザ・ホテルの側まで戻り、ヒスパニック・パレードをしばし見物。あの気取った5番街がヒスパニックで埋め尽くされ、5番街の公用語はスペイン語となった。おかげでセントラル・パークはガラガラだ。人垣をかき分けてようやく5番街を脱出して7番街に。窓越しに見える通行人にロング・ドレス姿が多いのはマチネーの観劇客か。

ミュージカルを見た後、タイムズスクエアの韓国系の店で安い旅行カバンを買う。ホテルに戻ったら僕の部屋のドアが開いているのを発見! 被害なし。それからさらにロックフェラー・センターに出掛ける。噴水横にあるカフェ・テラスでパスタとブルックリン・ビールをジョッキで2杯。そしてアイスクリーム。これで31ドルは高い。チップを多めに置いたつもりなのに、ウエイトレスの表情は冴えなかった。くたびれた。まだ時間的には早くもったいないけど、もう寝よう。9時就寝。

[欧州メンバーを加えた会議と、米国のバブル崩壊]
6月12日(月)
ウイークデーだから人の流れが速い。週末の観光客とは違うのだ。このハード・ビジネスの顔を持つニューヨークも好きだ。皆必死なのだ。甘くない。クリストファー・ストリートで下車し、ワシントン・スクエアまで歩くことにした。時間つぶしにニューヨーク大学やワシントン広場あたりをうろつき、ジャズ・スポットのブルーノートの在りかを確かめた。10時少し過ぎにYYY機構に到着し、Cを呼び、玄関まで降りて来て貰った。昔はエレベータボーイが居たが、今は無人機になりIDカードで運転管理されている。従って誰かに来てもらわないと中に入れなくなったのだ。ちょうど会議室でXX-sのワークショップを開催中であり、直ぐに一緒に会議室に向かった。米国だけでなくドイツ、フランスの参加者もいる。モントリオールで見たような顔がある。おまけに昔日本のミーティングで知り合ったタイのCP嬢にも逢った。またH夫人(故Hy氏の夫人で、ここに書くHとは別人)の所に行ったのだろう。向こうも覚えていたから互いに挨拶を交わす。

休憩時間にCと一緒に退出し彼の部屋に。前とは違った部屋に移っていた。改装工事があってBBB部がPPP部の方に侵入したという。そのかわり旧AEE部はPPP部が吸収している。Cは昔いなかったPGnを紹介した。僕の昔のCOSNの論文を知っているだろう?とCはPGnに紹介する。しかしPGnとは凄い名前だな。あのFEとも逢う。憔悴した顔をしていた。彼の部屋の消火用スプリンクラーが故障して、部屋中に水が飛び散ったのだという。たしかに彼の部屋はすさまじい様子を呈していた。

Hの御母堂が脳溢血で倒れたのでフロリダに行って留守だというので、副所長室のゲストブックにサインだけしておいた。Hはこ間、副所長代行をしている。再びXX-sワークショップに戻り、英国のKdlが英国の結果について発表するのを聞く。せっかく出席したのだから手を挙げて質問しておいた。昼にFEにつかまり、航空機による測定の話を延々と聞かされる。カナダ空軍と協力して北米の同一地磁気緯度に沿った測定をやったと言う。余りに長い時間をとったのでCが何事かと覗きに来る。1時半頃Cと昼食をとるため近所のレストランに出た。CはKMと交替で部長職を勤めているが、正式の部長ではないという。本人に言わせれば雑用ばかりあって、その分の給料を払ってくれないから嫌になるという。My(C夫人)もそれに不満だし、Cは自身の退職も考えているそうだ。KMと交替でワシントン詰めもしているという。今日はKMはワシントンに行っているそうで、明日はCが行くという。

CはXX-sの仕事は止めたという。5年もやれば十分だという。EE省では従来からのテーマは退調気味であり、このままでは予算も24%削減になるそうだ。いまやCLp関係だけが予算を取れるという。要するに施設の廃止に伴う後始末事業だ。つまり成果だけ目指して一生懸命やって居られた時代は終わったのだ。今は資金集めから始めなければならない。うまくやれば生き残れるし、さもなければ何もできなくなる。またCによればMyは銀行から独立し、昔見たことのある納屋を改造してオフィスにし、電話とコンピュータで商売を始めたのだが、うまくいっていないという。日本も米国もバブルの時代は終わった。Cは米国では大学教授は金にならないという。ただC自身は教えることが好きだと言うから、案外その方向に転身するのかも知れないな。

モントリオールの会議でCが僕のセッションの座長として印刷されていたことを告げると、自分は知らなかったという。自分の代わりに誰が座長を勤めたのかというから、Wlだと言ったら不機嫌な顔をした。「要するにつんぼ桟敷にいるんだよ」とこぼす。Cは所長か副所長にして呉れるんだったらYYY機構に残ってもいいと言う。またAdも辞めたがっているし、FEは病気だと言う。FEのどこが悪いのかと尋ねたら、色々な病気だとしか教えてくれない。またPGnが後を継ぐだろうとも言う。2時半頃Cの部屋に戻る。彼の卓上に紙細工が飾ってあったが、それは最近きた韓国人がくれたものだという。君の奥さんも昔呉れただろう、と言う。彼の部屋のドアには漫画っぽいイラストが貼ってあって、"Supervisor is not a worker"とか"Your can run your office by your charm and personality"とか書いてあるのでおかしくなって、あれはどうしたんだと聞いたら、少しはユーモアのセンスを見せたいのでね、という。XXに関してAdと相談したいことがある、と言ったらAdの作業場に連れて行ってくれた。

[最後の仕事の準備]
一通り新しいXXチェンバーを見てまわる「グランド・ツァー」のあと、Adの部屋で国際比較実験の結果を見せて貰う。確かに日本の結果は系統的に欧米より2割程度低い。なにか根本的な原因があるはずだ。僕は日本の誰ともまだ相談していなかったが、この際とばかりAdに今度YYY機構のチェンバーを使って、特に日本のために比較実験をして欲しいと述べた。Adは快諾し、日本から助っ人が来てくれれば嬉しいと言う。彼は来年1月に引退したいので、その前に、できれば10〜11月に実験をしたいという。そこで日本人同僚達には無断だが、今年10〜11月に日本人が複数YYY機構に来てXX実験を行なうこと、但し米国側も得意とする計測器を並べて測定すること、等をAdと約束した。日本のだれとも相談していない勝手な約束だから、帰国してから日本のギルドの同意を得なくちゃ。でもこのチャンスを逃がしたくない。もう一度XX-sワークショップを覗いてから、Cは僕に米国GSyの人を紹介してくれた。記念写真を撮ったあと日米のサーベイの比較について話す。帰国後に日本のRRサーベイのマップを送ることを約束した。ここでもCを交え、どうやったら米国NReがらみの仕事をこなせるかを議論。
バッテリー・パークより港を見る。遠くに「自由の女神」が見える。1978年に撮影。
図:バッテリー・パークより港を見る。遠くに「自由の女神」が見える。1978年に撮影。

Cは明日のワシントン行きの準備があるので3:30pmに退出。僕に、自分がいない時でも部屋を自由に使えと言う。Cの勤務時間は朝7時〜3時が多いという。その通勤のため車も2台買ったという。前は1台だった。日本ではそのようなフレックス・タイムは「建前」に過ぎない。いつかXXX機構会議の席で僕がそれを実行したいのだが、と言った時の他部長達の困った顔が思い出される。機構長は「そう言ってもねえ」としか言わなかったのだ。XXX機構だって制度上はフレックス・タイムなんだから、同じことが可能なはずだが実際には困難だ。日本は永久に日本のままなのかなあ。僕はFEの部屋に戻ってCOSN測定の話の続きを聞いた。PGnも加わる。ボナー型の検出器を得意そうに見せてくれる。高圧電離箱を航空機で輸送した話も出る。軍用機なら構わないけど、民間機に高圧機器を搭載するのは問題かも知れない点(航空法で規制されている)を指摘したら、引っ掛かるかも知れないな、と言う。彼は今の所、軍用機を用いているのだ。FEも、予算が24%削減されるかも知れないと嘆く。とにかく人手が欲しいようだ。あとでPGnに聞いたら、FEは61歳ぐらいだと答えた。今後の情報交換を約束して夕刻YYY機構を出た。今度はPGnが玄関まで送ってくれた。

ここで僕がしたのは新しい仕事の「種まき」である。今まででも理論の仕事だったら可能だったが、KeやWlの引退によって今や不可能になった。実は僕自身が転身することを内心で決めていたので、その分野の中心に少しでも近いPGnと接触して置きたかった。当時僕は既にドイツのRzを中心とするグループ内に新しい席を持っていたし、米国内ではワシントンのSchらと接触していた。僕がまだ健康で、少々の仕事内容に関する野心が残っていた時代の話。


(次回は仲良しだったC&My夫妻のこと等を記します)

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