オペラ「椿姫」の話(その7)
「椿姫」の比較 第7回
(148)モノローグ  「椿姫」について  2010.9.10

このように「椿姫」はよりどりミドリ。少し古いですが、この中にあなたの好きなヴィオレッタを見つけられると良いですね。古い録音の中にも、どこかに惹かれる所が含まれます。どうしてこんな録音をしたのだろう、というほどヒドいものは、基本的にありません。オペラの録音をする際は、レコード会社は物凄い準備をしますから。ここに示したような古い録音の場合はなおさら。今みたいに、小型の機器類を持ち込んで実況をそのままCD化して、即販売に廻す、ということは、例えやりたくても出来なかったからです。

また私自身の反省として、「椿姫」はプリマドンナ・オペラだと申しましたが、ソプラノ歌手だけずば抜けていても、テンポやリズム感という問題で、これは素晴らしい、とかこれはダルだな、という印象が左右され易いことを忘れてはいけません。これはクライバーの指揮ぶり、クレーヴァの指揮を聴いて特に意識しました。
千葉のF高








(149)モノローグ  「椿姫」のまとめ  2010.9.12

最初のメルセデス・カプシールの録音(1928年)ですが、これは大層古い録音にも関わらず、音質は今でも十分通用するもの。これを聴くと旧い時代の歌手の発声法が、少し今と違うなあという印象を持ちますね。音を出すことを主眼としているので、どんな内容の言葉を発するかは余り分かりません。でも随分高い音までカバーしていることは確かです。ローザ・ポンセルの録音(1935年)は、カプシールより新しいにも関わらず、ずっと海賊盤っぽい音がします。本当は海賊盤というより、ラジオの実況録音でしょう。ポンセルという名前にひれ伏しますと何も聴こえなくなってしまいますが、実は声そのものが最初から最後まで「含み声」ですね。超高音を持っていないため、カバレッタではテバルディ同様に、半音下げる方法で済ませています。このCDはどうしてもポンセルの声を確かめたく聴き始めたのですが、拾いものがジェラルディン・ファーラーによる解説とピアノ伴奏によるソロ(ポンセルのCDに付属してます)。この大先輩は米国の華でしたから、ポンセルの解説を担当させるのが相応しいと、放送局は考えたと思います。ファーラー自身の演じたオペラは軽めのリリコの曲が目立つのですが、彼女がここで示すアルトによる「椿姫」の一部には、本当にうっとり聴き惚れます。ポンセルの声は何とか想像できる程度。

そして戦後の最初の録音がトスカニーニ指揮によるもので、
リチア・アルバネーゼのヴィオレッタ(1946年)。アルバネーゼの名前はメットの「旧館のさよなら演奏会」のレコードまで続きますが、声そのものは何ということありません。音程はしっかり出て来るし、何よりトスカニーニのお気に入りだったことが幸して、私のオペラ鑑賞歴の最初期に、しっかり大脳に叩き込まれましたが、時として「猫」の声みたいだし、余り好きではありません。ただ、トスカニーニが「椿姫」をどのように理解していたか、を知るために極めて重要な「椿姫」録音を残しました。あとトスカニーニは、同じくアルバネーゼの「ラ・ボエーム」の録音とか、ヘルヴァ・ネルリ主演の「アイーダ」、ジンカ・ミラノフの「リゴレット第4幕」等を残していて、同様の理由で捨て難い。また注意深く聴くと、ここではトスカニーニ自身が鼻歌を歌っているのを聴くことができます。

戦後の
レナータ・テバルディ/マリア・カラスの対抗時代のものとして、テバルディの1952年盤があります。テバルディの録音はこの後、1954年、1956年、1957年と続きますが、1957年に「自分の声はコントロールできない程重くなってしまった」とコメントを出し、メットで1957年に7回公演した後、米国内地方都市12カ所でもヴィオレッタを歌い、そのままヴィオレッタ役から引退してしまいました。このコメントが出た時のニュース記事を覚えています(実は私がテバルディのレコードを初めて聴いたのは1957年でした。)共通して言えるのは笑い声が入っています。最も良かったのはやはり1954年のスタジオ録音でしょう。これは十分説得力がありますし、声もしっとりしています。声はあくまで美しく、「C」の高さまで出る。ただその上の一音が一カ所だけ問題。一音だけ音階を下げて(全体を下げて)歌い、その点が終生足を引っ張りました。なお以前テバルディにはご挨拶して、サインを貰いました!

マリア・カラスは1953年にチェトラに入れた全曲の他、1955年、1958年(1)、1958年(2)と実況録音が続きます。メキシコ・シティ公演のものは、音質を考えてここでは省きます。チェトラ盤でも十分歌っていると思いますが、カラスには何と言っても1955年がありますから、チェトラの方は貶められがちな運命。実際聴き比べると明らかになって来るのですが、声のツヤが違います。テンポの違いによる差だけなら、1953年盤が良いとも言えるのですが、全体としては1955年が最善。決定的に違うのは(演技付きの舞台を観た場合)、1953年はカラスはまだ「太ったカラス」だったのが、1955年には「ほっそりしたカラス」に変った点ですね。そういう視覚的要素を知ってしまうと、1955年にこだわる理由も分かる気がします。2組ある1958年盤の方が良いと思われる方もおられると思いますが、私の耳には1958年盤はどちらも、少し盛りを過ぎたように思えます。特にロンドン公演の方に、やや衰えのようなものが感じられます。しかし「衰え」とか「少し」とか言っても、ホンの僅かなものに過ぎません。もしリスボン盤(ロンドン盤でも同様)を持っておられるなら、それをしゃぶり尽くすまで聴くことをお勧めします。カラスの日本公演には、切符を持っていながら、色々な理由から、ついに聴きに行けませんでした。

そして現れた新星たち、
アントニエッタ・ステルラ(1957年)とヴィクトリア・デ・ロスアンヘレス(1959年)ですが、彼女達なりに成功しています。ステルラの方は余裕が無いせいか、時として音が引きつります。ロスアンヘレスの方はそういうことは無い。そしてロスアンヘレス盤は、このあたりで珍しくも楽譜通りの高音処理をしています。実際、どちらの盤でも可ですよ。ただどちらも、守備範囲内で音を処理した、という感じが付きまとうのです。この「処理」という言葉はあまり良い意味ではなく、ルーティン作業をこなした、という意味になります。ステルラという名前に馴染んだのは1963年のNHKイタリア歌劇団を招聘した時以来で、当時のパンフレット類や雑誌記事を今でも持っています。ステルラの声そのものはごく普通でした(私はヴェルディ「トロヴァトーレ」で観ました)。

次は
アンナ・モッフォ(1960年)。可愛そうなモッフォは、ここで精一杯の努力をしていますし、高音も出しています。ただ彼女のは、まるでスティール写真みたいなヴィオレッタ。たしかに美しいし、その点だけ取り上げるなら最上でしょう。でも熱気が感じられないのです。静止した美しさ。モッフォの1978年カーネギー・ホールのリサイタルを一緒に聴いた妻は、そこで歌ったシュトラウスの歌曲とグリーンの衣装とアクセサリーがとても良かったわ、と申しています。

ジョーン・サザーランド(1960年と1963年)。この人の録音に心底感心するのは稀です。でもドニゼッティ「ランメルムーアのルチア」のセラフィンとの実況録音は良かった。あるいはカーネギー・ホールでの、ベルリーニ「夢遊病の女」の実況も。あとはどこか引っかかります。「椿姫」ではテンポが遅いし、なぜこういう歌い方にこだわるんだ?とたずねたい気分。せっかくの声の財産をムダにして欲しく無かったのですが。彼女のリサイタルを聴いた時(そこでサザーランドと握手しました!)、多くのファンは帰り道、聴いたばかりのアリアを口ずさんでいましたが、サザーランドという歌手のイメージはついに湧いて来ず。

ピラール・ローレンガー(1969年)。この人のヴィオレッタはヴィブラートが付きまくるので、余り好きでありませんでした。ところが聴く位置をスピーカーから遠ざけたら、少し改善されました。一旦発声の問題を越えたら、この人のも案外行けるな、と思った次第。ローレンガーには西ベルリン歌劇場のモーツアルト「ドン・ジョバンニ」のドンナ・アンナで、初めて接しました。

ビヴァリー・シルズ(1971年)。手慣れた歌を披露してくれ、演技も手慣れていますが、手慣れ過ぎているかも。私はメットでシルズの舞台(ロッシーニ「イタリアのトルコ人」)に接しましたが、私のメモを読み直すと、「職業的微笑」と記してありました。イレアーナ・コトルバス(1976年)のヴィオレッタは、姿形が美しいため幻惑されます。ただ声だけ聴くと、少し弱いかな。彼女は、少し身の丈より大き過ぎる役をやっていたのでは無いでしょうか。クライバーが好調なだけ、惜しまれます。

レナータ・スコット(1982年)。この人のCDは、どんなエレキの秘密があるか知れませんが、確かに上手い。アタックの激しさも、リズム感も申し分なし。但し私がメットで観たヴェルディ「ドン・カルロ」のエリザベッタでは、声が小さく、少し引きつっていました。実際に舞台にかけると、高くない背が問題かもしれません。天は二物を与えず、という諺を思い出してしまいます。CDで耳だけで聴く時は良いと思いますよ。

ルチア・アリベルティ(1990年)。この人のヴィオレッタは声に注目するだけなら、合格点を付けてしまいますが、少し客観的に冷静になると、それほどでも無くて少しがっかりします。もっと熱気を伴って欲しい。私はベルリーニ「清教徒」でアリベルティを観たことがあります。

キリ・テ・カナワ(1992年)にどうしてヴィオレッタなんて難しい役を割り振ったんだろうと思います。大した破綻はありませんが、逆にそれほどの強烈な魅力には欠ける気がします。デッカがテ・カナワに多大な期待を寄せていたからでしょうが、ヴェルディ「オテロ」も、この「椿姫」も、録音の時期を誤ったのではないでしょうか。もっと早く録音した方が良かったのに。

演技の付いた「椿姫」としては、テレサ・ストラータス(1982年)は猫背の良くない姿勢が気になります。それでもCDの音のみの比較をすると、ストラータスは合格でしょう。ただ、第1幕の「ああそは彼の人か」の後半走り回る箇所など、息が切れていますよ(映画ですからアテレコでしょうが、実演の積りで見てしまうと)。そのためか音程に問題がホンの少し現れています。

そして、もう一つ映画「椿姫」について。往年の映画スター、
グレタ・ガルボ(1937年)の演じる「椿姫」。これはテレビで放送されたのを録画したものしか持っていません。我が家のどこかにあるはずですが、現在捜索中。ガルボの演技力がどうか等を確かめるための映画、と批評されているそうですが、やや声の低めのガルボを一度御覧下さい。











(150)モノローグ  「椿姫」の技術的比較  2010.9.15

「椿姫」を何度も聴くと、色々なヴァージョンがあることに気がつかれるでしょう。やはり目立つのは高音部です。バリバリ高音が出るソプラノの場合は、コレみせよがしに高音を強調するバージョンを採用し、装飾音を挿入することが多くなりますが、これも人間の業みたいなもの。また笑い声とか、「雑音」を色々加えるのも、目立つための工夫。カバレッタにそういう工夫を凝らすのを旧い時代には許容されていましたし(「椿姫」でそう言えるかどうかは、やや疑問ですが、ここでは伝統的に)、それらを楽しむのもオペラの楽しみの一つ。トスカニーニの指揮した版は永遠の標準ですし、それと比較することで、各版の特徴が分かり易くなります。「椿姫」の録音を入手したら、それをしばらく、徹底的に聴き込むことです。その上で、今度は別の「椿姫」を聴かれたら良いと思います。当拙文はそのためのガイドに過ぎません。「椿姫」の歌う方を表にまとめると下記の通りになります。

まず最初にある3つの楽譜((1)→A、(2)→B、(3)→C)は、楽譜に記されている歌い方です。カバティーナ「ああそはかの人か」は2回繰り返す習慣がありましたから、(1)は同じ旋律の最初の回を表し、(2)は2度目の回を表します。またカバレッタ「花より花へ」はあとの方の一種類だけ、ここに示してあります。そして、実際に歌手達が終曲部を歌う時は、下にある囲った部分のように歌うのも、選択の範囲内です。CDを録音した際、各ヴィオレッタがどのように椿姫を歌っているか、を下に示します。但し、ここでは最も有名な「ああそはかの人か」と、カバレッタ「花より花へ」の部分のみだけ。次ページ左側にある歌手達の名前は、まさにこの時期のソプラノ名鑑集。

La Traviata

たった一度しか録音しない人がいる一方で、何度も録音を残している人もいます。もともとレコード会社は何度も録音して呉れない(普通は2回まで)のですが、テバルディやカラスにはその人気によって、アマチュアがこっそり録音した「海賊盤」が多く残されており、それらを今では合法的に聴くことができます。またそのお蔭で、彼女達の歌唱の変遷ぶりを知ることが可能。これは複雑な心境ですね。

●印は特別なバージョンで歌ったもの
*印は画像付きのもの


例えばカバティーナを歌う時、カラスは楽譜通りなのに、テバルディはそれより高めの音を出しています。それがカバレッタでは、逆にカラスは高め、テバルディは低めです。また、カラスのリスボン盤は、音程がやや怪し気な気がするし、ロンドンで録音された盤は、音程を必死で絞り出しているのが分かります。そしてサザーランドは1960年盤に比して、1963年盤の方がオフマイクな録音になっていること、プライス(1963年、彼女がヴィオレッタを舞台で演じたとは思えませんが)は、随分個性的なヴィオレッタを歌っていることに気がつきます。ただし後半息切れしています。シャーシュのヴィオレッタ(1979年)は、音が上がったり下がったり、途切れたり変化しますが、よくよく聴いて見ると、これはストラータスもそうだったことに気がつきます。また楽譜通りを徹底したのは、アルバネーゼとスコットだけです。最近のもので感心したのは、スチューダー(1990年)と、ネトレプコ(2004年)。アンドレア・ゲオルギューは未聴です。











(151)モノローグ  旧友たちとの再会  2010.10.13

毎年夏にやっていた同窓会は、今年は猛烈な暑さ等の理由により、秋口の10月9日に開きました。例によってやって来たのはT君、I君、S君、TK君、O君、そのご夫人方等。常連だったHM君はKU大の講義日に重なり今回は欠席。I君が到着するまでの間にショパン「革命のエチュード」をご披露(まるでダメ)。エジプトから帰ったI君からテレビ画面を使って説明があり、特製の写真アルバム等を楽しみました。またオーストリア、チェコ、ハンガリー旅行から戻ったばかりで、まだ時差もとれないS君からは現地の写真を見せて貰いました。雨にも関わらず、楽しいひと時でした。O君から私の「音楽のすすめ」第2巻に、人名の直し忘れがあることを指摘され、恥入ることしきり。気をつけなければ!





  ジャカルタの雨
1988年9-10月 IAXA派遣でインドネシアへ行く(その7)



1988年11月14日(金) インドネシアの祝日のため休み

持ち前の優柔不断からどうしようかと以前から迷っていたのだが、ふとしたきっかけで解決した。問題は単純なことで、つまりバリ島旅行のあとバンドン、ショクジャカルタの講演旅行が続くので、その間一旦ホテルをチェックアウトしてしまうか、それとも部屋をキープしておくかである。荷物が少なければチェックアウトするのがいいに決っているが、沢山の荷物を整理するのが面倒だと思ったのである。もう一つの理由は、昨日BXXNのPQR部の人達が僕になにか記念品を渡したいのだが、21日にBXXNにもう一度来て貰えるか、と聞いたからだ。21日は帰国当日だから難しいだろうと答えたら、それなら留守中にサヒド・ジャヤ・ホテルに届けておくかもしれないと言われた。そこで部屋の番号を教えたが、そうなるとチェックアウトしてはまずいのでないかと思ったのだ。しかし、念のためホテルの出納係に、一旦チェックアウトしてもあとで、元と同じ427号室に戻れるだろうか、と尋ねたらOKだと言う。留守中に来客があってもホテルのレセプションがこなすとも言う。それでやっと安心した。御蔭で約30万ルピア浮いた。これで十分バリ島旅行は賄える。

ホテルからタクシーを捉まえ、チェンカレンにあるスカルノ・ハッタ空港へ向かう。途中有料自動車道路があって2500ルピア程度とられる。全部で約6000ルピア。チェンカレンは成田ほどではないがかなり遠く、30分では着かない。それがわかっていたから、安全のため早目早目に動いたので、結果的に2時間半も空港で待つはめになる。ガルーダ航空のチェックイン・カウンターの前はまるで長距離バスのターミナルみたいだった。実際、それはビルの外側にあるのである。屋根が付いているからいいものの、外は激しい雷雨になっていた。

つつがなくバリ島のデンパサール空港に到着。ホテルから迎えの車が来て、僕の名札を掲げて待っていたらしいが気が付かず(そもそも迎えが来るとは知らなかった)、タクシーに乗ってしまう。あとで少しゴタゴタした。つまり、旅行エージェントとの契約で迎えに来たホテルのボーイは、僕のサインが要るらしいのだ。すごく心配しているようなので、必ずサインするからと言ってボーイを安心させた。タクシーの運転手は英語を十分喋れるので、その晩はデンパサールのケチャ・ダンス見物に連れて行って貰うことにした。彼のくれた名刺には「英語の通じる運転手」と書いてある。開演まで間が無く、フル・スピードで飛ばす。

9分通りの満月の下、香を焚いたような匂いのする寺院の庭で演じられる「ラーマ・ヤーナ」は一度見る値打ちあり。演者の半分以上は高校生以下のような気がするが、中には小学生もいるようだ。2〜3人は白髪のメンバーも混じっている。観客は寺院の石段や木のベンチに腰掛け、2時間近く観る。西洋人の団体客が多いがオーストラリア人だろう。

晩餐は贅沢にシュリンプ・カクテル、クラブ・スープ、ペッパー・ステーキとビール。ジャカルタに比べれば数分の一の安さだ。今の日本の円高をもってすれば、日本のほぼ数十分の一の食費で済む。しかもバリ島はイスラム教が一般的でないから牛肉も豚肉も御法度ではなく、むしろ仔豚の丸焼きはバリの代表的料理だ。日本人にとってバリ島は楽園に違いない。泊まったウィナー・コテッジはクタ・ビーチにある安ホテル。大きな中庭を囲むように幾つもの3階建ての建物が建っていて、いかにも長期滞在用のコテッジに見える。

やはりオーストラリア人の客が多い。日本人も結構来るらしく、日本語を片言ながら話す従業員もチラホラといる。レストランには2組も日本人グループがいたし、その1組は女の子3人連れだが、その態度はいつか大船で下車していった小生意気なOLの3人連れそっくり(「男の子と付き合うんだって私達は目が肥えているから」などと言っていた連中だ。御先祖か親が金持ちかもしれないが、どうもああいう人種は苦手だ)。レストランの天井にプール水面の影がゆらめき、天井扇が回転しているなんて随分エキゾチック。

空港に迎えにきていたボーイは片言の日本語も話すので、バリ観光のガイドも自分がするつもりでいたらしく、僕がさっきのタクシー運転手に明日の観光ガイドを頼んでいたのを気にしていた。そこで明日のガイドはボーイに頼み、明後日はタクシーの運転手に頼む、ということで収めた。あちらも生活が掛かっているだろうし、あちこち気を回さなければならない。



1988年11月15日(土) 休み

8時半ごろホテルのウィナー・コテッジ発で、昨夜契約しておいたタクシーに乗り込み、バリ島の約3分の2の名所を回る。立派に舗装された道路の両側には、絵はがきみたいな風景が広がっている。ヤシやココナツの並木は嘘みたいに美しい。方々に塩田があり、また日本そっくりな水田では水牛が働いている。ジャカルタとは全然違った世界だ。観光用ではなく、ナマの生活が絵はがき風なのだ。それにここでは寺院が皆現役だ。ヒンズー教と仏教の混ざった物であり、まるで中南米のマヤ文明を思わせるような装飾にもお目にかかる。ただ、チュルクとかウブドとかはすっかり観光地化しているみたいだ。日本の観光タクシーと同じく、それらしい売店へ連れて行かれる。この運転手とは日本語と英語を交互に使って話した。ウブドではバリ絵の画廊へ行き、小さなバリ絵を150米国ドルと言うのを、半値にねぎって一枚買う。ここの物価を考えれば随分高い品だと思う。これは日本のXXX機構のIti副所長への御土産。

方々の寺院・旧跡の入口には子供や大人が大勢待ち構えていて品物を差し出す。10才になるかならないかの女の子がおぼつかない日本語で「アナタ、あとでワタシのバナナ買ってね」と寄ってくる。どう見ても売れそうもない首飾りをたった一つ持ち、売ろうとしている小学校1年生ぐらいの女の子。不思議と男の子はいない。かわいそうだから買ってやろうかと仏心も起きるが、思うところがあり、止めておく。このような光景を見ると終戦直後の進駐軍と日本の子供の関係もこんなものだったのだろうかと想像される。確かに一時期アメリカ人(進駐軍)の生活がまぶしく見えた。今インドネシアの日本人がその役割を演じているのかも知れない。子供たちは相手をみて英語と日本語を使い分ける。大変たくましく、僕はこういうのが好きだ。

途中通る橋から見ると、大きな川では100人以上の人々が風呂代わりにして体を洗っていた。町の大通りを洗面器を抱えて、"銭湯"に通っている人々を大勢見る。火山の火口を見おろすあたりで昼食をとったが、火口湖の風景は本当にすばらしい。ここのレストラン自体は西洋風で、ビュッフェ形式になっている。ただし料理はあくまでインドネシア料理。しかし、バリ島では牛肉・豚肉を自由に食べられる。運転手は別のところで食べるといって、丘の上のレストランには登って来なかった。

ホテルに一旦戻った後、買い集めたお土産を詰めるための布バッグを買いにクタ通り、レギャン通りを散策。歩いているとあちこちから日本語で声がかかる。オートバイを乗り回している若い人達からは「これを貸してやる」と言われるし、海岸のヤシの葉の帽子を被ったおばさん達からは、日除けオイルはいかがと言われる。商店の呼び込みもある。そういえば、デンパサール空港の案内板も、正式なものはインドネシア語と英語の併記だが、その下に手書きで日本語の表示を散見した。いかに多くの日本人がバリ島へやって来るかの証明だろう。たまたま今は雨期だから日本人客の姿が多くないだけだ。クタ・ビーチは余りに米国風になってしまったので、クタはもはやバリではない、という説もある。多分、本当に美しい海岸は高級ホテルの並ぶサヌール・ビーチ等だろう。しかし、そういう所は気取った租界だろうと想像される。パンタイ・クタ通りのカフェで喉をうるおす。海岸沿いにはいろいろなホテルやコテッジが並んでいて、中には上等そうなホテルもあるが、この暑さと砂ぼこりはどこでも大して違いないと思う。ブーゲンビリアみたいな赤い花が至る所に咲いている。ただこう書くと、クタ・ビーチがマイアミ・ビーチみたいに聞こえるかもしれないが、実際は決して美しい町並みではないし、土地の人々が洗練されているわけでもない。しかし人々が陰気でなく開放的な自然があるのがいいのだ。

夕方、インド洋に沈む太陽を見るために、長い間海岸に立って待っていたら日本語で話しかけてきたインドネシアの学生がいた。クタ・ビーチでは初めてトップレスの金髪女性を見た。やはりクタは純正バリとは言えないか。この海岸は遠浅の実に長い砂浜で、インド洋の水平線が、視界一杯に広がっているのを見るのは感動的である。これで世界の三大洋を全て見て触ったぞ。あいにく雲が多い天気だったが、南十字星を何とか見たような気がする。南半球にいる証拠である。
(続く)















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