(130)モノローグ    2010.2.11

いままで比較してきたワーグナー「ワルキューレ」のうち、私が実際に聴いたCDの一覧表をここに示す。ただし既に販売ルートから外れた可能性のものもある。


ここで用いた機器は、CDプレーヤーにTL51X、DAコンバータにModel 2、プリアンプにSV-722(マランツ型)、パワーアンプにSV-501SE、スピーカーにStirling/HE。リスニングルームは12帖の洋間。

それではこの中から最も好きなものを一つだけ選び出すとどうなるか。これは大変だ。あくまで私の耳で判断した場合であるし、しかも現実に存在している録音・配役でなければ意味が無い。夢みたいな配役(それも面白い事は確かだが)は、非現実的である。例えば、キルステン・フラグスタートがロッテ・レーマンと一緒にブルーノ・ワルターの指揮棒で歌う場合を考えると楽しいが、これは適わなかったことだ。可能ではあったとしても、現実はそうなっていないのである。またビルギット・ニルソンがウイルヘルム・フルトヴェングラーの指揮棒で歌う、という時代を跨ぐような想定も無駄である。あくまで現実に存在している録音結果を持って、その範囲内でのみ比較すること、これが使命だと思う。だから、ここで選んだCDも、ひょっとすると幾つか弱点を含んでいるかもしれないのだ。それを承知して選んでみたい。一番のオシはゲオルク・ショルティの指揮した録音だと思う。ビルギット・ニルソンのブリュンヒルデとハンス・ホッターのヴォータンの組み合わせである。これを選ぶとフリッカはクリスタ・ルートヴィヒになるが、実はルートヴィヒより優れたフリッカがあったと私は判断しているから、話はややこしくなる。あくまで全体としての価値判断である。ショルティの嫌いな人にはお勧めしないが、それは当たり前。同様にヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のCDだってあのジークリンデの特別扱いに違和感を持たない人にとってはお勧めの品になると思う。私自身にはその違和感があるから、カラヤン盤は第一の録音にならない。むしろ1953年のクレメンス・クラウス指揮の盤や、1955年のヨゼフ・カイルベルト指揮の盤の方に引かれる。
千葉のF高







(131)モノローグ    2010.2.15  清水和音のピアノ

今から20年以上前のはなしだが、清水和音のコンサートを聴いたことがある。まだ若く、女性に騒がれていた。その清水を最近テレビで(2010年1月14日のN響アワー)で聴く事ができた。曲はおなじみのチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」で、ジョン・アクセルロッドの指揮。清水は相変わらず自信家の風貌だったが、顔もウデも少し太ったようだ。その分、音の透明感とか、切り込みの鋭さがやや奥に引っ込んだ感じ。そもそも指揮者のアクセルロッドと余り対話ができておらず、アクセルロッドもまた悠々たるテンポで、けっして意表を付くようなテンポを聴かせない。清水の音は低音の分解能が良くツタわらず(テレビのせいもあると思う)、流しているように聴こえた。それは清水の前にあった尾高忠明の指揮による若林顕のR.シュトラウスのブルレスケと対比するとよく分かる。両人とも50代近いと聞く。また清水は指を寝かして弾いているようだったが、あれはホロヴィッツ流。いずれも興味深く聴けた。
千葉のF高<







(132)モノローグ    2010.2.20  少し変わった音楽

最近買ったCDに藤澤ノリマサのものがある。TV番組でふと耳にしたので買ってみた。番組のエンディングで歌っていたのだが、余りに広い音域だったので、このひと実はクラシックの出身ではないか、と思ったのである。実はCDにも何も記載してない。それが偶然見つけたある記事に、彼は実は武蔵野音大声楽科の出身で、まだ27歳と記してあった。な〜るほど、と得心。普段の歌声はごく軽めの声で、軽い歌い廻しをこなしているが、2回目のリフレインから突然クラシック唱法に切り替わる。堂々たるオペラ的な歌唱である。そういう箇所は「音楽のすすめ」にも書いた通りだが、いわば「泣き」の箇所である。イタリア・オペラにはこれがつきもの。チョッとした不純物が混じっていると、張りが出たように聴こえる。

朗々と響く声は気持ちが良いのだ。それなら常にそう歌えばいいではないか、と言えそうだが、オペラ的歌唱だけではリスナーが限られると思う。通常の聞き慣れた歌唱法を聴かせておいて、突然喉をギア・チェンジしてオペラ的になる、のが受けたのだと思う。先頭のバッハのカンタータ「人の望みの喜びよ」や、2曲目のヘンデルの「リナルド」の「私を泣かせて下さい」など、本人自身が歌詞を付けた歌が特に印象的だ。本人もそれを戦略と位置付けているようだ。ただこのCDのように15曲も立て続けに聴くと、ややくたびれる。

もし今後、ワーグナーも歌うなら、ジークムント(ワルキューレ)とワルター(ニュルンベルクの名歌手)の一部(全曲でなく)だろうと思う。ジークムントはテノールだが、やや低めの声であり、ワルターは颯爽たる若手の声を求めているからである。あとはタンホイザーの「夕星の歌」(但しバリトン)か。ひょっとすると、ベルリーニ「ノルマ」のカバティーナ「Casta Diva」の部分さえ候補になるかも。あるいはドニゼッティ「愛の妙薬」よりアリア「人知れぬ涙」。ただロッシーニ「セヴィリアの理髪師」のアルマヴィーヴァ伯爵を歌うのはお勧めしない。ああいう軽い声で、声を転がす技術を、藤澤は持っていないように思えたからだ。ゆったりした流れのある歌が本領だと思う。また全曲でなく、特定の歌だけを試みた方が当分は良いのでないかと思う。それも何年も掛かるはずだ。バックに選曲を担当する人がいるはずだから、その人にもエールを送ろう。
千葉のF高







(133)モノローグ    2010.3.23 新たに「椿姫」を比較

この3月までの主題は、ワーグナー「ワルキューレ」の聴き比べだった。本当に久しぶりに今まで集めたCDを立て続けに聴いて、新しい発見もした。それが一応1970年録音のオットー・クレンペラー指揮のCDで終了。今度はイタリア・オペラの番である。イタリア・オペラと言えば個人的に言えば「椿姫」。そのいきさつは「音楽のすすめ」第1章第3話「椿姫は永遠」に記してある。どのオペラが好きですか?と私が聞かれた場合、ワーグナーから選べば「トリスタンとイゾルデ」や「マイスタージンガー」だし、イタリアものだったら「ノルマ」になるだろう。ただし私が最初に観たワーグナーは「ワルキューレ」だったし、最初に聴いたイタリア・オペラは「椿姫」だったから、その意味でこの両曲は別格扱いなのである。そこで次回の新しい年度から「椿姫」を取り上げます!
千葉のF高




昨日1.ベルリンの雨-その11 2010.3.23入力



1984年5月23日(ロンドン)

郷に入っては郷に従えというものの、イギリス流を気取るのも大変だ。朝食のためにはブレザーに色もののネクタイ、それが済んだらラフな半袖のサマー・セーター1枚で外に行き、午後寒くなったら帰ってきて長袖シャツにコートをはおる。そしてディナーのためにはダーク・スーツと白っぽいネクタイにまた着替え直す。朝食のために食堂に降り、イングリッシュ・ブレックファーストを注文。要するにソーセージと目玉焼きである。紅茶はもちろんミルク・ティー(英国ではホワイト・ティーと言うらしい)。汗をかきながらも姿勢を崩さずに食べる。別の日の朝食時、日本人の4人連れを見かけたのだが、中ほどのテーブルにくずれたスタイルで大声を出して食べているものだから同胞として参った。

まだ寒さの残るロンドンの朝に半袖で飛び出し、グリーン・パークへ。そしてセント・ジェームス公園へ。このセント・ジェームス公園から池越しに見るバッキンガム宮殿の姿は実に美しい。そしてこの公園は何と綺麗に手入れがしてあることだろう。僕の時計が大陸のままになっていたので1時間早過ぎた。だがお陰でバッキンガム宮殿の衛兵交代の儀式を、フル・コースで見ることができた。いざ儀式が始まると、それまでヴィクトリア女王の像のあたりに居た観光客が、ウンカのごとく押し寄せてカメラを構える。僕は最前列にいたので視界を遮られず完璧な写真が撮れた。

僕の背後にイタリア人のおばさん達がいて、見えない見えないとブツブツ言ったり、鼻歌を歌ったり。モメンティコ、モメンティコ(ちょっとちょっと)と言いながら強引に前に割り込もうとする。イタリア人はイギリス人ほどソフィスティケートされていない。衛兵はモーツアルト「フィガロの結婚」の「もう飛ぶまいぞこの蝶々」を演奏しながら行進する。幾つものグループに分かれているので、行列の切れ目があるのだが、そういう時に自動車や自転車やバイクが普段通り交通信号に従って往来する。何のことはない、衛兵の行進も一般の交通信号に従ってやっているのだ。観光バスなどは、乗客によく見せようと配慮し、わざとゆっくり宮殿の正門前を徐行する。王室といえども特別の交通規制ではないようだ。

ウェストミンスター寺院へ寄ってみたら、エリザベス1世とメリー・チュードルが並んでいたり、エドワード懺悔王、リチャード2世、メリー・スチュアート、ヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨーク等々、続々と懐かしい名前を見つけて感激する。そして詩人コーナーにあるエリオット、ブロンテ、ブラウニング、そしてシェークスピアとヘンデルその他、数えきれないほどの詩人や音楽家たちの墓。イングランドは国ぐるみ大きなミュージアムだろうか。午後から郊外のハンプトン・コートに行きたかったのだが、時計を見てついに諦めた。代わりにロンドン塔へ向かう。逆賊門やエドワード4世の2人の王子の部屋や、有名なスポットの洪水を目のあたりにする。イギリスは決してみすぼらしくなく、かつキラキラ趣味でもなく、それでいて風格に満ちている。

ロイヤル・オペラに行く前にコヴェント・ガーデンをうろつく。「マイ・フェア・レディ」の舞台だった野菜市場は、今では小ぎれいに整理されたマーケットになっている。近くのレストランでミニ・ステーキの夕食。オペラまで時間がないので急いでくれ、と頼み込んだ。ロイヤル・オペラ・ハウスはロビーも通路も狭いが、ふかふかの絨毯が敷き詰められ、まるで家庭の中みたいなムードを持っている。休憩時間中、人々はチョコレート・ケーキやアイスクリーム、コーヒー、ワイン、シャンパンなどを楽しんで時を過ごす。観客はミュンヘンより質の良いものを着ているようだ。ミュンヘンでは女性は足をともかく隠さなければいけない、という理由でロングスカートを着ている人が多かったが、必ずしも上等の服地やデザインではなかった。ロンドンは違う。本物の黒絹ないし濃い茶絹だ。肩を余り出さず、良い仕立てのイブニング・ドレスを着ている。

今晩の出し物はドニゼッティ「愛の妙薬」で、ゲラント・エヴァンスの引退公演シリーズ。劇場は決して広くないが、十分に豪華であり風格がある。そう、この風格があってintimateなのがイングランドなのだ。ハプスブルク家の宮殿の、これでもか、これでもかといったキラキラした装飾とも、ヴェネツィアのくたびれた巨大趣味とも違い、イングランドは何か人を落ち着かせる。メリー・イングランドとはいみじくも言ったものだ。このオペラ・ハウスは今シーズンのあとは大改修工事に入り、その間ドルリー・レーン劇場に引っ越す、というから、旧館を今のうちに見ることができて良かったと思う。



5月24日(ロンドン)

ピーター・パンの像は、サーペンタイン(蛇形池)が広大なハイド・パークからケンジントン公園に入った所の、池のすぐそばにあった。かたわらのベンチに座って水面を見ていると、本当に水鳥が多い。鳥もリスも全くおじずに餌をねだりに来る。仔犬がアヒルと話したくて尻尾を振りつつほえ続け、ついには水の中に入っていく光景を見て吹き出した。そばの掲示板に「水泳、魚釣り、犬の飛び込み禁止」と書いてあったからだ。そこにサン・グラスをかけた女性と、30代の英国人男性のペアがやってきたが、女性は実は日本人だった。「私は日本人なの」と話し掛けてきて、ピーター・パンの像の脇でカメラのシャッターを押してくれた。どうして写真を撮りたいの?きっと好きなのね、とピーター・パンの像を指して言う。

こののんびりした時間を味わいたかったからこそイングランドに来たのだ。ラウンド・ポンド(丸池)のそばのベンチに腰掛け、向かい岸のケンジントン・パレスを眺める。イングランドは本当に住み易そうだ。たっぷりした空間と公共サービスの良さ。このサービスの重みはGNPなどで量れるものではない。イギリス人はもっと冷たいかと思ったが、決してそんなことはなかった。浪花節でないだけだ。ケンジントン公園の丸池の向かいにマーガレット王女達の住むケンジントン宮殿がある。小規模ながら現役の宮殿で、ステーツ・アパートメントが公開されているので寄ってみた。ヴィクトリア女王がここで生まれ育ち、いろいろな王族が住んだという。昔のまま保存された居間や、100年前からの代々の貴婦人が着たローブが展示されている。例えばグロースター公爵夫人(アリス王女)がジョージ6世の戴冠式に着ていったローブと、同夫人がエリザベス2世の戴冠式に着ていったローブ等が並べて展示してある。こういう現物が展示してあるのはおもしろい。アリス王女はまだ生きているのに(当時)。

途中で変わったガード・マンに会った。突然日本語で話し掛けられたのだ。千葉の木更津にいたことがあるという。赤倉スキー場にも行ったとか、西宮にも行ったとか、日本語が話したくてたまらないらしく、自分の仕事の持ち場を放ったらかしにしてついて来て、あれこれ話しかけてくる。挙げ句は自分の住所と電話番号をメモして、この次にロンドンに来たら必ず電話を呉れ、という。彼が言うにはこの頃の若い人は怠け者で、外国語を学ぼうとしない、自分はドイツ語も少しできます、あなたはどうですか、なんて聞く。Nur wenig と答えたら、にやっと笑う。

今日になって初めてウェストミンスター橋と議会のそばを通り、映画「哀愁」の舞台だったウォータールー橋を渡った。そのまま地下鉄を乗り継いで、セント・ポール寺院へ行く。この寺院の内部を見ていると何となく東方教会の、いやもっと東方のイスラムの匂いがする。ここもそうだし、ケンジントン・パレスもそうだったが、イギリスが落ち着けるわけの一つは、装飾過剰でないことであるような気がする。つまり天井の金飾りは、ドイツ・オーストリアのように金を盛り上げたものではなくて、絵なのだ。陰影をつけて立体的に描いて、いかにもデコボコの装飾があるように見えるが、その実は絵にすぎない。どうせ暗い所だから、それで十分錯覚するのだ。壁面の縁取りは最小限しか無い。

シンプルで嫌味がなく、そのくせみすぼらしくないのは、実に良く手入れがしてあるからと思われる。この手入れの良さはイギリスの特質である。公園にも至る所にベンチ、デッキ・チェアがあり(これはひょっとすると有料かもしれぬ)、全体がすっきりと手入れされている。それに混んでいない。日比谷公園とか上野公園を思い浮かべるといやになってしまう。ニューヨークの公園もロンドンの公園に比べたら雲泥の差だ。

夕方、はじめてオックスフォード・ストリート、ボンド・ストリートといったショッピング街を歩いてみた。HMVという有名なレコード店を捜すためである。アイスクリームを舐めながらオックスフォード・ストリートを散歩。イギリスのどこが斜陽なのだろう。斜陽の反対の隆盛とはいったい何であろう、といろいろ考えさせられた。

フランクフルトで発見した旅行鞄の鍵の故障はそのままだった。結局、鞄のサイド・ポケットの内側をカッターで切り開き、そこから内容物を出し入れして使ってきた。ベルリンでもウィーンでも鞄は買わなかった。ヴェネツィアは革の本場とは言え、懐が心配で買えなかった。でも、ロンドンまで来ればもう大丈夫。先が見えているから、思い切って上等の旅行鞄を買うことにした。ピカデリーで最も有名な鞄専門店に入ったら、年配の大変人あたりのいい店員が、次々と商品を見せてくれた。大きさと重さの両方の点で条件があるから、なかなか決まらない。

「100ポンドでは高すぎると思いますか、サー?」と店員は聞く。当店ではアメックスを使えますよ、とも言う。彼は西ドイツ製のをベストと考えているようだが、素材に不安を見せたら、いやこれはナイロンを材料にしたもので防水も十分です、と言う。僕は「それは頑丈とは言えフレームがやや重たい。それに西ドイツの輸入品では割高ではないの?」と聞くと、同じEC加盟国だから不利な関税はかかっていないと言う。でも結局、もう少し軽い英国製のを選んだ。値段は95ポンドで余り変わらない。

ホテルに持って帰ると、レセプションのボーイがチラと見て65ポンドぐらいですかと冗談を言う。ピカデリー・サーカスのバーゲン・セールだと30ポンドからある。買い物は今日のうちにしないと明日は週末だから、と思い再度ピカデリーに出て、有名なフォートナム・アンド・メイソンの店へ。この店は看板が出ていないので路上を歩いていても、うっかりすると通り過ぎてしまう。お客よりボーイ達の方が立派な格好をしている。皆フロック・コートを着ているのだ。

レコード店のHMVではアニタ・チェルクェッティのアリア集と、レナード・ワーレンのアリア集を一枚ずつ買った。後者は戦後日本に初めて輸入されたLPだと言う。ワーレンなんてバリトンはどうでも良かったのだが「シモン・ボッカネグラ」の2重唱で付き合っているアストリード・ヴァルナイが魅力だった。



1984年5月25日(ロンドン/アンカレッジ/成田)

ヒースロー空港の第1ターミナルは狭い。全体としては大きなこの空港も、個々のターミナルのチェックイン・カウンタ・ロビーは成田の半分ぐらいに見える。よそ見をしていると人とぶつかる。だからこそ、ヒースロー空港はスリが多い、危険だ、という風評が立つのだろう。これだけ混んでいればスリも商売になるだろうさ。

チェックイン後、免税店に入り職場用のお土産にアンティクォリーとグレンフィディック、スウィングを買う。出発ロビーにはぎりぎりで到着。実は税関関税の問題と、手荷物の重量制限の問題の両方のため、昨夜来頭を悩ましていた。どうしていつもこう取り越し苦労するのだろう。実際は税関も重量も問題なく、「次の時はこうするように」と笑顔で言われただけだった。英国人は実際的なんだ。重量なんかチラと横目で見ただけで、見間違えたようにOKを出してしまう。体重のことを考えれば10kgや20kgの差は問題外なのは当たり前だが、さり気なく気を利かせてしまうのが、彼らのやり方である。実際はあの鞄は26kgあったんだ。

こんどこそ本当に全てをクリアした。あとは出発を待つだけ。スモーク・サーモンのサンドイッチとオレンジ・ジュース、コーヒーを大急ぎで口に放り込む。飛行機の中のお隣はニュージーランド人の家族3人連れ。ニュージーランドの公務員で応用数学・気象学者だという。これから東京へ立ち寄って、三菱のヒトと会って帰るのだという。T夫人が声楽好きで自ら歌い、16歳の息子はヴァイオリンを習っているという。聞けば一昨夜コヴェント・ガーデンで同じオペラを観たらしい。

まだ離陸もしないうちから1時間も喋り続けてしまった。T夫人がお喋りなのだ。その御説によれば、僕の英語はドイツ人と話す時の英語並みだという。彼女はドイツ語も少しできるという。ただボキャブラリーが少ないので、話題が制約されると言っていた。言語は財産だと思う。今、飛行機は北極圏の上空を飛んでいる。

16歳の男の子は豪州なまり丸出し。オーストラリア人の"A"の発音が特殊であることは知っていたが、ニュージーランドでも同様だとは知らなかった。少年が妙なアクセントで話す度に、T夫人が乗り出してきて通訳する。この奥様は放っておくとしゃべり続ける。少年がゲーム・ウォッチに夢中になっているので、そういうの好きか、と聞いたところ、T夫人が誕生日に買ってやったのだと言う。20ポンドもしたそうだ。日本なら3ポンドからあるし、スーパーの景品になるくらいだと言ったら、是非売っている所を教えて欲しいという。秋葉原の地図を買いてあげたが、大きな店構えのところではなく、小さい店を狙え、と付け加えておいた。



5月26日(成田)

T夫人はニュージーランド料理として、生イカをキューイでマリネに作る方法を教えてくれる。イカを食べること自体が珍しいと思うのに、生のイカを彼らが食べるとは驚きだ(さっそくあとで自宅で作って食べてみた)。ついでにキューイ・フルーツと鳥のキューイの関係を問いただしておいた。肉も安いから是非ニュージーランドへいらっしゃいと言われる。機内上映映画はおりしも「ウォー・ゲーム」。マイコン好きは世界中にいるようだ。もっとも僕だって自宅に一台欲しいと思っている。手持ちのポンドを使うため、せっせと飲み物を注文した。食前にはシェリーを飲み、食中はワインを。メイン・ディッシュはきっと肉だと予想して赤ワインを注文したら出てきたのはトリ。次の時は白ワインにしたら今度は肉を出された。「 逆だったわね」とT夫人は笑う。成田の税関はフリーパス。家族と再会。






これで「ベルリンの雨」は終り。次回から「ジャカルタの雨」を連載します。昔IAXAの資金でジャカルタで過ごした2ヶ月間(1988年10〜11月と、1990年7〜8月)のうち、最初に行った時の日記をご紹介したいと思います。














<<Appendix 雑記帳トップへ戻る