第8話:パリ最終講演


(2009年5月12日)
[2009年4月に書いたもの]
パリを初めて訪れたのは1980年代のはじめで、ベルリン会議に出席したあと。休暇をとってパリ経由、ドーバー海峡経由、ロンドン行きを一人旅した時です(当コラムの第1章第5話「ドン・ジョヴァンニの星空」の冒頭、第3章第5話「ヴァハトブルク会議」冒頭、など参照)。この時の記録が取ってありますが、一人旅のわびしさ、フトコロの不安、家族が恋しい等の錯綜した感情が満載。パリそのものへは鉄道でイタリアから入り、リヨン駅で降りましたが、初めてのパリだから不安に満ちていました。それにフランス人は英語を喋りたくないようだし。どうしよう、というところ。地下鉄は降りる時に自分でトビラを開けなければならないことがある等、色々なことを初めて体験しました。

その後、さらに8回行きましたが、慣れるにつれ、パリの良さも分るようになって来ました。1人旅のスタイルから夫婦揃っての旅行へと変更したことが影響していると思います。2人で行った方が身を守るのに有効です。凱旋門あたりには移民の子孫が多くいて、言い方が難しいが何か狙っているような雰囲気を、こちらは勝手に感じていたことを白状します。でもそういう人々は何処にでもいると割り切れば、対処のしようがあるでしょう。日本が安全過ぎるくらい安全なのは、世界に誇るべきものでしょう。とにかくパリは美しい!これ本当!

[2004年に記したもの]
ここで私の最後の海外講演の時の一部を、2004年の4月の会合の実記録をもとに記す。これまでにもあちこちに行ったが、これが私自身の最後の海外における講演になった。国内では引退後も講演を繰り返したが、海外ではコレが最後。XXX 機構では、僕の引退後に国際ワークショップが開かれ、当該分野の面々が海外からやって来て、XXX機構の講堂を埋めたと聞く。ドイツのGzからこのワークショップとXXX機構との結びつきは私との関係から、という説明があったようだ。でも人はいずれは引退せざるを得ないのである。遅かれ早かれ。

COSEYZという大会議がある。学生時代から知っていたが、宇宙論から太陽物理、さらに磁場影響などを扱い、またそれらがもたらす生物影響などまでカバーする。全体で1,000人も出席する。私自身はもちろん物理分野だか、その実施日がいつか確かめたく、会議セクレタリーを捕まえて尋ねたら、まだ分からないと言われた。セクレタリーが言うには、パリはホテルが高いから、まずホテルを確保してくれ、と言う。そこで1週間分ホテルを押さえてから臨んだら、私自身の出番は水曜日だということが分かった。何の事はない、予約した期間の後半の大方が空いてしまった。こういうことは良くあることで、私自身が企画した会議でも、客を捕まえておくためには、2つ以上の分野を交互にやったりするのである。参加者側から、もう少し整理して前半何々、後半何々、とでもして呉れたらいいのに、と不平を言われることは承知の上である。お互い様。


[ミミの店]
会場は凱旋門よりさらに外側で、ブーローニュの森近くにあるポルトマイヨーの有名な博覧会場だった。私は妻のHaと一緒だったから、そこから徒歩で行けるギリギリの位置のホテルを確保した。マジェラン・ホテル。その場所を見つけるのに苦労した。3星クラスだと言うが、設備面ではやや貧弱なホテルだった。ただここの食堂は気に入った。朝、オレンジ・ジュースを特別注文したら早速持って来てくれた。実は注文しなくても朝食にオレンジ・ジュースは付いてくるのである。そのかわり、そういうあてがい物は薄いのである。やはり注文したものの方が良い。15分かけて会場まで歩いて行く途中に、「ミミの店」とワレワレが勝手に呼んだ仕立て屋がある。プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」のヒロインの店、という意味である。こういう所でミミは刺繍の仕事を貰ったのだろう。
最後の海外講演の場となったポルトマイヨーで買った模型。
図:最後の海外講演の場となったポルトマイヨーで買った模型。


[パリ会議]
会場につくと、さっそくブルガリアのDaに逢う。「探していたんだ」と言われて、無理難題を持ち込まれるかな、と思う。話を聞くと、座長に予定していた米国のWLが見つからないので、替わりに座長を引き受けてくれ、というのだ。私が?どうして?と見つめたが結局は引き受けるはめに。妻を紹介した。妻とはここのロビーで別れる。会費を払っていない妻はそこより内部に入れないのだ。僕だけが内部に入り、昼食時まで妻とは別行動となる。妻はその間、ブーローニュの森を散歩したそうだ。それから僅かな時間たったとき、ああやっぱりKじゃないですか、と声を掛けてきたのがカナダのTomだった。暇らしくいつまでもしゃべっている。今日の午後講演するんでしょ?と言う。大概一緒のIgは今回は来ていないという。またカナダのLwsにも会う。我々のところのMT君を彼に預ける話をしたのだが、彼を迎えるのにまだ家が契約できていないと言う。Lwsは興がのると話に熱中していまい、周辺が見えなくなるというクセの持ち主。ドイツのノイファールンであった別の会議のあと、皆で会食をしたのだが、注文を取るHsbが彼の横に立ったまま、立ち往生していた光景を思い出す。いい意味での仕事オタクだった。


[座長は各国からの発表者と握手を]
そしてドイツのRtにも会ったので、私がドイツの新規施設建設計画は米国なみだね、と言ったら我々の方がずっと上、と答えた。しかもドイツのはインターナショナルだという。今後、米独の競争が始まるわけだ。そして会ったのが英国の重鎮Bt。彼はもう一つ別の会議のセクレタリーを務めているが、この人もまたややクセがある。この前にあったファーンバラ会議で初見参したのだが、最初の時から隣席の私に色々話しかけて来たのである。そしてK!と声がかかったのでKeが来ている事が分かる。あとで別の人と話をしていたら、Keは私の所に来て、いつものように抱きしめてくれた。またマドリードで話を聞いたばかりのハンガリーのSp。彼らは新たな座長役の僕と、一人ずつ握手していくのだ。そしてアルゼンチンのVasにも挨拶する。また親切だったドイツのKif教授(昔ワーグナーのCDを貰ったことがある)。おなじみのドイツのRz、ロシアのSha。皆とにこやかに挨拶を交わすが、こちらは数年ぶりの司会だから内心ではかなりくたびれた。気が張るから「もつ」のである。欧州人同士だったらまた違った感じだろうと思う。日本に来たことがある面々もいる。ロシアのShaなどは「まだ雪景色のモスクワから」などと前置きの付いたメールをよくXXX機構に寄こしたものだ。

またドイツのHokにも会う。今日は別の興味があるので、と言って別会場へ向かう。彼女は私が病気になる前に、日本のXXX機構で開いた国際ワークショップの席順を見て、私の意図を見抜いて小声で「あなたのアイデア?」と囁いたので頷いたら大笑いした。これは米国は自分の為のワークショプだとうぬぼれていたから、そうではないよ、という印に、国際機関代表を米国の相手側席に座らせたのである(しかもこの時は中国代表をも国際機関の後ろに座らせた)。米国のMilとも会う。肝心の私の講演はアップルのコンピュータが使えないかったが、何とかこなす。ここでは笑いを2回取った。あとで隣人の学生から、プログラムの上であんたの名前を探しているが、どこだ?と聞かれた。日本人にも会う。Oh教授がやっと会えたねと言って寄ってきた。このように多くの友人達と再会し、そして実質的にこれが別れ。いくらか寂しい。ブルガリアのDaは次回の北京会議の時に私に何か役割を割り振ろうとしていたが、私はその時は引退しているよ、と告げた。まだ若いじゃないか、と言われたけれども。


[パリ会議以外で逢った人びと]
ここに書いてない人々との交流も、終わらせるには惜しいものだった。まずオーストリアのPek。彼はオーストリアや南ドイツに溢れる濃い緑色のツバ広帽を愛用し、いかなる衣装の時にもそれを被っている。あの色合いは当地では田舎臭い色合いの代表だと聞いていたが、Pekはいつもにこやかで、僕の姿を認めると挨拶するから好き。たまたまパリには来なかったが、マドリッド会議やウイーン会議には現れた。この会議というのが実に小規模の会議で、わずか7名の各国代表が集まり、毎日出席したあかしのサインをして、COSN問題を討議したのである。会議中、妻は近所をウロウロと観光していた様である。ウイーンでは昔「魔笛」を初演したアン・デア・ウイーン劇場の隣にあったべートーベン・ホテルだった。Pekはいそいそとシェーンブルン宮殿の音楽会に案内し、オーストリア・ワインのカタログまで呉れるという風に、仕事以外の世界でも活躍した。そしてイタリアのSca。彼女とは1984年のベルリン以来の付き合いだが、あらゆる所で再会を繰り返した。彼女の同僚たるTonoは日本のXXX機構の私の所にもやって来たが、決して豊かと言えない予算でキューキューしていて、最近は元気がないようだ。
最後に訪れたパリのリュクサンブール公園。
図:最後に訪れたパリのリュクサンブール公園。


[インドネシアについて]
実は、私はビルマに行くはずだった。しかし現在でもなお、様々な困難がビルマ行きにあることは明らか。これには事務方が業を煮やしてしまい、いっそビルマに行くのは止めてインドネシアに行くか?と聞いて来た。私はそれに対してOKの返答をした。インドネシアのKnoは特別であった。1986年、親切にも1ヶ月間ジャカルタに呼んでくれたし、しかもそれを2回繰り返したのである。この予算は国際機関の負担だったが、ルピアの1/10切り下げにより、直前、ドルで入手した私はオドロク程の幸運を味わったのである。きっかけは1982年に日本で開かれた国際ワークショップに遡る。当時セクレタリーの引き受け手が無くて役人達が困っていて、私が頼み込まれたのを引き受けてしまったのだ(担当した知人は私の中学の先輩だが、今では故人)。当時はKnoは単なる参加者に過ぎなかったが、それがたちまちにエラくなり、外国人を呼べるようになったのである。Knoは米国人の競争相手を破って私を採用した。インドネシア人の心に感謝せねば!そして中国の活動にはチョッとコメントが必要だろうと思う。私自身の中国チャンネルは北京のあるお役所にあっただけだった。大学で教えていた留学生がチャンネルを持っているから努力してくれる、と申し出て呉れたり、また私自身も手紙を当分野の中国チャンネル代表に送って努力したが、ナシのつぶてだった。国内外の他大学の教授達も中国との接触を試みたが、この点全く同様だった。この時、すでに中国は自分達の計画をどの国にも頼らずやっていこう、と決めていたようである。これからの中国は恐るべき競争相手になるだろう。

この会場を去る時は、あっさりと去った。私の海外活動はニューヨークに始まり、パリで終わったのだ。その複雑な心境は誰にも話していない。成田空港からの出入りは、合計31回にのぼる。これは私の職歴後半から海外行きが急に自由になったため。昔は例え私用でも大臣決裁が必要で、海外へ行くのは難しかった。引退をいよいよ決心したので、米国のH夫人やKeやCや、イタリアのSca、インドネシアのKno、ノルウェーのTvnに今後は自分と家族の為の生活をします、と手紙を書いた。皆も歳をとり、やがて引退するだろう。英国のBtはその一人だが、すでに彼のワークショプはフランス人のBlieがあとを継いだと聞く。Blieは日本に来たことがあり、その時の写真を見せてくれた事があった。


[優雅な時間]
自分の講演が済んでしまったので、あとその週の後半が空いてしまった。そこで家内と一緒にモン・サン・ミッシェルに行ってきた。これはバス・ツアーを利用した。遠かった。添乗員が一生懸命に中世フランスの歴史を話してくれたのだが、アキテーヌの女傑エレオノールの話なぞ、もう少し聞きたかったな。5時間もかけてようやくたどり着く。この要塞のような修道院は世界遺産だそうだ。海に面し、大潮の時は通路が塩水で塞がれるという。アルセーヌ・ルパンの奇巌城のモデル。内部にはニューヨークにあるクロイスターみたいな明るく開放的な部分もあった。もちろん米国の方が新しいものだ(それも遥かに新しい)。此処で偶然ポーランドに修学中の日本人学生と会う。帰りにこの修道院の模型を買う。またロワール地方の城巡りもした。この時の年配の添乗員はそれほど詳しくない気がした。というのも、フランスの城を考える際、トイレをどうしたかに興味があったが、「おまる」ですわよ、とそっけない答え。大体ベルサイユにだってトイレが無かったのだし。最初の城ブロワはまるで童話に出てくる城のようだった。次の半分水につかった城シュノンソーは女性的なたたずまい。そして最後に訪れたシャンポール城(レオナルド・ダ・ヴィンチが滞在して有名)は素晴らしいものだった。帰り道が混んで、帰ったのは結局7時すぎ。

旅の最後にバスティーユ広場に面する屋外カフェで食事をとったあと、ジャン・バルジャン(ヴィクトル・ユーゴー「レ・ミゼラブル」)を気取って地下水道を探検。これは映画「北ホテル」ゆかりのホテル付近まで地下道を船で通り抜けて行くのだが、そのために2時間もかけなければならない。「北ホテル」自体は映画撮影に使ったわけではないし、その雰囲気が分かった程度。ただ、その少し先で下ろされた時は困った。このあたり、パリの地理がさっぱり分からないのである。また乗り合わせたイタリア人中学生達のうるさいこと。タクシーはめったに来ないが、幸い先客が待っていた乗り場で、2台目を捉まえることができた。これでマジェラン・ホテルまで戻る。じっさい今回はあまり歩かずに、タクシーを利用して各地に行ったのである。そうでもしないと体がもたない。まずまずの旅だったと思う。食事は概して貧相だったが、それでも不自由はしていない。今回、晩餐会は欠席。ホテルに冷房がなくて、暑いのなんの。ルーブル美術館にもオルセー美術館にも行かなかったが、これはまた、そのための旅で来よう。美術を志す娘のHiに観せたいと思う。世界には色々な美術館があるが、やはりルーブルは特別。生の図絵を直接観るのと、写真に焼かれたものを観るとでは全く別世界だと、実感したからである。今(2009年)思えば、これらのことも早くも過去の話の仲間入り。真に光陰矢の如し。


[あと行きたい所]
また海外に出るとすれば仕事抜きだから、ぐっと行く先が多彩になる。行きたい所として、まずイスタンブール。そしてサンクトペテルスブルク、マラケシュ(モロッコ)、カイロ、アグラ(インド)そして、マナオス(ブラジル)やマチュピチュ(ペルー)も。実はバグダッドやペスセポリスにも行きたいのだが、今ああいう所に行くのは至難の技。そしてイースター島とタヒチ島。いずれも順不同で魅力がある。特に後者は久々に見た「総天然色」の夢に出て来たばかりなのである。遊びに行くのならまだ元気も残っているし(!)。プラハの街並み、これも魅力がある。米国YYY機構の所長だったGlはプラハを絶賛していた。2009年3月に大阪の会議で会ったばかりの、日本の同僚のMMもまたプラハの素晴らしさを強調した。そして、今までは何かしら仕事上の義務を背負って出かけた米国に、仕事なしで手ブラで行きたいと考えている。特にニューヨーク。



(次回はまたAPPENDIXです。但し、今度のAPPENDIXは5話程度の短い印象記です。そのあとに長大な第9話が控えています)

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