(118)モノローグ    2009.12.5  「ワルキューレ」の比較その3

前回はシェークスピア「ヘンリー6世」観劇記をここに載せたが、再びワーグナー「ワルキューレ」に戻り、その第3幕の第2場と第3場「ヴォータンの告別」を比較する。機器類の整備がまずいらしく、方々で不具合なことがあった。

(1941年)エーリッヒ・ラインスドルフの指揮が相変わらず早い。そしてブリュンヒルデを歌うヘレン・トロウベルは声が有りすぎて、摂生が足りないんじゃなかろうか、と思うに至った。声がどの音域でも出るのは良いことだが、彼女はそれを万全に使用していない。あれだけ素材に恵まれているのに、だ。彼女は戦後、歌いどころにナイトクラブが多くなり、そういうのを好まない当時のメトロポリタン歌劇場の支配人(ジョンソン)に疎まれてメットをクビになってしまう。またフリートリッヒ・ショルだが、彼のヴォータンの印象がどんどん悪くなって行く。当初、TV「パパは何でも知っている」のパパみたいな声だと思ったが、やがてモーツアルト「ドン・ジョヴァンニ」のタイトル・ロールかな、と思い、それには声自体が貴族的ではないか、いやヴェルディ「運命の力」のグアルディアーノ神父の声か、いや西部のならず者の声かもしれない、と印象がコロコロ変る。ずっと悩まされたが、実際最後の場面の声を聴いて、決定的に×印に決まった。彼は当時53歳程度だったと思われるが、「この槍を恐れる者はこの炎を越えるな」という禁制の場面のはじめ、全く声が出ていない。指揮者のテンポは相変わらず早いが、ワルキューレたちがヴォータンを恐れて退散する場面では特にハチャメチャ早くなる。オーケストラもやっとこサ音を出している調子。あれは少々やり過ぎではないかと思う。

(1950年)スカラ座実況のフルトヴェングラー盤。フルトヴェングラーとなるとさすがにテンポにも頷ける点が多い。ただしオーケストラがそれに十分についていけば、の条件がある。実際、ヴォータンが禁制の槍を地面に突き刺す際たてる音を聴くと、このオーケストラは何やっているんだろう、と思ってしまう。音がバラバラにずれ、勝手に演奏している箇所あり。ワルキューレたちが逃げ惑う速いテンポは、ラインスドルフに比せば、はるかにマシだが。驚いたのはフラグスタートの素晴らしい声だった。この1950年という、彼女のいわば最後の年に聴かせてくれた、全盛期のフラグスタートの声!どこにいても、何を演じていても、その声は近づき難い神々しさがある。それも「愚かな娘」の声だったし。他方、フェルナント・フランツのヴォータンはある箇所では良く、別の箇所ではまずく響く。それは叔父が姪のことに口を出す時みたいだ。父親の言葉ではなかった。そのような箇所では、フランツのヴォータンはやや品下って聴こえる。残念である。

(1951年)ヘルベルト・フォン・カラヤン最初のバイロイト盤。まずジーグルト・ピョルリンクのヴォータンに敬意を払いたい。ピョルリンクはこの年しかバイロイト音楽祭に呼ばれなかったが、これを聴く限り、そのヴォータンは威厳と悩みに満ちたもの。姪をけなすフランツや、音色の不安定なショルとは違っていた。そしてヴァルナイのブリュンヒルデは傲然としている。「愚かな娘らしさ」ではなく、ここでは年端の行った娘の姿がある。30歳代の経験豊かなOLみたいな声(老けているとも言えそうだが)。低音もよく響くし、カラヤンはこういう声とタックルするのが楽しくて仕方が無かっただろうと想像する。ヴォータンが槍を突き立てて炎の神、ローゲを呼ぶあたり、ジャン、ジャンという響きもよく考えられたものになっている。細かいオーケストラの響きもチェックしたが、問題なく響く。これは素晴らしい「ワルキューレ」だと思う。あのカラヤンもこういう時代があった、とシミジミ思う。

(1953年)クレメンス・クラウス指揮のバイロイト盤。ここで聴きものはハンス・ホッターのヴォータンである。ホッターはあらゆる箇所で威厳を保ちながらも、迷いや、悩み深い父親の姿を感じさせる。ヴァルナイのブリュンヒルデもカラヤン盤と比すと、時として声を潜め、心の弱さを表に出しているのが分った。「いいじゃないの、お父さん。私はお父さんのためにやったの」と言っているのが実に良く分る。最後の高揚する場面ではもう少しコントラストがついて(つまり、この箇所では特に強く聴こえるように)いれば申し分ない。ヴォータンが怒ったのはブリュンヒルデに対してというより、自分に対してである。愛する息子のジークムントとの約束を破ってしまった。妻フリッカの傲然として言い放つ「正論」に、うろたえてしまい、自らが誰よりも深く傷つきながら、そして誰よりも悲しみながら、愛する娘と別れることを決めたのである。ほんの一瞬だがオーケストラがぐずったのだが、その直後に現れるヴォータンの声は全てを現していた。私は23歳ぐらいの日に、この曲を教室パーティの席上で歌ったのだから、若いということは、本当に怖い物知らずだと思う(!)。

(1953年)フルトヴェングラー指揮のイタリア放送盤。フェルディナント・フランツのヴォータンとマルタ・メードルのブリュンヒルデによるもの。基本的にフルトヴェングラーらしいテンポで終始。決して慌てていないが、それでもワルキューレたちが退散するあたりの音楽はやや速いな、と感じた。この箇所は指揮者が誰であっても皆速いようだ。フランツのヴォータンはやはり、父親というより伯父が姪に向かって文句をたらたら言っているようだ。あまり好きな声ではない。またメードルのブリュンヒルデはヴァルナイよりもう少し年長で、いわば40歳代の学校の先生みたいだが、あの陰影に飛んだ声は割に好きだ。そもそもワルキューレの終幕部は何時ぐらいを想定しているのだろう?午前中にジールムントがフンディングとの決闘で死に、そこから逃げに逃げて高い岩山までやって来たのだから、もう夕方かも知れない。そう、夕闇迫る中での永遠の別れだと思えば、あの場面と音楽は納得いく。ブリュンヒルデが少々歳をとっていても構わないかも。

(1955年)カイルベルト指揮のバイロイト盤。オーケストラはヴォータンの告別の途中のオーケストラだけに任されている箇所で勝手にやってくれ、と言わんばかりの投げやりなところを感じたが、あとは問題ないと思う。ホッターのヴォータンは相変わらず素晴らしいものの、1953年のクレメンス・クラウス指揮のものと比すと、おや、と思う瞬間があった。それよりもブリュンヒルデを歌うヴァルナイの歌唱について言いたいと思う。応答が少し遅く、その遅さが気になって音楽が色あせて思えたのである。ところが「私をどうなさろうというのですか?」の箇所から、「これだけは聴いて頂かなければなりません」の箇所にかけて、ヴァルナイは驚く程の感情移入をやっている。これは素晴らしい!こういうヴァルナイを聴いたのは初めてだった。フラグスタートにも、メードルにも、ニルソンにも無かったものだ。これだから歌手は、毎年、毎回を聴かなければ評価を誤ると思ったのである。

(1957年)フラグスタートはショルティの指揮でもブリュンヒルデを歌っている。ただし第3幕のみ。フラグスタートは声も力も無くなっており、型式は踏んでいるがそこに込めるべき「力」が見当たらない。彼女の最後のブリュンヒルデをここで聴く事ができた、というのが精一杯の献辞である。ここまで歌っていれば、要するに第2幕冒頭の「ホ、ヨ、ト、ホ」(特に最後のホは高いC)を歌いたくなかったんだろうと思っていたが、そうではないようだ。そういう問題でなく、もっと本質的にフラグスタートは「死んだ」のである。最後の場面で、ブリュンヒルデはどうしてヴォータンにすがらなかったのだろう、とかヴォータンはどうしてブリュンヒルデの願いを叶えてやろうなんて気を起こしたのだろう、等々思う。そもそもショルティがここではフラグスタートに任せているような気もする。1957年、フラグスタートは最後のブリュンヒルデをこうして歌ったのである。思いがけないことだった。

気をつけなければいけないのは、これは「ワルキューレ」のブリュンヒルデだからだ。もし「ジークフリート」のブリュンヒルデとか、「神々のたそがれ」のブリュンヒルデだったら全く違う。もっと年とった貫禄あるソプラノが堂々と歌っても可だと思う。そしてヴァルナイはずっと後年まで、それらの役柄を堂々と歌うことができた。でも若い「ワルキューレ」は違う。ここでは「ヴォータンの告別」の場面をオットー・エーデルマンのヴォータンで聴く。但し、背景の素晴らしい音楽から想像するとアテが外れそう。そもそも「ヴォータンの告別」はとてつもない名曲だ。ここだけでも歌えたら幸せなのに、と私は何度嘆いた事だろう。

(1957年)この年のバイロイト音楽祭。ハンス・クナッパーツブッシュ指揮、ヴァルナイのブリュンヒルデ、ホッターのヴォータン。そのトリオによる同じ場面はどうか。クナッパーツブッシュのテンポは決して遅くない。それどころか、あらゆる箇所で音が途切れるのを恐れるような感じだ。ただ「ヴォータンの告別」の終り近くで、指揮者が故意に遅くオーケストラをドライブしたのが分かる。ここだけだが、どうしてだろう?ヴァルナイはやはり30代のOLかなあ、と思っていたが、自分の運命を告げられ、必死になってヴォータンを説得しようとすがる箇所では素晴らしい感情移入だった。最も激しいもの。もっと前のワルキューレ達があわててヴォータンを避けて逃げる箇所のテンポも、今までで最もまともだった。ヴォータンが槍を突き立てる箇所ではジャン、ジャンという響きは聴かれなかった。その方が良いと思う。このようにテンポは良かったが、この「ヴォータンの告別」では少し力が弱った印象があった。このあと、ホッターもヴァルナイも、そしてクナッパーツブッシュも下り坂に向かう。もっともヴァルナイの最後のバイロイトでのブリュンヒルデ役は1968年の「神々のたそがれ」であり、その舞台の素晴らしさは今なお口づてに残っている。「ワルキューレ」のブリュンヒルデは若くないと歌えないのである。

(1957年)全曲ではないが、レオポルド・ルートヴィッヒ指揮フィルハーモニア管弦楽団、ハンス・ホッターのヴォータン、ビルギット・ニルソンのブリュンヒルデで1957年に録音した「ワルキューレ」第3幕後半のCDがある。この年は言うまでもなくフラグスタートが最後のブリュンヒルデを歌った年である。同年ニルソンはさっそうと再登場したのである。ニルソンは元気いっぱい。注意した点を巧みにカバーしている。ホッターは素晴らしい出来映えで、これはデッカ盤より良いと思う。ホッターの歌を聴いていると、父親が愛娘と別れる時の心情はこういうものか、としみじみと感じた。そして最後にはホッターは声をおさえ、沈んだような声でうたう。そのコントラストの巧みさ!指揮者ルートヴィッヒの意思だったのか。そうだとすれば良く言われるような凡庸な指揮者ではないことになる。あの絶妙の声の沈め方は誰が言い出したのか。ホッターは素晴らしい声で歌い続けるが、その背景に流れるオーケストラはどちらかと言え凡庸に思え、判断に困った。

(1965年)ショルティ指揮のスタジオ録音盤。この懐かしいショルティ盤を今までに何回聴いたことだろう。50回、それとも60回? 改めて聴き直してみるとこのテンポはかなり速いのである。このテンポとは馬が合う。ホッターは全体に怒ったり、絶望感を出したりしているが、その割に弱みや迷いが余り感じられない。ニルソンのブリュンヒルデは「愚かな娘」として聴けば問題ない。幾つかある不満な箇所を補って余りあるからだ。最後の場面で彼女はもっとも真剣に悩みをぶちまけている。「もしそうなら、この場であなたの槍で私を突き刺して!」と叫ぶ。ヴォータンが「私が悩みに悩んでいた時に、お前は甘い自己満足を味わっていたのだ」とブリュンヒルデをなじる箇所から後である。あとのオーケストラ部分は全く満足いくものだ。たとえワルキューレ達が逃げて行く場面で急ぎ過ぎがあっても、だ。それは私がこの録音を50回以上聴いて、このテンポが体に染み付いているからかも知れない。急がなければこの場は成り立たないのだ。それをこのウイーン・フィルは教えて呉れる。余りに自然に感じる速さだった。またブリュンヒルデが「dem freislichen Felsen zu nahn! (恐ろしい炎でかみ殺して)」と言い終わってから、ヴォータンの「Leb wohl!(さようなら)」に至る僅か一瞬のタイミングの良さ!こういう所はショルティと録音プロデューサーのジョン・カルショウのチーム力だと思う。

(1966年)カラヤン指揮のスタジオ録音盤。まず、カラヤンはここではうまいのだ。特に「ヴォータンの告別」の終り近くではまるで雪の結晶のように美しい音をきかせる。そしてテンポが少し遅くなったようだ。トマス・スチュアートのヴォータンは当初は、言い方が適切でないかも知れないが、まるで下町風の男が怒り狂っているようだ。代わりにレジーヌ・クレスパンのブリュンヒルデは申し分ない歌を聴かせる。何度も言ったことだが「愚かな娘」としてそう言えるのだ。クレスパンはその意味では、フラグスタートより、メードルより、ヴァルナイより、ニルソンより上手く処理している。そのブリュンヒルデが「自分をどうなさるお積り?」と尋ねる辺りでは一本調子で、うまく行かないようだ。ブリュンヒルデを全ての箇所で上手く歌うのは至難と思う。

スチュアートのバスは、聴いていてふと、ひょっとしてアメリカ人かしらん、と思って調べたらやはりアメリカ人だった。普段人種には関心がないのだが、ここではドイツ語が余りにハッキリしていたのだ。なるほど、と思った次第。クレスパンはフランス人である。我々が日常聴き慣れている標準語のアクセントは、それが一寸でも変った発音をされると、聞いている方はすぐに見破ってしまう。恐ろしいくらい敏感だ。一方、ヴァルナイはハンガリー系だし、母親に習ったというから、ハプスブルクの伝統があるのかもしれない。メードルが唯一ニュルンベルク産まれである。

(2009年に推薦したいCD)これは難しい。しかし最後はヴォータンで決まる。そしてヴォータンにはタテマエがある。これにこだわる時、私は自分の耳を信用する限り、ハンス・ホッターこそピカ一だと思う。それも1951年から1957年のホッターがそれに当たり、他のヴォータンからは聴き取れない大切な要素が、ホッターからのみ聴き取れる。他のヴォータンたちには、残念ながら、どこかにひっかかる箇所があった。

しかし「ワルキューレ」は大作だから、今まで聴いた箇所、第1幕第3場と第3幕第1場〜第3場だけでは正しく判断できないだろう。そこで次のターゲットとして、第2幕と、序曲から第1幕第2場までを聴き比べてみたいと思う。多分序曲が最後になりそうだ。このようにして全曲を聴くハメになるのである。五味康祐氏でなくても、幾らでも時間が必要になるわけだ。でも乗りかけた舟だし、「ワルキューレ」にまたどっぷり浸かることにしたい。
千葉のF高





(119)モノローグ    2009.12.6

歌舞伎俳優祭をTV録画で見た。我が家ではTVのこれと思うものは録画しておいて、あとで時間をみて見る習慣があるが、この録画も撮ったのは6月だったと思う。歌舞伎座がいよいよ今年最終年を迎え、あとは新しい歌舞伎会館(仮)に移行する。私自身は歌舞伎には余り通じていない。海外に行って「東京にはオペラハウスが無いから」と嘆くと「でも東京には歌舞伎座があるでしょう?」と言われる事がしばしばあった。しかし、私には歌舞伎がオペラの類いとは思えなかった。そう思えるようになったのは極最近。昨年位から、米国のメット(メトロポリタン歌劇場)の新しい試みとして、メットの舞台を録画したものを海外の幾つかの劇場で大スクリーンに映すことを開始した。日本では歌舞伎座に最初に配信した。単なる映画だと思うと、高価だが面白い試みだと思う。高価になりすぎたオペラの新しい観客発掘のためである。ちょっとスノブになって、ちょっと上等なモノを着て、ちょっと優雅に過ごすのに、歌舞伎座は最適ではないか。

歌舞伎役者の総顔見せ興行で、ほとんど網羅されている。顔ぶれは市川家、尾上家、中村家、坂東家等々の大半を含むし、それに歌舞伎以外の俳優たちも登場する。もともとが俳優祭りだからである。男踊り、女踊り、そして灰被り物語(シンデレラ)という3部構成。シンデレラの母親役は中村勘三郎で、シンデレラは阪東玉三郎。長いソロがあったが、こういう催しでは、ある程度知名度が高いものが優先されている。玉三郎はやはり真面目人間だなあと思う。海老蔵が服を脱ごうとして止められる場面とか、映画「おくりびと」のチェロを抱えた姿とか、「今」に合う演出。染五郎が両手に扇を持って踊る場面も面白い。そして舞台回しに黒柳徹子と"みのもんた"のパロディー。徹底的に楽しみのための舞台。そして演目は「シンデレラ」みたいに誰でも良く知っていなければならない(少し前の年は「白雪姫」だった)。ウイーンで年末にやるヨハン・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」みたいなものか、と思った。観客の多くは中年の女性達だった。

もともと歌舞伎とはこういうモノだっただろうと思う。何も芸術とか高邁な演出とかでなく、ひたすら楽しく、ひたすら美味しい所を見て貰う、という姿勢。なるほどと、歌舞伎座を日本のオペラ・ハウスに例えた人の見識を改めて知った。江戸時代の歌舞伎も決して芸術に憧れて熱狂を受けたのでは無かったと思う。そうでなければ説明できない。それが現代ではよりスマートになり、より高度の訓練を経て、猛烈な練習の成果の発表会になったわけだ。ちょっとした仕草も、予め冷静に計算した演出の頭脳が必要だと思う。そしてこういう舞台を勤める者たちからやって来る「同業者の視線」が怖くなる。例えば前出の染五郎の舞いをじっとみる海老蔵の目とか、それを吟味する団十郎の目とかである。まわり中が競争相手の大集団なのだ。その面前で芸をやってみせるのだから緊張を強いられるだろう。オペラのガラ・コンサートみたいなものだ。でも面白かった。
千葉のF高






(120)モノローグ    2009.12.6

同じやり方で、今年5月15日に録っておいたビデオでドニゼッティ「メアリ・ストウアルダ」全曲について、ここに記す。ミラノのスカラ座の実況である。マリエラ・デヴィーアのマリア、アンナ・カテリーナ・アントナッチのエリザベッタ。ドニゼッティの曲は「ランメルムーアのルチア」、「アンナ・ボレーナ」、「愛の妙薬」ぐらいしか頭に登らない。序曲はどこかで聴いたメロディだったし、ロッシーニなみに、何処かから盗んだな、と言われそう。そういう限界を持った曲だと言うことを最初に申し上げておく。ただそのここに含まれるマリアとエリザベッタの対決のシーンは面白かった。遠慮せずに、面白いと認める。主役のデヴィ-アの声は良く練れているが、実はそれが魅力を乏しくしているとも言えそう。どの声域もムラが無いし、殆ど均質だった。減点法に強そう。そういう声を好む人も居るだろうが、私には少し退屈だ。他方のアントナッチは声の中に少し鉱物質のエッジが含まれるので、この方が(私には)心地良かった。音域は広いようだし、むしろマリア役をやったらどうか、と思った。



昨日1.ベルリンの雨-その7 2009.10.17入力



1984年5月12日(ミュンヘン/ニュルンベルク)

ミュンヘンを発つ。初めてアメリカン・エキスプレスでチェックアウト。カードには慣れておらず、今までは、現金や旅行小切手が主流だったのである。空模様が怪しく、ホテルから中央駅までの僅かな距離を歩く間に、早くも小さな雨粒が顔に当たった。当初の予定より早い列車に乗ることにしたがFDではなくてローカル列車だったので1等車なし(ユーレイルパスは全て1等のだった)。2等車のコンパートメントも構造は1等車と変わらないが椅子が布張りでなく薄茶色の人工皮が張ってある。

雨がますますひどくなり、予定していたレーゲンスブルクでの途中下車は止め、ニュルンベルクに直行することにした。ニュルンベルクに着く直前、何か貧相な堀建て小屋の集落があった。まわりに鉄条網があったので、何だろうと不思議に思う。難民かしら。それともこの付近にいないはずの米軍キャンプだろうか。それとも日本でもはやりの一坪菜園の別荘?


ニュルンベルク中央駅で降り、南口から外に出るとメルクール・ホテルは目の前。それにしてもこの南口は随分寂しい所にあるものだと思う。例によってチェックインと洗濯も早々に、傘とカメラを持って旧市街地区に向かう。地下道を通って城内に昇る。旧市街に入ったとたん何かやっているな、と感じた。伝統的なバヴァリア衣装と羽根のついた帽子を被り、胸にもたれるように鎖のついた首飾りをぶら下げた、多くの人々(ほとんど男性)があちこちにグループの輪をつくっている。それぞれに楽隊がついていて、別々の音楽を鳴らしている。雨降りは残念だったが、何であれ古いお祭りにぶつかったのは運がいい。大戦で破壊されたこの町は昔のままに復旧されたと聞くが、たしかに中世の影を感じさせる。何よりも石畳がいい。

中央にある教会を覗き、案内書でお馴染みの川の中に張り出したレストランを眺め、町の奥へと歩いて行く。車が殆ど無いのが有りがたい。マルクト広場にちょうど市がたっていて野菜、果物、花を乗せた手押し車が数多く並ぶ。アルブレヒト・デューラーの家の方へ曲がり、丘の上の古い方伯城の辺りまで行く。そこでも色々なグループがお祭り騒ぎを演じていた。石畳の急な坂を昇り、方伯城(ニュルンベルク城)の入場料を払って内部の見物ツァーが始まるのを待つ。白人でないのは僕一人。当然ガイドはドイツ語だけ。人の良さそうなおばさんが説明する。どういうわけか、このツァーには老人が多い。それも明らかに付き添いが必要な高齢者、ないし何らかの障害者が沢山いた。この城は全く中世の城そのもの、という感じで質実剛健むき出しである。決して華やかな装飾などついていない。多くの部屋はハプスブルク家の紋章の双頭の鷲が描かれており、部屋によっては未完成のままのところもある。ある石造りの部屋で説明を聞いていたら、突然隣の部屋から男声合唱が無伴奏で聞こえてきた。古城の中で聴く合唱は実に美しく響く。ガイドは説明を止め、shon! shon! と笑顔でうなづく。

しかし時間がたつのを度外視したようなゆったりしたツァーなので、後のことが心配になって本丸の部分だけ見て、グループから外れた。再びデューラー・ハウス脇を通ってハンス・ザックス広場へ行く。実在のニュルンベルクのマイスタージンガーの碑が立っている。これを見物するのもこの町を訪れた動機の一つだった。塔のある城門へ戻るまでには、この町へ来て本当に良かったと思い、すっかり楽しい気分になる。雨が何であろう。

駅構内にニュルンベルク市観光案内所がある。ここで地図を手に入れようと思って中に入ったところ、市内の風景を描いたイラストが何種類かある。これを買おうと思ったら受付の女の子がこれは12枚セットでしか売らないと言う。結局全部買うことになった。このイラストはサイズが大きいので旅行ケースにしまうのに苦労した。この係の女性はきれいな英語が話せたので、こちらも楽しくなってつい喋り癖が出てしまった。マイスタージンガー達が集まったという草原はどこかと尋ねてみたが、彼女が言うにはそのような場所は存在しない、日本で仕入れたというその情報は間違っている、という。なおヴァイオリンの路上演奏を聴いた話(「音楽のすすめ」第29話「ニュルンベルクの名歌手の希望」)や、ニュルンベルク・ソーセージの店でお代わりをした話(「音楽のすすめ」雑記帳-7)もここである。



5月13日(ニュルンベルク/バンベルク)

朝、窓の外を見るとまた雨が振りそう。いやになってしまう。少し起きた時刻が遅めだったせいもある。7時近い。きのうは結局、夜7時半に寝てしまったのだ。毎日正味6時間以上歩き回っているのだもの。足がおかしくならなければ良いが。ビュッフェの朝食。パンを4枚食べた。ジャム2つにバター1つ。ヨーグルト、サラミとチーズ。紅茶のポットを空にしたので思い切ってウエイトレスに声をかける。"Fraulein, kann ich noch ein mehr extra Tee haben ?" "Ja, naturich !". これで成功。この語法でも通用するのだ。

駅に行ったら8:12のバンベルク行きの列車が停っていた。予定より1時間以上早いけれどこれに乗る。念のため、ホームの車掌に声をかける。"Nach Bamberg, Ja ?" 1等車はガラガラに空いている。ユーレイルパスだからどれでも乗れる。すぐに検札が来た。行けども行けども窓の外は緑の牧草地。本当に耕作なんかしているのかしらん。ヒト気がない野原は変だ。一瞬、地平線を見てしまった。ドイツは平坦な国だったのだ。バンベルクに降りたち、地図を頼りに旧市街へ向かう。最初の橋を過ぎる辺りから景色が良くなる。浮世離れしたような中世の風景だ。この町は戦災を受けていない。道路はついに全面石畳となる。周り中が中世の町だ。市庁舎の門をくぐった辺りで前から男女2人連れのリュックサック姿の旅行者が来たので写真を撮ってくれるように頼む。こちらは英語であちらはドイツ語だ。お互いにちゃんと意味は通じている。はじめ男性の方に頼んだら、カメラはこちらの方が巧いと言って、女性の方が2枚分シャッターを切ってくれた。Chario! と言って手を振って別れる。

日曜日だからどの店も閉店。花屋だけが繁盛している。つまり教会に持っていくために、人々は花を買うのだ。ここはカトリックの国であった。どこをカメラに収めようかとぐるぐる見渡す。つまり何を撮ってもサマになるのである。逆に言うと何も撮れなくなってしまうのである。遠くに丘の上の教会がのぞいているのが見える。これはカメラじゃ駄目だ。こんな美しい風景は一枚の写真なぞに収まるはずがない。絵描きだって筆を捨ててしまうだろう。雨がだんだんひどくなる。教会からゆっくり石畳を降り、周りくねった小路を歩き回る。赤い屋根の町並みはどうにもならないほど美しく、地上のチューリップが負けている。ホフマンの家の辺りにも行ってみた。欧州の最も美しい部分の一つを歩いているんだなあ、と思いつつ色々なことを思い合わせて、結局日本は欧州の真似をしても絶望的なのではないかと思う。アメリカなら真似られるし追いつけるかもしれない。それはアメリカが若いからだ。欧州は違う。ギリシャから3000年の歴史がある。日本の倍だもの。カメラをしまい、駅で絵葉書と錫皿を買う。

バンベルクでは全く東洋人を見かけない。こんなに美しい町が余り知られていないのは不思議だ。でもその方が良いのかも知れぬ。ニュルンベルクに戻って、おもちゃの博物館(Museum von Spielzeug)へ行く。鉛の兵隊を初めて見た。

町は昨日と打って変わって静かになっている。カイザー通りでケラー(酒場)に入ってみる。家族経営らしいのだが、一瞬英語にするかドイツ語にするのか迷ったのがまずかった。とまどった顔をされ、もっと若い店員にお前がやれ、というようなことを言っている。心配はいらないよ、と英語で話しかけたらホっとした表情が見えた。メニューはドイツ語しか書いて無いんだが、と言うので努力して読んでみると答えた。"Einmal Scweine Kotlet mit Kartofeln... und ein Bier, bitte !" ここからドイツ語に切り替わる。骨付きの粉なしカツとジャガイモのパンケーキがついている。"Zahlen, bitte !" 16マルクだが18マルク置いた。日本人と縁の無い町で、またドイツでも国際性の乏しい地方の小町だから何でもドイツ語オンリーなのだ。日本だって秩父の山奥のメシ屋にドイツ人が来たらおかみはうろたえるだろう。帰りがけ、ブラット・ブルストを2.5マルクと書いた店があったので買って立ち食いした。血と脂をかためたソーセージである。これを2本硬いパンに挟んで食べるのである。わりにあっさりしていて美味しい。それにしても、ここ毎日ビールを飲んでいるな。日本より薄いけれど。



5月14日(ニュルンベルク/バイロイト)

バイロイト行きの日。今朝はやたらと眠たい。しかしがまんして6:20にベッドを出て、7時には食堂に出る。またパン4枚食べてしまう。列車の旅に備えて紅茶はポットひとつで止めた。きのうより長い旅になるからだ。ニュルンベルク駅の銀行の為替レートをまた覗く。ここに来て何回調べたことだろう。懐が気になって仕方がない。無いわけではない。全てほぼ順調に予定どおりに行っている。しかし、その予定通りというのが不安なのだ。何か一つでも狂い出したら全体が壊れそうな不安が残る。

また1等車はガラガラだ、と思ったら初老の紳士が空席かと尋ねてコンパートメントに入って来た。初めは互いに無口だったのが10分もしないうちに話が始まる。英語が少しできる、と言うので全て英語で1時間半喋り続けた。ミュンヘンに住む暖房エンジニアだという。特に巧い英語ではないにせよ、会話には不安はない。日本でも皆がこれくらいだと外国人は安心するだろう。相手は汗をぐっしょりかきながら身を乗り出している。窓の外の風景を指差しながら、このあたりはフランケン地方のスイスと呼ばれるんだと言う。スイスの風景に似ているのだそうである。少し気温が低いのだという。ハイデルベルクまで行くとぐっと暖かくなります、とも付け加えた。バンベルクを褒め上げたら、いやビュルツブルクはもっと美しいという。彼にとってはザルツブルクが夢の町なのだそうだ。喋りに喋って、あっと言う間にバイロイトに着く。丁寧に帽子をとって挨拶して彼は仕事に、僕は祝祭劇場に向かう。

祝祭劇場はすぐに見えた。目下大工事中のようである。ヒト気が全く無く、外観も間違っても豪華ではなく、下手をすればレンガ造りの倉庫みたいな建物だ。しかし駅からここまでの道筋は美しい。見事な民家やペンションが並ぶ。切符売り場は火曜日だけオープンと書いてある。夏のフェスティバル期間中だけ開くらしい郵便局が横にある。左手には小さな公園があって、コジマ・ワーグナーの頭像がある。この両脇の芝と林の緑地を休憩時間中の礼装した人々が散歩するのだろう。2人連れの男女にまた声をかけてシャッターを押して貰う。あちら祝祭劇場にカメラを向けていたからバイロイト巡礼のワグネリアン仲間に違いない。入り口に今夏のソリストの顔写真が飾ってある。

またも雨がひどくなった。いやになる。あの紳士は去年は雨が少なかったので、むしろ今年の雨は有り難いと言っていた。旅行者にはお気の毒だが、とも言っていたが全くだ。やっと次の目的地、ワーグナーの住居だったヴァンフリート館を探し出す。宮殿の公園を縦断して、まずワーグナー夫妻の墓に向かう。何の標識もなく、ただ1束のバラが載せてあった。何か持ってくれば良かった。

ヴァンフリート館はつい10年前までワーグナー家の私有物だった。今は博物館として公開。2.5マルクの入場料と英文のパンフレットを買って中に入る。奥からタンホイザーの終幕の合唱が聴こえる。広間がホールのようになっていてレコード・コンサートをしているのだ。半円状に張り出した部分にフルコンサート・ピアノがある。これはリストがやって来て弾いたものだという。その手前の部屋には右に茶色の左に黒のフルコンサートがあって、右のは「トリスタンとイゾルデ」第1幕や「ワルキューレ」、「ジークフリート」、「ラインの黄金」などの作曲に使ったものと記してある。左のは「パルシファル」の作曲に用いたもの。物凄く豪華な広間である。ワーグナーは借金を散々した挙げ句、借り倒して自分は終生贅沢をして作曲にエネルギーを使った、アクの強い人間なのだ。芸術家にとって平衡感覚はマイナスかも知れない。

中の階段を上がったり降りたりして順路表示に従って回ってみる。100年前の舞台衣装や小道具、歴代の上演記録や手紙、出演者の写真などを見た。ワーグナーのデス・マスク、コジマの遺髪まである。ほとんど知っている写真ばかりだったが、何枚かは持っていなかったので、受付で写真は売らないのかと聞いてみたが、売っていないと言う。

帰りの列車はうっかり喫煙車に入ってしまった。若い女性が入って来たが全く英語は駄目だという。結局、ほんの数回かたことのドイツ語を交わしただけでニュルンベルクに帰着。再び方伯城内に入り、土産屋でニーベルンゲン伝説を刻んだ錫杯と胡桃割人形を一つずつ買う。本当を言うと杯は2個欲しかった。我家で時々こういう古風なゲルマン様式の杯で赤ワインを飲むのも、ムードがあっていいと思ったのである。しかしこれは高い。胡桃割人形も高い。実用になりそうなものは100マルクを越す。「小さいのでいいんです。胡桃割人形として典型的な顔立ちをしたものを探して下さい」と女の子の店員に頼んだ。

城門をくぐり、地下道を通って駅に向かう時、バッハの「G線上のアリア」のヴァイオリンが聴こえる。見ると、この間「四季」を弾いていた女の子だ。今日は地下道で弾いているのか。視線を感じたけれども、今日は素通りした。お腹が空いた。城内のKaufhofでおやつにケーキ(苺パイと桜んぼパイ)を買ったのをホテルの自室で食べたが、量は多いが余り美味しくなかった。














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