(91) モノローグ    2009.4.14

指揮者の西本智実とヴァイオリニストの神尾真由子の話が最近よく出ているのに気づきました。考えたことは無かったのですが、どんな理由かを指摘されると「なるほど」と思うのです。共に髪が赤い。西本は宝塚みたいな雰囲気を醸し出しており、神尾もまた負けず劣らず。そこで以前買った神尾のCDを聴いてみました。最初のワックスマン作曲のカルメン幻想曲で、オヤッと思いました。かなり良いのではないかと。ところが、最後まで通して聴いた時は、何とも表現が難しいのです。ストラヴィンスキーで終わりましたが、神尾のは、チャイコフスキーもストラヴィンスキーも余り差が無い。世の中には二人の作曲家があれば、各々全く異なった印象で弾き分ける人がいますが、神尾のは、ひと言で言うと「似たような響き」に聴こえました(私の耳には)。良い事か、それともまずいことか。チャイコフスキー・コンクールの時の印象は、昔記したように(第5章第4-12話の青字で書いてある部分)、彼女は「生意気」だけれど、先が極めて楽しめそう、という印象でした。それなのに何かしっくりこない。偏見だということを承知で言えば、音楽以外の問題かも知れない。

他方西本は今週の日曜日(2009年4月12日)にマーラー「交響曲第5番」、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」序曲、モーツアルトのピアノ協奏曲第20番、モーツアルト「後宮からの逃走」序曲、そしてベートーベン「交響曲第7番」を指揮するという広告を見たばかりです。そしてその前の日には別のプロダクションとして、プラハ歌劇場のヴェルディ「アイーダ」をやるって!こんなに山盛りのメニューをこなそうという意欲に感心します。新人を売り出すときの常套手段は、時代の流れ次第ですが、最近の流れはこういう曲では無いと思うからです。それにしても素晴らしい曲ばかり!これでもか、これでもか、これぞ王道だぞって言う感じ。こういう指揮者が他にいたでしょうか。西本は既に37歳であり、急いで可能なものを並べたのかも知れません。実際に聴いてみないと分かりませんが、素晴らしいものであることを期待しています。「アイーダ」と言えば、今年来るミラノ・スカラ座による「アイーダ」の広告が最近新聞に出ました。例の最高65000円するシート席が目立ちます。合唱団の総員600名まで来日するというのですが、やり過ぎではないでしょうか?これでは駱駝等の動物まで来る日が来るかも知れませんね。タメイキしか出ない。私には到底行くことはできません。





(92)モノローグ    2009.4.17

今朝の新聞(4月17日)にまたまた西本智実の広告があって、今度は5月にオペラ・シティや横浜みなと未来ホールで、ルーマニアのオーケストラと一緒。バルトークのルーマニアの民族舞曲、プロコフィエフの古典交響曲、ブラームスの交響曲1番!何と凄い選曲でしょうか。もう一人居る女性指揮者松尾葉子(松尾はブザンソン・コンクールで小沢征爾のあと優勝したが、既に55歳)の選曲が比較的ポピュラーな小曲に絞られているのと比して、西本のは際立ちます。演奏会の仕掛人が、彼女は才能ありと考え、そう言うプログラムを組んだのかも知れないし、逆に有名な曲を並べて音楽の力で聴衆を呼ぼうとしたのかも知れません。

CDで久々にエリザベート・シューマンを聴いてみました。なんと心地よい声、心地よい表現でしょうか。いつもの通り感心しました。シューマンの名前は栄光の名前として刻まれるに違いありません。立て続けにモーツアルトのピアノ協奏曲20番をフリードリッヒ・グルダで聴きますと、音のエッジが立っています。続けてベートーベンのピアノ協奏曲5番を古いホロヴィッツで聴きます。色々な意味でため息が出ます。さらにショパンの練習曲1番をポリーニで。これは私自身と比較するため(恐れ多くも!)。ポリーニの右手の輝かしい音の響きは格別で、いつ聴いてもため息しか出ません。最後にヴェルディ「運命の力」の「哀れみの聖母」をレナータ・テバルディ(S)で聴く。テバルディとしては最良の歌唱ではないでしょうか。ただモリナーリ・プラデルリの指揮のテンポが遅いような気がしました。テバルディの声は高音部があと半音だけ余裕があれば、という嘆きがあげられます。本当に惜しい!

CDでパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマー・フィルハーモニーのべートーベン「交響曲第3番」を聴きました。これは少し音が悪いのが欠点。はじめから音の処理に問題があるんじゃないかと思います。それさえ気にしなければ、このCDは実に興味ある演奏です。煽り立てるような、急がすような、火を噴くような演奏。これは昔から妻が車を運転する時に掛ける定番の一つなので、改めて落ち着いて室内で聴くとその際立った素晴らしさが見えます。

さらにヤルヴィ指揮のベートーベン交響曲第8番の一部も聴きましたが、第一楽章のテンポの早さは異常に引き締まったものでした。こういう演奏があっても良いではないかと思います。音質は私の音の好みとは若干違いますが、録音会場のせいかも知れません。古い木造か、海の潮風をたっぷり浴びた古い会場の響きを推定させます。アムステルダム・コンセルト・ヘボウとか、バイロイトの劇場とか、近くは芸大の奏楽堂とか。そう思って調べたらベルリンの旧東独の録音専用スタジオだと書いてありました。





(93) モノローグ    2009.4.28

ワーグナー協会のパンフレット「リング116号」が昨日(2009.4.27)配達されて来ました。ここに先日観て来た「ラインの黄金」に対する私の寸評が出ていました。短い文ですが、会員数が多く、その上、投書してまで余韻を楽しもうという人は案外多いのですから、短くなるのも当然でしょう。よくよく調べてみると、私みたいに3月7日の初日だけを観た人の他に、4回もの公演を全て観た人もいました。女性はワーグナーが苦手、という定説に対してこの「ラインの黄金」だけを3回観た女性も居たのには驚きます。両性の中性化が進み、ジェンダーフリーになったということでしょうか。

ここにある人から、エレキ仕掛けの音が混じっていたようだ、という批評がおずおずと提出されていました。全く同じ印象を私も持ったのですが、生の音とエレキの音、これは特性から言えば区別できないのですが、それが聴かされると分かるのですよ。恐ろしいことです。





(94) モノローグ 2009.5.13

ピアノの調律の人が来ました。いつもの通り、調律そのものは1時間で済み、あとはCDを聴いたり音楽談義に花咲かせました。調律の人が言うには、人前で弾くことには特段トラウマは感じないそうです。よくよく聞いてみると、当人は5歳からピアノを習ったというので既にピアノ歴が20年もあります。だから時折彼が弾く音の粒が揃っているのでしょう。ショパンのエチュード第24番が音大の卒業試験になるというような話でしたが、あれも本人の話ではないかと思います。ウチにあったショパン・コンクールのアルゲリッチの優勝した時の実況録音CDを掛けたのですが、そこから話が弾みました。また意外にもクラウデイオ・アラウのショパンも素晴らしいものだよ、と申しましたらそれは知らなかった様です。





(95) モノローグ    2009.5.16

蒲田耕二著の「歌劇場のマリア・カラス」という本が出たので、さっそく購入して読んでみました。著者の年齢や職業的背景を知りたく思い、調べましたが年齢不詳。恐らく私と大して変らないか、と思ったのですが、違っていたらごめんなさい。1974年の東京公演を聴いたらしい。この本の裏付けには、各種音楽批評や、翻訳を手がけており、東京外国語大フランス語学科の出身とありました。ナディア・スタンチョフの「回想のマリア」の翻訳をやったと記してあるから、なるほどと合点がいきました。その本はウチにもあります。実はこのスタンチョフというのが問題かも知れない。つまりスタンチョフはカラスの晩年の秘書役をやっていたヒトで、その立場からカラスの親友の如く書いていますが、カラスがそれを知ったらどうでしょうか。親友というのは、有名人を知っているというだけでは不十分ではないのかな。むしろカラスの女中を長年務めたブルーナに文才があって書いたのなら、その方が遥かに信用できる?またその翻訳を引き受けたのも、やや問題かも知れない、等々と色々な雑念が浮かびました。私の考え過ぎであって欲しいと思います。

始めのうち、メキシコ公演の当時の話は、新鮮で興味深く読んだのですが、読み終わった時、タメイキが出ました。ひょっとしてこの著者は評論家T氏の文章に影響されたのかな、と考えました。表現の方法、語彙の使い方、等々でよく似ています。また1カ所だけですが、五味康祐の著作も。まず他の歌手達を決して褒めない。褒めないどころか言語を尽くしてこき下ろしています。もちろん好き嫌いの問題ですから、どう御考えになっても構わないのですが、私はあれはどうかな、とこだわり始め、最後まで読んだ時、益々そうではないかな、という印象を強めました。

ここでは技術的な面から、各レコード会社の姿勢を論じていて、当著作はそういう細かさの点では抜群です。ただ他社のエンジニアや裏方がどんな思いでCD化を計ったか、を考える時、一概にそれを貶すのは心苦しい。サイエンティストとかエンジニアというジャンルの人は、余り金銭にこだわらない。また音楽の世界も同様で、たとえモーツアルトみたいな人が作曲を引き受けたとしても、直接には金銭目的だったとしても、いざ作曲をし始めたら、あとは満足するものだけを目指します。リヒャルト・シュトラウスみたいな人でも、作曲現場ではそうだったと信じます。作曲が済んだ後に、金銭的な勘定をやった点で、シュトラウスはその道の才覚にたけた印象を持たれたのではないでしょうか。私の分野では、金銭より、もっと別のもので収穫あり、なし、という感覚です。音楽ではひたすら少しでも理想に近くを目指しているに違いありません。だからその結果を、無下に表現に困るほどの言葉で見下すのは好きになれません。皆、その道で成功したいのです。ただし其の結果にはおのずと素晴らしく自分の好みに合うか、それほどでもないか、という差が出て来ます。読者は皆それが分かっているから、敢て書かせてもらった、という言い訳も分からないではありませんが、誤解を産み易いのです。甘ったれるな!と言うだけでは済まないと思うのです。

ただスポンティーニ「ラ・ヴェスターレ」の上演で初登場したフランコ・コレルリの声を「黄色い声」と評されたのは、私と同じ印象を持った人もいたか、と思って、おかしくなりました。またドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」の実況ですが、一番知りたかった1958年の最終盤はやはり無かったのかどうか、記述がないので、不明です。この点は1958年の上演に全く触れてないので、ヌカッタものと思います。世評が1957年より1958年の方が良かったと聞くため。カラスを賛美する想いは私は誰にも負けないつもりです。カラスのどこがと言われれば実況盤を聴くことをお勧めします。息を詰めて聴いた時、諸所にめくるめくようなものを感じとれます。ですからカラスの美点では全く異議ありません。ただ「カラス好き」が余って、他の歌手や指揮者を余りに貶めるのはどうかな、とだけ申し上げます。その批評文で、初めてその指揮者やテノールやソプラノを聴く人がどういう影響を受けるか、まで考える時、音楽批評というのは本当に難しい、ということを思い知りました。私が何を言いたいか、もっとハッキリ知りたい方は、読んでみる事をお勧めします(2009年5月5日初刊、清流出版、東京)。

添付されたCDのオリジナル盤がどれか、ハッキリは書いてありませんが、全て既出の演目のライブです。こういう編集も便利だと思います。1955年「ノルマ」とか同年「ルチーア」等で、観客の喝采が実にリアルに聞こえます。ただ著者がどんな装置で御聴きになっているか、の記述が見当たらなかったのですが、音で勝負する場合は、再生機器が異なれば印象が全く違うと思います。当該の著作だけでなく、過去に約50年間読んだもので、音楽評論家(オーディオ評論家の装置は別)達の装置が、必ずしも明らかにされていないのは残念だと思って来ました。それにしてもベルリンでの「ルチーア」は表現だけでなく、音も良いですね。私はLP時代にそれを買いましたが、このCDを聴いて、時代の進歩を信じたくなりました。音楽の流れも私の考えるルチーア像そのものでした。そして1953年の「トロヴァトーレ」。この年は、私が山口県から上京した年だと思うと感無量です。












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