(127)モノローグ    2010.1.28 「題名のない音楽会」に接して

「題名のない音楽会」というTV番組の録画取りに、初めて行く。初台の新国立劇場の隣にある東京オペラ・シティ・コンサート・ホール。番組としては2回分あり、最初はヴァイオリニストの大谷康子を中心とする構成。大谷康子は東京芸大を出て、もてはやされている人。「大人の音楽」と銘打った選曲で、ハイドン「皇帝」第2楽章、ハイドン「弦楽四重奏曲ひばり」第1楽章、ベートーベン「ラズモフスキー第3番」第4楽章、ベートーベン「第九」第4楽章を青島広志が編曲したもの、ショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲」第2楽章。また2番目の番組は、ピアニストの小曽根真を中心としたもので、R.ブライアントのCubano chart、V.モンティのチャルダッシュ(中川英二郎のトロンボーン)、ショパンの「子犬のワルツ」、同「ノクターン9-2番」。小曽根真は彼がボストンのバークリー音楽院を首席で卒業し、ニューヨークのカーネギー・ホールでデビューした頃から知っていたが、ここで聴いたのが初めて。

新国立劇場に隣接するオペラ・シティ・コンサートホールは天井の高い、総木造のたたずまい。なかなか見応えが有る。壁は音を乱反射させる木材が貼ってあり、床はバリアー・フリーと申し分ない。やはり音楽を聴く場はコウでなくては、という想いが木質を歓迎させる。無機質の反射板を無造作、というか思うような効果が望めない、という尤もらしい理由のため、放送スタジオみたいな、体育館や、格納庫みたいなホールで無いのは歓迎だ。初台の建物は全体にたっぷりしており、一見ムダとも思えるような贅沢な空間を作ってくれた設計者に感謝したい。でもこういう所はこれから作り難くなるだろうな、と思うと残念な、効率一本の世の中である。贅沢を言えばさらにコーヒー・ショップをもっと充実してくれると良い。立ったままサンドイッチを摘む姿は寂しい。あとは交通事情を良くしてくれないかな。この晩のために千葉の遠方にある我が家から最寄りの駅までは自動車、千葉までローカル線、千葉から本八幡まで総武線、そして本八幡からは地下鉄で初台まで一本道。合わせて2時間半。帰り道はさらに険しく、当該の目的駅に帰り着いた時、そこからのローカル線運行はありません、というアナウンスが聴こえた。やっと帰り着いてシャワーを浴びていたら、すでに深夜12時に近い。

2部構成であり、TV番組「題名のない音楽会」の準備として2回分収録するとある。我々の席のすぐ後ろは人を座らせないようになっていて、録音技師があれこれいじっている。そのコンピュータをふと見たら、アップル製だったので、ニヤッとした。やはり、ね!大谷康子は小柄で、よく喋る。司会者の佐渡裕たちと話す時、彼女は自分の楽器(ヴァイオリン)を置く台を探し、そこに置いてからヨッコラショと座る。そのたたずまいを見ていると、ヤンゴトない人の所作みたいに背を丸めているのは頂けない。常に猫背。しかし音の響きをよく考えて弾いていて、決してヒステリックにならない。ここの木質壁のホールにピッタリだった。この弦楽四重奏団は彼女に加え、同じ芸大出のチェリスト、桐朋大出の第2ヴァイオリン、同じく桐朋大出のビオラ。まだ若い人々であり、事実上無名。彼等の紡ぎ出す音楽は指揮者のいないイタリアのオーケストラみたいな響きがある。あるいは大昔30年前にカーネギー・ホールで初見参したオルフェウス管弦楽団の響きみたい。弦楽四重奏に課された重厚な悩みをたたえたような響きはまだなく、明るく透明で、将来に期待したい。ハイドンで特にそれを感じた。ラズモフスキー3番は、終りを取り違えた拍手でちょっと邪魔されたが、素晴らしい緊迫感のある演奏。そして更に素晴らしかったのは「第九」第4楽章の弦楽四重奏団版。青島広志の編曲だというが、途中ムチをふるう様な響きは少し邪魔だったが、本当に素晴らしいノリ。ふと見ると、チェロ以外の3名は立ち上がって演奏していた。なるほど弦楽四重奏とはこういう世界か、と考えさせられた。そしてショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲」第2楽章は現代音楽の匂いがするが、それがまた素晴らしい。これを私版「源氏物語」の車争いの場か最終章に使いたかったな、と思った次第。2010年4月25日に放送予定。

次に2010年4月18日に放送予定の版も収録した。小曽根真。ジャズ界で有名なこの人はクラシックに引かれるところ多大で、「子犬のワルツ」や「ノクターン9-2」でもその本質は明らかだった。最初の曲はピアノの音が少し重い、と感じたが次第に透明感が表れたと思う。ショパンは耳をぐっとつめて聴いたが、ああいう聴き方は久しぶり。

佐渡裕は明日から何カ月も欧州に飛んで忙しそうである。イタリアのトリノでは初めてオペラに取り組むという。ベンジャミン・ブリテンの「ピーター・グライムス」。この「題名のない音楽会」という番組は昔から知っていたが、当時やっていた黛敏郎のややアクの強い司会ぶりから何代かを経て、現在に至ったもの。面白かった。
千葉のF高






(128)モノローグ    2010.2.1 「ワルキューレ」の比較その5

前奏曲とそれに続く第1幕の第1場、第2場を比較する。

(1935年)ご存知、ブルーノ・ワルター指揮ウイーン・フィル、ラウリッツ・メルヒオールのジークムント、ロッテ・レーマンのジークリンデ、エマニュエル・リストのフンディング。メルヒオールは理想的なジークムントである。適度の不純物を含み、英雄的で、野性的だからだ。そしてレーマンのジークリンデはこれこそ、比較を絶したものだと思う。小さい時に離ればなれになった双子の兄妹が、ここに再会した時、ジークリンデもジークムントもジッと相手の顔を見つめていたに違いない、と思う。それが悲劇的な恋に落ち、婚姻の女神の憎しみを受けることも理解できる。昼間、敵味方として戦った男が夜、転がり込んだ家がなんと敵方の家だった!リストのフンディングも、恐ろしい男の精一杯のもてなし。フンディングはだからといって、直ぐに追い出すことはせず、戦時のたしなみとして一晩の寝床を貸す。こういう所は、まるで日本の侍だ。そしてワルターの管弦楽の素晴らしさ!今となってはどうにもならないが、何とも「ワルキューレ」の全曲録音がここで途切れたのは、返す返す残念である。3年後、ナチスはウイーンに進駐する。

(1941年)1941年12月6日(太平洋戦争開始の2日前)。ラインスドルフの指揮はここでも粗い。前奏曲は誰がやっても堂々たるもので、指揮者はトクをしているが、管楽器に「行け、行け」とけしかける一方で、手綱を放しているようにも聴こえる。最初のラウリッツ・メルヒオール演じるジークムントの声は、録音の悪さを考えると、立派なものだ。アストリード・ヴァルナイのジークリンデは、なにか緊張しているような声だが、吃音みたいにボツボツと切れることを無視すれば、後の時代に録音されたような遅れがちの発声ではない。フンディングはアレクサンダー・キプニスが演じるが、これは適役。カーテンの間から風が吹くような音が聞こえたが、あれは幻か。

(1950年)フルトヴェングラー指揮のスカラ座実況。ギュンター・トレプトウのジークムント、ヒルデ・コネツイニのジークリンデ、ルートヴィッヒ・ウエーバーのフンディング。コネツイニの歌い方がどうこう言うより、トレプトウの歌い方に注意が向く。乱暴な感じもするし、これは元気が良いんだ、と思える箇所もあり、複雑。結局元気なヒッピーの若者の歌だという結論に至った。ウエーバーのフンディングは余り良くない。最初から最後まで。フルトヴェングラーもよくこれでOKを出したと思う。前奏曲の終り近くで、ヒューという風の音がまた聞こえた。

(1953年)クレメンス・クラウス指揮のバイロイト、ラモン・ヴィナイのジークムント、レジーナ・レズニックのジークリンデ、ヨゼフ・グラインドルのフンディング。これは気に入った。指揮者はムダな音をオーケストラから出さない。序曲の締めくくりに風の音が聞こえる。ジークムントの動きは激しいということが足音から良く分るが、その声はやはり少々乱暴さを備えた英雄的なもので、若さが伝わって来る。よくジークムントの役が年とったおじいさんみたいな声で歌われる例を知っているが、あれはイケナイ。ジークリンデはよく考えた演唱だった。端々まで神経が行き届いている。フンディングは声が大きいし、その存在感はシカと受け止めた。そして双子の兄妹が互いにじっと相手をみすえ、ついに禁断の恋に落ちて行くのがしっかりと聴こえた。これをあからさまに書いたのは、ラインスドルフなどでは、それが全く感じられないため。

(1953年)フルトヴェングラー指揮のローマ放送実況で、ウオルフガング・ヴィントガセンのジークムント、ヒルデ・コネツイニのジークリンデ、ゴットロープ・フリックのフンディング。ここでのヴィントガセンの歌唱は立派なものだった。イタリア・オペラみたいな英雄的なクセもある。またコネツイニは、あらゆる箇所で尤もらしく歌っているが、何かリサイタルをやっているとか、歌の練習会をやっているみたいなのだ。つまり演劇的な進行とか、伏線とかに余り注意を払ったとは思えない。フリックは立派な声で、これならヴォータン役を振り付けられても歌えそう。実はここで後にヴォータンを担当するフェルナント・フランツが余りにお粗末に聴こえるので、そのような皮肉を言った次第である。オーケストラはやはりイタリアのオーケストラだなあ、というところ。一音一音に力が籠っていない序曲。そこは違うだろ?そこは少しずれているよ、等の注文を付けたくなる。序曲では音を飛ばしている管楽器など。またジークムントが一人残された時、まず太鼓でトン、トンと繰り返され、後に管楽器が引き継いで、プオ、プオーと短く鳴らす箇所。あの大切な場面はもっと慎重に鳴らしたい!あの太鼓が意味するものを考えてみたが、思い出せない。こういうオーケストラだからフルトヴェングラーも力が入らないようで、あちこち音が鳴っているだけ、と聴こえた。なお風の音はここでは気配のみ。

(1955年)カイルベルト指揮バイロイト、ヴィナイのジークムント、グレ・ブロヴェーンスティーンのジークリンデ、ヨゼフ・グラインドルのフンディング。カイルベルトの指揮ぶりはいつもの通り、ややテンポが速い。風の音がここでハッキリ聴こえた。ジークリンデは最初から企みに満ちた声を出しているし、ジークムントは英雄的だ。フンディングは尤も素晴らしいフンディングだった。指揮が良いから何でも可と言いたい所だが、2カ所、低音部から高音をオーケストラが引き継ぐ場面で、その高音は力が抜けたような気がした。そのせいか、53年フルトヴェングラーのところで触れた、太鼓や金管楽器の「ラ」音の意味があまり深刻には聴こえて来なかった。

(1957年)ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイロイト、ヴィナイのジークムント、ビルギット・ニルソンのジークリンデ、ヨゼフ・グラインドルのフンディング。少しテンポがここで落ちたな、と感じさせる。ジークムントはいつもの通り、イタリア的要素をもつし、ニルソンは予想外に激しい歌を歌う。またグラインドルはフンディングとしてほぼ十分な低音を響かせる。ヴィナイは「イタリア的」、と評したが、例えば(カタカナで書くと)「アイネン」というのを「アイネン」、「フンディング」というのを「フンディング」と発音している。私は日本語でそういう発音をされた時、どう思うか自分でも分からないが、ひょっとすると其の発音こそ私が「イタリア的」と評したことではないか、と思う。また冒頭の風を表す音は聴こえなかったし、トン、トンという響きも特段重要な感じはせず。

(1957年)スタジオ録音で、ゲオルク・ショルティ指揮ウイーン・フィル、セット・スヴァンホルムのジークムント、キルステン・フラグスタートのジークリンデ、アーノルド・ヴァン・ミルのフンディング。クナッパーツブッシュのとるテンポが急に早くなったような気がしたが、聴き終わってみると相変わらず、遅い。ノルウエー人のスヴァンホルムは同じノルウエー人のフラグスタートと気持よく歌っており、もし「ワルキューレ」という曲が現代の音楽を聴くのでなく、過去帳をひもとくものだ、と割り切ることが出来る場合は、両者とも立派だ。壁にかかったニーベルンク伝説の油絵を眺めながら、その絵をアレコレと思い巡らそうと言う場合だ。そしてオランダ人のヴァン・ミルは聴いていて心地よくなるようなバスである。それはフンディングという役柄とはまた別の所に活躍できそう。例えば、「ニュルンベルクの名歌手」の靴屋等。風の音は聴こえない。そもそもクナッパーツブッシュという指揮者そのものが、過去に目が向いているのかも知れない、と感じた。

(1965年)ショルティ指揮のウイーン・フィル、クレスパンのジークリンデ、キングのジークムント、ゴットロープ・フリックのフンディング。まずテンポの遅さに驚かされる。これを聴いているうちに、何故ワルター盤を聴いた時に感激したかが分かる。つまりワルター盤の方が遥かにテンポが早いのである。その昔はショルティ盤ばかり聴いていたし、タマにその間にクナッパーツブッシュ盤を聴く程度だったから、ワルター盤は実に新鮮だったのだ。クレスパンは申し分なくお手本みたいな歌唱であり、キングは典型的なイタリア風英雄のおもむきを備えたテノールだった。フリックに至っては、乱暴なフンディングの性格を適切に表現していて、前出のヴァン・ミルとは全く異なるものだった。あとテンポがもう少し早ければ!ここでは風は聴こえない。管楽器のプフォ、プフォという響きは素晴らしく印象的だった。

(1966年)フォン・カラヤン指揮のベルリン・フィル、ジョン・ヴィッカーズのジークムント、グアンドラ・ヤノヴィッツのジークリンデ、マルティ・タルヴェラのフンディング。まず序曲の猛烈に早いテンポに驚かせられる。これはワクワクさせる早さで、あとに期待を持たせる。しかしまずジークムントの声を聴いて、これはまるでお笑い番組か、と笑い出してしまった。少なくともジークムントはまだ10代の少年のはずだが、ここではまるで45歳位に聴こえる。ジークリンデが登場して突然緩やかなテンポになり、音量も小さくなってヤノヴィッツの負担にならないように気を使い出す。そのかわりヤノヴィッツは彼女の声を万全に生かして透明感のあるジークリンデ像を作り出す。タルヴェラの声は十分な音量がないため、第一幕で早くも、やや尻切れとんぼである。このあたりカラヤンはどういうワルキューレ像を持っていたのか。ジークリンデに焦点を当ててウットリと聴き入っているが、全体を損なうようで残念である。トン、トンという太鼓の響きも、管弦楽器のプフォ、プフォという響きも、うまく聴こえない。

(1969年)オットー・クレンペラー指揮のニュー・フィルハーモニア管弦楽団、ヘルガ・デルネシュのジークリンデ、ウイリアム・コクランのジークムント、ハンス・ゾーティンのフンディング。テンポがやや遅くなる。しかしこれは大昔の物語なのだ、と思えば納得がいく。クレンペラーは死去前にはドンドンとテンポが遅くなったそうだが、これもそうなのだろう。アニア・シーリアとブリュンヒルデ役の契約をして進める予定だったが、第1幕の録音だけで終りになってしまった。私が18歳の時まず買ったワーグナーはクレンペラーのオーケストラ版だったことを思い出す。オーストリアのソプラノ、ヘルガ・デルネシュはこの録音後まもなくメゾ・ソプラノに転向するが、ジークリンデは少々キイ音が低くても一向に構わない。むしろここで聴くデルネシュは、なにか思い詰めたような20代の女性という感じで、これはこれで良いと思う。米国人コクランのジークムントも英雄的な響きがあり、もしジークムントが20代ならこれで十分だ。またゾーティンはドイツのバスだが、これで十分。あくまで、そのテンポに付いて行けるかどうか、でこの評価が分かれると思う。カラヤンみたいに、ところどころテンポが変ることなく、悠々と流れるような音だ。なおここでは太鼓のトン、トンという音は十分何かを示唆するものだった。
千葉のF高


昨日1.ベルリンの雨-その9 2010.1.31入力



1984年5月16日(ハイデルベルク/ケルン)

良く寝られないまま朝を迎えてしまう。食堂に降りて行くと部屋は薄暗いままだ。ウエイトレスがやって来て、あなたは団体さんではないのか、と尋ねるから違うと答えた。奥の方に団体専用のコーナーがあるらしい。ウエイトレスは頷いてテーブルの上にある大きな赤いローソクに灯をつけて呉れた。朝っぱらから荘厳なムードになる。やはり個人旅行の方がいいよ。

大きな荷物を引きずって駅へ行くと、何とベルリンで別れた日本人の団体さん一行とばったり逢う。Kt大やNax機構、Matm機構の人達である。XX氏もそのメンバーである。XX氏を誘ってアイスクリームを食べにパーラーへ行った。例によって色々な人物評を聞かされた。あの後ベルリンで色々不愉快なことがあったらしい。聞き役に徹する。昨夜は町の一番奥にあるPホテルに泊まっていたのだという。顧問格のNfl機構のKwa氏らと共に鹿肉のステーキを食べたのだそうな。僕が滞在していることが分かっていたら呼び出して御馳走して上げたのに、と言う。今まで御招待で夕食を済ますことが多かったので、お金が余って仕方がない、ほれこんなに、と胸ポケットを開いて見せる。なるほど100マルク札が束になって詰まっている。夕べ御馳走できなかった代わりにと言ってアイスクリーム代を渡される。わざと借りを作るというのも日本社会では必要なのだろうか。

時間の余裕がないので急いでホームに戻る。彼らはこのあとルートヴィッヒスハーフェン経由でパリまで行くのだという。キュリー研究所の見学は先方から断られたと聞くが、駆け足で走り抜ける団体さんが歓迎されないのは当然だろう。もし自腹を切らずに公費・社費で物見遊山していたら、良いことはあるまい。

Kt大のOto氏、Yma氏など若い人達がかいがいしく大先生達の荷物を列車に運び入れ、汗を流している。彼らが皆やってくれるから楽だよ、とXX氏は気楽に言う。議員さん達が海外旅行する時、おつきの者が全て手配して「先生、次はあちらへ、その後はあちらへ」と手を取るように案内していく様子が目に浮かぶ。秘書が作ったスケジュールに従い、お出迎えの車にふんぞり返えって、帰国したあと、キミ大成功だったよ、ハハハと吹聴するのだろうか。自力で料理ひとつ注文できなくてどうして成功と言えるだろう。

彼らの列車が出て10分もしないうちに僕の乗る列車が到着。マンハイムを通る辺りからライン河を探したのだがなかなか姿を見せてくれない。旅行プランを立てる時、もしラインの旅ができなかったら、せめてマンハイムでチラっとでもラインを見たいと考えていたのだが、そうしないで良かった。あたりはただ一面平らな緑の大地である。やがてヴォルムスを通過。ニーベルンゲンの伝説で英雄ジークリートが死ぬところ、「神々の黄昏」の舞台である。しかし全く平坦な土地であって、少しもドラマティックな風情はない。そして黄金のマインツと呼ばれたマインツで、2人のドイツ人紳士がコンパートメントに乗り込んできた。彼らのは窓際の予約席であった。1人はやや神経質そうで偉そうな感じのオットー・クレンペラーみたいな人。もう一人は切れ者らしい若い男。2人ともボンへ行くというから、政治家とその秘書かも知れぬ。このあたりでようやくライン河が列車のすぐそばに姿を見せた。いかにも水量の多い感じの大河である。横幅は荒川放水路なみだが、水が豊かなのである。

ザンクト・ゴアでローレライの岩を通過する時、そのふもとにアルファベットの表示と並んでカタカナで「ローレライ」と日本語の看板が出ているのに驚いた。今日は時間的に余裕があるので、トーマス・クックの列車時刻表を見ながら行動予定を立てる。ケルンへ着く時刻を遅らせてボンに寄ってベートーベン・ハウスでも見ようか、とも考える。しかし棚の上の荷物の山を見て止めることにした。そして予定通りボッパールトの駅で降りる。コインロッカーに荷物を預け、カメラだけ持ってラインの河原へ。河辺には長い遊歩道があり、花壇とベンチが並ぶ。そのうちの一つのベンチに腰掛け、河面とそこを行きかう船を眺めて無為に時間を過ごす。この無為の時を過ごすというのは現代最高のぜいたくの一つに違いない。約2時間をここで過ごした。

ボッパールトの町は老人が多い。住民だろうか、それとも保養客だろうか。足元の危なくなった感じの老夫婦が連れだってゆっくり散歩したり、ベンチに腰かけたりしている。僕がベンチを立った途端、近くのベンチに座っていた老人が僕の居た場所に移って来た。ひょっとするとここは毎日決まって座るお気に入りのベンチだったのかも知れない。目の前にライン下りの船の乗り場があるので、船でコブレンツまで行くことも考えたし、実際それは可能だった。しかしコブレンツの船着場から鉄道駅までの距離に不安があったのでこの案は没。荷物が多いというのは大きなハンディである。駅のホームには黒服の尼さんが3人いた。ドイツでは教会税というのがあるそうだが、それほど教会が優遇されているのなら、僧職の人々の切符代はタダだろうかと思う。

次の目的地、ケルンに着くとすぐ荷物をコインロッカーに預けたのだが、うっかり地図まで入れてしまった。また2マルク払うのは惜しく、地図無しで歩き出した。有名なケルンの大聖堂の塔は子供の頃から写真で知っていたが、真下から見上げると物凄い威圧感がある大きな建物である。ドーム内部を見た後、入場料を払って右側の塔の階段を上り始めた。これが大変な階段だった。ニューヨークの自由の女神の中の階段も目が回る思いがしたが、その2倍もある気がした。三百数十段もある階段を上り切った時は膝はガタガタになり、全身汗ぐっしょりとなる。僕の前後を上っていたのはもっと若いドイツの学生で、彼らは元気そうだが、こちらはもうぐったり。あいにく霧が立ちこめて視界は悪い。モダーンなスタイルのケルンのオペラ・ハウスが足元に見える。

ケルンは主として歩行者天国の所だけを歩いて回ったのだが、さすがドイツ第4の大都会だけあって凄い人混みだった。大聖堂のすぐ隣に広場があって、子供達が自転車の曲芸乗りをやっていたが、その側に有名なケルン水(オーデコロン)4711の店があって、奇麗に包装したプレゼント用の箱を売っている。しかし、こういう店で買うと高い。4711は市中のカウフアレで買った。

適当なレストランに入って夕食を取る。これが今回ドイツ内での最後の夕食になるから典型的なドイツ料理をと思い、白ソーセージ料理とサラダとビールを頼む。決して安いとは言えないが、たとえ満席でも後の客のために追い立てられるように速く食べる羽目になる心配はない。何しろ夜行列車は9時に出発だから、日没の遅い当地ではたっぷり時間を稼がなければ。駅前に続く中心街には革製品、クリスタル、刃物を売る店やポルノ映画館が並ぶ。この町に限らず欧州の駅で苦情があるとすれば、駅の極く近くにはベンチなど全く無いということだ。つまり旅行者がそういう所にたむろしては困ると言わんばかりなのだ。駅から離れると公園もベンチもあるが、駅の周りは皆無。これは意図的と言える。休みたければレストランかカフェにお入りなさい、と言っているように見える。足が痛くなるほど歩き回り、立ち止ったりして暇をつぶし、やっともっともらしい時刻になってプラットホームに入った。

恐るべき律儀なドイツ人車掌の立ち並ぶ中を寝台車へ乗り込む。すぐにパスポートとユーレイル・パス、寝台券を預けるように求められる。いつ返してくれるか、と尋ねたら降りる直前に渡すという。なにしろ寝台車は初めてなので、おっかなびっくりだったのだが、案内されて自分のコンパートメントへ行くと2人の先客あり。2人ともオーストリア人で、1人はウィーン在住の実業家であり、もう一人はリンツ在住の若い職人。下段はまだ座席のままになっていて、2人でビールを飲んでいた。僕は彼らの真ん中に迎えられ、たちまち酒盛りの仲間入り。2人して次々にビールを買ってはご馳走してくれる。ウィーンではブリストル・ホテルに泊まると言ったら2人共目を丸くして、お前さんは金持ちに違いない、と言う。とんでもない、我々の商売は皆貧乏だ、と答えた。「経済の先生と同じだろう? どうやったら儲かるかって教えながら自分は貧乏のままだからな」と言う。そうだ、そうだ、アハハと笑いあう。ブリストル・ホテルの裏にはムーラン・ルージュがあるぜ、とニヤニヤしながら教えて呉れた。

実は昼間の疲れで早目に寝たかったのだが、両人が余りに親切なものでついつい遅くまで付き合ってしまった。眠気を催し、あらぬ方向を見てプロスト!とビールのコップを差し上げたら、ダメダメ、ウィーン風というのは必ず相手の目を見なくては、と叱られる。2人とも英語は下手で、僕のドイツ語程度。英語を搾り出すのに四苦八苦しているのを見て、たまに僕がドイツ語で助けを出すと、何で自分達が英語でお前さんがドイツ語なんだね?と笑い出す。何時に寝るのか?と言うから、精々11時だねと答えたらそりゃ早く寝ないと大変だ、と言う。疲れるけれど楽しい旅仲間 !



1984年5月17日(ウィーン)

早朝5時に列車はリンツに着き、若い方のオーストリア人はここで下車する。最上段のベッドから降りる途中、僕のベッドをのぞき込み、別れを告げて行った。6時半から年配のオーストリア人と一緒に朝食を取る。彼は窓際の席を僕に譲り、オーストリアの風景をよく見ろ、という。すぐそばをドナウ河がゆったりと流れている。時々発電所が見えるが、そのたび指差す。ふと日本のXXX機構のIT部長が以前にドイツでも日本の桜そっくりの花があるんだが、あれは何という花なんだろうと言っていたのを思い出す。実はバイロイトへ行く途中の列車の中でも、同室したドイツ人に窓の外に見える白い花を指して尋ねたら、彼はあれはキルシュだと答えた。ところがこのオーストリア人は、いやあれはキルシュではなくマリレというんだ、と教えて、スペルを紙に書いてくれた。つまりアンズである。

見えつ隠れつするドナウ河と共に列車はウィーンに到着。ドナウ河といえば昨夜二人のオーストリア人になぜデア・ラインでディ・ドナウなんだ?と尋ねたが彼ら自身も分からないと言う。昔からファーター・ライン、ムッター・ドナウ(父なるライン、母なるドナウ)と言うのだ。どうもドイツ語の性の付け方はただの慣習によるらしい。

ウィーン西駅に到着。相客と別れたあと、市営交通機関の3日間有効のネッツェカルテ(定期券)を買えるかどうかキオスクのおばさんにきいてみた。実に親切そうなおばさんはすぐに用意して呉れる。案内書には顔写真が必要と書いてあったのだが、何も要求されなかった。ドイツもオーストリアも、またイタリアも切符は持ってさえいれば良いので、切符の改札などはそもそも存在しない。ただ、たまにある車内検札の際に切符がないことが分かると、とんでもなく高い罰金を取られるという。

まだ朝8時だからホテルにチェック・インするには早すぎる。ひとまずは荷物を鉄道駅のコイン・ロッカーに入れてホテルまでのルートを実地に調べてみる。市電に乗り、Ringで一度乗り換えてオペラ座の前で下車。ブリストル・ホテルはオペラ座の隣だから迷うべくもない。次の大仕事は日本から予約の手紙を入れておいたオペラ座の切符を受け取ること。24時間前までに取りに来るように、と指示を書いた返事を貰っていたのだ。Kb氏の書いてくれた地図を頼りに前売り券売り場を探しだす。実際、こんな裏路地とも言うべき中庭にあるのだから、全く知らない人が見つけだすのは至難だろう。既に50人を越す行列ができていた。壁に貼ってある切符売れ行き状況によると、今週の出し物は全て売り切れ。24日以降のものなら買えるようだ。

行列の途中から抜け出し、優先処理で切符を受け取る。次にムジーク・フェライン・ザールの切符受け取りに出かける。この方は日本から電信送金してあったものの、その受領証を受け取っていなかったので(日本出発後に郵送されたのかもしれない)、窓口で払ってあることを口頭で主張しなければなるまい、と覚悟を決めて売り場におもむく。しかし、これもまたIw女史が保証してくれたとおり、ウィーンは外国人に対しては親切で疑ったりはせず、電信送金のファイルをすぐ調べて難なく切符を入手。

シェーンブルン宮殿へ向かう。マリア・テレジアやマリー・アントワネットが住み、少年時代のモーツアルトもここで演奏したハプスブルク家の夏の離宮。この宮殿は何とも大きい。建物だけでなく庭園もである。ロンドンのハイドパークより大きいとか。すっかり暑くなった日差しの中を、コートを着て汗をかきながら歩く。宮殿の中に入る料金は安いが、一人では勝手に歩き回ることはできず、専任の案内人付きツアーのグループに加わらなくてはならない。この宮殿の入り口、メイン・フロアへの階段、待合所などは決してきれいではない。実際汚れているのである。靴跡がついたのか、手垢がついたのか、と思わせるような汚れぶり。内部の装飾は財力にあかしたものに違いないが、同じ神聖ローマ帝国でもドイツほど鮮やかな印象が残らない。壁面を飾っているのは、絵ではなく全面を覆うタペストリーである。天井からつり下げられたシャンデリアは純金である。重たいから、盗めるものなら盗んでみろ、とオーストリア政府が見栄を切ったという。

ナポレオン・ジュニアが住んだ部屋とか、モーツアルトがころんだ部屋とか、マリア・テレジアからフランツ・ヨーゼフに至る歴史上の有名人物ゆかりの部屋が並ぶ。東洋趣味の部屋もある。延々と続く城内ツアーを終えて外に出た時はすっかりくたびれた。ヒト気もまばらな並木道の下のベンチで半時間ほど休む。宮殿と向かい合うグロリエッテ(戦勝記念塔)までは40分も歩かなければならない、と聞いたのでこの時は諦めた。宮殿の出入り口の所に学生風の3人連れがオーストリア宮廷風の貸衣装で記念写真はいかが、と待ち構えている。公認で商売しているのである。その足で地下鉄を乗り継いで、IAXAのあるドナウ運河ぞいにある国連機関地区へ行って、初めてIAXAビルを目のあたりにした。建物も無機質の感触がある。

来る時の2倍も乗ったような気がして、ようやく西駅に戻る。コインロッカーへ直行してみるとリュックサックを背負った女の子が、鍵をガシャガシャさせて妙な顔をしている。僕のロッカーの隣だったが、自分の荷物を引き出していたら、女の子の手がとんとんと肩を叩くのを感じた。ロッカーの鍵がかからないのだが、どうしたものだろうか、と言う。僕が代わりに鍵をいじってみたが巧くいかない。「これは壊れていますよ。僕が使っていたロッカーを使ったら?」と勧めたら、それに従った。「コインは戻ってきたんですか?」と聞くと、出てこないんだと言う。「人生ってこんなものよ」と女の子は不機嫌そうに言う。一見ヒッチハイク風の女の子だった。カナダのアルバータから来たという。

Ringへ戻って電車を乗り換える時、おばあさんが2人乗ろうとしていたので順番を譲り、先に乗せてあげた。ところが僕が乗った方向が逆だったと分かり、慌てて降りて次の方向を探していたら、さっきのお婆さん達が寄ってきて、どこへ行くのか、道を教えてあげよう、と親切に言って呉れる。ブリストル・ホテルだと言うと御両人、目を丸くした。乗り直すホームに着くまで、うしろからずっと見守って呉れる。「何行きの電車でもいいから、ともかくOperで降りるのよ!」と叫んでいる。

ブリストル・ホテルにチェックインした後は、ケルントナー通りのシュテファン教会のドームを覗く。しかし階段を上るのはやめた。ケルンの大聖堂の階段の記憶がまだナマナマしかったからである。実はチェックインして部屋に入った途端フロントから電話がかかって、奥様がお見えになると電話がありました、と言う。何をばかな、日本から来るはずないでしょ、と言って受話器を置いたが、気になってしょうがない。(結局その電話はお隣の部屋あての間違いだったようだ。日本人が泊っていたらしく、女性が朝方までいたのが分かったのである。人騒がせな電話だ。でも一大事でなくてよかった。)

何か窓口でちょっと立ち止って陳列商品を眺めていると、すぐに通行人が何ごとだろうと寄ってくる。誰もいないところに立ち止ってのぞき込んでいても、はっと気がつくと1分後には黒山の人集りで、皆がショウ・ウインドウを覗き込んでいる、という経験を度々した。ミュンヘンでもそうだった。こういうことはニューヨークではさんざん経験したことなので、物見高いアメリカ人の特性かと思っていたが、その御先祖はヨーロッパにいたわけだ。



5月18日(ウィーン)

朝食はボーイが大盆にのせて持ってきた。ウィーン風朝食というのを頼んだのが山盛りだった。ピシっと糊のきいたナプキンを何枚も使って仕切っているのだが、パンだって4種類ものパンをところ狭しとバスケットに盛り、大皿にソーセジ・エッグ、オレンジジュースと紅茶、クリーム、濃過ぎるお茶を薄めるためのお湯。レバーペースト、バター、チーズ、サラミ、ジャム2種類、食器は全て銀製である。若いボーイにチップを渡す。今回初めて"Sir"という言葉があったことを思い出させて呉れた。

前の晩に、ホテルにMut夫人から電話があり、Mut氏はオランダのアムステルダムへ出張中だが、もし僕の都合がつけば夫人がウィーンの森へ車で御案内します、というのである。Mut氏は、彼がウィーンに出発する前に、XXX機構の僕の部屋に来て、もし僕がIRXAに出席したあと、ウィーンに寄ってくれれば案内したいと申し出てくれていた。音楽会の切符も手配しましょうと、ウィーンから何度か手紙を貰った。彼はゲッチンゲン大学でDDを取ったのでドイツ語は英語より堪能。しかし彼がオランダからウィーンに帰ってくる、その時刻にちょうど僕のイタリア行きの夜行列車が出ることが分かったので、厚意に感謝しながらもスケジュールの都合でお会いできそうもない、と手紙を出しておいた。

ニューヨークの経験から、海外に滞在している人は皆が金持ちなのではなく、我々のような場合は特に切り詰めていることは承知だから、余り負担をかけたくなかったのである。逆に言うと、トイレで会った程度の面識でも、海外駐在中の人には親友のごとく全面的に頼りたがる日本人が多いのだ。行く側は一回限りでも、迎える側は年がら年中になって大変だと思う。しかし、わざわざ電話で言われては、頑なに断ってはかえって傷つけるだろうと思い、有り難く世話になることにした。Mut夫人は毎日午前中はドイツ語学校に通っているので、昼過ぎにホテルに迎えに来てくれるという。そこで午前中はホーフブルクへ行くことにした。ハプスブルク家の冬の本宮殿。薄紫色の美しいライラックが満開の庭園に入り、モーツアルト像の前の草花がト音記号の形に植えてあるのを見てから宮殿へ。残念ながら帝冠などが展示されているシャッツ・カンマーは工事のため85年まで閉鎖、と張り紙がしてあった。しかしハプスブルク家のアパートメントは公開中だったので階段を上り、切符を買ってドイツ語のツアーに参加した。

ウィーンは本当にエリザベートが好きなんだな、と思う。フランツ・ヨーゼフ帝の妃、バイエルンのルートヴィヒ2世のいとこ、息子は町娘と心中してしまったあの映画「うたかたの恋」で有名な皇太子。その代わりにたてた皇太子はセルビアで暗殺されて第1次世界大戦に。そしてエリザベート自身も旅行中に暗殺された。"シシー"という愛称を持つ。メロドラマの主人公のあらゆる条件を満たすこの女性の肖像は、ウィーンの至る所に溢れ、絵葉書セットには必ず彼女の絵姿が含まれる。体のプロポーションを保つため、一日2食しか食べなかったとか、当時は破天荒なこととされた乗馬の練習のための器械体操を、宮殿内で行なったとか(そういう部屋も見た)、案内人が説明する。案内人は何となくルドルフ・ビング(メットの支配人。彼もオーストリア人だったはずである)みたいな感じの長身の男である。

考えてみればオーストリアは大戦後ハプスブルク家を追放したのだ。憲法でハプスブルク家の人間がオーストリア内に住むことを禁じたのだ。それにも拘わらず、時代がたつと、逆にハプスブルク家を売り物にして大いに稼いでいるわけだ。ウィーンの人口の10倍もの観光客を毎年迎え、その多くはハプスブルク家の遺産を見るのを目当てにしているのである。第一、ウィーンのオペラ座だって、ミラノのスカラ座だってハプスブルク家の宮廷歌劇場。ドイツのミュンヘンがルートヴィヒを廃位しながら、今ではルートヴィヒを売りまくっているのと似ている。この町に2年滞在したXXX機構のIt氏などはウィーンにメロメロで、ウィーンと銘うってあれば本であれ、絵であれ、何でも買い集め、美術展、映画、菓子屋その他何でもウィーンの匂いのする催し物があると聞けば必ず駆けつける。

そのあと議会の脇を通ってブルク劇場のそばまで歩いた。旧市街をかこむ城壁を壊して作られたリンク通りは短いと聞いていたが、どうしてどうして随分長い。ケルントナー通りをまたブラブラしていると大道芸人が目立つ。しかし下手。日本人までが一人、わけの分からない歌をギター伴奏でどなっている。全然実入りは無いようだった。

折り紙好きのMut氏のために一度は用意した和紙は、日本に置いてきてしまった。従って夫人に会うのなら何か用意しなければ、と思い花屋を物色。Operの地下にも花屋はあるが気に入ったものがない。結局ケルントナー通りで見つけた花屋で、薄いピンクのバラを10本とカーネーションを何本か混ぜて買った。包装紙は別に買う。ここでは別料金を払わないと紙に包んで呉れない。夫人は車は自宅に置いてあるので、そこまで電車とバスを乗り継いで行きましょうと言う。その途中、Ringの外側にある市場でチーズをドイツ語で買っていた。Mut家のあるペーターヨルダン通りは大変美しい住宅街だったが、このあたりは外国人ばかりなので、本来のウィーンっ子の住居より外部装飾が少ないそうだ。Mut家のアパートはイタリア人がオーナーで、ウィーンでは表札にドクター・ナントカどころかディプロマ・ナントカまで書くのだそうである。

Mut家の中はまるでグラビア雑誌から抜けてきたような、あか抜けしたインテリア。日本から運んだという家具も立派なものばかりだし、どうも我々のニューヨーク生活とは違う。彼らは子供がいないために生活のパターンが違うのかも知れない。手製のケーキとスプライトをご馳走になり、すぐにカーレンベルクの丘までドライブ。丘の上から見るウィーンの町は小ぢんまりとまとまり、ドナウ河にくっ付いているように見える。丘の反対側には果てしなくボヘミアまで続く草原が見え、絵のように美しい風景。ウィーンの森というのは山腹に広がる林に過ぎず、別に昼なお暗い森というわけではない。おかげで遠くまで見物できて有難う、と礼を言って別れた。

Nordseeという安レストランで夕食。ファースト・フードに近いのだが、満席のため、お婆さんが一人で食べているところに相席を頼む。お婆さんは喜んでうなずいて迎えて呉れた。夜は国立オペラ。ミュンヘンほどブリリアントではなく、むしろ質素な感じで、お客の服装は大したことない。恐らく出し物がスメタナの「売られた花嫁」なんて余りポピュラーでないもので、ウィーンっ子は余り行かず、旅行者が闇雲に買った切符でSoldoutになっていたのに違いない。旅行者と思えば納得できる。ミュンヘンの、あのすさまじい礼装とは異質だ。この次にウィーンに来る時は余り気にしないことにしよう。桟敷席のため、控えの間があり、そこにコートを掛ける場所があり、化粧用の鏡もベンチも置いてある。ボーイが案内するからチップが要る。

桟敷の中には若い男が一人と、お婆さんが一人いた。二人で英語を喋っていたので今晩はと声を掛けて仲間に入る。アメリカ人かと聞いたら男はカナダ人、お婆さんはウィーンの人。男の方はすぐに打ち解けて、幕間の休憩時間もロビーを一緒に散歩し、レモネード(ミュンヘンで覚えたシュヴェップスだが、彼もこれが好きだという)を飲みながら、あれこれ話す。この話は別記してある。お婆さんは後の椅子に座っているから、もっと前に出たらどうです、と勧めたがそこでいいという。あとで考えると、席の値段の問題だろうと思う。男の方はちょっと前にヴェネツィアに居たという。実は僕もこれからヴェネツィアへ行くが、イタリア語を知らないし、用が足せるかどうか心配なんだ、と言ったところ、心配無用、ここと同じように十分やっていける、と請け合ってくれた。














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