第7話:NYの仕事引き継ぎ


(2009年4月24日)
[最後のニューヨーク]
4月9日(水)
仕事で行く最終回のニューヨーク。1997年。雨にならなくて良かったが、暑くなりそうだ。エコノミー・クラスだから出国手続きの行列が長かったため、時間の余裕なし。若いMT君の方が先に待合室に座って待っていた。ANA便なのだが、エコノミーとは言え35万円も払ったのはどういう訳か。エージェントは前日夕方にやっと切符を持ってきたが、35万も払えばビジネス・クラスに近いと思う。収入印紙なぞ貼った領収書を持ってきたのが怪しい。しかも、役所に直接提出します、だと。公用と知って業者は儲けようとしたに違いない。

ガラ空きの機内で、僕の席は中央禁煙席の通路側だからまあ希望通り。スチュワーデスは2通りいて、ピンクの服で若くて愛想のいいグループと、ブルーの服で少しベテラン風で、少し怖い感じのグループ。ピンクの新米は、何でも一々ブルーのお姉様に伺いをたてて給仕している。水を入れラップを掛けたコップを、ティーカップの中に入れたまま配膳していたら、ブルー嬢はピンク嬢に、カップから出して渡すように、と指示していた。僕は乗機前にティー・タイムを取れず空腹気味だったので、最初の飲み物サービスで赤ワインを飲み、さらにお代わりまでしてしまった。あとが心配。そのため食事時は紅茶を取り、食後は何と日本茶(こういう事は滅多に無い)を頼んでしまった。肝心の食事はハッシュド・ビーフにする。すぐ前の座席はカーテンで仕切ってあり、更に前のビジネス・クラスと区別していたが、その隙間から見え隠れする料理はもっと豪華だ(イジ汚い)。

4月10日(木)
機内の朝食はオムレツにした。ケネディ空港に着いてからの行き方は、雨だったらタクシー、晴れていたらバスを利用しようか、と打ち合わせてあったが、荷物の量を考えてタクシーを選ぶ。ようやくタクシー・スタンドを見つけた。運転手がメータをONにしないので心配になって注意したら、これを見ろとポスターを指差す。なるほど、いつの間にかケネディ空港から市内へは30ドル均一になったのだ。そのためか、いつもの北回りの道路でなく、南回りの道路を通っていく。随分狭い道路をバイパスに利用して走り、クイーンズ・ミッドタウン・トンネルをくぐってマンハッタンへ。8番街側から回り込んでベスト・ウェスタン・プレジデント・ホテルに到着。

ホテルのフロントが、シャワーだけでもいいか、と聞くからできればバスタブが欲しいと言ったら2人が別々のフロアの部屋になるという。それならシャワーだけでも良い、ということになった。何しろ90ドルだから贅沢は言えず。顔を洗ったりするから30分後にYYY機構へ行くことに決めた。荷物を全部タンスに放り込んでから、シャワーを浴びシャンプーを済ませ、着替えていたら、MT君からまだかと電話あり。ホテルからブロードウェイを歩き、タイムズ・スクエア駅から南に向かう。ちょうど来た3番線の急行に乗ったが、うっかり18丁目で乗り換えるのを忘れ、キャナル・ストリートまで行ってしまう。再度18丁目に戻り、各駅停車1番線でハウストン・ストリートに。

[YYY機構と当面のお別れ]
YYY機構の従来の入り口が閉鎖されたことは知っていたので、連邦ビルの入り口でX線の荷物検査を受けてから、5階までエレベータで昇る。ここでまたガードマンによるチェック。PGnを呼び出して貰い、彼と挨拶して中に入れて貰う。丁度そこにKCaが通りかかって、大声で挨拶された。彼は2年前を良く覚えていた。あいかわらず陽気な米国人だ。さらに奥のコーナーへ行く途中で、左の道路側の部屋の中に、XXX機構から出向中のST氏がMRe氏と話しているのを見かけた。ST氏は僕に気づいて挨拶したが、逢うのは後にして、まずはPGnの部屋に収まる。PGnは上着を掛ける場所が無くって、と言い訳しながら我々に椅子を勧める。

予め電子メールで要件を伝えてあるので、即ビジネス・トークに入る。MT君の原稿が議論の的になったのだが、正に日本を発つ3日前に大急ぎで僕が校正した原稿。月曜日の夜に彼が添削依頼のメモと共に、僕の机上に置いてあったものを、僕は火曜日朝に見つけ、彼が出勤する9時半までに添削を済ませて彼の机上に戻しておいた。ニューヨークにまで持って来るとは予想しなかった。話をしている間にKCaが、XXX機構のYm氏からの僕宛てのファックスを届けてくれた。その内容はコロンビア大学のBle教授を訪問する時に要ると思って書いた教授宛の紹介状だった。
9.11事件の際、H夫人(以前のYYY機構所長夫人)が撮影した写真。
9.11事件の際、H夫人(以前のYYY機構所長夫人)が撮影した写真。これをメールで僕宛に送ってくれた。


(ここから後は、書いたのが後日なので、抄録しか残っていない)下記は抄録です。

[次期への準備]
PGnは気難しい男では無く安心した。さっそくボナー・ボールや、各種機器を見せて貰う。もともと僕はそういう計測器具には疎いので、初めて見た機器もある。これらをNA●Aの持っている旧スパイ機(UX-2を改造してERX-2と称している)に搭載してCOSN計測に用いている。費用は1フライトあたり、総計500万円の資金を要するという。僕はホゾを噛む。その時は高い!と思った。今思えば可能だったかも知れない。今の方が予算額はずっと多いからである。要するにタイミングがやや悪かったと思う。お向いの小部屋には野生の鳥のポスターが貼ってあったから、ああいうの好きかとPgnに尋ねたら、野生だと分かってくれて有り難う、と礼を言われた。彼の趣味みたいなものだという。今ではYYY機構は建物の内部改造が進み、昔僕のいた部屋は既に壁ごと無くなっていた。その後、別の部屋でST氏と一緒になる。

当時XXX機構から留学生として来ていたST氏は今でこそ、ここで話ができるようになったが、それまで毎日嫌で仕方がなかったと言う。いったいYYY機構って何だろう、と思っていたらしいのである。唯一の友達といえるMReを紹介された。MReは「源氏物語」の読者だといい、また週末にはジャズ・バンドでアルバイトしているという。PGnがMReは曜日とか時刻に厳しいからな、と言っていたが、どうもその練習のためらしい。背が日本人並みだったからスペイン語でも話すかも知れない(中南米系のようだ)。少し変った男だよ、と言う。マドリッドの会議でもう一度見かける。旧友Cにも挨拶しに行ったが、KMと一緒にいて、浮かぬ顔をしていた。

僕はMT君を連れて、国連ビルの見物に行く。安全保障理事会の会議場などを見る。別の日にST氏は我々を一度タイ料理店に招待して呉れた。ここの料理が一番旨いんだ、と言う。僕は返礼に国連で買った動物の人形をプレゼント。ST氏は我々をウエストチェスター郡のアパートに招待してくれたので、電車で出かける。ST氏には2人の娘がいたが、上の子とはすぐに打ち解ける。今では彼はYYY機構の主みたいな顔をして、XXXチェンバーを自由に使っているという。そのかわり日頃話す相手が居ないようだった。XXXの重鎮だったAdやKnが引退してしまい、Cはワシントン行きが多かったからである。機器類など宝の山に囲まれながら残念だなあと言う。ST氏に、でも来てよかっただろ?と聞いたら、今はそう思っています、という答え。別の日に彼を飲み屋に招待したら、飲むこと飲むこと。調子づいてプラネット・ハリウッドへ行って、また飲み、それにつられてMT君も飲み、余り飲めないMT君は地下トイレで吐いてしまったとは、帰国後に聞いた話。そうとは知らないから、タイムズ・スクエアのホテルのバーにも誘い、また飲んだのである。そのころは僕自身も良く飲んだと思う。

別の日にMT君をつれてコロンビア大学辺りに行く。道すがらMT君に「留学するとすればどこに行きたい?」と尋ねた。すると自分が初めて行ったイタリアか、ドイツか、このニューヨークか、という答えだった。結局彼はカナダを選んだ。カナダのLWsは偏屈だし、言語も早口で聞き取りにくいし、変っているとは思ったが、それも良いだろうと僕は答えた。

夜にMT君を連れてミュージカル「キャッツ」を観に行った。あれは面白かったという。正直な男である。別の日にはメトロポリタン・オペラのドニゼッティ「愛の妙薬」にも行ったが、それに対する彼の批評は、極めて外交的なものしか得られなかった。この旅はMT君氏にとって役立っただろうと思う。当時僕の頭の中では中性子が大きなウエイトを占めており、だから今は中性子に投資したかった。HY氏の方は本場ヒューストンに行かせたいと考えていたが、HY氏はそのヒューストン留学に成功したので、万歳である。そこではBadという立派な人が存命中だったし。

今回、PGnと会えたので目的を果たした。ただ、彼の性癖はKeの人なつこさとは、少々異なったもの。PGnはユダヤ系である。PGnとは後にパリやウイーンで再会することになる。僕の海外活動の本拠地がニューヨークから欧州へ移動することになったのである。そしてミュンヘン近くのノイファールンで開かれた会議のあと、ミュンヘンでクリスマス飾りを妻と楽しんでいたら、後ろからPGn夫妻が通りかかって挨拶された。PGn達は笑顔を見せ、やはり陽気な米国人だと思えたのである。

前出の写真は例の9.11事件の時、H夫人がニュージャージー州側のHobケンにある自宅アパートの台所から撮影して、私宛に送ってくれたものである。ワールド・トレード・センターはYYY機構からも見える所にあったから、その時の騒ぎを想像してみると、さぞや凄かっただろうと思う。砂埃はYYY機構の屋上をも覆ったに違いないし、人々の悲鳴も聞こえて来る。また其の直後の人々の茫然とした姿も、想像できる。あの大事件のあと、ニューヨークもまた変化したに違いないと思っている。ニューヨークは物凄く活発で、同時に暗い面を持つ街だなあと思った。



(次回はパリにおける私の最後の英語講演の話です。)

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