オペラ「椿姫」の話(その9)
(157)モノローグ 再生機器類の比較 2010.10.15

このシリーズの当初ワーグナー「ワルキューレ」の比較試聴では、再生はキット屋さんのシステムで、CDプレーヤーにCECのTL51X、D/AコンバータにCECのモデル2、プリアンプにSV-722(マランツ型)、パワーアンプにSV-501SE、スピーカーは英国産のタンノイのStirling/HEで聴きました。他方、ヴェルディ「椿姫」ではCDプレーヤーに英国ミュージカルフィデリティのA3.2CD、N田様製作のプリアンプFYN-1MARKII、同じくN田様製作のパワーアンプにYN-208(6V6のプッシュプル)、そしてスピーカーは英国産のセレッションのSL-6と、N田様特製のスピーカースタンドを組み合わせて聴きました。これらを比較してみましょう。

いずれもフローリングの床をもつ12帖(仕切りを取り払うと、これに4帖が付け加わります)に置いてあり、背面の大半は壁です。ただ天井近くに25cm x 180cmの採光窓があります。スピーカー側から聴く人を見た場合、右側は約1mほどは壁、もう少し離れた面上には作り付けのCD棚があって、そこに約1400枚のCDがおいてあります。通常の仕方では全部入る訳もありませんので、最大で3段重ね(奥に向かって3列)に並べてあります。我が家にとって唯一の贅沢ですが、CD棚はキチンとしていないと、何処にあるか探し廻って時間を取ってしまうから。それでも、常に探し廻っています。以前住んでいたところでは、どこにCDをしまうかで、常に苦労しました。

またLPの殆どは納戸内に冷遇してあります。冷遇と申しましたが、私としては随分立派なレコードケースの中に入れてあります。今の所に引っ越す時、悩んだ挙げ句に、大半のLPは涙を飲んで捨ててしまい、現在は200枚程度しか残っていません。今はLDの運命に注目しています。私のオーディオ歴の後半では、レーザーディスクをよく買いました。DVDにすれば良いのですが、それだっていつまで残るか、心配です。想像ですが、いずれCDもDVDも、さらに小型の、ボタンみたいな小固体の塊に変貌してしまい、リスナーはそんな固体を買いあさる日が来るかも。激し過ぎるこの種の変化には頭が痛くなります。

これに対してスピーカー側から見て左側は一間半ほど、一面の壁です。セッティングはキット屋店主殿の指南どおり、1:1:1にしたかったのですが、奥行きがそれより小いさめ。スピーカーのスターリングはN田様特製の花崗岩とアクリルを張り合わせた台の上に設置し、SL-6の方は同じくN田様特製のスタンドにのせて、置いてあります。各パーツを結ぶ信号線は、オルトフォン製のものが多いのですが、特別な品ではありません。全体として、スターリングに繋いであるのはワーグナーの音楽のため、セレッションに繋いであるのはイタリア・オペラの音楽のためです。

まず何故ワーグナーとヴェルディ等でシステムを変えたかを考えます。ワーグナー用のシステムは300Bのシングル出力ですし、ヴェルディ用の出力は6V6のプッシュプル出力となっています。この差が大きいと思えます。ワーグナーのしっとりした、深々とした、響きを伴う低音域を楽しむには、300Bのシングル出力が最適だと思います(私見)。これはそういう音が好きだから、ということしか申し上げようがありませんが、最新式で録音された音源を聴く場合は、もっと別の音であっても構いません。

ワーグナーと言えば、森の中に響くホルンの音。それはホルン一つを際立たせるものでなく、一つ一つの楽器の音は全体の響きの中に沈みます。歌手の一人が傑出していても、それが全体と合わなければ、まずいのです。原則的に、個人芸を楽しむのでなく、全体の調和を重んじます。私の考える「ワーグナーの音」のイメージは、そういう音です。分解能はそれほど重要ではないのです。具体的に言えば1962年バイロイト祝祭劇場で実況録音されたワーグナー「パルシファル」(クナッパーツブッシュ指揮)の、あの聖堂の中のミサの音です!あれが上手く再現できれば言うことありません。「トリスタンとイゾルデ」も「ローエングリン」も、皆その範疇に入ります。唯一の例外は「ニュルンベルクの名歌手」でしょうか。あれはもっと明るい音でも良いと考えています。

他方、これをプッシュプル出力にすると、響きというより、もう少し華やかさが表に出ます。ヴェルディ等が好きな場合はそれを選べば良いと思います。華やかな、目くるめくような高音が欲しい、と考える場合ですね(他方、響きがつくと人声も独特の味ワイになるのではないでしょうか)。私はこういう音も大好きです。この場合、個々の音が際立ち、全体の中に埋もれないことを想定します。楽器はそれぞれ、耳元で聴こえないといけない。即ちヒロイン達の呪いの声も、復讐の叫びも、あくまで生々しく、汗とツバが飛び散らなければなりません。そういう音の際、背景の音がどうかは、私は余り問題にしないのです。厚みのある音の重なりより、玉三郎や団十郎の個人芸を楽しむように設計した音を私は求めます。そういう時はプッシュプル型の方が得られ易いのではないか、と考えました。でも実際には、聴く演目や聴く者の体調で左右されますね。

純粋に音として捉えた時、これはスピーカーのせいかも知れませんが、300Bシステムの音は残響感が素晴らしく、まるで音と音の間に銀線を散りばめたような響きを感じます。他方プッシュプルの音は素っ気ないほど確実な音で、特にCritical Reviewに最適です。と申しましても、どちらも無理矢理に差を見い出した場合の話で、大抵は観念的なものにすぎない?

バイロイト祝祭劇場の音と、ミラノ・スカラ座の音。前者は、繰り返しますがワーグナー「パルシファル」を聴く時に感じる深々とした音、決して「はめ」を外さず、全体の調和を重んじた音。これがバイロイトに求められる音だろうと思います。他方、ヴェルディ「アイーダ」を聴いて感じる華やかさ、ソプラノは高々と高音を歌い上げ、それをがっちりと受け止めるバスの朗々たる響き。これはイタリア・オペラに必須の音(声自体の味を聴かせる)。両者の違いをかつて「音楽のすすめ」第40話「遠景用と近景用の音楽」で述べさせて頂きました。両者はああいう主張を繰り返しては、今もって冷戦の最中なのですよ。繰り返しますが、私自身はワーグナーに代表されるドイツの音楽も、ヴェルディに代表されるイタリアの音楽も、両方とも大好きです。節操がありませんが、実際好きなんだからどうしようもない。

ワーグナーを論じる時は、完全なるワグネリアンとして口角泡を飛ばしますし、イタリア・オペラを論じるときは、全くのミーハーになり切ります。各集団がもう一方のグループに対して冷淡なのは全く分からない!そして私にとって偶像と言えるのは、片やキルステン・フラグスタートに代表され、片やマリア・カラスに代表されますが、両方とも大好き!そして「トリスタンとイゾルデ」や「ワルキューレ」という曲群も、「ノルマ」や「椿姫」という曲群も、それぞれに大好きです。どっちがどっちと、断言できないところが難しく、面白いところ。
千葉のF高








(158)モノローグ 「椿姫」を歌う歌手たち 2010.10.30

技術の進歩によって、声がマスクされたり、隠れたりすることは稀になりました。実際これだけの技術があれば、カプシールや、ポンセルやアルバネーゼの声も、録音当時からもっと美しく響いたかも知れません。この「椿姫」の録音を聴きながら、私は色々と書きましたが、あくまで商品化されたものの評価に過ぎないのです。私はポンセルの歌声は生で聴いたことがありませんが、NYのアパートでベルリーニ「ノルマ」のラジオ実況放送の解説者としてのポンセルの声は聴いたことがあります。(帰国後に色々CDを買い込みました)。ゲストを呼ぶのは初日だけですが、私と妻がメットで聴いたのはこのラジオ放送とは別の日。カプシールの声も聴いたことはありません。その最終結果に対して、このCDは響きがくすんでいる、等の評価をしました。それでもポンセルの「椿姫」のCDには、ファーラーが自分でピアノ伴奏しながら歌う「椿姫」の解説が付いていて、それは魅力的でしたから、細かい所はともかく、全体の雰囲気は良く分かった次第。ファーラーの声(1935年当時)は本当に素晴らしかったのです。

その点を考えると、もう一つ強調したいところが有ります。ジェルモンとヴィオレッタの対決シーンでの会話:「(ジェルモン)…due figli!(2人います)」「(ヴィオレッタ)Di due figli!(2人ですって!)」「(ジェルモン)Si.(ええ)」。このアルフレードに妹がいることを告げる場面で、ジェルモン「Si!(ええ、そうですとも)」の次に、歌手も全オーケストラも完全休止符が現れ、全ての音が消えます。この消え方が問題なのです。通常は休止符があっても、それ以前の部分の「響き」を引きずっていますから、音楽の連続性のようなものを感じます。それが1953年録音のカラス盤では本当に音が消えているので、これは本当に音を止めたのだ、と思う次第です。バサッと切り落したような音です。テープの取り替え等をしたに違いないと想像しています。

ディジタル化する時、無音でも構わないだろう、と判断したのでしょうね。しかし聴く人間の耳はアナログですから、聴いた時に違和感を持ちます。実はトスカニーニでさえ、この箇所は、音が途切れることなく、あっさりと済ませています(エンジニアの耳に興味あり)。むしろ、ここで「全休止符」の時間をテープ交換等に利用しようと、長く音を中断した会社(あるいはEMIからテープを譲り受けた会社)の方が奇異なのですね。他社の製品では、余り休止していることが分かりません。どちらが良い態度でしょうか?

私はカプシールを何度も聴き直しました。その結果、カプシールもそれなりに表現意欲を見せていることも分かりました。ただ、電気技術的進歩は確実だったため、音質が悪いカプシールを、まともにテバルディやカラスとは比較しない方がフェアです。カプシールみたいな博物館風の音は過去の音ですが、それはそれとして楽しめるのではないでしょうか。これ以上は期待しない、というのも大切ではないかと思う次第です。
千葉のF高








(159)モノローグ 「椿姫」の録音について 2010.11.15

弱々しい声のヴィオレッタと、強い声のヴィオレッタ。これはどちらも可能です。時として、第1幕のカバレッタを歌い易くする為に、オーケストラの音全体を初めから低くすることがあります(モーツアルト「魔笛」の「夜の女王のアリア(最初のアリア)」がよい例)。音の高さの調整は難しく、全体が華やぐか暗く沈むかを左右する微妙な問題ですから、これが良い、と言い切るのは困難です。

以前にエコーの問題で述べたことを繰り返しますと、エコーというのは、必ず存在します。無響室内で音楽を聴く人なんているのでしょうか。そう言う人は稀だし、それが全て、という態度はあまり好きでありません。少なくとも私は、「音楽」を聴きたいのであって、商品開発の仕事みたいに無響室内で「音」を聴こうとは思いません。オペラ・ハウスには、この方向に声をぶつければ、一番きらびやかに聴こえる、という箇所があるものです。ですから歌手達はその方向を目指して声を張り上げます。もしそういう作為を一切止めたら、随分詰まらない声として聴こえますよ。歌手の寝起き時に、寝間着のままでも良いから、そのまま歌って欲しい、と言うようなものです。

ただし程度の問題があって、余りにエコーを掛けると、聴きづらい製品になってしまいます。そういう例としてフィレンツエで録音されたカラスのケルビーニ「メデア」が挙げられます。どれだけエコーを掛けるかは、エンジニアのウデや、人柄や、音に関する趣味や、もっと広く教養(!)に影響されるでしょうから、この種の仕事を任されたら緊張してしまうこと必定。また音響的にはこの程度が効果的と思っても、販売面の担当者からもう少し掛けて欲しい、という要望が出た時の対応、という問題も有りそうです(私自身がそういった仕事をやってないのは、幸なるかな)。
千葉のF高








(160)モノローグ 日本人の「椿姫」について 2010.11.15

私も妻も、結婚前に独立で砂原美智子(Sp)を聴いたことがあります。妻はプッチーニ「蝶々夫人」で、私はプッチーニ「トスカ」で。砂原美智子が引退を決めた時、朝のテレビに登場して、リアルタイムで歌声を聴かせてくれました。察するに、彼女は徹夜をしたに違いない、と思います。砂原美智子は「国際的」だと喧伝されましたが、日本に人材が多くなかった時代。テルアビブでドミンゴと共演したのは本当でも、当時のドミンゴはまだかけ出し。それでも砂原は1948年に有楽座で「椿姫」を歌っています。もうひとり、大谷冽子(Sp)がいますが、私が地下鉄池袋線で大学に通っていた時、地上走行区間の遠くに「大谷冽子の椿姫」、と公演が広告されているのを見ました。

私の父親は生前、砂原美智子や大谷冽子や関屋敏子(Sp)を聴いてみなくちゃ、と私をけしかけたものです。でも関屋敏子を実際に聴く事は不可能でした。関屋のごく初期のレパートリーを見ると、ヴェルディ「椿姫」、ヴェルディ「リゴレット」、ベルリーニ「夢遊病の女」、ドニゼッティ「ランメルムーアのルチア」等が並び、なかなか壮観。ただ当時日本にはオペラ・ハウスは無かったのですね。関屋が歌ったのは上記のアリアだけか、あるいは学内公演でしょうか。
千葉のF高





  ジャカルタの雨
1988年9-10月 IAXA派遣でインドネシアへ行く(その9)



1988年10月17日(月)

今朝は6時出発の予定だが、その前にすることが多いので4時に起床した。Knoは約束の時刻より少し早くロビーに現れた。バンドンにIti夫人の実家があって、そこに仔犬をやる、と言ってジープの後部に仔犬を乗せている。車中、夕べのタクシー料金のことを話したら、Knoはインドネシア国民に代わってお詫びすると言う。バンドンに向かう道路はボコールの植物園のそばを通り、茶畑を通り抜けていく。この道は一直線をなしており、余り混んでいないからスムース。ちょうど真正面にバンドン近くの火山が見える。Knoは時間があればあの山に行ってみようと言う。茶畑はオランダ植民地時代からのもので、イギリスでブレンドする葉として用いられている。旧宗主国のオランダはかつては紅茶愛飲国だったが、次第にコーヒー党になってしまったため、インドネシア紅茶にはダージリンとかアッサムとかいう土地名のブランドが生まれなかったのである。この茶園の山に故スカルノ大統領の別荘があり、デビ夫人と共によくここにやって来たという。バリ島にも同じ様な別荘があった。

インドネシアの人々がデビ夫人をどう思っているのか、野次馬的興味があったが、彼らは遠慮から余り悪くは言わない。ジャカルタ市内の、いつも通うBXXNとホテルの間にデビ夫人の住居だったヤッソー宮殿がある。現在では軍事博物館となっているが、かなり広い敷地と建物で、ちょうど日本のXXX機構程度の大きさ。建物は白い2〜3階建てで、道路から芝を隔ててかなり奥に建っている。時々新聞やテレビに故スカルノ大統領の遺族のニュースが出て、例えばインドネシアの功労勲章を遺族に渡したりしているが、そこに出席する夫人は第1夫人だけ。Knoが言うには目下スカルノ氏の遺産相続をめぐって第1夫人と第2夫人が争っている最中だそうだ。第3夫人たるデビ夫人はどうかというと、Knoいわく「彼女は大金持ちさ。1億ドル持っているのか2億ドル持っているのか、誰も知りはしない。」という。

途中のドライブ・インで、「ちまき」みたいな甘いお菓子と紅茶を飲む。途中ところどころでKnoはこの風景はいい写真になるだろう、とか、この橋を是非撮らなくては、と言うものだからやたらとシャッターを押す羽目に。バンドンに着いたのは10時頃だが、まずIti夫人の実家へ行き、挨拶と仔犬の引き渡しを済ませた。我々が列車でショクジャカルタへたった後、KnoのジープをIti夫人の末弟にジャカルタまで運転して届けるように頼み、すぐにバンドン工科大学へ向かう。この大学の外観はまるで神宮か神殿みたいで、実に変わっている。平屋か2階建ての「神宮」が幾つも軒を連ねているのである。ここは恐らくインドネシア第一の名門であろう(インドネシア大学という説もある)。Knoもこの大学の出身である。

ここの物理学教室の、大学院の講義を2時間引き受けたのである。テーマは「Ensの物理的解釈」という題だが、構内には今日の演題と演者の名前を書いた色刷りポスターが貼ってあった。初めて訪れた大学での講義だし、しかも英語だからいささか神経質にもなろうというものだ。学部長室に行って挨拶したあと階段教室に入る。Knoが延々と僕の経歴を紹介したあと本題に入る。スクリーンがやや遠過ぎて、スライドの映りが今イチという感じだったが、多くの質問が出て、中にはギョっとするような質問もあったから手を抜けない。ハワイ島の起源について尋ねられた時は、地球内部の勉強を少しやっておいて良かったとつくづく思った。僕の本来の専門と違うからだ。地球内部については耳学問でしか知らなかったし、XXX機構で趣味の勉強をしておいたのが役に立った。

昼食は物理学教室の教官たちと一緒に、近所の変わったレストランで摂った。幾層もの床面を持ち、ガメランの古い楽器が置いてあり、時々日本の琴の音も流すという。料理は蒸した大きな川魚とサラダとスープ。スープはちょっと日本の味噌汁に似ているが、少し酸っぱい味がする。日本もインドネシアもアジアの発酵食文化圏の一部だろうから、これはベトナムのように魚汁を発酵させたものかも知れない。サラダは全て蒸した野菜。彼らは決して生野菜を食べない。蒸し魚はかなり癖のある匂いがした。Swn氏がそれらの入った皿を回して寄越し、これをもっと食べなさいよと声を掛けたりするので、精一杯笑顔を作って何度も、何度もお代わりする羽目に。これも仕事のうち。

その後、同じくバンドン市内にあるBXXNのAN施設を訪問し、所内見学と明日のセミナーの打合わせをした。ここのBGrレベルは少し高く、日本だったら大騒ぎになるほどのレベル。ブロック壁は薄く、雨水の浸み込み・浸み出し等については楽観的。日本が神経質過ぎるのか、インドネシアが大ざっぱなのか。

今日の予定が全て終ったあと、もう一度Itiさんの実家に挨拶に行ってから、ソエティ・ホテルへ向かう。実はホテルは予約していなく、ぶっつけ本番で泊まろうと言うわけだ。だから余り上等なホテルではない。そこへ向かう途中、Knoはここが1955年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)のあの国の代表団の泊まったホテル、あれはあの国の泊まったホテル、と説明する。バンドン会議は物凄い大事件として記憶されている様子。ソエティ・ホテルはバンドン工科大学からも近い、小じんまりしたホテルだった。表は割に立派で、客の宿泊棟は中庭を挟んだ裏手にある。2階の角の部屋を僕が取り、Knoは隣の部屋に。僕の部屋にはベッドが3つもある。冷房が無く、代わりに壁に大きな換気扇がはめてある。トイレは洋式でほっとしたが、水の出が余りよくなかった。

インドネシア人にとってバンドンは横浜と鎌倉を混ぜたような所らしい。花の都と呼ばれているそうだ。まるでパリだが、確かにバンドンの一部には高級住宅地があって、そこの邸宅は大きく美しい。線路を境にして富裕な旧地区と、新住民の多い貧民窟に分断されるという。明日行くショクジャカルタは京都みたいなものらしい。

今回の旅行では、Knoに一定額の現金を預け、旅行中の諸経費はKnoの手から払うことにした。KnoはBXXNから正式の旅費を貰って来たが、僕の費用はあとでIAXAが払ってくれるかも知れないが基本的に自分持ち。Knoに預けた軍資金が底をついた時は、僕が追加することにした。夕食は町中の中華料理店へ行く。これはKnoから言い出したのだが、インドネシア料理が続いたのでサービスのつもりか。元来インドネシアには中国人が多く、ここの店も中国人の経営だという。客も中国人が多い。かなり大きな店だが、洗練された感じではない。メニューは漢字にインドネシア語の注がふってあり、Knoは漢字を読んで選んでくれと言う。彼は牛肉でも豚肉でも(今晩は)拘らないと言う。量加減がわからないので手当たり次第に大皿を4つも頼んだら食べきれず。味付けはやはりインドネシア風で、日本で食べる中華料理とも違う。特に香料が違うと思った。しかしKnoは中華料理は、本場中国よりもインドネシアのが一番旨いのだ、と自信を持って言う。食べ過ぎた。

食事を終えて外に出たら、Knoの車のすぐ後ろに何処かの車が駐車していて、動くに動けない。どうすることもできず、車内で待つことにした。Knoは「下手をすると後ろの車の持ち主は、映画館にでも入っているかも知れないぞ」と貧相な声を出す。30分も待っていたらもの凄い豪雨になったが、やっとうしろの車の持ち主が現れて解放された。その晩、夜中に大雨が降ってホテルは雨漏りがして、しかもベッドに寝ている僕の顔に雨粒が当たる、という夢をみた。




1988年10月18日(火)

今日の講義は午後なので、早朝から近所の活火山に行く。Knoは大昔にこの火山が大爆発してこの辺りの地質を変えてしまった可能性があると言う。以前にKno一家は皆でこの山に登ったことがあるそうだ。ただその時は、Ant君がまだ幼児だったので難儀したという。頂上近くまでは車で行けて楽だが、そのあとが大変。頂上ではKnoが硫黄のサンプルを取ってくれる。僕が硫黄の匂いには懐かしみがある、なんて言ったからだ。小学生のころ那須岳から硫黄を取って帰って以来、硫黄をおもちゃにした時代があるため。頂上からは案内人がついてクレータ(火口)まで案内される。歩いても、歩いても行き着かないような深い所へ降りて行かなければならない。クレータの底はいわゆる地獄になっていて、水蒸気や亜硫酸ガスが吹き出している。そこからもとに戻る途中、パラパラと降り出した大粒の雨が、やがて物凄いスコールになってしまった。あいにく雨具の用意がない。案内人が自分の来ていたジャンパーを脱いで、頭から被るようにと僕に渡してくれた。さらにしばらく歩くと屋根付きのバス停みたいな小屋があり、既に何人もいた仲間と一緒に雨宿り。そのうち、案内人が駐車場まで行くと言うので、Knoは自分の車の鍵を渡し、ここまで運転して来るように頼んだ。それで何とかして町中に戻る。

Knoは是非見せたい所があると言って、市内にある地学博物館へ連れて行って呉れた。確かに良い博物館で、色々な鉱物見本が適切に展示されている。ここにも大学生や高校生が大勢いて熱心にメモを取っている。ピテカントロプス(ジャワ原人)の頭骸骨やその発掘現場のパノラマ写真なども展示してあって、なかなか印象的だった。

一旦ホテルに戻って昼食をとる。その後講義のためにBXXNのバンドン機構へ赴く。まず所長室で打ち合わせをしたあと会場に行って驚いた。てっきり小人数で小じんまりしたセミナーをやるものと思っていたら、堂々たる赤じゅうたん敷きの大会場で、国際会議のような円卓が組んであり、スタッフがずらりと並んで待っていた。一瞬たじろいだものの、まるで大統領のごとく重々しく着席することになった。

大変活発な質疑があり、うまく情報交換できたと思う。2時間喋り続けたのでいささか疲労を覚える。外へ出ようとしたら、スタッフの人が寄ってきて、この次の講義はいつかと聞く。いや、もうあとの予定はないと答えたら、がっかりした顔を見せた。物理学から生物学までカバーする講演は珍しく、面白かったと言う。あの顔はお世辞ではないと思う。別の人からは講義録の原稿のコピーを欲しいと言われたが、残念ながらこれは日本語と英語の混合文だから貴方には読めないでしょう、と答え、あとで帰国後に英文のフル・テキストを作ってジャカルタへ送ることになっているので、それを分けて貰うようにと言っておく。Knoに言わせると僕は出始め、少し神経質になっているように見えたと言うが、自分では大会場の雰囲気に慣れてからはむしろ楽しんでやれた。

夕方、バンドン発スラバヤ行きの夜行急行列車に乗る。ショクジャカルタに着くのは午前2時頃と聞いて当惑する。一等車だったが、駅の構内といい、列車の中といい、30年前の日本の夜行3等車を思わせるところがある。車内通路の床に新聞紙を敷いて寝ていたりするところなど、そっくり。寝台は付いていないが、ボーイが各座席にクッションと毛布を配って歩く。また食堂のウェイトレスとウェイターが客からディナーの注文をとって各席に配膳する。

Knoは僕に窓側の席を譲ってくれ、色々な話をする。僕の持っていた日本語のインドネシア旅行案内をおもしろがって見ていた。肝心な話は、もう一度IAXA・エキスパートとして来ないかという話だった。家族を連れて来るなら、借家を世話しようとも言う。僕の方としては些かくたびれたところなので、言質を与えるような確約はしなかった。Knoが言うには、IAXAからの派遣を受け入れるかどうかは結局は自分がサインをして決めるので、もしその気があるなら取っておいてやる、という。

2時に起きなければ、という強迫観念のためさっぱり眠れない。ショクジャカルタに着くと豪雨だった。駅のプラットフォームの放送がけたたましくて「ジョジャー、ジョジャー」と尻上がりの調子で叫ぶ。ショクジャカルタはジョジャという愛称があるのだ。ホームの床には大荷物を抱えて座り込んだり、寝込んだりした者が大勢いる。こんな深夜なのに。タクシーを拾ってBXXNのゲスト・ハウスへ行く。なかなか立派なゲスト・ハウスだった。幾つもの部屋があったが、所長用のVIPルームを提供された。あとで聞いたら、ゲスト・ハウスの管理人が駅まで迎えに来ていたそうだ。ここの管理人は深夜でも用事をすることになっていると言う。2時に着いてもゲスト・ハウスを開けるわけだ。




1988年10月19日(水)

朝7時ごろゲスト・ハウスのホールに出ると、ボーイが既に2人分のコーヒーを用意しており、目玉焼き等の朝食もテーブルに並べてあった。ちなみにインドネシアでは目玉焼きを食べることが多く、例のナシ・ゴレンのトップにも目玉焼きを乗せる。手で食べる方法でなく、西洋風なマナーで食べる。しかし、日本と同じで,食卓にナイフなど刃物が登場することはない。このゲスト・ハウスの飾付けもしゃれている。ステレオの上にはワヤン人形が飾られ、床には綺麗なセクション・カーペットが敷かれ、ティー・テーブルにはバティックのテーブル・センターが掛けてある。

7時半ごろ、ジャカルタのBXXNから研修のため、ショクジャカルタの機構に何カ月か滞在しているIYe夫人、TTy嬢の二人が訪れた。彼女たちはKnoの部下だそうだ。当地でIYe夫人のジープ(Knoのものと全く同じ三菱製の青い車)を借りる手はずになっていたそうだ。IYe夫人はちょっと見では子持ちとは見えないほど若く、少し渡部絵美に似ている。Knnoはあれは少し子供っぽいと言う。8時半頃BXXNの事務代表がやってきて今日の行事日程を打ち合わせる。9時半に所長のHaa博士を訪問して、紅茶を飲んだあと10時から講演を始め、昨日よりもさらに麗々しい装飾の付いた部屋で喋ることになった。昨日の経験から、今日は黒板とスライドの両方を使う。今日もまた最も関心を呼んだのは、CHeの一件だった。以前に僕はXXX機構のパーティで、インドネシアのBik大臣と会ったことがあるが、Bik氏はここの前所長だったそうだ。今は雲の上の存在だと言っていた。

午前は講義に費やしたが、午後は所内見学であちこちまわる。エレクトロニクス関係のワークショップの部屋には卒業実験の学生が大勢いた。半年から1年滞在するそうだが、要するに壊れた機器の修理みたいなことをやっているらしい。ハンダごてを持ってプリント配線板とにらめっこしていた。一般に古い測定装置が多く、中には未完成のため使えないものもある。1年前にコンピュータを入れたばかりだと言っていた。正直な所、まだまだ。Ensもいささか甘いところが見られるが、余り強くは指摘しなかった。

問題はもっと別の所にある気がする。ある大きな部屋には色々な計測器が積み上げてあったが、皆壊れていると言う。聞いて見るとIC等などの補修部品が手に入らないのでお手上げだと言う。ほとんど米国製の機器だが、ICも米国製を欲しいと思っても、中身がわからないので壊れたまま。日本のICを使えばいいのにと言ったら、日本のメーカーとはまだコンタクトがないのだと言う。実際、開発途上国に援助する場合は機器を渡すだけでは不十分。維持サービスまでやらないと、せっかくの高価な高級機器も塵を被ったままになりかねない。途上国側がやたらと高級でデリケートな精密機器を欲しがるのも問題があろう。電圧変動が20%も50%もある所でデリケートな機器が働くものか、と思う。むしろ安定電源装置の設置などから始めるべきでは? MFA省の役人ももっと現場を知った方が良く、書類上の数値だけでは判断できないだろうと思う。帰国後の委員会でこの点を強調した。

この機構の隣にはサヒド・ジャヤ・ホテルの系列のサヒド・ガーデン・ホテルが建っている。昼食は市内のレストランで取ったが、トリのフライが売りもので、オーストラリア人の団体客が観光バスで続々とやってくる。余り大きい店ではないが、トリなら彼等も安心して食べられるからだろう。確かにヤシ油でカラッと揚がっていておいしい。ケンタッキー・フライド・チキンよりも旨い。ただ、ハエがわんわん飛んでいるのがやや気になる。苦手なレバーもKnoが盛んに勧めるので、沢山食べる羽目になった。レバーだってこれくらいカリカリに揚げれば、独特の癖も消える。野菜とスープは例の通りインドネシア風のもの。レストランからゲスト・ハウスに戻るのにKnoの勧めでかのペチャ(輪タク)に乗ってみた。これこそ子供時代の山口県岩国市以来35年ぶりの体験だ。

僕が所内見学でまわっている間に、Knoは僕がジャカルタへ帰る飛行機の切符の手配をしてくれた。彼は別用があるのでジャカルタへは2日後に列車で戻る。従って、Knoとはショクジャカルタで、今回最後の共同作業となる。実際にはTTy嬢が切符の手配をしたらしいが、エコノミー・クラスは売り切れだからビジネス・クラスを買ってあるという。後でジャカルタに戻ってからAkd君達に、Knoがさらに2日ほどショクジャカルタに滞在すると言ったら、彼らは顔を見合わせてニヤニヤ笑い、それはあの美人と一緒に居たいからさ、と言う。

さてこれでインドネシア訪問の全公式行事は終った。あとはKnoの好意による観光があるのみ。前にKnoに、実はインドネシアでは是非実現したい夢が3つあるんだと話しておいた。それはインド洋を見ること、南十字星を見ること、そしてボロブドールの仏教遺跡を見ることだと伝えた。彼はそれを覚えていて、ショクジャカルタへ行った折りにボロブドール遺跡と、できればプランバナン遺跡にも連れて行く、と言ってくれた。そこで夕方から近くのプランバナン寺院遺跡へIYe夫人のジープで行く。ここはかつてガレキの山だったのを、長年かかって修復・復元しつつある。まだ全部が復元されていない。黒っぽい火山岩(安山岩か)を刻んで作った高い石塔の中に入ったり、聖なる牛像と共に写真を撮ったりした。フランス人の団体が見物に来ていたが、驚いたことにKnoはその中のお婆さんとフランス語で会話を始めた。「ロロ・ジョングラン」と呼ばれる一番背が高く有名な塔は、堂々とした偉容を誇っている。ここを離れる前に露店で石鹸を買う。ゲスト・ハウスの石鹸が足りないのを思いだした上、何かインドネシアの日用品を庶民的な店で買って試してみたかったからである。

夜になって町中に出て食事をしていると、小学生くらいの子供達が入れ替わり、立ち替わり、靴磨きの注文を取りに来る。路上の光景は終戦直後の日本みたいだ。ショクジャカルタの銀座通りとも言うべきマリオボロ通りの歩道にはずらっとゴザが敷かれ、寺小屋風のテーブルが並べられて、そこに屋台の食堂が開業する。KnoはIti夫人もこういう店を好むと言う。縁日みたいなのが日常的な風俗になっているらしい。ショクジャカルタ市は2次大戦までは回教王(サルタン)が支配していて、今も政治権力は無くても、やはり特別な存在らしい。そのサルタンの王宮を車からちょっと覗いた。白いイスラム風建築の宮殿の周りは金色の塀や門がめぐらされ、エキゾチックな風情をかもしだしている。現在インドネシアに存在する唯一のサルタンだそうだ。Knoにサルタンとカリフ(教主)の関係を尋ねたが、彼も余り良くは知らないようだ。少なくともアラビアン・ナイトのサルタン(副王)みたいな意味での、メッカやバグダッドとの関係は無いらしい。宿に戻る前にショクジャカルタ独得のバティックを少々買った。バティックにも色々と土地特有の柄があるらしい。

(続く)















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