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ここから第4章「源氏物語」のための特別APPENDIX章になります。
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(31)モノローグ    2008.5.6

ようやくWEBページに載せていている「音楽のすすめ」第4章「源氏物語」で用いる音楽が決まり、またそこに添付する画像も綺麗なものが決まりました。と言うより、決まりかけています。常に意識していますが、WEBで公開する以上は、版権問題が出ないようにしなければいけません。結局、一般公開では真にオリジナルなものだけしか使っていません。まずはAppleの純正ソフトKeynotesで編集しますが、そこに入れるのは自作のイラストのみ。これを色で区別するのか、模様で区別するのか、あれこれあって意思が決定するまでに、紆余曲折がありました。

基本的に「源氏物語」で呼び起こされる音楽の記憶をかき集めるための仕事ですから、常にそこをウロウロしつつ先へ進まなければいけません。私自身の予想と少し違っていたのは、声楽があまり入ってこなかったことです。意外に非声楽(!)も好きなんだなあ、ということを再確認しました。好きな音楽ですから真面目に選びました。それも一種類のCDだけでなく、指揮者をワルターなら、カラヤンなら、フルトヴェングラーなら、メンゲルベルクなら、等々さまざまな人の演奏を比べながら選びました。同一のヴァイオリニストでも、組合わさっているピアニストがAの場合とBの場合では如何に違うか等、悩みはつきません。妻と一緒に近所の某牡丹園へ行って来ました。牡丹は沢山ありましたが、既に盛りを過ぎようとしていました。随分沢山の写真をとって来たので、これから整理しなくちゃ。





(32)モノローグ    2008.6.23

今一生懸命書いているコラム「源氏物語」に私が余り熱中するため、妻には少し運動しなさい、と言われています。時々虫干しのためと称し、庭に広げたパラソルの下でお茶を飲まされたりもしています。一日の大半をコンピュータの前で過ごしているので、当然です。この「源氏物語」は決して酔狂ではなく、私にとって大切なものです。これは私のオリジナルですし、それを書く事は私の存在証明になると信じています。しかし時間を喰うのは確か。たった2行の内容を確かめるため、各種訳文を比較し、原文と対比し、等々。実に手間が掛かりますが、其の分、いとおしさも増します。書いているうちにインスピレーションも湧きますし、どうしても書いて置きたい箇所を書き留めるとホッとするのです。いやはや、一種の病気ですね。でもあと少し!頑張りましょう。





(33)モノローグ    2008.7.1

妻と京都に旅行することになりました。突然ですが、私が朝見つけた新聞広告の話をしたら、それに即ノってくれたのです。2泊3日で、源氏物語の足跡を追います。決まってから私は大忙し。まず京都源氏物語地図から、直接関係のある所を抜き出して、自分版の地図に作り直し、それを現実の地図に当てはめて、何何通り、という実名を書き込んでみました。今はそれを眺めながら楽しんでおります。私なりの大団円を記念した旅行になりそうです。





(34)モノローグ    2008.7.2

先日書いた通りの地図が出来たので、古くから買ってあった地図を書庫から探し出し、それを参照してみました。但し余りに古いため、少々苦労を強いられるかも知れません。まだ古いアッパータウンとミドルタウンだけですが、これで少しは現実味が出たかな。本当に私は思うのですが、自分が好きなことをする時は、努力を惜しみません。源氏物語がこれほど、努力を払える対象だと、初めて自覚しました。真っ先に探したのが我々の宿の位置の確認。そうしたら、それは冷泉院の跡地に隣接する所に建っていました。従ってその北側には朧月夜が弘徽殿女御から晩年引き継いで住んだ館があったはず。そしてその東側には二条院等の建物が並んでいる、という設定です。勿論、私はシロートですし、通りの位置も1つ2つ違っているかも知れません。でも大方はこれで良いのだと判断しました。その根拠は、先に述べた「京都源氏物語地図」と、それに付属する小冊子にあります。現実の道路と対比しようとすると、こうも困難が大きいのか、と痛感します。そして何故「源氏物語に対応するいにしえの地図」みたいな物が流布していないのかが少し分ったような気がしました(勿論「京都源氏物語地図」には薄く、現実の道路が書いてありますが、あまりはっきりとは書いてない)。私が気楽に描いたものが、案外役に立つのではないでしょうか。ここに製品をお示しします。京都にお住まいの方、私の地図がもし違っていたら笑い過ごして下さいね。

京都源氏物語地図




(35)モノローグ    2008.7.3

さらに古いダウンタウンの地図もここに示しました。これで一応完成です。このダウンタウンの地図は、実は他と比べると少しいい加減なものです。ようするにここでは六条院の位置を確認できれば可だからです。玉鬘の最初の京都における宿の位置は、現在の東寺あたりですが、ここは大昔でも、かなり寂れた場所だっただろうと察することが出来ます。だから、せっかく玉鬘が京に戻っても、そこは賑わいの点では、ギリギリで京の中に数えられる所だったわけ。

京都源氏物語地図downtown




(36)モノローグ    2008.7.6

空蝉をどうやって説得したのか、出家していますからラブ・ロマンスを迫られる心配はもう無いとしても、あの気位の高い空蝉を二条東院に迎えた時の委細は不明です。同様にして常陸宮姫君、つまり末摘花を最初にここに呼び入れたと思うのですが、その際に「その他大勢」と一緒に、いわば雑居状態で住まわせたとも思えないし、恐らくは末摘花は「対」を一つ貰ったのでないか、と想像します。決して心底好きと言えなくても、末摘花は源氏にとって特別な意味があったはずですから、その世話も念入りにしたはずです。我々はこのあたりまでは、つい源氏の側で物語を読みますが、これを姫達の側で読むと、その意味はよく分りますね。ここで末摘花も空蝉も歳を重ねて行ったのですから。源氏より長生きしたと思えないのが救いです。





(37)モノローグ    2008.7.9

京都に着いてホテルの窓から外を眺めると、窓下に二条城が見えます。その一部は昔の冷泉院です。かなり大きいですね。ホテルのお向かいには朧月夜が弘徽殿から相続した所があります(写真)。今日歩き回って驚いたのは、二条通が立て込んだ道幅の狭いところだったこと。もちろん現在の話として、です。二条通には弘徽殿、藤壷、そして二条院、二条東院が並び(写真)、その裏側には女三宮の御殿や、玉鬘、真木柱の邸があります(写真)。二条院では新しい女君を迎えた(紫の上)とか、東院には新女君(末摘花)が入ったとかいうニュースは、それこそ今日の新聞の三面記事のごとく、あっという間に広がったことと思います。架空の話に加えて、ここには実在の藤原道隆の邸がありました。二条通は当時の貴賓達のメイン・ストリートだったと言えそうです。落ち葉宮の住んでいた一条宮は広大なものだったと思います(落ち葉宮邸は現在の御所内部にありますので、想像だけ)。末摘花の住んでいた常陸宮の邸も広い敷地でしたし、こういう所でくすぶっていた姫君の心境はいかなものか、察するに余りあります。末摘花邸のあたりには、うっそうとした木立があって、それを眺めていると本当の話として受け止められる気分になります。末摘花邸を過ぎて北へ向かって行く途中には、花散里が最初に住んでいた邸や、さらに空蝉のいた紀伊守の邸が道路の反対側にあります(写真)。中川の辺りから何となく花橘の薫りがするような気がしますね。御所付近を横断したのですが、塀の外側のぐるりを囲むような綺麗な石造りの用水路を見ました。これが当WEB第2章の第4話で安田政彦(平安京のニオイ、弘文館、東京、2007年)のいう排水路なんだろうな、と理解しました。でも、御所では綺麗でも大概のところではもっと不衛生で汚れた流れだったんだろうな、ということも理解。





(38)モノローグ    2008.7.10

京都御所の向かい側に「源氏物語」の作者紫式部が「源氏物語」の大半を書いたとされる廬山寺があります。また三条通はアーケード付きの商店街であり、随分建て込んだ所で、この辺りが葵の邸か、と思うと複雑な気分です(写真)。なぜ葵の邸、というか左大臣家だけがポツンと離れた所にあったのでしょうか?そして六条院の明石邸辺りも見ました(写真)。また「夕顔」の碑とか、彼女の住んだことを示唆する場所へも行きました。これも諸説ありますが、どこも尤もらしい所でしたよ。私には、夕顔の素性はますます疑わしくなりましたけれど(「音楽のすすめ」第4章の第3部概要(3/5)参照)。玉鬘が九州から戻って泊まったとされる場所へも行きました(写真)





(39)モノローグ    2008.7.11

この京都から馬に乗って宇治へ急ぐ匂宮の姿を思い浮かべますと、それほど近い距離でもないのに、浮舟に随分と熱を上げたんだな、と思う次第です。今回の旅では宇治には行きませんでした。また浮舟が最後に余生を送る所として選んだ小野里にも行きませんでしたが、昔何度か通りかかったことはあります。このWEBの「はじめに」に書いたように、「人間はどれだけのことをして来たか」にある日本の紅葉再発見の風景の近くだと思うと、秋になったらじっくりと見たいものだ、と思います。空蝉の家あたりを北上していくと、堤中納言の邸があります。「源氏物語」を物語として読んだ姫君なら、難しくても、苦労せずに理解できただろうことを、還暦を過ぎた現代人がようやく片鱗を理解し始めたところです。細い一条通の先、実在の道綱母とか時姫の邸よりさらに奥にある朝顔宮の邸も随分遠い所にありますが、彼女は職業柄、遠くても納得いきます(写真)。また朝顔宮の末路を考えると、彼女はあまりお金持ちではありませんし、恐らくは慎ましく、ひっそりと暮らしたものと思います。「京都源氏物語地図」付属の小冊子には、朝顔の墓というのがダウンタウンの夕顔宿近くにありますが、この意味は分りませんでした。

平安朝では度々火災が発生し、御所にしろ、貴賓達の邸にしろ頻繁に火災に見舞われました。その結果、内裏の中で、清涼殿を中心とした正式の領域がキチンと管理された時間は長くない。ですから、紫式部にしても、あるいは清少納言にしても、清涼殿を表す場面は多くない。里内裏の方が実際の内裏として機能していました。それを考えると、現実に各御殿が大概左京区のアッパータウン、ミドルタウンに集中しているのも、分る気がします。道長にせよ、もっと古い世代の藤原の長達の邸も皆そうです。だから現在の京都御所の位置が違う、と言って額に青筋を立てるのでなく、実際にこういうところに政治の中心があった、と考えると京都御所も尤もらしい所にあるのです。道長の邸も現在の京都御所から至近距離にあります。こう考えるのは異端でしょうか?清少納言の行く末は知れていないのですが、それにしても清少納言を至近距離から見て、紫式部は悪口を書いているのですから、同じ所に居たのに違いない、と思います(ある女流作家がこれは女の嫉妬以外の何ものでもない、と断言していたのを思い出します)。そう思えば、枇杷殿こそが両者の接点足り得たのではないでしょうか?道長と妍子のために作られた枇杷殿、これも現在の京都御所の門付近から至近距離にあります。今の所、私の妄想かも知れませんが。帰途立ち寄った公立の京都アスニーという所で、年配の学芸員の方から伺った話ですが、両スターの遭遇は、あったかも知れないし、無かったかもしれません、というお答えでした。アスニーは広い模型を展示していて、学芸員も熱心でしたので、色々伺いました。それによると、平安京がまともに機能していたのは、恐らく1,000年位まででしょう、ということ。火災が多かったため、例えば内裏が焼けた跡には、始めのうちこそ修理したが、ついには放っておいた、ということ。また左京区は栄えたが、右京区はさびれ、人々がそこを立ち退いたということです。当時の人口は最大で15万人程度。





(40)モノローグ    2008.7.12

最後にいつまで生きたか分らないのが、明石君ですが、彼女は案外長生きしたと思います。浮舟に出てくる大尼君のことを思えば、宇治十帖までカバーするというのも、あながち全く問題外とは言えないでしょう。そして玉鬘も相当の年齢まで生きたと思います。昔橋本治氏の書いた「窯変源氏物語」というのを読んだ時、余りに作者を無視しているな、と感じたので初版本にも関わらず、求めた一式を処分しようとしたことがあります。ところが、現在一番読み直したいのはこの橋本源氏なんです。あそこに玉鬘は隣の紅梅家から聞こえる騒ぎに、ああいうこともあったな、と回想する場面がありますが、案外橋本氏は切れ者かもしれない、と自らの反省を込めて考えています。国文学専門家が読む場合は、色々なことがあっても不思議は無い、と思い知った次第。

実は全ての道路を足であるいたのではなく、途中で4回程タクシーを使いました。最後に使ったのは、アスニーに行った際で、そこから京都駅まで出ました。その時の通路が、昔の朱雀大路、現在の千本通。アスニーの裏側にはその昔内内裏だった中務町があり、平安朝時代の人にとっては特別なルートだと意識しながら駅に急ぎました。駅に荷物を預け、徒歩で京都風俗博物館に行きました。西本願寺の近く、井筒法衣店ビルの上階にあります。ここでは一年に2〜3回ずつローテーションを組んで源氏物語の大きな邸と、そこでの各種行事を人形を用いて紹介しています。これが凝ったもので、楽しめました。我々が見た時は、夜間二条院から六条院に引っ越した時の源氏と紫等の人形の展示でした。その他さまざまな人形を、丁寧な衣装で見ることができます。あまり知られていないのか、見物者が少なかったのですが、ある部屋には女房達の人形と、衣装があって「どうぞ御自由に写真をお撮り下さい。衣装も羽織ってみて下さい」と表示してあり、妻が双六をやっている女房達の所に割り込んだ写真とか、我々二人を御簾の中に収めた記念写真等も撮ってきました。

瀬戸内寂聴氏の「藤壷」というのが出たことを知りましたが(先6月付けの文庫本)、なかなか見つからず、たまたま寄った京都駅ビルで見つけて購入しました。擬古文で書いたものと、現代文で書いたものの2つが同居する形で随分大きな活字でした。家に帰ってからゆっくり読ませて頂きました。その冒頭で、瀬戸内氏は丸谷才一氏の小説「輝く日の宮」を激賞していましたが、正直な所、私にはやはり瀬戸内氏の中に残された少女趣味のせいかな、と感じた次第。

何時の日か、大昔の平安京を復活してはいかがでしょうか。こう書くと論議を起こすだろうと心配もしますが、私自身の本音です。祇園の伝統と言っても、それなら島原がどこだったか示せるでしょうか?京都人が良く言うという言葉、「先の大戦では」と言って応仁の乱を指すことを思い出しましょう。平安京は都市設計がしっかり残っています。もはや400年程度の伝統にこだわらず、1,000年を単位とし復活させる計画を国家大事業として開始することを、秘かにでも立案してくれないかな、などとタワゴトを考えているところです。ただし鴨川東側はそのままにして!今度は大修理を兼ねますから道路も幅広く、大路を復活させなければなりません。パリだってナポレオン3世時代の専横の結果、今のような形が生まれたのでしょう?国富を一カ所に集中して様々な城を建設したルートヴィヒ王のことも思い出しましょう。結果的にあれで歴史的建造物が生まれました。その代償として国庫がカラになりましたが。「平安京の復活」という大国家プロジェクトを開始するなら、そのために必要な経費負担の値打ちあり、と考えるところです。という夢を見つつ新幹線で東京に戻りました。夢だ夢だ。
一条通(朝顔宮邸はこの辺り) 二条通(二条院などはこの辺り)
九条通(玉鬘は九州からこの辺りに到着) 三条通(葵邸はこの辺り)

     左上:一条通(朝顔宮邸はこの辺り)
     左下:二条通(二条院などはこの辺り)
     右上:九条通(玉鬘は九州からこの辺りに到着)
     右下:三条通(葵邸はこの辺り)


空蝉(紀伊守)邸や花散里邸はこの並び辺り 六条院明石邸はこの辺り
朧月夜はこの辺りを弘徽殿より相続 真木柱(紅梅大納言)邸・玉鬘邸・女三宮御殿はこの辺り

     左上:空蝉(紀伊守)邸や花散里邸はこの並び辺り
     左下:六条院明石邸はこの辺り
     右上:朧月夜はこの辺りを弘徽殿より相続
     右下:真木柱(紅梅大納言)邸・玉鬘邸・女三宮御殿はこの辺り

最後に書き忘れていた点を一つ。「夕霧」巻が異常に長く、しかも落ち葉宮への恋という、「源氏物語」の本筋とは無関係な話が延々と続くことに気がつきませんか?夕霧は忠実な事務官として源氏に付き添い、あるいは従軍記者として民衆に発表する、という役割を黙々として努めてきた、有能な役人でした。その本質は全く変らないのですが、それでも2回ほど狂ったことがあります。雲居雁との恋、そして落ち葉宮との恋でした。如何に着実な生活を好む人でも、はけ口が必要だと思う故に、それは良しとしましょう。問題は、それをなぜ紫式部は「源氏物語」の中に書いたのか、という問題です。特に落ち葉宮に対する恋慕は異常とも思えるほど常軌を逸しています。おそらく似た事件が紫式部の周辺であったのではないでしょうか?あそこまで詳しく書いてあるのも、その為ではないでしょうか?モロモロを美化すると、ああなる、と解釈してはまずい?簡単に言えば、落ち葉宮のモデルは紫式部自身ではなかったか、と考えるところです。これは全くの妄想ですが、こう考えると「夕霧」巻があることの意味が分かる気がします。


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ここまでは第4章「源氏物語」のための特別APPENDIX章でした。
「源氏物語」については、「音楽のすすめ」4章第1話〜第7話の本文の方を御覧下さい。
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