オペラ「椿姫」の話(その5)
「椿姫」の比較 第5回
IV.<第2幕フローラの舞踏会の比較>

今度は舞踏会の場面になります。これはドラマ進行というより、むしろ伝統的なバレエを楽しむ箇所です。バレエは19世紀の欧州劇場では最大の関心事でしたし、ヴェルディやワーグナーの時代でも同様でした。これが無いと、客を上手く呼べないという読みも!もちろんヴィオレッタとアルフレードがこの舞踏会で再会しますから、重要には違いなく、また最後の場面などは切々としていて、聴くものの心を奪います。私はむしろ、ここに突然登場するジェルモンに不思議な感じを持ちます。ジェルモンは田舎紳士だと申しましたが、フローラという妖し気な商売(帽子屋)をやっている女の主催する舞踏会にジェルモンが現れたのは何故でしょう。もう一つ気になるのは、画像付きの「椿姫」の中の、ヴィオレッタ主催の舞踏会場と、フローラ主催の舞踏会場が同じ建物の同じ場所で撮影されたものではないか、という点です。

(1)
1928年盤:ヴィオレッタはメルセデス・カプシール、アルフレードがリオネルロ・チェチル、ジェルモンがカルロ・ガレッフィ、ロレンツィオ・モラヨーリ指揮のミラノ交響楽団。全体の印象は第1幕と同じ。指揮者は自在にテンポを伸ばしたり縮めたりしている。カプシールはあらゆる音域で十分な声を出していますが、やはり古い人だなあ、というところ。アルフレードは脳天気丸出し。いずれも各キャラクタを充分に出していないようです。ジェルモンの声は少し若すぎるかも知れない。なおカプシールは、最後の音を「三点ハ」(五線譜の上に補助線3本)で終えています。

(2)
1935年盤:ヴィオレッタはローザ・ポンセル、フレデリック・ヤーゲルのアルフレード、ローレンス・ティベットのジェルモン、エットーレ・パニッツア指揮のメットの実況録音。凄まじい雑音の山でしたが、それに慣れると今度は指揮者がぐいぐいと押して行く力強さに眼を見張りました。闘牛士の合唱にみられるテンポの確かさ、そしてポンセルがヤーゲル(アルフレード役)の仕打ちに耐える時のうめきが素晴らしい。このテンポを考えると、やはり実況録音はこうでなければ、と増々確信しました。終わり方は楽譜通り。余りに雑音が多いので断言できないのですが、一応最後のシーンではポンセルは音を弱く押さえているのが分かります。

(3)
1946年盤:ヴィオレッタはリチア・アルバネーゼ、アルフレードはジャン・ピアース、ジェルモンはロバート・メリル、そしてアルトウーロ・トスカニーニ指揮のNBC交響楽団。ぐっと歯切れが良い音に切り替わりますが、其の分歌手達の非力がよく分かります。ピアースは歳を取っているようだし、アルバネーゼの歌は平板です。つまり二人共、原作者が想定した年齢の2倍の45歳程度に聞こえます。調子のよい合唱の合間にトスカニーニの歌声が聴こえた気がしますが?また最後のシーンで特に音を小さく押さえるということはしていません。しかし、この録音はテンポがハッキリしているし、指揮者が何を要求しているかが良く伝わります。もちろん楽譜通りですから、最後の跳ね上げはありません。

(4)
1952年盤:ヴィオレッタはレナータ・テバルディ、アルフレードはジャチント・プランデルリ、ジーノ・オランディーノのジェルモン、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮のイタリア放送管弦楽団。プランデルリに余り魅力がありません。テバルディと対比すると、ヴィオレッタの方が少し年上かな、と思わせます。それでも幕切れ近くで後悔の念に襲われたアルフレードの歌は真実味がありました。テバルディはそこではごくごく押さえた声で歌います。最後の跳ね上げはありません。

(5)
1953年盤:ヴィオレッタはマリア・カラス、アルフレードはフランチェスコ・アルバネーゼ、ウーゴ・サヴァレーゼのジェルモン、ガブリエーレ・サンティーニ指揮のトリノ・放送管弦楽団。サンティーニの指揮は凡庸。最初のエデ・マリエッティ=ガンドルフォのフローラの発声がキャンキャンしているのには驚かされます。アルバネーゼの歌の大半はウットリするテノールの歌い回しですが、ヴィオレッタに札束を投げつける場面では、あと一歩の熱情を感じさせて欲しい。サヴァレーゼのジェルモンは適役。カラスのヴィオレッタですが、時折ハッとするようなテンポの揺れ(アクセントが付く)があり、最後の場面は素晴らしいものの、前出のテバルディを圧倒するほどではありません。カラスは後出の1955年盤と比較すると、何といってもこれはスタジオ録音なのだ、と思いました。つまりスタジオ録音の方がSN 比が良く、弱声がより良く聴こえるのです。

(6)
1954年盤:ヴィオレッタはレナータ・テバルディ、アルフレードはジャンニ・ポッジ、ジェルモンはアルド・プロッティ、モリナーリ・プラデルリ指揮のローマ・サンタ・チェチェーリア音楽院管弦楽団。プラデルリの指揮は可も不可もなし。冒頭のフローラはここまでで最もまともに聴こえました。ポッジはイタリアのテノールらしく響きますが、テバルディは「アルフレードは私のメモを見たかしら」という場面では少し強すぎます。その代わり最終場ではしんみりと聴かせます。ただしカラスと比較すると、もう少し声を弱めてはどうかと思う次第。

(7)
1955年盤:ヴィオレッタはマリア・カラス、アルフレードはジュゼッペ・ディ・ステーファノ、エットーレ・バスティアニーニのジェルモン、カルロ・アンナ・ジュリーニ指揮の1955年スカラ座実況録音。踊りや合唱の部分で特に音の悪さが気になりました。ディ・ステーファノのイタリア人テノールの歌声にしびれます。カラスは最初の対決の場面では強く、後半ではしんみり歌っているのが分かります。賭け金の札束をヴィオレッタに投げつける場面では周辺がざわざわしますが、これはこの場面を作り上げたコンビ(カラスとディ・ステーファノ)に対する聴衆からの賛美の声に違いなく、その現場に立ち会えなかったのが残念です。最後の跳ね上げはありません。同じ第2幕でも、その直前までの箇所におけるカラスの素晴らしさを、この舞踏会では余り感じなかったのが現実です。ひとつの理由としては余りに録音が悪かったことが上げられます(私のはPAL盤)。

(8)
1956年盤:レナータ・テバルディのヴィオレッタ、ニコラ・フィランキュリディのアルフレード、ウーゴ・サヴァレーゼのジェルモン、トリオ・セラフィンの指揮するフィレンツェ市立歌劇場管弦楽団。これは、僅かな部分しか録音されておりません。聴ける限りで批評をしますと、テバルディはやはり声を弱めにし、それで魅力的に歌っています。他のキャストは弱い。

(9)
1957年盤:ヴィオレッタはアントニエッタ・ステルラ、アルフレードはジュゼッペ・ディ・ステーファノ、トリオ・セラフィン指揮のスカラ座管弦楽団。セラフィンの指揮は素晴らしいと思います。そういうことは最後まで聴いて、初めて分かりました。合唱は、まるでミラノ・スカラ座の実力を見せつけるような、見事に統制の効いたものでした。ディ・ステーファノは思い切り素晴らしいテノールですし、ゴッビの歌うジェルモンも適役!そしてステルラの歌に伊藤京子さんの言った「文学的なヴィオレッタ」の片鱗が感じられます。ただ、すこし声が大きいかな。楽譜通りの終曲でした。

(10)
1957年盤:ヴィオレッタはレナータ・テバルディ、アルフレードがジュゼッペ・カンポーラ、ジェルモンがレナート・ウオーレン、ファウスト・クレーヴァ指揮のメトロポリタン歌劇場管弦楽団。メットの実況録音。クレーヴァの指揮振りが速く、それなりに快適です。踊りの場面では雑音がうるさく騒いでいるのが伝わって来ます。カンポーラのアルフレード、ウオーレンのジェルモンも適役。テバルディは声が強く、リリコの領域より、リリコ・スピントの領域で歌っています。そのためアルフレードを諭す場面はまるで弟を諭す姉みたいに聴こえるし、最後のシーンでは音を弱めて歌っているものの、やはり姉が歌う様です。それでもオペラというより純粋に声楽として聴くなら、聴き所はあります。

(11)
1958年盤:ヴィオレッタはマリア・カラス、アルフレードはアルフレード・クラウス、マリオ・セレーニのジェルモン、フランコ・ギオーネ指揮のリスボン・サン・カルロ歌劇場管弦楽団。サン・カルロ劇場の合唱団(男性)はまるで魚河岸で働く男達みたいに響きます。クラウスのアルフレードは尤もらしく響き、特にジェルモンに諭されてからは見事な変身でした。ただ、札束を投げつける時の激情ぶりは見られません。カラスはゆったりとしたテンポを揺らしながら歌い、特に最後のシーンではこれ以上弱められない程の弱々しいソプラノで歌います。これを聴くと他のヴィオレッタ達は健康だなあ、という感じ。素晴らしい。最後は楽譜通りになっています。

(12)
1958年盤:ヴィオレッタはマリア・カラス、アルフレードはチェーザレ・ヴァレッティ、ジェルモンはマリオ・ザナーシ、ニコラ・レッシーニョ指揮のロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場管弦楽団。合唱団はリスボンよりロンドンの方が上手いと思います。ただロンドンでは舞踏会を進めるフローラの声がおばあさん声。チェーザレ・ヴァレッティは声が弱いので、それほど印象が残りません。マリオ・ザナーシのジェルモンも同様。カラスのヴィオレッタですが、基本的に前回のリスボンと同様なのですが、前回の方が声は伸びていました。ここでは余り伸びが感じられません。最後の跳ね上げはなし。

(13)
1958年盤:ヴィオレッタはヴィクトリア・デ・ロスアンヘレス、アルフレードはカルロ・デル・モンテ、ジェルモンはマリオ・セレーニ、トリオ・セラフィン指揮のローマ歌劇場管弦楽団。このアルフレードは歳を取りすぎている感じ。ジェルモンも力が弱い。そしてロスアンヘレスのヴィオレッタもやや年上という感じがします。最後のシーンは弱く力を抜いて発声していますが、それはテバルディの57年メトロポリタン劇場版と同様な感じでした。最後のシーンでの跳ね上げはありません。

(14)
1960年盤:ヴィオレッタはアンナ・モッフォ、アルフレードはリチャード・タッカー、ロバート・メリルのジェルモン、フェルンド・プレヴィターリ指揮のローマ国立歌劇場管弦楽団。プレヴィターリの棒は早い。タッカーの声は相変わらず、歳を取った感じですが、後悔の念に苛まれているのは良く分ります。メリルのジェルモンも立派。モッフォも、最後のシーンでは声を潜め、しんみり歌い出します。いつもこうなら良いのですが。

(15)
1963年盤:ヴィオレッタはジョーン・サザーランド、アルフレードはカルロ・ベルゴンツイ、ロバート・メリルのジェルモン、ジョン・プリッチャード指揮のフィレンツエ五月祭管弦楽団。やっと現代的なオーディオ機器の鑑賞に堪える録音に出会ったというところ。しかしベルゴンツイの歌を聴いていると、まるで声楽のお手本を示して貰っているようです。決して良い意味ではありません。どこを取っても、若さ故の無謀さ、激情、無鉄砲さとは無縁の歌でした。ウソっぽいのです。メリルは相変わらず素晴らしい。サザーランドは当初はがっかりするような歌唱でした(ほんのチョッと遅れた発声)が、最後のシーンで声を潜めて歌い出した声には感心しました。そして最後の跳ね上げはあるのか、無いのか、気になったので数回繰り返して聴いてみましたが、私のオーディオ機器ではあるような、無いような、という所。これは問い合わせてみないと分かりません。

(16)
1968年盤:ヴィオレッタはピラール・ローレンガー、アルフレードはジャコモ・アラガル、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカーウのジェルモン、ロリン・マゼール指揮のベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団。まずマゼールの指揮が早い!しかも、それが一貫していないような気がします。最初の侯爵やフローラの場面でゆっくりと指揮していますが、その揺れが何故生じたのか分りません。アラガルはここでは余り余裕を持って聴こえません。激情に駆られるシーンでもそれほど?と尋ねたくなります。ローレンガーは巧みに歌っており、そのヴィブラートも殆ど気になりませんでした。こういう早いテンポも支持されるだろうと思います。最後のシーンの弱声は、カラスのリスボン盤、サザーランドのプリッチャード盤と並びます。最後のフレーズで跳ね上げはありません。

(17)
1971年盤:ヴィオレッタはビヴァリー・シルズ、アルフレードはニコライ・ゲッタ、ローランド・パネライのジェルモン、アルド・チッコリーニ指揮のロイヤル・フィルハーモニック管弦楽団。1970年代初めに録音されたこれを聴くとチッコリーニという指揮者が尤もらしい指揮者だったことを知らされます。その代わり、ゲッダはまだ青い(青いと言っても若々しさに欠けていて、中年期に入った者が必死で若作りしているよう)。その代わり後悔する場面では、一瞬ですが、その誠実さが伺えます。パネライは声から判断すればまずまず。シルズは全体として、申し分なく歌っていますが、最後のシーンではもう少し声を弱めた方が印象的だと感じました。ここではヴィオレッタの心情は良く伝わってきます。最後の跳ね上げはありません。

(18)
1976年盤:ヴィオレッタはイレアーナ・コトルバス、アルフレードはプラチド・ドミンゴ、シェリル・ミルンズのジェルモン、カルロス・クライバー指揮のバイエルン国立歌劇場管弦楽団。ドミンゴやミルンズがどう歌っているかはどうでも良く、コトルバスのヴィオレッタ役に同情するかどうか、に全てが掛かっております。私の場合、ながらくコトルバスには懐疑的でした。それがこの第2幕を聴くと素晴らしいと思えるようになりました(つまり従来は第1幕で判断していたことを意味します)。最後のシーンの所でしんみりと歌い出すコトルバスは、思い切り弱い声で切々と訴えて来ます。その真実さは、従来のカラス、サザーランド、ローレンガーのそれをある意味では越えます。最終音の跳ね上げはありません。

(19)
1982年盤:ヴィオレッタはレナータ・スコット、アルフレードはアルフレード・クラウス、レナート・ブルゾンのジェルモン、リッカルド・ムーティ指揮のフィルハーモニア管弦楽団。さすがムーティの指揮。全体をうまくまとめています。最初の侯爵の声がちょっと貧相だなあ、と細かいことを言うのは止めましょう。クラウスのアルフレード役もここでは上手く青二才ぶりを出しています。ブルゾンのジェルモンも適役。そしてスコットのヴィオレッタはたるんだ頬を感じさせ、やや年上のイメージですが、各場面に相応しい。最後のシーンでは弱めた声が美しい。全体としてこのCDはお勧めだな、と思いました。最後の跳ね上げは無し。

(20)
1990年盤:ヴィオレッタはルチア・アリベルティ、アルフレードはペーター・ドヴォルスキー、レナート・ブルゾンのジェルモン、ロベルト・パテルノストラ指揮の東京交響楽団。指揮者に問題がありそうです。全体に時折、理由の分からないテンポの揺れが感じられます。ドヴォルスキーはかなり青臭く、特に札束を投げつける場面でそれが言えますが、それでも後悔の念に捕われるところは尤もらしく聴こえます。ブルゾンのジェルモンはここでは余り乗っておらず、ヤットコサ歌っている感じ。また太鼓が執拗に聴こえるのはいかなものか、と思いました。肝心のアリベルティですが、個々の箇所では尤もらしいのですが、全体の流れとして聴くとあと一歩、という感じです。最後の跳ね上げは無し。

(21)
1992年盤:ヴィオレッタはキリ・テ・カナワ、アルフレードがアルフレード・クラウス、ディミトリ・ホロストフスキーのジェルモン、ズービン・メータ指揮のフィレンツエ五月祭管弦楽団。ここでのメータの指揮ぶりは良いと思います。クラウスのアルフレード役は残念ながら既に声を使い果たした中年以降の声でした。一方、テ・カナワのヴィオレッタは、ここではむしろ適役だと感じました。以前は「ダメ」に近い評価でしたが、それは第1幕や第2幕前半の激しい情熱が感じられなかったため。ここではひたすらアルフレードをなだめようという姿勢が感じられます。どんなオペラでも、全曲を録音する場合は、十全の準備をするものですから必ずセールス・ポイントがあるはずですが、なるほどキリ・テ・カナワはこの場がセールス・ポイントだったのか、と納得が行きました。最後の跳ね上げは無し。

(22)
参考までにここに画像付きのものを紹介します。1982年盤:ヴィオレッタはテレサ・ストラータス、アルフレードはプラチド・ドミンゴ、ジェームズ・レヴァイン指揮のメトロポリタン歌劇場管弦楽団。これは先頭にも書きましたが、繋ぎに相当する場面。楽しくも美しいスペイン舞踊を観れるのですから、楽しみましょう。このフローラの舞踏会の場面で使用された建物が少々美し過ぎるのと、壮大な規模を誇っているのが気になります。当時、このような舞踏会には誰でも出られたのでしょうか。小説「椿姫」でも、歌劇「椿姫」でも、その説明がもう少し欲しいところ。








(146)モノローグ  青柳いずみこの本について  2010.7.5

今年の父の日に娘からプレゼントされたピアノに関するエッセイ「ピアニストは指先で考える」(青柳いづみこ、中央公論社)を読みました。この中で印象的だったのは、ピアノ曲を新たに覚えるやり方のところ。新しいピアノ曲を何月何日までに覚えなければならない時、リヒテルは少しずつ、例えば1ページずつ、繰り返して覚えるそうです。ただし、リヒテル自身が言うには、あまり良い方法ではない、ということ。実際、ピアノの流れが大切なのにそういう細切れの覚え方では身に付かないし、さらにテンポをゆっくりさせて覚えるのも、全体のイメージを損なうに違いないと書かれています。ギクッ。私なぞは細かく分けて少しずつ6ヶ月くらいかけて覚えますが、それが欠点のある方法だということはウスウス感じていました。やはりなあ。
千葉のF高





  ジャカルタの雨
1988年9-10月 IAXA派遣でインドネシアへ行く(その5)



1988年10月6日(木)

昼食をImo夫人を加えた4人でとって色々な話をする。彼らはいろいろな副業を持っていて、要するに生活費のために公務員として働いているわけではないらしい。大きな薬屋をやっていたり、バスを持っていたりする金持ちで、Imo夫人などは10人もの子供がいて全員アメリカに留学させているという。そしてインドネシアでは日本円にして年収約800万以下の公務員は税金を払わなくてもいいのだそうである。また管理職の場合は借用している宿舎がいずれ自分の物になるという。自動車が日本の2倍もするのだが、5年間の分割払いが普通で、利子は20%ぐらいだという。例えば180万円相当の車を買う時は国家が50万円分補助してくれ、残りを月々返すという。随分優遇された公務員だと思う。ただし月収の額面は数万円に過ぎないのに毎月その3分の1を車の月賦に持って行かれるのは大きい。国家の補助額はその人の地位によって異なり、上位の者ほど補助が多いという。

これを日本について考えると、それぞれの職種の給料が仕事内容と等価かどうか、という点だけ問題だろう。僕は「賃金は労働の対価である」という古典的な表現が好きだ。なかなか契約社会が実現しない民間の反感を買いやすい等の事情もあり、いわゆるサービス残業などのタダ働きを受け入れるか拒否するか、という労働観も問われ、大きな問題がからんでくるだろう。

ARN計測は11日に行うことになった。従ってその講義は10日にやることになったので、準備のピッチをあげなくてはならない。Knoは朝からBXXN本部会議に行っていたが、夕方戻ってきた。僕が17日にバンドン工科大学で講演すること、その長さは2時間ぐらいだということを告げられた。このBXXNの部長であるSwn氏(Knoの上司)はバンドン工科大学の物理学教室教授を兼ねており、その筋から今回の招待があったと言う。バンドンまで車で4時間かかるので、朝6時には出発しなければならない。講演の相手は物理学専攻の人達だということを念頭に置いて、適当なテーマを幾つか(予備を含めて)用意しておいてくれ、と言われた。



1988年10月7日(金)

相変わらずの雨模様。早朝の僅かな時間も惜しんで来週の講義の準備をする。今日は珍しく運転手が先に来てロビーで待っていた。Knoとバンドンで行う講演の題目について議論。またバンドン工科大学訪問旅行のついでに訪れるBXXNのバンドン研究所、ショクジャカルタにあるもうひとつのBXXN研究所での講演についても題名と内容も決めた。3泊4日の小旅行の間に3つの講演をやるわけだ。僕にとっては大変いい訓練になるが、同時に大変なことを引受けちゃったなという気もする。度胸をつけるいい機会ではある。

昼食時に日本のXXX機構から手紙が届く。ある意味でXXX機構は嵐の中にあるようだ。機構改革を迫られているため、廃部・統合・人事等でさまざまな揉め事があるらしい。

午後はGrpDの講義をする。今日の講義は早く済んだので化学実験室へ行って1時間もおしゃべりをして過ごす。もう残りの日数が少なくなったから、少しでも接触時間を作るためだ。夕刻にKnoの部屋の僕の机に戻ったら、お菓子が置いてある。Imo夫人の差し入れだという。ロール・ケーキと押し寿司みたいなものだった。

ホテルに戻るとメッセージが届いていて、当ホテルのクレジットは30万ルピアまでだが、貴方の料金は既にそれをオーバーしているので支払われたし、などと書いてある。つまり、3日か4日ごとにホテル代を小分けして支払わないといけなかったらしい。面倒なシステムだと思ったが、15日分、103万ルピアを現金で払った。初めからアメックス・カードにしておけば良かったかも知れないが、UNXP割引を効かすためかBXXNは現金払いを勧めたのだ。ついでにレセプション嬢と、バリ島行きの切符は、月曜の午後16時半にエージェントに持って来て貰うことを打ち合わせた。ホテル代は予想より15%安く済みそうだ。




1988年10月8日(土)休み

9時ごろから延々とタムリン通りを北に歩いて国立博物館へ行く。有名なジャワ原人の頭骸骨を見るためだ。バスを使えば楽なのだろうが、Knoはバスには乗るなと言っていた。以前にオーストラリア人のIAXAエキスパートが来た時に、バスに乗ったらカメラを脅し取られたとかいうので、気にしているようだ。タクシーか、歩くしか無いが、どうせ3kmちょっとだから歩くことにした。この種の話はニューヨークで地下鉄に乗るなというのと同じ類いかも知れない。足には自信があるが、ともかく道中が暑い。あちこちにペチャと呼ばれる輪タクが、客待ち顔で何台も留まっていた。もっとも全く客引きはしないし、そもそも余り働こうという気迫も見られない。

道路ぞいにはワルンと呼ばれる屋台が沢山出ていて、野菜いためや揚げ豆腐(インドネシア語でタフという)を作っていたり、沸騰したようなコーラや紅茶入りの瓶を売っている。ここの紅茶はちょっと見たところではコカ・コーラの瓶そっくり。中身はかなり甘く、ほんの少しエキゾチックな香料を感じる。タバコ売りの少年たちは駅弁売りみたいに箱を首に掛けている。ジャカルタの子供達は身ぎれいな格好で学校に通う者がいる一方で、朝から新聞や雑誌を売って働いている者も多い。車が交通ラッシュで止まるたびにさっと物売り達が取り囲み、新聞やタバコなどを勧める。戦後まもない頃の上野駅周辺を思わせる。ただ、ジャカルタのはしつこく無く、淡泊だ。中にはまだ4才か5才と見える幼児を含んだ兄弟たちを率いた10才ぐらいの少女が、生活のために皆を指図して働いているのもいる。大変たくましい。博物館へ向かう途中、物売り以外の通行人にも時々日本語で声を掛けられるが、どうしたらいいものか迷う。

博物館の入場料はたったの50ルピア(約5円)。あいにく小銭は全部ホテルに置いてきてしまった。1000ルピア札を出したらブツブツ言われ、汚れた札束のおつりをくれた。小規模な博物館でニューヨークで言えばクロイスター程度か。修学旅行の高校生とか小学生がワンサといて熱心にノートをとっている。こういう風景は万国共通。あとで見たバンドンの博物館でもそうだったが、インドネシアの高校生は現在の日本の高校生よりもずっと真面目だ。

途中でくたびれてスマトラ展示室のベンチに腰を掛けていたら、うしろに居た学生風の男が英語で話しかけてきた。コンピュータを専攻する学生だが、今日の午後に試験があるので、午前中だけここで過ごすのだと言う。かなり慣々しい。ドイツ語とフランス語もペラペラだったが、かえってうさんくさい。ピテカントロプスの頭骸骨や宗・明の古い陶器等を見て回る間中、そばについて来たが、途中で女の子達のグループと出喰わすと、ペラペラと同じようにフランス語をしゃべっていた。僕に向かい、テベット地区にある自分の家に来ないかとか、僕のホテルに電話してもいいかなどと聞いてくる。コンピュータの話も上滑りの知識を動員しているのではないかと思う節があるし、直感的に警戒心を起こしてしまった。あれが本当に学生だったら、いい知偶だったと思うのだが。

彼がいなくなった後で、中庭の仏像群をじっくり眺めていたら今度は年輩の男が寄ってきて、あなたは古美術の収集家かと尋く。もしそうなら自分の所に沢山の美術品がある、敷物とか家具とか石像とか売ってあげられる、などと言う。何のことはない、客引きだ。やっぱり色々な人間がいるから気を付けなければ。帰国後に日本の新聞を見たら、この博物館に展示してあった古い陶器類が大量に盗まれたという。

今晩はKno家の夕食に招待されていた。夕方Knoが迎えにきたのでIti夫人のためにホテルのケーキを10個買う。Kno夫妻の宿舎は市内中央部から約15km南東のパサールミング(日曜市場という意味)にある。平屋一戸建てのBXXN職員宿舎が何軒も並んでいるが、いずれも幹部用住宅だと言う。こことBXXNを結ぶ道路あたりに日本語学校とインターナショナル・スクールがあるらしい。家の前にはテニスコートがあった。部屋の中にはKnoがパリで仕入れた絵とか、ドイツやイギリスで買った壁飾りなどの戦利品が一杯に飾り立てられていた。やはり公務員宿舎だから全体に安普請だが、家具の感じから,ここではかなり上等な生活にあたるのだと思う。米国のCの家などと比べれば問題にならないとしても、千葉の我が家と比べればずっと立派。裏庭には仔犬3匹とインコ1羽が飼われていて、前庭にはランプーチンの実が沢山なっている。床は石造りで、上等そうなセクション・カーペットが敷かれている。また、昼寝にうってつけと思われる立派な布貼りのカウチも置いてある。ちょうどAto君が風呂から上がった所だった。ちなみにインドネシアの風呂は一般に湯を使わず(ホテルは別)、その代わり1日に何度も水をかぶる。

車が止まると若い女の子がでてきたので、家族かと尋ねたらIti夫人のための住込みの女中だと言う。Knoは彼女を家族のように遇していると言うが、夫人の言葉をそのままに言えばservantだという。Ant君のベビー・シッターみたいなものらしい。シャンパンと練り菓子が用意されていたが、おそらく大変な接待だと思う。彼らの結婚式その他の写真アルバムもみせてくれたが、彼らがインドネシアの代表的なインテリ階層に属しているということが察せられた。Knoはバンドン出身だがItiさんは東ジャワ出身で、夫人は親族でただ一人大学を卒業したという。その記念写真の晴々しいこと。Kno自身はイギリスのリーズ大学で修士をとっている。イギリスやフランスに出かける際の、親族一同そろった見送り写真はまるでローマに向かうハンニバル将軍だ。その代わり、帰りのお土産は大変だったと白状した。やはりインドネシアでも外国に行くのは大変なことに違いない。Knoが自信に満ちていることは以前からわかっていたが、Iti夫人はあくまでつつましい主婦のように見える。Knoはメイドさんに英語で指図したり(何も通じていないが)、TVのリモコンを操作してバイリンガル装置であることを証明して見せたりで忙しい。

インドネシア料理はなかなかいける。マトンのサテ(串刺しの焼き肉。トリを使った場合はサテ・アヤムと言って焼き鳥と同じ。サテとはソテーにあたるか)をはじめ、おっかなびっくり食べ始めたが、見た目と違って大変おいしい。ナシ・ゴレン(インドネシア風のチャーハン)とかガド・ガド(ピーナッツ・ソースをかけたサラダ)、インドネシア風のスープなど、いずれもおいしく食べた。アイスクリームはいかが、と聞かれたのでそれも食べる。おそらくアイスクリームを家庭で食べるのは凄いことに違いない。それとコーヒー。

帰りにKnoに車で送って貰う途中は、週末の映画がはねた直後らしく、道路は人波でごった返していた。インドネシアは確かにイスラム圏内にあり、国民の90%は回教徒だが、必ずしも皆が古めかしいわけではない。コーランを読むために少しはアラビア語も習うそうだが、実用にはならないという。間違いなくこの国も西洋化してくると思う。Knoは突然アンチョール・ビーチへ行ってみようと言い出す。ディズニーランドみたいなものだが、深夜なのに多くの車やオートバイが盛んに行き来している。まるで開放的なカリフォルニアのサタデーナイト・フィーバーの感じと言えばわかるだろうか。実際ジャカルタ市には地下鉄とかの公共サービスは無く、そういうものを建設する予定もないと言うから、車に頼るしかない。後のことを考えれば、今のうちに手を打っておいた方が賢いと思うけれども、経済的余裕が無いと言う。いずれ人口激増の圧力で、のっぴきならぬ事態になるだろう。日本の対インドネシア援助もまず地下鉄建設をやっては?




1988年10月9日(日)休み

パサール・バルーに行ってみる。浅草みたいな大衆的な市場の集まった地区。そこまでの道のりの何と遠いこと。炎天下を歩くのも大変だ。途中で、あたりを気にしながらジャカルタ市内の写真を幾つか撮った。なかなかカメラを向け難い雰囲気がある。写真を撮っては失礼になるかもしれないと思うからだ。さりげなく、ひと気のない機会を狙ってシャッターを押すのみ。商店の人々は店先のベンチに半アグラをかいたまま、ぼうっと何時間でも過ごす。Knoにも言ったのだが、日本人は色々なことを連続技でこなすし、もし空いた時間があれば本を読むなり、新聞に目を通すなり、または草むしりでも、ペンキ塗りでも、何かをやっていないと気が済まない性癖がある。本当に何もしないで座っているだけ、というのは考えがたい。暇だから本を読む、暇だからケーキを焼く、ということになるのだが、インドネシアの人々にとっては、本を読むとかケーキを焼くというのは一つの仕事と同じであり、そんなことをしていては暇なことにならない、ということらしい。しかし、日本でも昔の商店街(特に裏通り)では、夜は店先の長椅子に座って過ごす、という風習があったような記憶がある。いつの頃から日本人はひっきりなしに作業をするように変わったのか。

ジャカルタは巨大な人口をかかえ、遠目には近代的な大都会。しかし、タムリン通りのもう一つ裏側の道路は雑草だらけ、下水はゴミが溜って流れないまま、その溝の縁には小さな子供たちがしゃがみ込んで大小便をしているのだ。いや、タムリン大通り自身だってその両脇は草ぼうぼうで、所々舗装がとれて赤い土がのぞいている。スコールがくるとボートを漕ぎたくなるほどの水溜りになる。それにこの蒸暑さだから衛生が気になるのは当然。開発途上国に好意や愛情を寄せるとしても、これら有りのままの現実に目をつぶるわけにいくまい。ジャカルタ市街地図を見ながら歩いたのだが、なかなかパサール・バルーへ行く道がわからない。途中に並ぶワルン(屋台)の貧相さと、威信を賭けて作られた記念碑建造物の立派さの差はどうだろう。屋台は余り熱心に売っているとは思えないが、炎天下で熱くなったコーラやジュースを売って本当に儲っているのだろうか。大きな回教寺院の左手を回って鉄道沿いの道を1ブロック、それから踏切を渡って進めばパサール・バルーのはずだった。その通り歩いたのだが、どうも地図が間違っていたらしい。引き返した方がいいだろうか、と思い始めるのに要した時間はわずか数分だった。

ややオーバーに言えば、ガーンとやられた様な、カルチャー・ショックを覚える。すさまじい光景が広がっていたのだ。表通りの曲がりなりにも近代的なたたずまいとは、全く異質の世界だった。よく古いフランス映画などに、アルジェのカスバの中に迷い込んでエキゾチックな光景にぶつかる、というシーンがあるが、あのとおり。両手を広げれば道路の両側に届くような狭い通りに小さな店がずらっと並び、ハエが黒山のごとくたかった肉片を売り、発酵したような野菜が並べられている。路上はまさに生ゴミの山という感じで、数10mは息を止めて歩かないと窒息しそう。あの温度の中だから何もかも腐ってしまい、すさまじい腐臭がたちこめている。その中で群集が大声で叫び合いながら商売をやっているのだ。旅行者なぞの立ち入る世界ではない。

この一帯は大統領官邸からわずか2〜3ブロックしか離れていない。かくも格差が大きいという事だ。びっくりしたけれど良い経験だった。でもあの臭いと混乱の中でよく生活できるものだ。お目当てだったパサール・バルーの方はほどなく捜し出した。こちらは昔のアメ屋横丁みたいなものだった。安物の繊維製品などが、所狭しと並べられている。往復3時間もかけて8kmを歩いたので足が棒のようだ。サヒド・ジャヤ・ホテルに戻るや否やコーヒー・ショップに駆け込みビールを飲む。やはり、こんな快適なホテルにいたのではジャカルタを分かったことにならない。

(続く)















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