第9話:あちこち訪れた足跡


(2009年6月12日)
今までに訪れた町は最初がニューヨークで最後はパリ。その間に行った町々は思い出す限りで、下記のようになります。大概一晩以上泊まったところですが、買物や食事で立ち寄っただけのところも含まれます。

順不同で書き出すと、ニューヨーク、プリンストン、ワシントン、アーリントン、プリマス、チェスター、ボストン、マイアミビーチ、オランド、サンフランシスコ、オークランド、ロサンゼルス、ビバリー・ヒルズ、ブルックへブン、ロマリンダ、パーム・スプリングス、ホノルル(以上米国)、ロンドン、ウインザー、イプサッチ、ローエストフト、チェスター、セラフィールド、グリニッチ、オクスフォード、カーライル、フォークストン(以上英国)、パリ、ヴェルサイユ、ルーアン、シェルブール、ラ・アーグ、プリュエル、モンサンミッシェル、ロアール、カレー(以上フランス)、ブリュッセル、モル(以上ベルギー)、スタバンゲル、ベルゲン(以上ノルウエー)、ウイーン、ザルツブルク(以上オーストリア)、モントリオール(カナダ)、ベルリン、フランクフルト、シュツットガルト、ニュルンベルク、バイロイト、バンベルク、ハイデルベルク、ボッパールト、ケルン、ヴァハトブルク、ミュンヘン、ノイファールン、フュッセン(以上ドイツ)、ブダペスト(ハンガリー)、ヴェネツイア(イタリア)、マドリード、トレド(以上スペイン)、アテネ、ロードス(以上ギリシャ)、シドニー(オーストラリア)、モスクワ(ロシア)、ジャカルタ、ショクジャカルタ、バンドン、デンパサール(以上インドネシア)、シンガポール(シンガポール)、ジョホールバル(マレーシア)、バンコク(タイ)、シェムリアップ(カンボジア)、台北(台湾)、北京(中国)、サンパウロ、サントス、ポルトアレグレ、サンタマリア、クリチバ、サンマルティーニョ、カショエラパウリスタ、フォスドイグアス(以上ブラジル)、イグアス(アルゼンチン)。

特に愛着があるのはニューヨーク、ロンドン、パリ、ウイーン、ミュンヘン、ジャカルタ等で、いずれも複数回行ったところ。最初に欧州の地を踏んだ、フランクフルトとベルリンは、実に良い印象でした。インドネシアは、私と米国人が競争入札したところです。私はウイーンの国際機関に雇われ、ジャカルタに配属されましたが、殆ど毎日講義でしたから決して楽ではありませんでした。バンドン工科大学でも大学院の講義を担当し、ショクジャカルタでも同様でした。北京のCEM部からは繰り返し招待されていたのですが、やっと一回引き受けました。また蘭州のNNN機構からも招待がありましたが、後輩に譲りました。日本の国内機関に招待されて出掛けた欧州訪問、NCOS機関の招待で行ったワシントンでの会議。最後の仕事となった分野で、思い出深いのはブダペストとヴァハトブルクの2都市。また指名されて出掛けた会議はウイーンとノイファールンの2都市。旅費を出すからと呼ばれたのがパームスプリングスとブルックへブン。最後はパリでの国際会議。そして最も多数回行ったのもパリ(9回)。いずれも仕事という大義名分があって、そのついでに楽しみも味わせて貰った次第。


今まで、どこにも書かなかった事を、思い出す順に少し記述してみます。下記は古い日記の中に見つけたものです(一部分のみ)。

オーストラリアへの旅:
貝殻状のオペラハウスの売店に行く。サザーランド(S)の伝記本を買う。図書館とアボリジアの展示会を見る。一旦電車で戻り、シャワーを浴びてから着替えた。電車で再度サーキュラー・キーへ。サークルラインでまごついた。今日はオペラハウスで晩餐会があるのだ。Nisさん、Fmoさんに逢う。私の席は26番入り口の36番の席だった。前から2列目のBである。出し物はバレエで、コミック・ダンス、キャラクター・ダンスの類いだった。まず博物館の石膏像の物語、そして「ホフマン物語」や「天国と地獄」などオッフェンバック。「It is not Paris. Things for fortunate」とか「Only if I were young, only if you were tall」があった。そして外の北フォイヤで立食式のパーティ。Ineさんは明日はさぼって、メルボルンへ行くという。ここで近々XXX機構のRSA部に入る予定のDXXさんを紹介され、一緒に電車でホテルに帰った。


シンガポールへの旅:
「シンガポールの夜」というツアーに行く。今度はマレー系のガイド。地元レストラン巡りで、オーストラリア人家族と、Cl夫人、Aler夫人、Josさんと一緒に食べ物のショーを楽しむ。チャイナタウンでは4家族がプライバシーなしに暮らしているという。日本人の団体が、「家の中も見てごらんよ。天井が落ちそうな所もあるし」という。これをpeepingツアーという。アパートは4,000シンガポール・ドル以下では駄目だという。これはシンガポールの年収だった。立派。20年以内にシンガポールは東京を抜くと言っていた。東京は150年前のパリとか100年前のウイーンみたいか。インドのテンプルも見た。最後に有名なラッフルズ・ホテルへ行き、ガーデンバーで楽しむ。ジャズ、「魅惑のワルツ」等のピアノの生演奏つき。このホテルはアガサ・クリスティーが滞在したところとして有名。またシンガポール・スリングというカクテルも有名である。天井扇は止まったままだった。ここでジン入りのフルーツ・ジュースを飲む。夜10時半ごろホテルに戻った。テレビは「アイス・マン」。


台湾への旅
ホテルは貧相だった。日本語も英語も中途半端で困る。お茶をもってきた女性に、あらかじめ礼金を渡す。そして今晩のナイトツアーと、明日のシティツアーの英語版を申し込む。受付が頼りなかった。30分たっても来ない。1時間後に運転手から電話があり、韓国人だという。バスが出るまでコーヒーを飲む。マイクロバスに乗り込む。円山大飯店観光というのは、遠目からチョット眺めるだけ。ジンギスカンを食べる。スイス人、オランダ人、アメリカ人、中国人、香港人それに私、の混成部隊。Phsという2人づれがニューヨークと似ていると話していたが、それはどうかな。ガイドが怪しげなジョークを英語でするが、途中でネイティブに助けて貰っていた。竜山寺に行く。お土産屋に行かされるので閉口。蛇料理の店を見に行く。あやしげな所だった。蛇の炒めものとか。胃が痛くなる。15分で300台湾ドル分食べられるという。夜10時半ごろホテルに戻った。洗濯、シャワー。テレビではマカロワのバレエでプロコフィエフ「ロミオをジュリエット」をやっていた。

二日後、早く寝たせいか、6時前から目が覚めた。シャワーを浴び、両替し、お粥を食べた。パンチ・パーマの男たちと同席になった。相席を断れず。掃除のおばさんが来た。弁当はいかがという。タクシーで国立歴史博物館(南海学園)に行く。清朝の青い模様のものは、白磁だし、マイセン磁器の原形というのが良く分かる。明朝時代のものはやや艶が不足していた。そして明朝時代から桃色(黄色)の彩色を施し始めたようだ。唐代のものは陸奥焼、琉球焼みたいな民芸風で味わいがある。宋朝のものは落ちる。民芸的素朴さから芸術的洗練への産みの苦しみか。元朝のものはやや異質だった。あれこれの試みの跡が見られるが。B.C.5,000年に弥生式土器、A.D.2,000年ごろからは虹色のついたものが目立つ。7色ある。2階の半分は中国の歴史を展示したもの。北京原人の模型や骨とかあった。1階の売店で絵はがきを4セット買った。その店で「無尾熊」とあったので聞いてみたら、袋ネズミのことだそうだ。


ブラジルへの旅:
ブラジルのSat大学へ行ったことがある。Kyo機構の人達と一緒だったのだが、行く先は南西部のサンタマリアという街。途中飛行機が飛ばなくなって、仕方なくバスに乗り、クリチバ等の地方空港から小型飛行機路線を乗り継ぐ道中だった。これは後輩のMt氏の活躍が無ければ無理だっただろう。Mt氏には感謝している。ブラジルみたいな多人種で構成された国は、地方によって全く皮膚の色が異なる。Sat大学はドイツ人の子孫が多い所にたっていた。そこに「日本○部省-Sat大学の協力による」と記した巨大看板が広大な敷地に立っていた。そこであらゆる観測事業を行なう。まだ予定だけだったが、一応動くようになっていた。なぜブラジルにかというと、ブラジル沖が地球磁場の極端に弱い特異的な場所だったからである。地平線が見える壮大な敷地だった。その村長さんに逢ったが女性だった。Sat大学のNes教授はまるで欧州人丸出しだったし、英語も流暢だったからこちらはつい欧州人だと錯覚してしまう。

皆と一緒にサンパウロに行き、さらにサントスにも行った。サンパウロで皆(他の者はアマゾン河に面したマナウスまで行ったそうだ)と別れ、私だけ週末にイグアスに立ち寄った。そのあと、カショエラパウリスタの宇○XZ機構へ赴いたのである。車で行ったのだが途中さるホテルに泊まった際は、全く英語の通じない所だったから、手振り身振りで済ます。宇○XZ機構の方は堂々たるもので、米国NA●Aから直接援助を受けている事は明らかだった。そこで逢ったDp教授もまた欧州系子孫で、赤ワインを飲みながら互いの計画を話し合う。実際この時の計画を実行していればもっと私の人生も変ったものになっていただろうと想像する。この時期は英国IMSとも連絡を取っており、英国から南米まで船を走らせる計画を建てていた。具体的に機器選定等までやったが、結局は予算が付かずこの計画は諦めた。大西洋航路というのは魅力的な課題だったと思うが、予算や人員の配置などで無理があったのである。英国には手紙を書いてproposalの却下を願い、この話は終了した。
イグアスの滝の「悪魔の喉笛」あたりの写真。ヘリコプターの窓から撮影。
イグアスの滝の「悪魔の喉笛」あたりの写真。ヘリコプターの窓から撮影。


北京への旅:
中国本土に一度招かれて行ったことがある。寒い12月だった。どうしても私は3泊4日分しか時間を取れないから、と時間短縮を申し出て行く事にしたのである。全てあちら側の招待で中国の航空会社の切符が送られて来た。市内ではさるホテルに入ったのだが、少々戸惑う事もあった。例えばトイレット・ペーパーが置いて無く、各階のエレベータ前にあるフロントに言わなければ手に入らない仕組み。ホテルで食事を取るときは役所の方から連絡スミだった模様で、下へも置かぬもてなしぶり。●○機構へ赴くと、大勢の知己達がいて再会を喜び合う。ここから日本に留学生としてやってきた人達が大勢いたのである。そして日本のXXX機構の隣の部屋に長期滞在したNX嬢は元帥の娘とかで、彼女は自らの負担で大勢をパーティに招待したのである。他の日には別のYX氏が相手役だったが、○●機構講演会が開かれ、英語で講演。昼間、あるいは夜の食事時はさるデパートの地下食堂へ行った。そこで産まれて始めて血を固めた豆腐みたいなものを食す。あとは紫禁城や西大后ゆかりの庭園とか、万里の長城等にも連れて行ってくれた。とにかく望むことなら、何でも受け入れてくれそうな雰囲気。市内の土産屋にも連れて行って呉れたが、ああいう土産屋は小うるさい雰囲気がある。私は体調が回復したばかりで、体をいたわらねばならず、余り貪欲にはなれなかった。その後、日本で開かれたXXX機構シンポジウムにYX氏を中国からの招待客リストに加えたら、直ぐに引き受けて呉れ、いそいそとXXX機構に現れた。

あとでもっと西の地域にある蘭州の○○機構からも招待されたが、別記の通りそれは後輩に譲った。蘭州からさらに西にある湖を越えたところまで行ったそうである。シルクロードには興味があったので、やや羨ましく思った次第。でもそのあたり、核開発現場そのものでなかったか。そこの人はXXX機構の私の部屋にも2度現れた。最初の時はお土産に習字の墨を持って、2度目には金属製の馬の模型を持って現れた。要するにもっと協力関係を強めたいと言う。それは結構な話だと思った。実際、中国には我々の所で開発したシステムを衛星で打ち上げてもらったこともある。中国はロシア(経済問題に関してはロシア人はしつこい)よりさらに廉価(米国の100分の1)に済むのだ。



全英XX会議出張中のオフタイムの記録 (1992年3月22〜29日)
(会議関係は別途に記録あり)
パリに比してロンドンは影が薄くなってしまいましたが、それでも華麗さに驚き、初期には何回も行きました。ロンドン塔に展示してある各種の王冠のまばゆさ!個人的にはインド帝冠に魅力あり。またケンジントン宮殿も何度か訪れましたが、あのintimateな室内装飾も好き。ウインザー城では回廊みたいな部屋の中で生活するのも気が張って大変だな、と思いました。その時期の博物館や美術館、そしてオペラやバレエの記録を下に示します。同年輩のイタリア人TRI君と逢ったのもそこに於いてです。彼はイタリアから唯一のロンドン会議参加者であり、私もまた日本から唯一の参加者でしたので、互いに弱い者同志だったからです。TRI君は後にモントリオールのシンポジウムにも現れましたが、初めて逢ったのはこの時。向こうから声を掛けられて、一緒にコヴェント・ガーデン界隈で食事をしました。


23日 英国ナショナル・ギャラリー
1990年に見物したナショナル・ポートレート・ミュージアム(アン・ボレーン等の歴史上の人物肖像画がある)の隣にあるナショナル・ギャラリーに入る。トラファルガー広場に面したこの美術館は1991年にはトイレだけ借用したところ。会議場(クイーン・エリザベスII世ホール:ウエストミンスター寺院の裏側)からもホテルからも近い。ここでは絵画のみが展示してある。工芸品はヴィクトリア・アルバート美術館へ行かなければならないが、次回のお楽しみ。左手へ進むと宗教画から始まる。下記はその時の寸評。

ダ・ビンチ  陰影が濃い。丁寧な手法。ダ・ビンチ本人だけでなく、その弟子の作品も並べてあるが、よく良くみると差がある。特設コーナーにはクロッキーのような素描もある。
ラファエロ  明るい。青の鮮やかさは印象的。
ベリーニ   なかなか良い。
ボッティチェルリ ちょっと目にはくすんだ感じ。暗い。しかしよく見ると輝きがある。写真では分かりそうもない光沢。
ルーベンス 焦点が定まらない。書き込みが多すぎる。平面的。欧州人に最も人気が高いと言う。
レンブラント 黒から描き始めるのか。暗い。

ルノアール  ちょっと雑な感じ。
セザンヌ   かなり良い。遠目向き。梅原龍三郎に似ている。
ミレー    やはり好き
ゴッホ    やはり異様か。才能はある。
ブラック   ピカソそっくり。
ピカソ    すっかり古典になっている。
イングレス  アンジェリックの絵! オルランド・フィオリーソの一部とか。
ターナー   いつも縦長の木立ちや帆影が登場するが、これより100年は古い画家にもターナーそっくりな手法があった。

(フランス絵画) 慣れのせいか、やはりほっとする。
(イタリア絵画) みな明るく、彩度が高い。
(スペイン絵画) 田舎風を感じてしまう。
(オランダ絵画) 千葉みたい。
(イギリス絵画) 皆ステレオタイプ。


24日 大英博物館
91年の束の間の見物に引続き、再訪。意外にも、ホテルから歩いて行けるほどの距離だった。

パルテノンの彫刻  よくもまあ、これだけ剥してきたものだ。しかし現地に放っておけば崩壊したかも知れない。
アッシリアの壁絵  同上
日本ギャラリー   奥の院の別室にあるから、よほど見ようという気が無いと訪れないだろう。
ロゼッタ・ストーン 余り人だかりせず。通り過ぎてしまい捜すはめに。
ギリシャの神殿   丸ごと移築したもの。
エジプトのミイラ  ニューヨークやボストンの方が多いかも知れない。上方の壁の色彩の鮮やかで明るいこと。
ドルイドのいけにえ 最近見つかったばかりのミイラだそうだ。殆どそのまま保存されていて、元の顔を復元した像があり、またホログラフで立体的にも見せている。ドルイド教徒にいけにえにされた25才程度の男とくればポリオーネ(ベルリーニ「ノルマ」)?

ギリシャの小像   Early Greekの方が精巧だろうか。Late Greekの方が雑な感じ。
フィネガンス・ウェイク    ジョイスの鉛筆書きのPatchyなメモ。赤鉛筆でバツ印が沢山つけてある。
ニュートン     鉛筆のメモ帳。隣のダ・ビンチの肉筆は展示から除いてあった。
ヴィクトリア女王  かなりくせの強い字。きつく傾いた字体で、筆圧は強い。
エリザベス一世   王女時代のものは極めてきちょうめんな角々しい字。しかし即位後にスコットランドのジェームス一世にあてた手紙の字はかなり崩れている。
メアリ・スチュアート かなり崩れた字。奔放な性格を思わせる。
ヘンリー七世    こじんまり、実直。
エドワード六世   こまめな感じ。(子供にしては大人びている)

パーセル      きちょうめん。
バッハ       顔にふさわしく謹厳な感じ。
ベートーベン    歌曲「アデライーデ」の楽譜は、意外なほどきちんとしている。ニューヨークのモルガン邸で見たものとは印象が大きく異なる。ベートーベンは歌曲が苦手?
シューベルト    書きなぐったような感じ。
ヴェルディ     歌劇「アッチラ」の大部な手書きスコア。
モーツアルト    下書きなしに最初から完成品を書いたとは言い難いような感じ。自信満々ではないようだ。
ブロンテ      「ジェイン・エア」の肉筆原稿。
ブラウニング    詩集の肉筆。
エリオット     詩集の肉筆。

退館前に絵ハガキを何枚か買ったが、売子は枚数を数えず、客の申告だけで済む。出口で小銭の山を寄付。


25日 地質博物館(英国地質調査所)
私がもう一つ興味をひいた地質は余り人気がないのか、見物人が少ない。先生の引率で来た小学生グループが多かったが、個人で来る人は少ないようだ。先頭を切って入館。有料(3.5ポンド)だから人が少ないのかもしれない。

・宝石の展示が有名と聞いていたが、石の大きさではニューヨークの自然史博物館やワシントンのスミソニアン博物館に劣るものの、種類は多い。こちらの方が学問的という感じ。
・3階から見始めたが、同じフロアに他の人影なし。と、思っていたら秘かに監視している職員がいた。陳列ケースの上で伝票を計算している。

・地学的関心のある者には興味深い展示。Monazite, Zircon, Ilmenite, Xenotime(砂)が同じケースにあつめられているのでびっくり。特にXenotimeは初めて見た。いずれも放射性核種をたっぷり含んだ鉱物だから、このケース内の空気にはラドンが満ちているだろう。放射線検出器で測ってみれば分かる。
・45億年前のイギリス産の岩なんて表示があったが、あれは怪しい。
・ブリテン島の南→北に向かって年代が古くなる、という解説あり。
・ギフト・ショップで英国地質図(15ポンドx2)と、「火成岩の解釈」という本(18ポンド)を買う。ついでに元素周期律表の下敷きも。帰国後にMf氏にあげた。

入館前にはだれも居らず、休館日かと思った。あるいは入口を間違えたかとも。うろうろしていたら通行人にハロッズに行く道を聞かれた。こちらも地図を見なくては分からない。退館後にハロッズへ。一本道で行ける。短時間で済んだので、タワー・レコードへ、またピザハウスへ歩いて行く。


26日 「ミス・サイゴン」(ドルリー・レーン劇場、ロンドン)
・夕方にふと立ち寄った劇場で偶然買えた切符。前売り売り場の窓口しか開いていなかったのが目の前で当日券売り場が開いたため。
・音楽はプッチーニ風。それぞれプッチーニ「トゥーランドット」、「マダム・バタフライ」、「ラ・ボエーム」の音楽を思わせる。ユニゾンが多いのだ。
・ストーリーは明快で涙腺を刺激するものだが、ほとんど蝶々夫人のプロットみたい。
・左隣は香港系かと思う。きれいな英語だが、東洋系だった。
・安いだけあってRestricted viewで12.5ポンド。柱が邪魔だが、体をひねれば見える。前の大男(東洋人)が背伸びをするので時々邪魔になる。

・"American dream!" でやっとブロードウェイ風の演出。「42番街」のようなダンスがあり、ミスユニバース風の王冠をつけた女性が乗った黄金のキャデラックが登場したりして、笑える。
・終幕部は全く蝶々夫人そのもの。
・どこかの週刊誌で読んだ通り、「マダム・バタフライ」を知らない人はこれであの種の話を記憶するか。
・米軍を乗せてサイゴン→バンコックへ飛ぶヘリコプターまで登場する。
・舞台装置はニューヨーク・シティオペラ並み。
・ミュージカル劇場はどうしてどこでも汚いんだろう? ここはミュージカル「マイ・フェア・レディ」、「コーラス・ライン」、「王様と私」の初演をやった所なのに。


27日 レ・ミゼラブル(パレス劇場、ロンドン)
・これも夕方当日券で入場したもの。
・音楽はあまり印象が残らず。余りに有名なストーリーだから筋を追うのは楽。
・ジャン・バルジャンはまるでヴェルディ「運命の力」のグァルディアーノ神父役。フォンテーヌ役は金髪で若い頃のリッチャレルリみたい。終幕で再登場するのはヴェルディ「ドン・カルロ」に出る「天の声」みたいなものか。
・ジャベールはスカルピア(プッチーニ「トスカ」)役そっくり。成人後のコゼット役はオランピア役(オッフェンバック「ホフマン物語」)に扮したサザーランド(S)みたい。ミリエル僧正役は若すぎて不自然だ。
・限られた人数が回転して演じているらしい。ミリエルが若い労働者で再登場したり、死んだはずのフォンテーヌが別の役で出てきたり。

・ストーリーが有名なために大分得をしている感じ。演技もミス・サイゴンの方が体当り的か。
・終演後、全くメロディーが頭に残らず。日本でも島田歌穂の歌で何度か聴いたはずなのに、それを思い出さない。ただ、やはり涙腺を刺激するし、左隣の女性は鼻をすすっていた。
・これもRestricted viewで前から2列目の右端。スピーカーが邪魔。しかし僅か約1,000円はお得か。
・電子鍵盤楽器を多用していた。生のオーケストラ要員は10人程度か。
・舞台袖がよく見える。モニター・テレビが指揮者を映しているのが分かった。
・回転舞台をフルに使って、進行を早めている。ガラクタの山がバリケート等に使われていたが、中に仕掛があって起き上がったり、しぼんだりする。
・空砲を使うので、硝煙の臭いがする。
・マリウス役はまるでM.J.フォックスそっくり。
・これまた、汚い劇場だ。まるで実験劇場のよう。ここはミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」をやったところ。


28日 バレエ・マノン(ロイヤル・オペラハウス、ロンドン)
マスネーの音楽をもとにバレエ化したもの。
・昔ニューヨークでオペラ版のマノンを見た時の印象記に『マノンの音楽は意外に分厚い』とあるが、分厚いのはユニゾンを多用しているためらしい。
・バレエとしてのテクニックはイマイチ。男性がふらつく。
・隣の2人づれはロンドン在住の日本人女性だった。
・古着屋みたいな背景。ボロが沢山ぶら下がっている。
・主役は随分小柄なプリマで、森下洋子みたいな容貌。男性も小柄。背の高い男性ダンサーはどうするんだろう。
・今回の幕間は、珍しく白ワインにした。
・オペラをバレエに変換するのに編曲でもしたのか。すっかりバレエ音楽になっている。そうだとすると、マスネのマノンは底が浅い。テンポが速くしてあったのかも知れない。
・全体として余り印象的でなく、また見たいとは思わない。


29日 セビリヤの理髪師(イングリッシュ・ナショナル・オペラ、ロンドン)
初めてインングリッシュ・ナショナル・オペラへ出かけた。コヴェント・ガーデン(ROH)の方では今回オペラが無かったため。

・天井は高く、磨けば随分立派なオペラハウスだろう。ROHより天井は高いか。
但しオーケストラは乱れがち。
・フィガロ役もはじめ声が割れているし、ロジーナ役の声はキャンキャンし、序曲のシンバルはふっと消えてしまう妙な響きで、異様なレガートも気になった。しかし次第に調子が上がり、ロジーナは本来のメゾらしく響くし、トリルも光を増す。
・英語のロッシーニは奇妙(ビバリー・シルズの「イタリアのトルコ人」を見たのを忘れていた)。所々イタリア語が混じる(piano,piano!とか)。

・インティメイトな雰囲気の入口付近。「おばはん」風の係がバー/プログラム売りを勤めている(まるでパブ)。多分、昔の浅草オペラの雰囲気か。某伯爵がお忍びで来るとは思えないだけ、気楽に楽しめるオペラ・ハウス。それでも平土間のお客は 結構立派な身なりだった。
・気軽さの対価にシャンパンが無いので開幕前に白ワイン、幕間に赤ワインを飲む。係の者からサザーランドのお気に入りのファブリックを買う。
・ アンサンブルの調子が上がるとロッシーニらしく、結構乗れる。また来る値打ちはある。
オックスフォード大学・ベリオール・カレッジの紋章
図:オックスフォード大学・ベリオール・カレッジの紋章


その他の訪問地
(ロードス島)
私が健康を損ねて海外活動はもう無理か、と思ったとき、医者が奥様が同行されるなら良いでしょう、と言ってくれたため、現在まで大きな旅行は殆ど、妻が付き添っています。最初に復活する場所はギリシャ、それもロードス島でした。十字軍騎士達がエルサレムから撤退し、このロードス島を本拠地として活躍し、それもさらに海戦に負けてマルタ島へ後退するというストーリー、これは有名です。おまけに私はこの騎士団の海戦ストーリーを塩野七生さんの一連の本を読んでいたので、ロードス島には特別な感情を持っていました。塩野さんには、記憶の中の歴史を呼び起こしてくれた点は買っております(昔○務省で開いたワークショップに参加した韓国のLx氏は、自分は塩野七生が最も好きな作家だと言っていた)。このロードス島からはトルコ本土がよく見えたので驚きました。騎士団がメインの仕事にしていたのは、傷ついた戦士達に対する医療行為でした。実際、それがあったからこそ騎士団の存在理由があったと考えます。有名だったテンプル騎士団が当時の権力者から疎まれて、ついには解散してしまったのに比すと、この海の騎士団は賢明でした。現在マルタは独立国になっています。

そのロードス島で開かれた会議は、私にとっては起死回生のチャンス。それがあれほど十全な準備をしたにも関わらず、大失敗してしまったのです。講演そのものでなく、講演で使用するオーバーヘッド・プロジェクタ用のフィルムを、持参するのを忘れていました。それに気づいたのは発表の当日。泡を食いました。幸い、私はフィルムと共に、そのフィルム内容をプリントしたものを持参していました。ただコレはモノクロ版のみ。そこで事務局を探し、事情を説明し、どこかにフィルムを売っていないかと尋ねました。そうしたら、フィルムは事務局に少し残っているから、それを差し上げます、との親切な説明!救われた、と思いました。繰り返し、繰り返し礼を言い、大急ぎでフィルムに、持参していたモノクロ版から、コピーを焼き付け、何食わぬ顔をして本番に臨みました。本当に冷や汗をかいた事態。講演は上手くもなく、下手でもなく、済みましたがこういう事があるから、事前のチェックは万全にしないと、ということが身にしみた次第。

ロードス島を楽しむ余裕はそれから生じました。海水パンツに履き替えて地中海を少し経験。海辺のレストランで食べるギリシャ料理。いずれも懐かしく思い出されます。ホテルが会場でしたから便利です。ただある団体、それもエステを標榜する団体がここで大会を開いていて、素晴らしくドレスアップした夜会服姿でうろついていましたから、家内はそれを見て私達の出席する会議のメンバーかと思って、卒倒しそうになった様です。この島の中ではどこへ行ってもタクシー代は共通して市内で10ユーロ。そこで遺跡巡りにも行きました。XX関係が多かったが、会場ではニューヨークのYYY機構から引退したAdに逢いましたが、挨拶だけして、私は新たに変更したCOSN分野に主として出ました。レセプションは遺跡になっていた博物館の庭で開かれましたが、そこに向かう途中でニューヨーク時代の先生だったKeに声を掛けられ、いにしえを思い出しました。Keは新しい奥さんを紹介してくれました。会議にはインドネシア人が参加していましたが、私は彼の顔を覚えていたので道で逢った際に挨拶しました。彼の専門はやはりXXだったようです。

帰路、アテネで一旦降りてアテネ観光。ホテルはアクロポリスが見えるところ。ここへ行きましたが遠いこと。歩いても歩いても、という感じでアゴを出しました。しかし頂上から見る市内の風景にしばしうっとり。シュリーマン博物館、ギリシャ博物館にも行き、食事はギリシャ料理。特徴があるといえば、何でもオリーブ油を掛けてしまうところでしょうか。また現地でギリシャ民謡のCDを買いましたが、それからギリシャ独特の歌唱法を学びました
第4章第7話「おわりに」を参照)

(マドリッド)
スペインも有名な観光地ですが、ここで開かれた会議にも出た事があります。多少の混乱が見えましたが何とか無事に会議を開催した、という感じ。会場は全てポスターで、一部だけ講演もあったという構成。会場は2階だったので私もポスターを持参しました。ホテルから遠く、どうやって行き来するかで悩みます。レセプション会場も余りに遠い所でしたし、終了した時刻が遅かったため、地下鉄を利用してようやくホテルに戻った次第。レセプション会場ではXXX機構から来たFd氏がこのテーブルはXXX機構専用と宣言したので、始め座っていた外国人達は移ることに。写真を沢山撮ったはずですが、いまだに整理ができていません。ホテル自体は良く、気に入りました。

ホテルの近くでミュージカル「キャッツ」をやっていたので、妻と一緒に観てきました。スペイン語のキャッツですから、一糸乱れず、とはほど遠い感じ。そのキャッツの前に、至近距離にあったレストランでパエリャを注文したら、物凄く待たされ、配膳されたのが開演15分前。大急ぎの夕食となりました。あとで調べたら、そもそもパエリャは時間のかかる料理だそうです。余り時間のないせっかちには向かない。市内の移動はバスを利用。王宮も見ましたが、内部は広すぎて印象が散漫です。どこかのバス停留所の近くで食べたカキ氷みたいなものの印象が残ります。

途中でトレドに一度出掛けました。それもバスが出るのか出ないのか、ウロウロして大変。結局は無事に帰ってきましが、トレドはこじんまりした街。余りに古く、どの教会なのか分からなくなる難点があります。バスで向かう途中はただただ広い草原。この中をレオノーラ(ヴェルディ「運命の力」)が徒歩で海辺まで行ったのは気が遠くなる距離だな、と思いました。帰路、マドリッド空港では時間があるから、と買物をしていたら私の名前が呼び出され、もう飛行機が出るから急ぎ来いとの知らせ。結局間にあわず、飛行機は出てしまい、次の回の飛行機に乗るハメになりました。エールフランス機でしたから、パリで上手く荷物を受け継ぎしてくれることを願っていましたが、何とか上手く行って良かった。急ぎすぎて全貌を掴めなかったマドリッド、というのが印象です。

(英国への旅の補逸)
英国へはいつもイースターに行っていたような気がする。妻に初めてロンドンを紹介したのもその頃。宿泊地だったストランドパレス・ホテルからサヴォイ・ホテルの方へ行かずに、ウオータールー橋を一旦渡り、南側からウエストミンスター橋を渡って英国議事堂を見る、というコースを取った。それが最も印象に残ると考えたため。帰るときの僅かな時間を利用してコヴェント・ガーデン近くのウオルドーフ・ホテルでアフタヌーン・ティーを飲む。これはもっとたっぷり時間を楽しむ余裕のある人のコースだったらしい。我々がティーの途中で支払いを頼んだら「もうお帰りですか」と言われ、安くしてくれた覚えがある。また有名なフォートナム・アンド・メイソン本店を妻に紹介したが、ここも時間を気にしながらである。

家内が最も印象的だったロンドン塔では、川辺に面した反逆者門に恐ろしさを覚えた様子。「息苦しく重たい」というのが彼女の印象。一方でケンジントン公園や、グリーン・パークや、ハイド・パークの清潔さも、いたく印象的だったらしい。ケンジントン宮殿は中に入ったのだが、そこにある「隠し絵(騙し絵)」に驚きつつも、そのインティメイトな雰囲気に魅せられた(当時はまだダイアナ妃がそこで生活中だったと思う)。何よりも印象に残った所は、例のシャーロック・ホームズで有名なベーカー街221番地B。ここにウソながらホームズの家があって、そこを訪問したのである。その中に入ったら日本の家みたいな狭さだったが、感じのよい係員は、ホームズゆかりの帽子をかぶってキセルを持った二人の写真を撮ってくれた。他方、タッソーの蝋人形館は大して印象的でない。別の機会に、グリニッチ天文台に行って西半球と東半球を跨いだり、古い帆船カティサーク号を覗きに行った覚えがあるが、ほどなく船は火災を起こしたという。

(インドネシアへの旅の補逸)
インドネシアには2回行き、合計で2ヶ月間滞在。一人で行った時は長大な印象記が残っているが、家族を引き連れて行った時のものはメモも残っていない。余り変化の無い国だから、思い出しつつここに記す。講義をすると言っても英語であり、私の英語がどれだけ通用したかは分からない。あちこち研究施設を訪問し、その度に所長の客みたいな顔をして、ゲスト講演会を開いたのである。今思い出すと赤面の至り。そういうことは若い時しか出来ないのである。講演会の度に各施設の所長達は盛大な歓待をして呉れたから、全く若気の至りとしか言いようがない。ウッカリしたことは言えないはずだが、かなり正直に私は印象を述べたのである。ショクジャカルタの施設には深夜に到着したのだが、それから所長様のゲスト専用、というゲストハウスに案内され、そこで体を休めた。日本のNFLA機構と似ている。またバンドンでは有名なバンドン工科大学の大学院の講義を引き受け、さらに施設見学を繰り返す。当時、私は40歳に届いたかどうか、という段階だったが、要するに彼等にしてみれば私本人の顔色を伺うというより、そのスポンサーだったウイーンの国際機構の顔色を伺っていたのだと思う。

ジャカルタの若い職員達は人なつっこく、大変親しみを覚えた。彼等とは休日に一緒に遠足に行ったし、そこで私は手で食べるという習慣に従ったのである。また当地名物の「果物のクサヤ」とも言うべき強烈な匂いのするドリアンも手で食べた。これはジャカルタのホテルには持ち込み禁止の食品だった。今、もう一度出されたら食べられるだろうか。しかし味そのものは美味しかった。これは保証する。興味があればドリアンのアイスクリームを売っているから、それを食べてみてはどうだろうか。職員達は昼食に彼等がよく食べる屋台に連れていってくれ、「安いよ、安いよ」と言って、私の分も支払ってくれた。

ジャカルタでは主にサヒド・ジャヤ・ホテルに滞在した。そこからよく買物にタクシーで出掛けたが、朝早くから子供達が新聞を売ろうと頑張っている。雨だったら、タクシーから降りようとする私達に、傘はいかが、とさしかける子供達。勿論チップが欲しいのである。一度どこかで子供の売り子から絵はがきを買ったことがある。可愛そうだというより、それを私は欲したからである。ある時、私のパートナーだったKnoと一緒に昼食をレストランで取っていたら、そこに小学生みたいな男の子がやって来て、靴を磨かせてくれと身振りで頼むのだ。この時の私の心中を察して欲しい。Knoの指示通りにしようと思ったが、彼は不可思議な微笑しかしてくれない。彼等は貧乏で、かつ逞しいのだ。

インドネシアではトリ肉が名物である。まだトリ・インフルエンザが話題になっていなかったせいもあるが、ヤシ油で揚げたあの逞しいインドネシア産の鶏肉は旨く、特に首が旨かった。私はパーティに呼ばれた時、Kno氏宅には鍵盤楽器をプレゼントし、また機構の方には当時盛んになりかけていた「マイコン」セットをブロックM(浅草みたいな所)で買ってプレゼントしたのである。マイコンとは少々時期尚早だったかも知れない。ジャカルタを去るとき送別会を開いてくれたが、実はこの日に限って、タクシーが道に迷ってしまい、相手方には物凄い心配を掛けてしまった。Xa所長が私の姿を見てほっとしたのを良く覚えている。毎日もてなすのと、思い出したようにもてなすのでは勝手が違うのだし、Knoには深く感謝したい。Knoは殆ど毎日のように昼食をもてなして呉れた。

さらにKnoは休日に市内にある「インドネシアの模型の町(タマン・ミニ・インドネシア)」とか、ジャカルタ港(旧パタヴィア港)へも連れて行ってくれた。彼は息子と一緒だったが大人しい子だった。また彼の奥さんとも知り合った。休日は徒歩で町中へ行き、博物館も覗いたが、その帰り道に後ろから日本語で「良い遺物があるよ」と声を掛けられたことがある。骨董品など、そういう方法で海外に流出したのに違いないが、私は無視。ホテルでは毎晩のようにバーに行き、ハッピーアワーという安い時刻を楽しんだが、ああいう事が出来たのもジャカルタという場所柄と、ルピア貨交換レートの10分の1切り下げのお蔭である(10分の1になったのは第2回目の訪問時)。

またインドネシアでは始業時間が正確なかわり、就業時間も厳格である。職員達は、終業前から踏切の前で足踏みして待っていた。当時の私はニューヨーク3回と欧州に1回行った経験があっただけだったし、まだ世の中の習わし等を充分に分かっていなかったせいもあるが、私個人としては最高に楽しい時を過ごしたと言える。ただ一度、ジャカルタ市内で水に埋もれた家屋と、その周辺の何に例えたら良いのか分からないくらい貧しい家屋を見た時は、まるで突然に貧困のど真ん中に放り出されたような気分になった。水といえばジャカルタで遭遇したスコールの凄さは筆舌に尽くせないものだったことを付け加えたい。ジャカルタの2回目訪問の記録は、娘が良くまとめて夏休みの宿題として学校に提出したが、それが唯一の「家族のジャカルタ訪問記」の記録になった。

(カンボジアへの旅)
ドイツのミュンヘン空港で警官に呼び止められたことがある。パスポートを見せろ、と言われ「随分あちこち行っているな。カンボジアまで行ってる」と警官3名に言われたが、私は実はXSF主催の会議を近隣の町で開くのでそこに出席する予定だと言って、ようやく解放された。カンボジアは後半の職業目的の一つ、COSNデータを得るためにここを選んだのである。但し私費だった。ここで市場の中、というかテントの中を通過した時はショックだった。あの暗いところに光る眼光の鋭さを感じたからである。これは見てはならないものだった、と一瞬思った。ここでガイドに雇われた少年は実に綺麗な日本語を話す。君のような綺麗な日本語は日本国内では珍しいよ、と感想を述べたくらいである。ガイドになろうと某所で一生懸命に練習したと言う。もっと開けた市場で自転車の模型(針金細工)が目に留まり、思わず買ってしまったが、あとでCN機構の部長にそのことを話したら、それは3倍以上ボラレたね、と言われた。まだ戦乱の跡があちこちに残るここでは優秀なガイドが不可欠だと思う。夜間皆でカンボジア舞踊を見る機会があったが、素晴らしく優雅さを感じさせた。どうしてその優雅な国があんな争いを起こしたのだろうと思う。

(ウイーンへの旅の補逸)
ウイーンではベルベデーレ宮殿が素晴らしい。ここにはナポレオンの馬上姿を描いた絵画が展示されているが、あんなに大きい絵画とは思わなかった。宮殿の大きさも楽しめる程度の大きさである。その点、シェーンブルン宮殿の方は余りに広くて、物理的にくたびれてしまう。屋内のこれでもか、これでもかと続くシャンデリアの大群にも飽きてしまう。グロリエッテ(シェーンブルン宮殿の庭にある戦勝塔)まで歩いて行ったのは、一度だけ、それも妻を伴った時だけだった。ホーフブルク宮(冬の本宮)の方は、バラバラな年代の建物が幾つも連なっているので、どこを見ているのか、チェックする必要がある。何回みてもどうなっているか分かないところ。エリザベートの墓や教会等の詳細は忘れてしまったが、一方ハプスブルク家の代々被った宝冠が本宮の中だった、ということは覚えている。

モーツアルトのゆかりの家とか、ベートーベンゆかりの家とかも思い出深い。ただしその種の家は無数にありそう。これに関連して思い出すのは、例えばモーツアルトが貧窮のどん底にあったとしても、彼の借りた部屋は結構広いし、日本の基準から見ると何か広すぎて馴染めないな、というところ。もっと節約することも可能ではなかったか。他の作曲家ゆかりの家は全く見ていない。ウイーン美術館には有名な「バベルの塔」の絵があったのも印象に残る。ここは広さがほどほどで、気に入ったところ。ハプスブルク家と言えばスペインの方ではマドリードのプラド美術館が有名だが、ここは作者が比較的限定されていたためか、はっとする事は少なかった。ただ、ここでニューヨークの近代美術館MOA以来、ピカソの「ゲルニカ」と再会したのである。ウイーンは広さも、人々の優雅な姿も、現在は私の好みの街と言えよう。昔はまるで「死んだ街」みたい、と勝手な印象を述べたことがあるが、今では反省している。また行きたいと思う。オモテ通りから一つ裏側に、ひっそりとした酒場があったりするのだ。あれはこたえられない。

(イグアス滝への補逸)
イグアスはブラジル側のホテルに泊まったのだが、もうひとつある見どころ、アルゼンチン側からも見た。ただ比べるとアルゼンチンから見た滝はやや迫力が劣る。ここへはタクシーで行ったのだが、途中でパラグアイを一瞬かすめたので、証拠写真を撮って貰った。アマゾン河にでも住んでいそうな鳥の動物園を見た後、アルゼンチンに渡った。やや貧相な場所だったので、これでブラジル側と同料金とるのかなあ、と思った。タクシーを待たせてあちこち歩き回ったが、アルゼンチン名物の昆虫を潰して染料にした織物製のバッグを買う。これは目も鮮やかな品だった(娘に土産品として謹呈)。また木工細工の極楽鳥みたいなトリや、ジャガーも買い、現在も我が家に陳列してある。支払いは全てブラジル・レアルですませた。国境では一応ストップするところがあり、警官が簡単な聞き取り調査をした上、タクシーの内部をチラと見た程度でパス。国境といってもこういうものか、と思う。

心残りは、あともう少し私に時間があれば、日本人の友人達が行ったアマゾン河に付いて行き、有名なマナウスのオペラ・ハウス跡(天然ゴムの全盛時代にジャングルにできたオペラ・ハウス)を見ることができたのに、ということだ。

(その他への補逸)←
(当時の職業生活をあえて記載しました)
ロシア人達ともあちこちで逢ったし、日本まで来た人もいる。ロシアで当該分野の活動をやっているセンターは2カ所あり、それぞれ競争意識を持っているようだった。私が付き合ったのは比較的若いShaだったが、彼の話の片鱗からロシアにおける競争を垣間みたのである。それぞれ、細かく分析するタイプと、ダイナミックにモデル化を図ろうとするタイプである。この違いはどんな分野でも見られるので、それを承知していた私は彼等の会話を楽しく聴かせて貰った。モスクワで会議を開催するという通知を貰った時は、実際私はTV露語会話を約1年間聴いて備えたが、会議自体が延期された。お陰で露語は身に付かず。あの時のTV講師だった人は現在では東京外語大学の学長になっている。少し暗い顔立ち。

私の体調不良のためロシアとの色々な約束事を果たせなかったことがある。これを修復するため、病み上がりながら彼等と再契約する話を持ち出した。会計事務方は良い顔をしなかったが、ついに説得に成功した。それは若いYu君が後は引き受けると言ってくれたからである。助かった。Yu君には他の2点でも負っている。一つはある年に太陽が異常だったことがあって、世界中が注目したのである。これは最初に印を見つけて即日計測を開始しないとダメになってしまう。私自身はそういう話に昔から関心があったし、実測するのも面白いと思ったのだが、援助を頼んだ事務方は何も助けて呉れなかった。しかしYu君らの熱意を見て決心した。自分達の責任で、自分達の予算を使って実測しようと考えたのである。オーケーの意を伝えると、翌日にはニューヨーク行きとロンドン行きの切符が手配された。もちろん実際に行ったのはYu君やKi君たちである。そしてアカデミックには非常に貴重なデータを得た。

ロシアのドウブナにある施設で会議を開くから、と言われたが、ここにも若い人に行って貰う。今思えば健康だったら自分で行ったに違いないが、それは望めなかった。元気が残っていた時代には、ブルガリアに行く話もあった。ただし私自身が忙しすぎて代わりに行ってくれとYu君に頼んだのである。ブルガリアというとヴァルナで開かれた世界バレエ・コンクールで森下洋子が優勝したことくらいしか知識が無かった。相手方のDaは人当たりの良い人だったし、この時もYu君の出馬を得てほっとした。Da氏に日本で開く会議の招待状を送ったが、会場で心配そうな顔をして私を探していたのを思い出す。もっと早く気がつくベキだったが、当時私自身はあらゆることをやらなければならなかったため、目一杯になってしまい、パンクしてしまったのである。こういう生活は楽しくない、と嘆いていたのだが、本音だった。

私自身は実業界を良く知らなかったが、ここにISX会議というのがある。有名な国際ネットワークで、喫茶店にもそのマークを見ることがある。ISXが新たに私の分野に乗り出すべく、調査を始めるのでその会議に参加してくれ、と依頼されたとき、自分の興味本位で参加しても良ければ、と条件を付けて会議に出たのである。ここは旅費を出せるほど財政が豊かで無かったから、自分で予算を工面して行かなければならない。それでもドイツで開いた会議に行くことにした。XZ氏なども自腹で北欧に出掛けたりしていたが、案外こういう自己負担が日本では重要な情報源になるんだな、と思った次第。但しブエノスアイレスで開くという通知があった時は、かの国の経済事情を考えて行かず。現在はHY氏に後を託すことにした。彼の能力だったら大丈夫。オランド(フロリダ州でディズニーランドの近く)で開く会議からはしつこいほどメールを受け取ったが、見送った。実は私にはアカデミックでもノン・アカデミックでも、やりたい分野、課題が余りに多かったし、例え興味本位でも、一個人では到底カバーし切れないほどのことを望んでいたのである。色々と心残りだったが、終りを迎えなければならない。

あと何日こうして過ごすかと、日数の勘定を始めたのもこの頃からです。日本で開いたある会議録が本になりましたが、その裏表紙にシェークスピア「ロミオとジュリエット」の詞を付けました。

あまりに無鉄砲、あまりに無分別、あまりに唐突、
光ったと言う間もなく消えてしまう稲妻に
あまりに似ています(ジュリエット)
It is too rush, too unadvised, too sudden; Too like the lightening,
which doth cease to be Ere one can say "It lightness."
(Juliet, from "Romeo and Juliet")


何かで読んだことがありますが、トルストイは偉大な作家でも、もっと遥かに遠い空を見上げると、そこにドストエフスキーが霞んで見えるんだ、という話。私にとってのドストエフスキーは音楽でした。



(次回は、いよいよ「音楽のすすめ」の本編の最終回です)

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