(129)モノローグ    2010.2.10 「ワルキューレ」の比較その6

音が貧弱なのでここでの比較試聴では取り上げなかったが、実はもう一つCDがある。1946年メトロポリタン歌劇場のもので、音は極めて悪い。これでもオリジナルはアセテート盤だと断ってある。同歌劇場のオーケストラ、ポール・ブライザック指揮、ラウリッツ・メルヒオールのジークムント、アストリード・ヴァルナイのジークリンデ、エマニュエル・リストのフンディング、ヨエル・ブルクルントのヴオータン、ケルステン・トルボルイのフリッカ、他のワルキューレたち。これを取り上げることにした。

(1-1)1946年:序曲と第1場〜第2場
低い音や重要な太鼓が聴こえなくなっている。まず猛烈にテンポが速いのだ。もう戦争は終わったのにこの早さはどうだ。メルヒオールはまるで30歳代のごとく、ヴァルナイも同様に30歳代の声だ。このヴァルナイを聴いていると、これはカラヤン盤のヤノヴィッツと両極端だな、と思った。ヤノヴィッツの透明感のある、しかし性格のはっきりしないジークリンデと、このヴァルナイの凄みのある、そして性格はハッキリしているジークリンデのどちらが好きかが問われる。リストのフンディングは低い音域を表すのに十分だ。ここでは管楽器のプフォ、プフォは聴こえるが、太鼓の方は殆ど聴こえない。また序曲での風の音は最もハッキリ聴こえた。これを録音した古い時代にどうして風の音を入れるのが流行ったのだろうか。繰り返すが、この音の悪いCDでは、細かい比較は無理である。

(1-2)1946年:第1幕第3場
ますます音の悪さが浮かび上がる。これでは実に評価しにくい。テンポは速く、歌手達もその早さに振り回されている。しかし、聴いているうちについ、そういう問題点を忘れてしまう。やはり「ワルキューレ」第1幕後半は、この曲の華であり、テンポや歌手の年齢等、色々文句言いたくなる点も、無視できるのかもしれない。

(1-3)1946年:第2幕第1場〜第5場
ここではテンポがメチャクチャ早い。トルボルイはしゃくり上げる形で声を出しており、実演舞台では効果があったかも知れないが、ここで実際に聴こえるのは貧弱な声(録音のせい!)で、ややうるさかった。トロウベルは大戦を挿んで約4年経った時には声のキイ音が下がったようで、合わせてメルヒオールも急に年をとったようだ。何となく40代の中年みたいな声。フンディングが迫っていることを表してか、何となく犬の遠吠えみたいな音が聴こえる。また時間を節約するためか、どうも途中で抜けている箇所があるような気がするのだ(例えばヴオータンとブリュンヒルデの関係を表す場面)。あとで確かめてみたい。ここでは、もともと80分程度ある第2幕を、CD1枚分に収めてある。ブルクルントのヴオータンは声はともかく、もっと深い表現が欲しいが、これも余りの録音の悪さ故かも知れないな、と思った。

(1-4)1946年:第3幕第1場
ワルキューレの騎行の部分。音の悪さで評価し難い。それでも分かったのは、ヴオータンはやはり相当年の行った声だということ、そしてブリュンヒルデは必死になってヴオータンの心を動かそうとしている点だ。ヴァルナイはここでは最年長みたいに、浮き上がって聴こえる。時折声が急に幕が取れたように良く響き渡るが、そういう録音機器の好調さも長続きしない。テクノロジーはやはり重要である。

(1-5)1946年:第3幕第2場〜第3場
ヴオータンの告別の場面だが、これも音が悪くて、評価し難い。あえぎ、あえぎ、ようやく終幕までたどり着いた。




昨日1.ベルリンの雨-その10          2010.2.20入力



1984年5月19日(ウィーン)

ブリストル・ホテルをチェック・アウト。このホテルは確かにウィーン観光にはうってつけ。5つ星、銀の食器にシャンデリア。南駅までD-lineを使って行き、荷物をコイン・ロッカーに入れておく。うっかり何時までロッカーが使えるのか調べておくのを忘れた。日曜日だし、午前中だけとか、2時までという制限があるかも知れない。あとで早目に調べておかなくては。南駅についた途端気がついたのは、イタリアの匂いである。イタリア人がウロウロし、イタリア語が飛び交う。西駅の方はドイツだった。何となく上野駅のような、暗い感じ。何番線から出るか、その編成はどうか調べておく(13番線だったのだ!)。両替所で300マルクをイタリア・リラに換える。何となくリラは桁が多くて感覚的に掴めない。慣れるまで時間がかかるだろう。

再びRingに戻り、市立公園のヨハン・シュトラウス像を見た。その前にベートーベン広場を通ったが子供達が遊んでいるだけだった。シュトラウス像の側にカフェがあり、屋外でピアノ入りの楽団がムード音楽を演奏中。さあ、それからが忙しい。やり残しを次から次へ。まずショールとハンカチ探し。このあたり、デパートは日本のスーパー並みだが、専門店は実にエレガントで感じが良い。入り口を踏み入るとすぐに目立たない所に座っていた若い女性がGuten Tag、ないしGood Afternoonと呼びかけて来て、上品な雰囲気を保つ。きれいな英語だから、こちらも無理にドイツ語を使うより楽でいい。

そしてザッハー・トルテ。ポット入りのレモン・ティーと一緒にテラスで食べてみたが、ちっともおいしいとは思えない。塩気が多いというか、むしろ酸っぱ味を感じさせる味。値段を考えればこれは一回きりで良い。本家のザッハー・ホテルでこういう印象だった。昼食はケルントナー通りと直角に交わり市立公園寄りにあるカフェ・テラスでヴィナー・シュニッツェルと赤ワイン。そして時間稼ぎに紅茶。Puppen(風船人形)が町中にあふれているのを眺めながら、コイン・ロッカーの有効時間を調べるため、南駅にもう一度戻ることにする。南駅で表示を調べると24時まで有効、とあるので安心し、さて残った時間を何に使おうと考えつつ再度Ringに戻る。

小澤征嗣の演奏を聴くため、ムジーク・フェライン・ザール(学友協会ホール)へ向かう途中、ミルク売りから生ミルクを一杯買って飲む。たった3シリングで、本当においしい。ムジーク・フェライン・ザールでは当日券を求める若い人々が列をなしている。

大ホールの中はまさに金色堂。キンキラに装飾され、まるで仏壇の中みたいだ。決して大人数を収容できる広さではない。四角い箱のような構造である。小澤征嗣が姿を見せただけで拍手が起きた。そしてウィーン・フィルの最初の音が出た時(ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲)、フルートの音色の豊さに思わず息を呑む。そしてオーケストラが静かに低音を支えた時、背中が鳥肌立ってしまった。ゾーっとするほどの美しさ。こんな美しい音を今まで聴いたことがない。何という美音だろう。ウィーン・フィルだから、というよりこの有名なホール特有の響きなのだろう。絶望的な美しさがそこにあった。こんな音を年中聴いているウィーンの聴衆は何と恵まれているのだろう。ここの音の素晴らしさは、別記した(「音楽のすすめ」第12話「欧州のオペラハウス」)。

2番目の演目、ショパンのピアノ協奏曲第2番は日本では人気絶頂のイーヴォ・ポゴレリチ。ポゴレリチの彈くスタンウェイは鋼鉄の鋭さを響かせたが、すこし小澤と音楽上のギャップがあるのかな、という気がした。あまり融合したり、互いにコントラストをつけたりしていない気がした。ちょっとした音楽上の趣味の違いがあるような気がする。かつてニューヨークで小澤/ボストン交響楽団/マレイ・ペライアの演奏で感じたものと同じく、小澤は少しダイナミックスが小さいのかな、という感じ。全体に強音が多く、弱音とのコントラストが十分ついていないため、時としてヒステリックな強音の連続という風に聴える。3番目のストラヴィンスキー「春の祭典」も全く同じ印象。しかし平土間の聴衆はスタンディング・オヴェイションを送り、喝采が続いた。

コンサートのあと、近くのベルヴェデーレ宮殿へ行ったら、時刻が遅いため内部には入れなかった。広い庭園からウィーンの中心部を遠望して、列車の出るまでまだ2時間もあるので再々度市中へ戻った。今度はシュテファン教会前広場のカフェ・テラスでシンケン・オムレットと白ワインを注文。デザートにアイスクリームを頼んだのだが、訳が分からずに注文して出てきたものは小さな日傘で飾られ、花火のついた代物だったのである。まだ明るい時から、男一人の席で花火付きのアイスクリームを食べる風景は思い出したくない。そして今度こそウィーンに別れを告げて南駅からイタリアに向かう。

急行「レムス」号の車掌さんは前のオランダ=ウィーン急行の時と違って、やはりイタリア人だと思わせるところがある。前のはまさにドイツ人だった。ケルンの駅で、アムステルダムから来たあの急行寝台列車がホームに停った時、ドイツ人の車掌さん達は各車両のドアを左手で開けてお客様を待っていたが、その光景は遠くから見るとまるで軍隊のようだった。つまり全ての車掌さんが同じ姿勢で一斉にホームに並んでいたからである。イタリア人は違う。

同じコンパートメントに中国人の子供が一人いた。家族が見送りに来ていたが、英語もドイツ語も駄目というので、話す機会なし。ヴェネツィアのラ・フェニーチェ座で「アイーダ」を観られるかも知れない、と期待したが、ミュンヘンで仕入れた話では、あの劇場の切符売りのおばさんはイタリア語しか通じない、というのでこの列車の中で一生懸命にイタリア語の数の読み方と、窓口で言うべきセリフを覚えていた。"Vorrei uno post questa sera..."



5月20日(ヴェネツィア)

ヴェネツィア到着は朝5時50分だったが、5時には起きてしまった。近くの部屋にいた車掌がコーヒーを飲むかと聞く。7シリングだというので頼み、10シリング払った。窓から見えるイタリアの風景は今までとは違う。これは日本の風景によく似ているのだ。畑の草の生え方、いや生やし方、その他日本の見慣れた風景のまま。車掌に尋ねたら、この列車はメストレ駅で乗り換える必要はなく、メストレ→サンタルチア→メストレと戻るのだという。つまり、このまま同じ車両に乗っていれば良いのだ。これはトマス・クックの時刻表を丹念に調べても明記してなく、まるでウィーンから直接ボローニャ方面に直行するように思えたし、日本の旅行エージェントも説明して呉れなかったので、悩みの種になっていたのだ。何でも現場で尋ねてみるものだ。メストレからあっという間に海上の細長い渡し道に入ると、向こうに見えるのは確かにアドリア海に浮かぶヴェネツィアの町。

まだ5時58分。コインロッカーが無いので、普通の手荷物一時預かりを見つけて、あれにしようと決めた。そこでカメラとハンドバッグと地図だけを持ち、あとは皆預けてしまう。ヴァポレット(船バス)の1番線へ行き、1200リラの切符を買ってそのまま大運河を走り出す。最前列から2番目の甲板席に座っていたら、すぐ後に恐らくトルコ人らしい2人の娘が、互いにカメラで撮りあっている。ついでに僕のカメラを渡し、シャッターを押すように頼んだ。

サン・マルコ広場で降り、まずはホテルの場所捜し。コンコーディア・ホテルというのが地図に2つあるので、どちらだか確かめる必要があったからだ。サン・マルコ寺院の後にすぐに見つかったが、随分と間口の小さなホテルだった。サン・マルコ広場はまだヒト気もまばら。ちょうど日曜日のミサの最中。悪いと思いつつも中に入ってちょっとだけ覗く。随分と薄暗いドームだ。暗くて豪華なんだかどうだか分からない。広場にさっきのトルコ人がまだ連れだって歩いている。アメリカ人らしい若い男がカメラと格闘してアングルを一生懸命探している。さて、またヴァポレットでお金を使うのもいやだから、それにまだ時間もたっぷりあるから、ひとつここからサンタ・ルチア駅まで歩いて行こうと思った。

地図を見て迷いながら、ともかく段々目的地に近づく。ヴェネツィアの道は細いのだ。まったくの路地に過ぎない。2mもないこともしばしば。裏道、ひさしの下を体を横にして通り抜けるような、そういう道がヴェネツィアの幹線道路なのだ。一番驚いたのはラ・フェニーチェ座だった。あの有名なラ・フェニーチェ座、「椿姫」や「リゴレット」を初演し、かのマリア・カラスがワーグナーとベルリーニを同じ週に歌って、スターへの道を歩み始めたのはこの劇場だった。それがどうだ。まるで吉祥寺のオデオン座だ。いやもっと小さくみすぼらしく、汚いのである。もし、ラ・フェニーチェと銘が打ってなかったら誰も気がつくまい。しかも、そこに面した広場というのが、これが広場かと思うような空き地に過ぎない。言ってみれば4畳半しかない印象。広場、プラザ、などとは恥ずかしくて言えないような、小さな路地に過ぎない。その路地に続く道はいずれも2m幅しかない。酔っ払いが朝っぱらから2人、「マダム・バタフライ」や「椿姫」のアリアを歌っている。猫が多い。

複雑な気持ちを抱きながら駅に戻る。日曜だから閉店しているところが多い。土産屋とレストランの一部は開いていた。サンタ・ルチア駅に近いレストランで朝食を注文。ほとんどパンと紅茶とバターだけというミニマムである。駅ではマルクのトラベラーズ・チェックをリラに換金したあと、有料トイレに入る。500リラだと言うが、どうも桁の多さが呑み込めずまごつく。50リラかと思ったら違う違うと、番人のおばさんは大仰にわめく。イタリア人は表情がオーバーなのだ。翌日のパリ行き寝台車を予約しようとしたら、駅では寝台は扱わない、旅行社へ行けという。しかし日曜だから旅行社は休みだ。あきらめた。簡易寝台車なら駅でも売るというが、そう言うクシェットにお金をかけるのは割りが合わない。駅ではワゴン・リーの豪華寝台車(オリエント急行)もあると言っていたが、トンでもない。

荷物を再び抱えて、今度は2番線のヴァポレットへ。すっかり良い天気になり、暑い。サン・マルコからホテルまでは決して遠くないのだが、コートを来て大荷物を持って歩くと全身汗ぐっしょりである。チェック・インも早々に洗濯に励む。今度は半袖のサマー・セーター1枚になって外出。まず鐘楼へエレベータで上る。上から見る景色は確かに素晴らしい。あのドイツの古い町と同じく、赤茶色の屋根が不規則に並び、その周りを青いアドリア海がとり囲む。少し沖には、あのトマス・マン「ヴェニスに死す」の舞台になったリドの細長い浜が見える。遠目に見る限りヴェネツィアは美しい町だ。

「嘆きの橋」とつながるドゥカーロ宮に行ってみる。外観は汚らしいな、と思ったが、本質的には内部も似ている。"元"豪華、今は古びてむしろ汚らしい姿、これは何かに似ている。どこかで見慣れた姿だ。そして、それを美しい、素晴らしい、と喧伝されているところも似ている。ふと気がついた。あれは日本の古いお寺だ。一部の寺のグロテスクな姿だ。ただこの宮殿の天井はとてつもなく高く、こればかりはハプスブルク家の宮殿を圧倒的に凌ぐ。格子天井を太い木柱で支えた巨大な空間である。何と言ってもヴェネツィアの町は海水に侵食され、くたびれ果てた姿になっているのだ。完全に過去のものとなった栄光で、観光客を集めていると感じた。

昼食はイタリア本場のスパゲッティ(ボロネーゼ)、サラダ、赤ワインを取る。これが面白い。今まで悩まされたドイツ語が、ここではむしろ懐かしいものになり、注文に英語とドイツ語が入り交じる。サラダは何にするかと(イタリア語で)聞くから、どんなサラダがあるのかと英語で尋ね、ラチがあかないからメニューを見せて呉れとドイツ語で頼む。これにすると英語で言ったあとは赤ワインを、そしてお勘定を、とドイツ語になる。いやはや何語を使っているのやら。

お土産屋を一巡していると、突然ドーンと大きな音がし、子供達が鐘楼の方から一斉に逃げ出した。ふと見ると女が一人うつぶせになって地面に倒れている。これは危ない、ピストルでやられたかと最初思った。実はその女性は塔から落ちたのである。嫌なものを見てしまった。サン・マルコ広場のカフェで紅茶をポットで頼む。楽団が昔懐かしい曲を演奏している。キャサリーン・ヘプバーンの映画「旅情」にこの広場が出てくるが、楽団がケルビーニ「メデア」の序曲を演奏していた。まさにその場所の楽団である。さあ、くたびれた。今晩は早目に寝よう。まずシャワーでも浴びようと、準備していたらホテルのフロントから電話がかかる。英語をしゃべる人だけでゴンドラ・ツァーを組んでいる、このホテルのお客は割引だからお得ダ、参加しませんか、というのである。19,000リラだという。これでも高いと思うが、一人で乗るよりはずっと安い。小雨から最後は雷混じりのシャワーに会いながら、このツァーに参加した。サンディエゴから来た米国人夫婦2組と僕の5人で7時出発の便。雨の中を舟に乗って観光見物なんて、私達も随分おかしな人種だわよ、と年端のいった米国婦人はケタケタ笑う。



1984年5月21日(ヴェネツィア/パリ)

ボーイに玄関まで荷物を運んで貰うだけで、大量のチップを払った後、ヴァポレットでサンタ・ルチア駅に向かう。再びここの荷物預かりに置いて、町見物に出かける。ヴェネツィア駅の中にある郵便局から絵葉書を出そうと思って行ったら、何と「切手は売り切れです。午後1時半にならないと手に入りません。」と張り紙してある。郵便局に切手がないなんて! 結局サンマルコ寺院広場の裏手にあった別の郵便局で切手が買えた。そこでは、受付の女の子がゆっくりした英語で応対して呉れた。観光客に慣れているのだろう。

駅までの途中にある屋台でスライドを買ったが、あとで見たらコピーを繰り返したようなシロモノ。サンマルコ広場に面した店でヴェネツィア細工のペンダントを買ったが、おつりが5,000リラ多過ぎるのを注意して返したら、これまた大仰に感謝された。夜行列車まで時間が余って困る。結局寝台は諦め、パリまで普通車で寝ていくことにしたのだ。お金を使わずに時間をつぶすのは結構つらい。駅で駅弁ボックスを買い、ようやく6時にコンパートメントに収まる。初めの相客はイタリア人女性一人だけだったが、英語は話せない(と言うより、警戒された)。

駅弁はパンの大きいの二つ、トリのロースト、サラミ、チーズ、リンゴ、ポテト・チップス、パンケーキ、赤ワインだった。早目に食べてしまったが、パンケーキだけ残った。かなりの時刻になってミラノに到着、ミラノ駅は折り返し型プラットホームになっている。次第に混んできて、イタリア人の老人(男女)2人と、途中アメリカ人の子供達(15〜17歳)が4人も乗り込んできた。アメリカ人どもが大騒ぎを演じていたら、イタリアの老紳士がイタリア語で、きつくたしなめていた。全くあの子供達はしつけが悪い。陽気なのと乱暴なのは違うはず。全くイタリア人の方が正しい。

アメリカ勢は17歳の娘一人を除いてイタリア語を解さず、何を言っているんだ、と、娘に聞く。この娘は年長だけに落ち着きがある。「要するにあんたが足であの人を蹴ったのに、あやまらないから無礼だと言っているのよ」と通訳した。フタをしたままのゴミ箱(窓際に座った老婦人と僕の間にある)に紙屑をポンと投げるので、老婦人は明かに怒った眼を向けたが、アメリカ人の子供達には通用せず。彼女はそこで僕の顔を見たから眉を上げて応えた。婦人は肩をすくめてみせた。もう一度同じことがあったら僕が注意してやろう、と待ち構えていたが次の駅で降りてしまった。アメリカ人とアメリカは大好きだが、ここは欧州でありアメリカではない。

皆が降りてしまったあと窓から湖を眺め、スイスとの国境近くの風景を見て、シンプロン・トンネルを過ぎたあたりから暗くなった。スイス、フランスと国境を越える度にパスポート検査があり、車掌が交代する度に検札がある。最後の検札は午前3時ごろ。寝台車がとれなかったせいだ。結構日本人が乗っているらしく、フランス人車掌はジャポン、ジャポンとつぶやきながら徘徊している。近くのコンパートメントからは、延々と女の子達の日本語会話が漏れてきた。



5月22日(パリ/ドーヴァー/ロンドン)

ともかく疲れた。朝5時から目が覚めてしまう。トイレに行き、髭を剃り、フランとポンドの整理をし、カバンをパッキング。朝食は夕べの残りのパンケーキを食べて済ます。のどが乾いた。水分が足りない。車内販売が全く無いのだ。リラを残しておいて損をした。おまけにこの1等車のコンパートメントはドイツのと違ってサービスが悪い。ボーイを呼ぶボタンもメニューもついていないのだ。

フランスの風景はまだ薄暗くてよくわからないが、切妻屋根の家が並び、基本的にはドイツの村落に似ていると言えよう。ただ石の色がドイツは暗灰色、フランスのは明るい灰色、パステルの色だ。イタリアのはしっくいの色だった。

パリ・リヨン駅に降りたつ。いよいよ分からないフランス語と格闘。案内板のフランス語を解読しつつ、荷物の重いのも忘れて(必死だから)、地下鉄のA線とB線を乗り継いで北駅へ出る。北駅ではまだ今日乗るべき401号列車のホーム指定が出ていない。恐らくそれを待っているとおぼしき旅客がウロウロしている。ユーレイル・パスはイギリスをカバーしていない。案内所で、ここでカレーからロンドンまでの切符を買えるかと聞いたら、窓口2番へ行けという。2番はまだ閉まっているので8番で尋ねる。7時15分まで待てという。その間に両替所で、残ったオーストリア・シリングOs760をフランに替える。小銭がやっとできたので待望のコーラを買って飲む。水分が体に染み込む。

元気を出して再度国際切符売り場へ行くと、英国窓口というのがちゃんとあった。ただし2番ではなく18番だった。その指示によると現金の場合は全て仏フラン払い、と書いてある。1等でロンドンまで26フランというのでそれを求めた。ほっとした。これで全ての悩みの種、あるいは取り越し苦労の種が解決した。日本を出発する前からパリは最大の難関と思っていたのが解決したのだ。本当にほっとした。残り時間を見て売店でスライドを買う。パリの屋根の下、その空気をちょっと吸って今回は満足しよう。

パリ発、カレー行きの401号列車の1等車は今回初めてのオープン・サロン・カーだった。進行方向と逆を向くのが正式らしい。その指定席に座った時、思わずため息をついた。手持ちのフランがたっぷりある。もう、どんどん食べよう。飲もう。今まで、あとのために取っておいたものを、今こそ自分の楽しみと健康のために使えるのだから嬉しい。車内販売が来たので、コーヒーとサンドイッチを買う。18.2フラン。フランスの国鉄はスマートだと思う。アナウンスも丁寧だ。「ボンジュール、ダーム・エ・ムッシュー……」で始まり、英語で繰り返す。もっともひどい英語だと思ったけれども。窓から見える北部フランスの緑は鮮やかだ。タンポポが黄色い絨毯をなす。ドイツの風景にも似ている。美しい丘陵地帯を見ながら、今までどこの国が居心地が良かっただろう、と考えてみた。恐らく最初の国としてドイツを選んだのは正解だった。ドイツはきちんとした国だ。余裕のある時ならフランスも良い所に違いない。パリは危険なところ、という風評はニューヨークは危険なところ、というのと同じに違いない。

窓から見ながら気がついたのだが、今回ドイツもフランスも、たいがい緑が地面を覆っているのだが、およそお百姓さんが耕しているのを見たことがない。ただオーストリアで、ウィーンの近くで一回だけ耕している現場を見たのみである。あとは芝のような背の低い草が生えていて、羊や牛がいるだけ。牧草地なんだろうか。ノルマンディに遥か続く丘陵地帯に全く人影がない。ただ緑の大地が続くだけだ。民家(多分農家)の集落があっても同じだ。ハンカチ大の土地でも耕してしまう日本のやり方とは大きな違いだと思う。どこか汽車の通らない地方ではせっせと耕しているのだろうか。

カレーに着くと、建物の中に明かに英国風を気取ったものがある。カレーは大陸に残った最後の英国領だったが、プランタジェネット家の紋章のある「イギリスの門」を見られないのは残念だ。ドーヴァー海峡は荒れていた。ヨーグルトとレモネードを味わいながら、王冠のマークのついた椅子に座って海上を眺める。この古風な船旅を一度してみたかったのだ。ドーヴァーの白い崖、リア王で身投げの場面のある崖を眺め、英国フォークストンに上陸。税関は自主申告で問題なし。イギリスのお役人は柔らかくてうまいよ。ロンドンに向けて列車が走り出した時、すぐ側を野生のキツネが走っているのを見た。建物は明かに今までとは違う。イギリス人の言う「我が城」が良く分かる。故障があって1時間ほど遅れたが、ヴィクトリア駅に到着。

ヴィクトリア駅から地下鉄を2つ乗換えて、ピカデリー・サーカスへ向かう。チューブと呼ばれるようにロンドンの地下鉄車両は断面が丸くて、狭い。椅子にビロードのような布が張ってあるのと、壁のいたずら書きが無いのはニューヨークと違う。しかし、床に散らばるタバコの吸殻の汚れはニューヨーク以上である。ピカデリー・サーカスの地下鉄駅は円形になっていて、各自が目的地に応じて出口を選ぶようになっている。方向がまるで分からないので、エロスの像のある所から外へ出た。この辺りは有名過ぎるためか道路標識が全然見当たらない。どれが何通りなんだかさっぱり分からない。雨は降っているし、荷物は重たいし、で困ってしまう。ようやくコヴェントリー通りのロイヤル・アンガス・ホテルを探し出す。人好きのするレセプションの男に「この国は道路標識が無いんで道に迷うところだったよ」と八つ当たり。でも、この係はさすがイギリス人で、決して気色ばんだりせずに愛想良く客あしらいをする。再び"Sir"という表現をふんだんに浴びて気持ち良くなり、多すぎるほどのチップをやってしまった。ここはイギリスなのだから、と自らに言い聞かせ、見栄を張って丁寧なクイーンズ・イングリッシュを使うように心掛ける。

部屋で荷物を整理したあと、ロビーで先ほどのボーイにコヴェント・ガーデンへ行きたいのだが今何をやっているかプログラムを見てみたい、と尋ねた。すぐにロイヤル・オペラとイングリッシュ・ナショナル・オペラのパンフレットを出して呉れる。「今のシーズン、切符は手に入り難いのかしら」「特にそんなこともないと思いますよ、サー」。このあたりの会話はまるでフィニッシング・スクールの練習みたいに気取ったアクセントを連発したのである。

地図を頼りにコヴェント・ガーデンへ行く。もう今晩の出し物が始まっているのか、入り口は閉ざされたまま。前売り券売り場を探したが、オペラハウスの建物の周りには無いようだ。ポスターを注意深く見ると、フローラル通りのBox Officeで買え、と書いてある。やっとそこを探し当てると、幸い、まだ開いていた。翌日のドニゼッティ「愛の妙薬」の切符を一枚買う。16ポンド。さらに次の日のロイヤル・バレエ「ロミオとジュリエット」の切符も残っていたが、劇場ばかりでなく町の雰囲気を知る時間も欲しいと思って、その晩は開けておいた。夕食はスコットランド料理のレストランに入ってペッパー・ステーキのフルコース。黒胡椒を粒のまま煮込んだソースが掛かっている。それとセロリのサラダを別注文。アルコールとコーヒー付きで約22ポンド。ドイツにいる間は節約第一だったが最終地にいる気楽さで、久しぶりに贅沢なディナーを楽しむ。














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