オペラ「椿姫」の話(その8)
(152)モノローグ  ジョーン・サザーランドの死  201010.12

突然入った訃報。この10月10日、かのジョーン・サザーランドがスイスの自宅で亡くなりました。サザーランドには常に賛美と諦めの両感情が入り混じり、複雑な思いです。英デッカ社の「椿姫」のLP発売の時(1963年)の、日本におけるキャンペーンを覚えています。なるほどこれか、それにしても大きいヒトだなあ、と言うのが第一印象でした。最初に買ったのはドニゼッティ「ランメルムーアのルチア」抜粋の中古盤ですが、ベルリーニ「夢遊病の女」で初めて高音が本当に自由に出せるヒトだと思いました。多くの録音でエコーが掛かっていましたが、実際に聞いてその必要は無いと思いました。とにかく高音は任せられると思ったのですが、後に聴き直すと高いEまで出ても、高いFは出ないことが分かりました。欧米の熱狂と違い、サザーランドの日本での人気が決して高くなかったのはご承知の通り。合掌。
千葉のF高








(153)モノローグ  「椿姫」とマリア・カラス  2010.10.20

「椿姫」を演じるのに相応しい歌手としてマリア・カラスがいます。カラス讃歌はうんざりする程、世の中に出ていますし、今更と思うのですが、あえて繰り返します。カラスの音楽のスケッチは正確です。カラスが歌う役柄は、その役柄の内容次第で変わりますが、要点は標準となる全体像を示す座標軸が固定され、そのあと風船を膨らます術を伴うものでした。そのため座標軸を確かにすることに加え、その途中は思うままに膨らませたり、伸縮したりする、その技の鮮やかさ。決っして楽譜通りを金科玉条とするのでなく、途中は自在に膨らませています。いわば、音楽の全体像にオリシロがあって、その箇所を自在に膨らませたり、しぼませたりしています。世の中にはカラスと言う名前を聞くと、もうそれだけでイヤだ、という人だっていますが、それはそれ。音楽の楽しみ方はそれぞれですから、互いに尊重すればうまく暮らすことが可能、と信じます。プリマドンナ風を吹かせるスターなんて、と言われる要素、確かにそのきらいはありますが、それ故にオペラを過度に嫌っても、決して得をするわけではありません。オペラで成功した人は決して単なる謙虚、控え目、遠慮深い人ではないのです。はっきり言えば、ズーズーしいほど自己主張が強い!

カラスの「売り」は、ヴィオレッタ、ノルマ、メデア、ルチア、マクベス夫人、レオノーラ、アンナ・ボレーナという役柄が中心(出演回数の問題ではなく)。カラスはどこで伸縮すべきか、どこにポイントを置けば印象的か、等を勉強したに違いない。例えばヴェルディ「椿姫」では、ジェルモンからの手紙を受け取った時のヴィオレッタのつぶやき、Estranoという箇所は、これ(押さえた声でつぶやく)以外にどう歌ったら良いのでしょう?その為に誰よりも先にスタジオに入り、誰よりも遅くまで練習し、自分自身が満足しないとOKを出さなかったと聞きます。ただし私が好きなのは歌を歌うカラスであって、決して歌手を離れての華やかなカラスではありません。本当のことを言えば、あの顔はよくよく眺めると、ひねくれた、ムッとした口元から判断すると、嫌みのある顔ではないかと思います。欠点を数え始めると幾らでもあって、その証明も簡単です。それにも関わらず、いったん歌い始めるとその声の魔力に魅せられてしまう。私はカラスと友人になれるとは思いませんが、ただ歌手としてのカラスは大好きです。

「強い声のカラス」と「弱い声のカラス」と言う2種類の声は、どの曲のどの時点の演奏(あるいは録音)を聴いたのか、をまず確かめないとなりません。強い声のカラスは「ノルマ」や「メデア」が該当。他方弱い声のカラスとしては、「清教徒」や「ルチア」が当てはまります。余りステレオ音響にこだわると、声の出ない、あるいは出ても無理しているな、と思うような場合も出てきます(カラスの全盛期はモノーラル時代)。音響的にはひどく劣っていても、音楽的に優れた実況録音も数多いのですが、それは実際に聴いてみなくてはならず、書き物を読んだだけでは判断できません。

後期のカラスの歌(ステレオ録音時代)には、その場面に相応しくないような、感情移入過多と思えるものがあります。ヴェルディ「アロルド」やベルリーニ「海賊」のアリア。それぞれアリアとして独立に聴く場合は許容範囲内なのですが、ふと立ち止まって、それが全曲だったらどうかを考えてみると、キツい。こればかりは本人が、実際に聴いてみないと。狂う程好きになるか、ゾッとするような気分になるか、の違いが生じ得ます。あの場合の録音テイクは素晴らしく、別のテイクだったらそれほどでも無く、ある曲だったら全くダメ、という細部まで理解する必要があります。恐ろしいのは、偏見を持つことです。それは返す返すも残念。好きでも嫌いでも一度通して聴いてみて下さい。それで、どうしても好きになれなければ、その時は敬意をもって、私は引っ込みます。忘れてはならないこととして、カラスは残念ながらモノラル時代の人だということもあります。

弱い声を出し続けるために強い声を放棄していれば、カラスの魔力は半減しますね。単純ではないのです。強い声と弱い声とでは、発声法が違い、発声のタイミング、アクセントの付け方も違います。喉に声を潜めて歌う弱い声の時、それは次の瞬間に強い声として聴き手に襲いかかる準備期間だと考えます。これを自在にするには、やはり両方歌えないと無理。常に同じような発声法で美しく歌うことに徹する歌手群もいますが、また多くの歌手がそうであり、それが主流を作っていますが、完璧を目指すには両方を会得していないと無理!喉に声を潜める、と先に述べましたが、その喉はしかるべき箇所に達したら全開して朗々と響かせなければ。「椿姫」にはその箇所が何処かを指摘できます。第2幕、アルフレードに泣き笑いを見せたあと、「Amamo, Alfredo, amami quant'io t'amo… amami, Alfedo quant'io t'amo, quant'io t'amo…Addio」と吐き捨てるように叫ぶ箇所。そういう心情、心理描写を理解しないで、単に楽しく、美しく、朗々と響かせるのでは不十分なのです。
千葉のF高








(154)モノローグ  私は如何に「椿姫」に慣れたか  2010.10.23

そもそも私がオペラに強い関心を持ったのは、1957年(中学1年生)の時に、レナータ・テバルディの「椿姫」を聴いたことにルーツがあります(「音楽のすすめ」第1章「ことの起こり」)。私はこの曲のフル・スコアを持っていますが、それもいつ頃手に入れたものかよく覚えておりません。アリア「ああそは彼の人か」をどのようにして覚えたかは覚えていますが、買ったのは、それより後でしょう。「ああそは彼の人か」は、スコアでなく単なるアリア集の楽譜で、吉祥寺ダイヤ街の「野崎」楽器店で買って覚えました。アリア「ああそは彼の人か」は両開きにした楽譜をベッドの上に広げたままにし、朝晩、大学に行くための着替えの際に一行ずつ覚えました。それを通学の途中に電車の中で、頭の中で思い出しつつ、モノにして行きました。フル・スコアは恐らくずっと後になって買ったに違いありません。「音楽のすすめ」の冒頭部では、うっかり書き落としておりました。

そういう風にイタリア・オペラの一部に馴染んで行きましたが、同時に、ワーグナーの楽譜も少しずつ自分のものにして行きました。まずは「ワルキューレ第1幕第3場」を覚え、そして「ニュルンベルクの名歌手第3幕」の優勝歌を覚えました。歌のメロディーラインの把握には、フル・スコアよりヴォーカル・スコアの方が良い、と以前書いた事がありますが、それは私の楽譜知識が貧弱なためで、もし楽譜が自在に読めるならフル・スコアの方が良いに決まっています。幸い「椿姫」の音楽はヴェルディが短期間に一気に書いたので、オーケストレーションが薄い。その分、旋律を追いかけ易い。一気に出来た作品の魅力というのも、あるんですね。

そこで普段は楽譜がスカスカなのを良いことに、歌の旋律はそのまま尊重し、伴奏としては左手に集中できるようなピアノ曲を自分で弾ける範囲に考え出し、それを時折弾いて楽しんでいます。その代わり、左手の旋律は日替わりで違ってしまい、毎日違うものを弾く始末。まったく個人的な楽しみであり、他人の耳には詰まらないもの。少年時代の様々な思いを込めて、自分の声の代わりに、右手の旋律に情感を込めて「歌う」ように弾くのです。これをやっていると、何とも言えない幸福感に包まれます。昔ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲部分をピアノで弾こうとして四苦八苦したことがあるのですが、それは無理!(巨象を蚊が攻撃するようなもの)。
千葉のF高








(155)モノローグ  「清教徒」について  2010.10.25

「椿姫」の歌唱法を考えたいと思いますが、私は歌唱法と言った時、最初に思い浮かぶのは「椿姫」でなく、実はベルリーニ「清教徒」です。ここでは「清教徒」をダシにして、「椿姫」の歌い方を論じましょう。

「弱い声のカラス」のデビュー曲であるベルリーニ「清教徒」(エルヴィラ)を考えましょう。(「清教徒」はピアノ・ヴォーカル・スコアの方(リコルディ版)を持っています)これと「強い声のカラス」のデビューであるワーグナー「ワルキューレ」(ブリュンヒルデ)を、一週間の間に交互に歌うなんて、誰が考えても気違い沙汰です。昔初めてそのアリアを1949年のチェトラ盤(1949年盤)で聴いた時(大学入学当時)、そのフレージングにすっかり慣らされていました。それが約1年後に「清教徒」の全曲録音から抜粋した1953年の「清教徒」のアリアを聴いた時、その差異に戸惑いを覚えました。白状すると、1953年に録音した全曲録音の方がずっと好きになりました。そのフレージングの特徴は、感情移入が強く、それは強烈なものでした。

後年、ダラスでのリサイタルの「清教徒」アリアを準備中の風景録音を聴くと、指揮者レッシーニョの指図に従い、あちこちを修正していくカラスを知ることができます。この時期、カラスの感情表現は頂点に達していますが、唯一の欠点がありました。つまり1957年にはカラスの超高音にかげりが見られたこと。「かげり」というのが強過ぎるなら、昔なら力がもっと出ていたのになあ、という郷愁を覚えたことでしょうか。そうなると、思い切り古い1949年チェトラ盤が懐かしく思えます。あとジョーン・サザーランドの「清教徒」と、ミレルラ・フレーニの「清教徒」も持っています。サザーランドのも楽しめますが、カラスとは全く違うタイプ。またフレーニは両人とも違います。

カラスの「清教徒」の強弱の付け方に差があることに気がついたのは、レコード(当時はCD以前)を掛けた途端でした。それはダラス盤を聴くとその差が、ますます鮮明になります。それをスコアの上で比較してみるとさらに明確に。「清教徒」という同じ旋律の範囲内でも、音楽は刻々と変化するのです。私自身、あれほど変化するとは信じられないことでした。まったく同じなのは僅かな部分のみで、あとは微妙に違います。あるいは旋律にアクセントを付けるため、工夫が加えられています。一般には何回も歌っている歌手は、しばしば楽譜を正確にトレースするのをさぼってしまうのでは無いでしょうか。

1949年盤より後のカラス盤からのみ聴き取れる2回目の似た旋律に戻った時、その戻り方の巧みさ、戻る直前の息をぐっと吸って貯めておいて、ジリジリと絞り出す、その秘めた力強さ。これはそうなって当然で、実はそのように楽譜に指示されています。表情づけを示すクレッシェンド記号(<)やデクレッシェンド記号(>)、あれを無視してはいけません。そこの旋律にしか付いていません。やはり歌はそういう表情付けの指示を守らなければなりません。カラスは1953年にはそれに気がついていたと思います。

全曲スコアの隅々まで目を光らせるのは、簡単そうで、難しい、大儀な作業だと思います。やるか、やらないか、は正に歌手個人の意思力と資質です。カラスの録音を聴いて、やり過ぎだと評するのは簡単ですが、楽譜でどうなっているかをチョッと確かめておくのは、良いことだと思う次第。おそらくカラスにとって「椿姫」は最も好きなオペラ、他方「ノルマ」は最もやりがいのあるオペラ、そして「トスカ」は最も稼げるオペラだったような気がします。

「椿姫」を歌う際の注意事項も、上記の「清教徒」を参考にすれば出来るはずです。ただ「椿姫」は、やはりプロット全体が「新聞の通俗小説」みたいなところがありますから、それを考慮して上手く処理して下さい。歌うからには、思い切り、全力投球で、そして必死の覚悟で歌うことですが、それは当たり前の話ですね。慣れ切って歌ってはいけません。慣れとは恐ろしいことです。考えてみれば、オペラって何をとっても、そういうところがあるのですね。ワーグナーだってモーツアルトだって同じです。それを承知して、オペラを楽しまれて下さい。
千葉のF高








(156)モノローグ  「吉田都のこと」について  2010.10.26

10月25日のテレビで、吉田都が英国バレエ団を引退するという解説番組を見ました。逆算すると17歳から英国住まいを続け、当初は唯一の東洋人として、鏡を見るのもイヤだったという吉田は、コヴェントガーデンをベースとする英国バレエ団の最高峰を極め、最後にコヴェントガーデン歌劇場でプロコフィエフ「シンデレラ」を、日本の東京文化会館でプロコフィエフ「ロミオとジュリエット」の引越公演をもって、舞台を去ったと聞きます。44歳。今年11月19日に「ロミオとジュリエット」を全幕放送すると言いますから、楽しみです。日本人プリマ・バレリーナと喧伝されるヒト達は欧米で何人も活躍しましたが、吉田は其の中でピカイチでしょう。

オペラ、演劇、バレエという西欧起源の舞台芸術は、いずれも私の肥やしであり、私は本当に劇場が大好きです。その理由は「音楽のすすめ」に書いた通りで、私自身は講演会しか経験ありませんが、聴衆の前に立つ時はスリルを感じるからです。万全の準備をつみ、万全に済ませようとしても、なお講演終了後には欠点が思い出されるキツ〜い世界。
千葉のF高





  ジャカルタの雨
1988年9-10月 IAXA派遣でインドネシアへ行く(その8)



1988年11月16日(日) 休み

朝はのんびりサンデッキに寝そべって過ごす。タクシーは11時まで来ないはずだ。ホテルの差し入れてくれたフルーツ皿からパパイヤをむいて食べてみた。新鮮なパパイヤが美味しいことが初めて分かった。このホテルでもジャカルタのホテルでも、リチャード・クレイダーマンの「渚のアデリーヌ」がBGMとしてかかっている。サヒド・ジャヤでは梓みちよの「二人でお酒を」もやっていたが、小林明子の「恋におちて」はジャカルタでもバリでもしつこく掛かっている。各客室の外側には専用のベランダがあって誰にも邪魔されずに日光浴が出来、食事をすることも出来る。朝は頭にバリ風のハチマキを巻いたボーイが熱い紅茶の入った魔法瓶を外のテーブルに置いて行く。お隣の客はドリアンを持ち込んだらしく、異様な匂いがしてくる。ドリアンのホテル持込みは一般に禁止だが。お隣さんはどうやらインド人らしい。中庭のプールでは金髪の若い男女が大騒ぎしている。僕も一応水着を持っては来たが衛生が心配でプールには入らなかった。

11時にチェックアウトして一昨日予約した運転手のクルマに乗り込む。今日の運転手は英語しか通じない。まずクルンクンの旧最高裁判所を覗く。マンダラみたいな因果応報の絵が天井いっぱいに描かれていた。かなりゆっくり眺めていたら、ドイツ人観光客がやってきた。するとそこらに立っていたインドネシアの学生風の男があれこれ英語とドイツ語を使って近づく。要は語学の勉強のためか、又は観光ガイドの仕事にありつこうということか。ジャカルタの博物館の男もその類(タグイ)かなあ。そこを出る時にさっそく物売りが寄ってきたので、マンダラの接写写真を何枚か買う。そのあとコウモリが何百匹と住んでいる洞窟にも行く。例によって元気なおばさんの売り子と、小さな子供達の物売りに悩まされる。

さらに、かなり奥地にある村落を訪れた。近年まで観光客は立ち入れなかったと言う。折しも村落の中央にある集会所で会合の最中だった。まるで砦の中の村落みたいだが、実際ここの人達は余り外に出たがらず、結婚も部落内で行われることが多いと言う。古楽器を作っている老人二人(60才と70才)の家に行き、ガムランとか竹製の笛やシロフォンみたいなのを演奏して貰う。日本語の歌をまだ覚えていると言って歌ってみせてくれたが、戦前の唱歌らしく僕の知らないものだった。日本軍の軍票も見せてくれたが、お礼(入場料?)を兼ねて5枚ほどルピア札で買った。戦時中ニューギニアに滞在した日本のXXX機構のKS氏への御土産になる。バリ紬を織っている現場では20米国ドルの細長いものを買った。本当にいいものは500ドルもするとか。これはXXX機構のXbe宅への御土産。

午後3時近くになって、はるか奥地の海岸に行き、昼食をとる。運転手も一緒。1泊が15米国ドルとかの安ホテルの半野外食堂だが、そのホテルにはオーストラリア人が大勢泊まっている。平均して4週間、長いのは3カ月も逗留するそうだ。まだ20代、下手をすれば10代の男女ばかりだが、いずれも体格が素晴らしく良く、女性などははち切れそうなグラマーな体躯を惜しげもなく晒す。オーストラリアは最も近い隣国だし、物価の安いバリ島は格好のリゾート地なのだろう。冷えたビールを頼んだのに、生ぬるいビールを寄越したとか言って、オージーの一人が騒いでいる。

帰り道はいささか眠たかったが、道路がココナツの樹のトンネルになっている辺りで目を見張る。本当に素晴らしい眺めだ。美しい緑。明日が満月だそうで、3カ日間お祭りが続くという。「いけにえの豚」をぶら下げたり、花篭を頭に乗せたりした、大勢の村人が寺院へ向かう行列を幾グループも見かけた。道の両わきには根を切った竹が幾つも立てられ、そのてっぺんは色とりどりの紙片で飾られていて、まるで七夕飾りを思わせる。1日分のタクシー代は50米国ドル。一昨日のケチャ・ダンスや今日の昼食代、入場料その他を含む。昨日のボーイには45ドル払ったが、あのボーイは今日の運転手と幾らで契約したんだと尋ねたのだ。それで高目になったのに違いない。ここで45ドルとか50ドルと言うのは大金だと思う。

デンパサール空港では幾つもある窓口の何れも、なかなか開かなくて気を揉む。コンピュータのシステム・ダウンがあったのだと言う。早目に空港に来て良かったと思う。なんとか中に入ってから、ふと切符を見たらCJRTと書いてあって一瞬あわてる。ひょっとしてショクジャカルタ行きかと思ったからだ。係官に尋ねたらチェンカレン・ジャカルタの略だ、と言われて汗が引っ込む。待合室には日本人もちらほら。なまじ相手をしたのでオーストラリア人の4才の男の子がまつわりつく。飛行機の中ではやかましいオーストラリアのお婆さんが大きな声で笑ったり喋ったりしている。犬の人形を大袈裟にかわいがっている。それを周わりのオーストラリアの若い男どもが一々受けて、笑いこけているので騒々しい。驚いたことに、デンパサール=ジャカルタ間はわずか1時間10分の国内線なのにも拘らず、機内アナウンスはインドネシア語、英語に続いて日本語の放送があった。日本(円)は本当に強い。

明日は早朝にバンドンに向けて出発だし、ホテルのクロークから荷物を請け出し、必要なものを出すと共に要らない物をまとめ、再びクロークに預けるべくパックしなければならない。一刻も早くホテルに戻りたい。しかしジャカルタに着いたのは夜10時半だった。デンパサール出発が遅れたからである。ターミナルの出口を出たら大勢の闇タクシーの客引きが待ちかまえていたが、この際値段に糸目をつけないことにした。交渉も省いてサヒド・ジャヤ・ホテルにすっ飛ぶ。車が動きだしてから、運転手は夜は40000ルピアだという。べらぼうだと思ったが仕方がない。こんな夜遅くまで子供を含む大勢が道路でタバコや新聞・雑誌を売っている。ベッドに入ったのは12時だった。

(続く)















<<Appendix 雑記帳トップへ戻る