(96) モノローグ    2009.6.14

早朝のTVニュースを聞いていたら、2009.6.9に、米国ヴァン・クライバーン・コンクールで、辻井伸行が日本人として最初の1位を取ったという。生まれつき全盲だと言う。指を突き出して探るような弾き方をする。熱情ソナタとか、ラフマニノフの協奏曲2番を聴いたが、同じように、いずれも火を吹くような調子。上手いと思う。これが穏やかな曲だったらどうなるか、これからのお楽しみ。
千葉のF高





(97) モノローグ    2009.6.17

同じく2009.6.16のTV人物紹介で、五嶋龍のヴァイオリンを聴く機会があった。五嶋みどりの弟であり、現在ハーバード大学の物理専攻の20歳の学生だと言う。次回のコンサートの席を20席だけ、NHKが呉れるというので、妻はさっそくインターネットで応募してみた。音階が下がるところの処理(ポルタメント)が少しギクシャクしているような気がした。それも2回。でも、なかなかの好青年である。合気道をやっているとか。
千葉のF高





(98) モノローグ    2009.6.18

やはり五嶋龍のコンサート・チケットのNHKの懸賞は外れた模様。もし彼の演奏が本物だったら、これから続々とCDが出るだろうから、それを購入しようか。昨日は彼の母親による訓練ぶりがTVに映されたが、凄まじいものだった。あれくらいでないと大成しないか。音楽家になるには環境が整わないと。
千葉のF高





(99) モノローグ    2009.6.19

今日の新聞広告にまた西本智美の指揮するオペラのアリア一覧が出ていた。予定されたソリストは外国人ばかりで、本当に意欲的。別の紙面には辻井伸行の優勝したことを記念する大キャンペーン全面広告があった。外国人ばかりの批評だったが、そこにあったコンロンというのは、昔メットで聴いたジェームズ・コンロンのことと思う。ニューヨーク・タイムズの「トスカ」の音楽批評では余り良い評価でなかったが、当時28歳位だったことを思えば、それも昔話。今はコンロンも良い指揮者になったに違いない。
千葉のF高





(100) モノローグ    2009.6.23

今朝目立った新聞広告はフジ子へミングの総決算の広告。確かCDを一枚持っていたが、耳が余り聞こえなくても弾けるピアニスト。この人のアクセサリーの趣味はどうかと思うが、音楽はまだよく分からず。
千葉のF高





インテルメッツオ(間奏曲)  (雑誌に書いた自作の宇宙エッセイより抜粋。一部修正)

========冒頭の部分================
宇宙は万物の器であり、地球も生命も宇宙あってこそ。どんな夢も覚めれば現実が待っているが、宇宙が無くなったら拠り所がない。それを考えると恐ろしい。宇宙線の研究をしているなんて言うと、優雅なお仕事ですね、なぞと言われる。従って最初に認識すべきは、宇宙線とは放射線にほかならず、宇宙線を浴びることは放射線に被ばくすることである、という点である。それではこの極めてこうエネルギーの放射線がなぜ宇宙を飛び交っているのか。

宇宙論は食べて行けない研究領域と言われるが、これほど面白い分野はない。広く知られた膨張宇宙論に従えば、この世の始めにあった(なぜあったかは問うてはならない愚問とされる)エネルギーの源は、僅かな時間の間で光の宇宙か物質の宇宙へと変貌したという。僅か1万年程度の間のできごとである。宇宙開闢から10-44秒後に時間と空間が分離した量子宇宙ができたとされ、最初に誕生した力は重力とされる。10-44秒以前に遡る記述は不可能である。それはハイゼンベルグの不確定性原理に基づく宿命である(膨張する空間の広がりに翻訳すると、10-33cmより小さい空間の時代は覗けない。筆者は学生時代にこの高名な先達の講演を聴けたのを幸運と思っている)。

========結語の部分================
第二次世界大戦まで物理学の本流は理論だった。特に宇宙線では観測も大きな役割を担っていた。ところが戦後、性能の良い粒子加速器が発達し、実験的に核反応を調べられるようになったため、実験物理が主役に躍り出た。加速器実験は大変有用であるが、大規模な装置と費用を要す。大型化するほど高エネルギー出力が得られ、それだけ新発見の可能性が高まる。加速器はますます巨大になり、欧州原子核共同研究機関(CERN)のようにスイスとフランス国境を跨ぐ加速器リングまで出来てしまった。また戦後発達したコンピュータは、紙と鉛筆でパズルのように解く数理物理的手法を駆逐して、いわば「力づく」で数値計算するようになった。近似法を探すより、絨毯爆撃のごとく、すべてを計算してしまうわけで、スマートでなく、理論の黄昏と言えよう。

生命科学においても同様で、工場さながらに分析を進める手法が今日的とされ、特許を取得して企業化することを何より目指す。当然、個人の努力より組織の機能が強調され、CERNのような団体がノーベル賞を受ける時代である。このような潮流は即戦力になる。しかし、ひょっとして知的ではないのかも知れないと感じ始めている。本来、研究とは、何より想像力を尊ぶものではなかったかと思うのである。誰も宇宙の始めを見たものはおらず、地球の内部を覗いた者もいない。それを様々な傍証と状況証拠により、作業仮説に汲み上げて行くのが研究の骨頂だった。Speculation(推定)は当たり前なのである.熱中する一部の専門家は推測を忌み嫌い、実証した数値データを何より尊ぶが、実はそのデータも真実に近づくためのツールに過ぎない。宇宙や地球に直接的な確認を求めても無理である。実験といえども、観測といえども、ヒントしか提供できないのである。それを理解してこそ、データ並べを嬉々として行なえるのである(急がなければ、これが最も楽しい!)。経験、観測、実験の三者には、認識に関する本質的な差は無いと思う。そして進化論も、半導体も、プレートテクトニクスも、コンピュータも、抗生物質も、根幹に関するものはいずれも英国産である。
========以上================

かつて某研究チームは箝口令を敷いて、ノーベル賞の受賞に備えたという。そういう時代なのである。













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