第6話:C&My夫妻のその後


(2009年4月24日)
これは僕自身の過去へのオマージュ(郷愁)である。


[変化の季節]
1995年のある朝。朝食を食べにタイムズ・スクエアに出る。朝の街路は夜来のすえた匂いと洗剤のような匂いがするが、この混乱と猥雑さを感じさせるところがニューヨークの魅力なのだ。イタリア系レストランのSharroで朝食。リング・ドーナッツと卵、ベーコン、フルーツ・サラダ、7-upとグレープフルーツ・ジュース。やたらと咽が乾く。しかしジュースは多すぎ、残りの封を切っていないものをバッグに詰めた。

KMの説明ではYYY機構ではCla所長もH副所長もまた各部長たちもみな"Acting"なのだという。つまり所長代行、部長代行である。KM自身Cと共同で部長代行である。何でそんなにActingが多いんだ?ときくとワシントン(政府)が決断しないからだと言う。恐らくワシントンは管理職手当てをけちっているのに違いない。6月に来た時もCは部長としての給料を貰えないからMyに怒られていると言っていた。MyはCよりもずっと収入が多い(はず)のに、Cの給料高にも気を使うようになったか。

FIS女史がパルス型電離箱によるXXX濃度の絶対校正のデモをやってくれると言うのでBBB部の方に行った。外国人慣れした女史はゆっくりした英語で丁寧に説明を加える。この方法はスエーデンの方法に対応するものだという。終わりにFISは、自分が引退したら誰もこの装置を使ってくれないから悲しい、と言う。実際、YYY機構には立派な設備や装置が沢山あるのに人員不足のために寝かせてしまうのは惜しい。それにFISは良い人だし、立派なインストラクタだと思う。恰幅の良い彼女は他の誰よりもH夫人(H氏とは無関係)と仲良しなのである。やはり日本から助っ人を送り込まなければなるまい。Cは今回自宅に呼べなくて悪かった、次回にね、と言う。

かつてC&Myが過ごしたChスターの家。
図:かつてC&Myが過ごしたChスターの家。

友人たちとの会話を懐かしむ気持が強く、特にC&Myとは親しかったから、また彼等との会話をどうしても残したかったから、ここに新たに文章を加えることにした。彼等の離婚を取り上げたのはやや心痛むところがあるが、米国では余り特殊でなく、例えばYYY機構でもWl、またKeも離婚組なのである。

[晴天の霹靂]
その2年後、Cとまた会う。午前中長電話していた彼の部屋に行ったら、ビッグ・ニュースを知らせる、と言う。何事かと思ったらMyと離婚したという。こちらは目を見張るのみ。まだ正式には結婚しているが既に別居しており、1月1日に離婚するという。Cの新しい住所を名刺に書いてよこした。Chスターの近くだという。Myは仕事で忙しく、まともに帰らなくなったので、一緒にいる理由が無くなったからだと言う。ショックを与えたくはないけれど、こういう話は直接話したかったんだ、と言う。僕は複雑な顔をしてみせることしか出来なかった。

でもMyはKからのクリスマス・カードを楽しみにしているよ、とも言う。また自分もハッピーだし、Myもハッピーだからねと言う。目下の最大の課題はどうやってChスターの家を処分するかであり、家の中はメチャメチャだから今回は招待できないと言う。僕は逆に滞在中にCやHを食事に招待するつもりだと告げたら、Hに都合を聞いておくと答えた。Cは今はトヨタ・カムリを使っているそうだ。CにYYY機構を辞めて貰っては困る、僕もここに来にくくなるじゃないか、と言ったら辞めないよと言う。Myとの離婚で居座る決心をしたか。君はいつ来てもいいよ、と言う。

日本でもそうだが、米国でも不景気の嵐が来たのである。あれだけ得意然、意気揚々としていたC&My夫妻も、破綻を来したのである。とうとう協議離婚し、Chスターの屋敷は人手に渡り、離婚後に本人達はそれぞれ近くの別々の家に移った。あれだけのオーディオ装置群も夢の跡。そして僕は何が最も大切かを考えるようになった。そう言えば少し前の年に、Myの商売はうまく行っているか?と問うたのに対し、Cはひたすら首を横に振っていたのを思い出す。YYY機構の友人ではWlもKeもJFも離婚組だ。そしてHは始めから独身だ。そこにCが離婚組として加わった。

Myはその後僅か2年で他界した。合掌。それはCからの手紙で知ったが、自動車事故だと言うが良くは分らない。僕は彼等が元気だった時代に共に笑い合い、楽しい思い出を残せたのを有り難く思う。またYYY機構との繋がりもまた同様である。H、Ke、KM、Gl、Wl、FE、PC、JF、JGなど皆そこを去ってしまった。それでも過去に「その日の記録」をとっておいて良かったと思っている。既にこの時期には、YYY機構は「昔マンハッタンにあった有名な機構」になっていた。

[Cと一緒だった欧州]
(ロンドン)
1992年にオックスフォード大学に行ったことがある。統計学に関する会議で、専門とはやや違っていたが、XXX機構の副機構長につかまり、行って来いと言われる。初めてのオックスフォード。ロンドンのヒースロー空港からバスで行く。途中の果てしない草原は穏やかな丘陵地帯で、ここに一面紫色のヒースの花が咲くわけだ。オックスフォードで降りると今日泊まるホテルの前。明日から宿泊するベリオール・カレッジを探すと直ぐ分かった。最古に近い歴史を誇るこの大学の寮は、想像したよりずっと質素だった。木製の鏡付きのタンスがある程度。しかも風呂は共同だから予約しておかないと使用できない。しかしここに滞在できたのは稀なチャンスだったと思う。そのチャンスを生かそうと張り切ったが、配布された資料の山を夜間に読み下しておかないと昼間の仕事にさしつかえるから大変。実は到着した夕方に、マートン・カレッジ近くのホールでオックスフォード合唱団の無料コンサートがあり、そのポスターを見た後あと一時間はあるから昼寝をしようと寝込んだら、寝過ごしてしまった。兎の気分だった。ベリオール・カレッジで今回の出席者リストを見たら、ニューヨークのYYY機構からCが参加することが分かり、ビックリした。彼は眠そうだったが食事の毎に私の隣席だったし、ワインはおいしく、お代わりの挙手をしてはボーイを呼んだことを思い出す。ワインは昼食と夕食時に出る。朝食ではさすがにアルコール気は抜き。ここの下りは「音楽のすすめ」第3章に写真が一枚ある。アーティチョークを初めて食したのだが、食べ方が分からずCにどうするの?と小声で尋ねたら、彼自身も分からないが、食べられる所だけ食べれば良いだろう、ということになった。この食材は日本では全く経験していない。考えてみれば皇室から皇太子殿下がマートン・カレッジに留学したほか、妃殿下は88年〜90年ごろまで、このベリオール・カレッジに滞在していたはずである。ロシア人に自分の部屋に来い、と呼ばれたので何人かの外国人と行ったら、そこは異常に贅沢な空間だった。我々はロシアの悪口を、笑い話に込めて言ったのだが、ロシア人は上機嫌でウオッカやチョコレートを振る舞ってくれた。

C曰く、自分はここのワークショップが終了したら、近所にある古い厩舎を改造した宿屋に泊まる予定だけど、僕はどうかと聞く。そこで僕はOKの返事をして一緒に泊まる事になった。その際、日本のAX機構から来ていたSX氏が参加したがっているけど、と言って彼も同行することにした。Cとはホテルで飲んだりしたが、そういう所よりも、テントを張り巡らしたような下町風のパブに行ってビールを飲んだ事の方が印象深い。まさしく英国風を味わったわけ。オックスフォードではネクタイ等の記念品を買った。後にあるところで僕がベリオール・カレッジのネクタイをして行ったら、目ざといCは、それオックスフォードだろ?自分も買ったよ、と言う。

終了後、Cは僕と一緒にBXX機構のMls氏の所へ行きたいと言う。そこなら僕自身も興味あるところだったから同意する(一緒に行きたいと言って来たSX氏も)。タクシーを捕まえて訪問したが、その時の僕のタメイキを聞かせたい。丘陵があり、あの丘の向こうにゲスト用のレストランがあるよ、と言われたのだが、こういう所だったらさぞや仕事もはかどるだろうな、と思ったのである。町中から離れているので車が必需品。英国風プラグマチックなやり方で、彼等はXXの校正をやっていた。そして此処は世界の代表的な校正機関(米国のYYY機構、もう一つはオーストラリアにある)だった。当然ながら英国人の英語は綺麗だし、羨ましく思えた。Mls氏はCや僕と殆ど歳も近い。Cだけは他の用があるから、と言って残ったが僕とSX氏は駅までタクシーを呼び、ロンドンへ向かう。SX氏と別れた僕はその晩コヴェント・ガーデン歌劇場に向かう。

(ザルツブルク)
1992年ごろ、会議に出席するため、ザルツブルクへ行ったことがある。ホーエンザルツブルク城からかなりの距離の所にザルツブルク大学があったが、その入り口の風景をみて僕が直感的に思ったのは、これは演出家ヴィーランド・ワーグナーの影響だな、ということ。ここには米国YYY機構の面々が多勢参加しており、日本勢も大勢いたと記憶しているが、僕自身は米国勢の中に身を置いて過ごしたのである。Ke、C、KM、そしてH夫人もいた。そして公式のディナーは日本人部隊と一緒だったが、別機会のディナーでは米国勢と一緒だったのである。私は妻を同行していたし、米国人KMも夫人を同行していた。御両人ともシャイだったし、会議中はおとなしく大学構内の庭のベンチで過ごして待っていた。彼等と一緒に食したディナーの内容は覚えていない。でもCやH夫人は幸せ一杯に見えた。Ok氏が皆と一緒にいる席にやって来た事を覚えている。会議の公式ディナーの時は遠くからファンファーレが聞こえたが、その食事内容の方は覚えていない。 ディナーと言っても席は別々のセクションに別れていて、全体を見渡せる構造では無かったのである。

我々のホテルは、駅の近くの小さいレストランの上にあり、そのレストランの壁には、そこにルチアーノ・パバロッティが泊まったことを示す写真が貼ってあった。夕方ホーエンザルツブルク城へ行き、夕食には大振りのワイングラスを傾けたのである。ここに2回行く。妻はレストランで見かけたウエイトレスが持っていた財布が気に入り、そこのゴチャゴチャしたショッピグ街で初めてギャルソン・ウオレット(小銭に分けて入れる財布)を買う。途中の夜間に、ザルツブルク名物の人形劇のモーツアルト「魔笛」を観た。そしてある日妻を誘って列車に乗り、ドイツのミュンヘンへちょっと旅行を試みた。ミュンヘンは僕自身が大層懐かしく思う所だし、色々な場所をウロ覚えながら記憶していたからである。各所を眺めたあと、有名なホーフブロイハウスへ行って、ビールを飲む。これは美味しかった。その他ザルツブルクを去る直前に、公式のピクニックを避けて、代わりに近所の湖回りツアーに行き、ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」ゆかりの地を覗く。家々の窓辺に飾られた美しいゼラニウムの花を思い出す。そして一旦ウイーンに列車で戻ってクリムト美術館等を見たあと、帰国は来る時と逆方向の飛行機でロンドンへ回った。ロンドンではケンジントン宮殿に案内したが、妻はいたく気に入った様子(後出)。



(次回は私が仕事のため行った最後のニューヨーク訪問の記録の一部です)

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