「魔笛」のCD比較(2/2)        2011.3.23
ザラストロの神殿にタミーノとパパゲーノが到着し、そこで見聞きする数多くの冒険を網羅。これも美しい旋律に満ちています。私は一時期、ベッドと夢の中ではここの音楽がいつも鳴っていました。終幕に向かって、音楽はますます光り輝きます。








2.ザラストロの神殿に到着の比較

(1)1952年盤:ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウイーン・フィル
出始めの部分が余りに慎重という印象。ゼーフリートが素晴らしく巧い。やはりパミーナの様な役は、こういう声で無ければ、と思います。ジョージ・ロンドンも合格。ペーター・クラインのモノスタトスが突然登場して2重唱に割り込むところは、声の対比が良いだけに素晴らしい効果をあげています。ルートヴィヒ・ウエーバーの歌うザラストロは声に今ひとつ力の無さを感じます。これでカラヤンがセリフ入りの全曲を残していて呉れたらなあ、とは今となっては無理。ステレオ時代になって、あとで入れた「魔笛」もこれほどテンポは速くないでしょう。

(2)1953年盤:ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、イタリアRAI響
ここではパミーナ役をシュワルツコップが歌っていますが、よくよく聴いた後で受けた印象は、シュワルツコップという人は巧いけれど、「魔笛」には合わないかな、と思います。あんなに自立したパミーナだったら、タミーノに救出される必要がないからです。ニコライ・ゲッダのタミーノは情熱的ですが、モノスタトスは低い声がそれほど出ていません。そしてマリオ・ペトリの歌うザラストロの声が弱いようです。何よりも2重唱に割り込むモノスタトスの声が、割り込む相手の声と区別が付かない(画像抜きの場合)ので、これは巧くないと思いました。またグロッケンシュピールを鳴らす場面では、その音の響きがしつこく、これはエコーの掛け過ぎだと思いました。エコーと言うのは魔物です。最後に拍手が収録されています。指揮者のカラヤンがまだ演奏者の詳細に口出しし難い時代だったようです。

(3)1955年盤:カール・ベーム指揮、ウイーン・フィル
最初に出て来るパミーナの歌はヒルデ・ギューデンが歌いますが、確かにきれいな声ですが、ホンの少し引きずって歌っている様です。あれが無ければ、と思います。それに合わせるパパゲーノはワルター・ベリーで、これは順当ですね。但し、レオポルト・シモノーの王子様タミーノは、老け声です。素晴らしい音楽が続きますが、フィナーレの部分がやや長過ぎるような気がしました。でも音楽は素晴らしい。「魔笛」第1幕の音楽はどの部分をとっても絶品です。

(4)1955年盤:フェレンス・フリッチャイ指揮、RIAS響(現在のベルリン放送響)
まず気がつくのはエルネスト・エフリガー(T)の巧さです。これなら行けそう。今までタミーノ役には殆ど興味を持てなかったのですが、ヘフリガーには僅かながらイタリアの匂いがします。やはりテノールが余りに禁欲的ではつまらない。イタリア人である必要はなく、何かそのスパイスを効かすのが望ましいと考えます。あとは弁者役のキム・ボルイ(B)が声も技巧も素晴らしいと思いました。反面ザラストロ役のヨーゼフ・グラインドル(B)は、ここでは、つまらない声をしています。と言うより、そもそも私は「魔笛」の音楽には魅せられますが、ザラストロの集団は余り好きでないのです。お節介で、自己中心で、しつこいと感じています。モーツアルトだってそう思っているんじゃ無いでしょうか?

フリッチャイの速いテンポに耳を集中すると、全体がスッキリと、キビキビとした感じで、私には心地よく聴こえました。不思議な気がするのは、あの魔法の笛の効力が第2幕に至ってもなお有効なことです。夜の女王の言葉は本当だったのでは無いでしょうか?グロッケンシュピール(楽器)だって相変わらず夜の女王から貰ったお守りですよね?ベルイマンの映画で、最後に、他の人々を押しのけて、パパゲーノ家族がぞろぞろ子供達を連れて舞台前面に出てくるのも、その現れではないでしょうか。

(5)1955年盤:ジョージ・セル指揮、ウイーン・フィル
これはザルツブルク音楽祭の実況でしょうから3人の童子達を歌うのがウイーン少年合唱団でも驚かない。他のCD でのソプラノ達と比較すると、少年の声とソプラノの声はやはり違います。ヴィブラートの掛からない声。但しCDにはクレジットが付いていません。単にウイーン少年合唱団と記してあります。リーザ・デラ=カーザ(Sp)の歌うパミーナは、声があまりパミーナって感じでなく、むしろその母親(夜の女王)を歌えば良いかも(声があれば!)。少しねじれた陰影が付いて聴こえるのですが、それでも夜の女王と血で繋がった長女ならば、こういう声のパミーナでも良いのかな、とも思いました。妻はコレを聴いて「声が少し引きつっている」と申しておりました。

録音は余り上手くなく、パミーナの声のフォルテがうまく録られていません。そしてレオポルト・シモノー(T)の歌うタミーノはどうしても老け声。ワルター・ベリー(Br)の歌うパパゲーノはまずまず。弁者の声はハンス・ホッター(Br)ですが、これは素晴らしく朗々と響きます。対するクルト・ベーメ(B)は物凄い低音のザラストロを聴かせます。テンポは相変わらず早めですが、その意気込みが良く伝わって来ます。もし「魔笛」に興味が湧いたんだけど、という方はまず速い「魔笛」で全体像を掴んでしまう(私のやり方)のが良いのではないでしょうか。

(6)1964年盤:オットー・クレンペラー指揮、フィルハーモニア管
ここでオットー・クレンペラーの指揮ぶりは安定しています。グアンドラ・ヤノヴィッツ(Sp)の歌うパミーナの声ですが、これを聴く限り、問題は無くこれでカラヤンにせかされてジークリンデを歌ったのがどういう影響を残したか興味深いところ(「音楽のすすめ」 Appendix(128)〜「ワルキューレ」の比較 その5を参照)。ただ、ヤノヴィッツの声は透明だと言っても、私が良く使うセリフ「セロリみたい」です。脂肪分や、不透明な要素がサッパリ切り落されているからですが、にも関わらず私はヤノヴィッツのパミーナには好意をもちました。フランツ・クラス(B)の弁者は堂々と聴こえ、ゴットロープ・フリック(B)の歌うザラストロには貫禄を感じました。パパゲーノ役のワルター・ベリー(Br)は少し声が変化した様です。またタミーノを歌うニコライ・ゲッダ(T)は相変わらずの青春丸出しの声でしたが、ああいう方が、分別のついた年寄り然としたタミーノより良いと思います。3人の童子役は巧いけれど、やはりボーイ・ソプラノには負けるのでは無いでしょうか。

(7)1969年盤:ゲオルク・ショルティ指揮、ウイーン・フィル
ピラール・ローレンガー(Sp)のパミーナは安心して聴けます。安心を越えたレベルです。パミーナの詠唱「恋する男は」を速いテンポで終わらせたあと直ぐつづくオーケストラの響きは速くなくて、ゆっくりと押さえた響きでした。これは適切だと思います。3人の童子はウイーン少年合唱団員が歌いますが、これも妥当。少年合唱というのは音域だけの問題でなく、その音色はソプラノに無いものを持っています。モノスタトスとパパゲーノとの声色の対比は適当で、よく違いが分かります。やはり視覚を伴わないオペラではそういう所にも気を使わなければ。タミーノの声は良いと思いますが、聴いているうちに、この人もう少し年をとったら、声の魅力が薄れそうだな、と思いました。レオポルト・シモノー(T)が良い例だろうと思います。ああいう音色は余り興味ありません。ここで思い切り正直になりますと、ジェームス・キング(T)とかジェス・トーマス(T)といったワーグナーを歌う英雄達を使えないでしょうか。王子様ですからやはり英雄的な声が欲しい!

(8)1987年盤:アーノルド・エストマン指揮、ドロットニングホルム歌劇場管
再び古楽器の響きの世界。管弦楽だけがそうでなく、人声まで古楽器風の響きを聴かせます。特にパミーナの発声はそうです。古楽器風というのは教会音楽等に聴かれるもので、真ん中をフワーと膨らませ、すぐに減衰させてしまう。通常なら中央部分に適当な母音を見つけて、それを引きずっていくから音の終りが萎まないのですが、ここでは音の最後の部分がスーッと減衰してしまいます。これに私は楽しめなかった。特に始めの部分でパパゲーノとパミーナの2重唱がありますが、あそこで何か妙な音を聴いているようでした。考えてみればパパゲーノだって随分老けたパパゲーノですから、そのせいかも知れません。声量が薄く、性格もハッキリ伝わって来ないのです(実際にはパパゲーノはここで28歳? 部屋で遭遇したパパゲーナが自分は18歳と言っていますし、自分とパパゲーノの歳の差が10年と言っていますから)。弁者は武士の担当の人が歌っていましたが、高音の声に少し難点があって、あの恐るべきハンス・ホッター(Br)やフランツ・クラス(Br)の低音もついに聴こえて来ませんでした。同様にモノスタトスを歌うのがマルティン・ペッツオルトですがその声がパパゲーノと余り対比がとれていません。グロッケンシュピールを取り出す直前の、パパゲーノとパミーナの2重唱に突然割り込む箇所も、知らないと付いていくのが困難ではないでしょうか。途中で鳥の鳴き声が入っているのは新鮮でした。またここで童子達の歌は少年によって歌われています(これは書いてないのですが耳で判断)。(なお僧や夜の女王等の喋り声は俳優の吹き替えです)


マリナーの抜粋盤について

(9)1993年盤(抜粋盤):ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内管
ネヴィル・マリナーの指揮だと言うことをすっかり忘れていました。まずキリ・テ・カナワ(Sp)のパミーナですが、本当は口を継ぐみたいところ。正直言ってあまり巧くありません。パパゲーノを演じるオラフ・ベーア(Br)はまずまずです。両人の掛け合いを聴いていると、何か相互作用が足りないのです。この録音は1987年ですから、そんなに衰えを論じる時と違うと思うのですがここでのテ・カナワの声には不満が残ります。ああ言う声は例えばヴェルディ「オテロ」のデスデモーナ役だったらいいか、とも思いましたが、それは「音楽のすすめ」第1章 第17話「オテロの真実」の箇所でコキオロシタところですから、言わないことにしましょう。タミーノ役はフランシスコ・アライサ(T)が歌っていて、彼は目一杯声を張り上げていますが、それは正解でしょう。またアルド・バルディン(T)の歌うモノスタトスは、パパゲーノとパミーナの2重唱に割り込む様が、尤もくっきりと聴こえました。

3.ザラストロの神殿における修業の比較

これで両人が神殿に到着しました。次は神殿の中でのタミーノとパミーナ両人の修業と、それにプイと横を向いたパパゲーノとパパゲーナ両人が幸せ一杯な結果に至る箇所です。タミーノ達の修業は恙無く終了して、ザラストロから祝福を受け、今後ますますこの集団の中で、人生を歩むことになりますが、パパゲーノ達はそういう修業には興味がなく、自分たちの天から与えられた幸せを大事にして、子供達に囲まれて暮らすことに満足しています。それぞれにハッピーエンドです。夜の女王がその後どうなったか等の話は分かりません。ゲーテはそれらをネタにして「魔笛第2話」を書き始めたそうですが、完成していません。やはりモーツアルトと一緒に滅びてしまったようです。


(1)1952年盤:ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウイーン・フィル
セリフのみの部分はカットされています。最初にルートヴィヒ・ウエーバー(Br)の歌うザラストロの凄い低音に感心しました。ウイルマ・リップ(Sp)の歌う夜の女王は、かなり貫禄のある歌いぶりでした。イルムガルト・ゼーフリート(Sp)については、強烈な印象は残っていません。

(2)1953年盤:ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、イタリアRAI響
これはイタリア語で歌った「魔笛」。そのためか諸所に影響がでています。オーケストラもやはりイタリア風とも申しますか、柔らかな、引きずるような響きをしています。それに残響がタップリ。マリオ・ペトリ(Br)の扮するザラストロは当初、弱々しく響いたのですが、あとで低音を響かせる場面では回復していました。モノスタトスの声は余りに明るいので、これはタミーノに向いているんじゃなかろうか、と思いました。少し英雄がかった声ですしね。アントニオ・ピリノのモノスタトスは、声がタミーノと対比が付いていません。もっと期待はずれだったのがリタ・シュトライヒの演じる夜の女王。第1幕では弱く甘い声を出し、悲しみに打ちひしがれた声を出すのも納得が行きます。ところがこの第2幕の女王は怒り狂っていなければなりません。それが、イタリア語のせいだと思いますが、遠慮が過ぎて、まるで「子守歌みたい」に響くのです。本当に子守歌という表現は聴きながらフト頭に浮かんだのですが、ピッタリだと思います。しかしカラヤンがそれを良しとする訳が無く、この女王の歌の締めくくりで、思い切りジャン!という強い響きを響かせました。あれは怒っている! パパゲーナが登場してパパゲーノと会う場面が続きますが、このパパゲーノは歳を取り過ぎたオジさん風の声でした。かのジュゼッペ・タディ(Br)なのに残念です。イタリア語なので、聴衆が喜び、ザワザワしていることも分かります。

(3)1955年盤:カール・ベーム指揮、ウイーン・フィル
ベームのお蔭でザラストロのソロもそんなに長いとは気がつきません。ここでのザラストロはクルト・ベーメ(Br)がやりますが、私の耳にはベーメは伴奏無しには歌えないのではないか、と思えました。つまりベーメは余り明解な音程を持っていないように、フラフラとゆらいで聴こえます。夜の女王はウイルマ・リップ(Sp)ですが、やっぱり第1幕の女王の気分を引きずっているようです。第2幕で付きまとう、あの理不尽なほど非情な女王がここからは聴き取れないからです。代わりにここにあるのは、レガートで美しく、悲しく歌う母親の姿です。本当にキャスティングって大事ですね。ベームの指揮ぶりはここでも万全でした。本当にベームっていいなあ。

(4)1955年盤:フェレンス・フリッチャイ指揮、RIAS響(現在のベルリン放送響)
ヨーゼフ・グラインドル(Br)のザラストロは、低音は良く出るし、当初これだと思いましたが、しばらくすると、なにか鼻歌風に歌っている様に聴こえました。何かが足りないのです。情熱と熱気かも。リタ・シュトライヒ(Sp)は一生懸命に怒った夜の女王を演じていますが、要するにこの歌手は本質的にお嬢さん歌手のようです。

(5)1955年盤:ジョージ・セル指揮、ウイーン・フィル
クルト・ベーメ(Sp)のザラストロは、ここでは音程はしっかりしているし、低音もしっかり出ていて、これなら前出のグラインドルより良いかもしれないな、と期待しました。しかし詠唱「この聖堂で」の所が巧くない。つまり上がったり下がったりする音階に、声が付いて行っていないのです。どうも、「この聖堂で」は難しいようです。本当のところをさらけ出してしまう歌。エリカ・ケート(Sp)の夜の女王も声が付いて行ってないなあ、と音が階段状になる箇所で感じました。とどめが最後のあたり。難しいですね。

(6)1964年盤:オットー・クレンペラー指揮、フィルハーモニア管
やはりクレンペラーの指揮ぶりは、ホンの少しだけ遅いと思います。たっぷりとも言えますが、直角に切り込むより、滑らかにスタートしてから最大の音量に至るという構成。殆どのフレーズでそのように聴こえました。オペラとして迫力を、とかプロットの意味を噛み締めて、とか言うより、ゆったりと音楽を楽しもう、と言っているかのようです。3人の侍女達の声は良く訓練されています。夜の女王の第2のアリアはルチア・ポップ(Sp)によって歌われますが、かなりゆっくりしたテンポで、丁寧に歌われています。このテンポは指揮者の趣味だろうと思います。この丁寧さを良とするか否かは聴く人の判断次第。ポップはそれに助けられながらも、巧みに歌っています。それに夜の女王という役は、余り年をとってから歌うような役では無いのです。昔このレコードを批評したある評論家は、3名の侍女たちが余りに有能なので、肝心の、ご主人たるポップが霞んで見える、と論じましたが、私の耳にはそういうことは感じられません。一緒に聴いた妻は「これは若い時の歌ね」と感想を述べました。ゴットロープ・フリック(Br)はクルト・ベーメ(Br)の時に散見(聴)したようなヘマはしていません。これに続く3人の童子はソプラノ達によりますが、巧くトレースしていますが、やはりボーイ・ソプラノの清純さには負けそう。

(7)1969年盤:ゲオルク・ショルティ指揮、ウイーン・フィル
ウイーン・フィルの音にまずしびれます。決して急がず、しかも低音がしっかり聴こえますから、これは素晴らしいと思いました。その代わりザラストロを歌うマルティ・タルヴェラ(Br)は、やや歌い方が鼻歌風に聴こえました。他のキャストはそれぞれに適当かと思えましたが、かなりモダーンな音色を持っています。ただ、モダーンではありますが、ショルティは決して急がず、という態度で一貫しているので、楽しめます。クリスティーナ・ドイテコム(Sp)の夜の女王は、確かなテクニックですが、あれにもう少し強烈な迫力というか、ハチャメチャな馬力が、迫るように感じられると良いと思いました。少年たちの童子は適役。

(8)1987年盤:アーノルド・エストマン指揮、ドロットニングホルム歌劇場管
これは再び宮廷劇場で、その管弦楽は古楽器風です。ここで感心したのはザラストロを歌うクリスティン・ジークムントソン(Br)の巧さです。実はこの時、私の再生装置のご機嫌が悪く、それをカバーすべくやや音を大きくして聴いたのですが、万全に機械が働く場合、ジークムントソンの声は最も安心して聴けるものでした。ただしモノスタトスを歌うマルティン・ペッツオルトが余りコワモテな声ではないので、やや軽い感じ(と言うより楽しそうに聴こえる)がしました。少年合唱団を童子に割り当てていますが、これも正解。やはり少年の声の方がいいと思います。夜の女王を歌うスミ・ジョー(Sp)は、大変力のこもった声を聴かせますが、その声が途切れるかのようになる瞬間が見られたのは、恐らくは指揮者の趣味だと考えます。声にヴィブラートが全くなく、曇りの無い声ですから、夜の女王に相応しい(妻はこれを聴きながら、凄いわね、と感想を述べました)。彼女の声を聴きながら、前夜聴いたルチア・ポップ(Sp)の声を思い出しますと、ポップのはやはり若い時代の声だったな、と思います。ここでは俳優達に、セリフの部分を任せていますが、ジョーの喋り役は韓国人のようで、チャン・ミンジュと記載されています。もしジョーの声質を持ち、クリスティーナ・ドイテコム(Sp)のような確実なテクニックを持った人が夜の女王を歌えば万全なのですが。ジョーはこの第2幕のアリアの後半を急ぐように歌うので、つんのめりそうに聴こえます。指揮者のせいかも知れません。この歌手も色々な指揮者との共演を聴いてみたいもの。

(9)1993年盤(抜粋盤):ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内管
まずサミュエル・レイミー(Br)の歌う堂々たるザラストロに驚かされます。これはオズオズしてはダメ。レイミーには問題がありません。またここで注目すべきは夜の女王を歌う、シェリル・スチューダー(Sp)でしょう。スチューダーはあらゆる音をしっかりと、迫力を持って歌っています。迫力が指揮者ネヴィル・マリナーの指示だったとせよ、それは構わない。これだけの迫力で歌ってみせたら、聴く者をしゅんとさせてしまいます。高音域に達するとき、チョッと息を詰めている(一瞬音が遅れるのです)のが見え隠れしますが(2回目はそういうことはありません)、この迫力で帳消しにしましょう。いわば、クリスティーナ・ドイテコム(Sp)の技術と、スミ・ジョー(Sp)の声質をスチューダーは併せ持っています。それがミュンヘンの劇場から、「技術力の低下」を理由に首になったこともあるというのは、頷けないことです。指揮者の故ゲオルク・ショルティはヒルデガルト・ベーレンス(Sp)等の後釜として、ワルトラウト・マイヤー(Ms)とスチューダーを挙げていましたが、これは頷けます。妻はこのシリーズを聴く際、殆どの場合、そばで聴いていましたが、スチューダーの声に「素晴らしい」と言っていました。逸材に違いない。それにしてもここでのマリナーの指揮ぶりは別人のように迫力のあるものでした。スチューダーというと私はドニゼッティ「ランメルムーアのルチア」を持っていますが、あのルチアのような弱々しい声と、ここにおける毅然たる声を併せ持つのは大変なことです。

4.パパゲーノ達の幸せの比較

タミーノ達の訓練が無事に終わり、パミーナと共にザラストロ集団から祝福され、その団員になる、という下りです。その話自体はあまり好きでないのですが、ここで聴き物は終わりに出て来るパパゲーノとパパゲーナの歌と、ハッピーエンドのくだりには何時も感動しています。魔笛(フルート)はパミーナの父が嵐の中で作ったものだ、とパミーナがタミーノに説明するのですが、ここの父というのは本当のパミーナの父親です。どうも夜の女王が渡した魔笛なのに、いつの間にかザラストロの物になっているのかが不思議。


(1)1952年盤:ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウイーン・フィル
イルムガルト・ゼーフリート(Sp)の声に聴き惚れました。50年代から早くも高音が衰え始めていますが、ここに聴かれる程度はまずまずでしょう。カラヤンはゆっくりと指揮しています。パパゲーノを歌うエーリッヒ・クンツ(Br)は高音部に限界がある(上だけでなく、黄金領域より下になるとオジさんみたいな声色になる)ようですが、でも、なかなか魅力的な響きをしていました。ルートヴィヒ・ウエーバー(B)のザラストロの声も素晴らしい。そして童子達の声はボーイ・ソプラノでは無く成人女子でしたが、声を潜めて歌っており、収録された音には魅力を感じました。カラヤンのゆっくり目の指揮との相乗効果で、これは魅力的な「魔笛」だと思う次第。

(2)1953年盤:ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、イタリアRAI響
まるで風呂屋で歌っているようなエコーの大きい音でした。エリザベート・シュワルツコップ(Sp)の歌はイルムガルト・ゼーフリート(Sp)と比べると自立性の大きいことは確かです。シュワルツコップはここで誰よりも大きな声で正確に歌っているし、あれだけ自立していれば、タミーノの存在が霞むのではないでしょうか。ただ、がっかりしたのは、ザラストロを歌うマリオ・ペトリ(T)の声が全くなかったこと。パパゲーノの場面は終わった後,急に速度が速くなるのは52年盤と同様でした。

(3)1955年盤:カール・ベーム指揮、ウイーン・フィル
指揮者カール・ベームのやさしい発想に基づく管弦楽です。パミーナを歌っているのがヒルデ・ギューデン(Sp)だということは直ぐに分かりました。ただし、ここでのギューデンの発声に少し注文があります。それはまるで少女小説から飛び出したような声なので、これで運命の試練に耐えられるだろうか、ということです。どこか他人に寄りかかるような姿勢が感じられました。2人の武士の合唱は良かった。これを聴きながら、あとで思ったのは、ベルリン録音のロバータ・ピータース(Sp)が夜の女王を歌った盤はどうだったんだろう、ということです。私が故意にベームを避けていたことは残念だった、と反省しきり。

(4)1955年盤:フェレンス・フリッチャイ指揮、RIAS響(現在のベルリン放送響)
まずオーケストラの音の美しい透明感に感心しました。贅肉の無い、透明な響きがあります。そしてここはドイツなのですね。イタリアではモーツアルトは余り人気がないと聴きますが、その訳の一部がここで想像できました。マリア・スチューダー(Sp)の歌うパミーナは声の美しさと的確な表情付けに感心しました(側から妻はきれいね、と感想を述べました)が、ここでのパパゲーノはディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(Br)です。フィッシャー=ディースカウの声はそれなりに形をなしているし、安定感もあります。ただ、フィッシャー=ディースカウの歌だ、ということで引っかかる人もいると思います。音程もそれほど万全ではないようです(恐ろしいことを書いていますが)。要するにここでは、フェレンス・フリッチャイの指揮棒から出る音の響きに、どれだけ共感するかが全体の印象を左右するだろう、と思ったわけ。

(5)1955年盤:ジョージ・セル指揮、ウイーン・フィル
セルの演奏を聴いていると、これが標準だと言いたくなるほど、ピッタリの音楽になっています。今までジョージ・セルの録音に余り興味が無かったのですが、これは反省です。前に不満をのべたリーザ・デラ=カーザ(Sp)のソプラノも、母親にすがろうとする、そしてすがらざるを得ないような状況に追い込まれた、と考えるなら、尤もらしいことなんですね。つまり、ここでパミーナに少女の姿を求めるとがっかりしますが、そうでなくて大人の雰囲気を持ちはじめ、恋に落ちた若い女性だと考えれば、これもあっても良いと思いました。ワルター・ベリーのパパゲーノは声が乱れていて、かなりくたびれた感じ。レオポルド・シモノー(T)のタミーノの声は相変わらず、余り好きな声とは言い難いようです。ザルツブルク音楽祭の実況録音ですが、やはり実況というのはいいですね。本当にそう思います。童子達はウイーン少年合唱団員が歌っています。このCD箱には色々キャストが印刷してあるのですが、パパゲーナを歌ったグラツイエラ・シュッティ(Sp)の名が見当たりませんでした。どうして?

(6)1964年盤:オットー・クレンペラー指揮、フィルハーモニア管
オットー・クレンペラーのモーツアルトなので、期待して聴きました。あちこちでクレンペラーはテンポを緩めたり、早めたりしているのが良く分ります。女主人の夜の女王はルチア・ポップ(Sp)ですが、これも素晴らしい声で、音程も、リズムも透明感もどこを取っても素晴らしい。ただ、そのうちに分かったのですが、ポップは喉を透明な楽器みたいに使用しています。つまり、あまり情感がないとも言えます。2人の武士達の合唱は声が弱いので調べてみたら、テノールの方は余り聴いたことの無い、無名の人でした。これは唯一の欠点と言えそう。クレンペラー自身がテンポを緩めたり、緊張させているのは頷けますし、興味深く聴きました。しかもテンポを緩める時、まずオーケストラを黙らせて(本当に黙るはずは無いのですが)、それから声楽をゆっくりと歌い出させます。これは面白かった。ワルター・ベリー(Br)のパパゲーノは楽しい声でしたし、適役でしょう。ゴットロープ・フリック(B)のザラストロは最後を締めくくるのに相応しい低音を響かせていました。

(7)1969年盤:ゲオルク・ショルティ指揮、ウイーン・フィル
ゲオルク・ショルティの指揮は実にコツを得ていると思います。3人の童子の合唱を聴いていて、これは相当な訓練をしたな、と思いましたが、他の指揮者のテイクでは確かに子供達を使ってはいても(全部ではなくても)、単に声が低い子はアルト、高い子はソプラノ、と言った調子だったことに気がつきます。ショルティはそうでなく、全体の響きを考慮しています。その3重唱の所から進むリズム感の確かさ、これは聴いていて心地よく、ショルティのその面の才能を確認できました。またピラール・ローレンガー(Sp)の歌声にもしびれました。ローレンガーがイタリア・オペラを歌うとき、時として耐えがたいようなヴィブラートを感じてしまうのですが、ここではしっかり、それも並みではない意志を光らせています。2人の武士達の2重唱は申し分ない声でした。調べたらルネ・コロ(T)と、ハンス・ゾーティン(B)でしたから、なるほどと思った次第。後のワーグナー歌いの重鎮だったのですね。モノスタトスを歌うゲルハルト・ショトルツエ(T)は適役でしたし、最後の場面ではモノスタトスの声がハッキリと聴き取れました。最後のマルティ・タルヴェラ(B)の歌うザラストロの歌は、もう少し低音が出ても良いかなと思いましたが、全体としてなかなか良い演奏でした。

(8)1987年盤:アーノルド・エストマン指揮、ドロットニングホルム歌劇場管
相変わらずの古楽器風の音ですが、それに慣れると楽しめると思います。特にリズムの刻み方が他と違うような気がします。合唱がすばらしい。また少年合唱団が3人の童子を担当していますが、これも出色でした。ただグロッケンシュピールを鳴らす所の音楽が余りに速く、目を回してしまいます。それでもモノスタトスの声が際立ち、女王と3人の侍女達との合唱も素晴らしい。こういう所、とかく全体に埋没してしまうのですが、これは埋没なんかしていません。一瞬ですが、スミ・ジョー(Sp)の強い声が合唱の中に響きました。そして、バーバラ・ボニー(Sp)の歌うパミーナは古楽器風の訓練を受けたものとして、良く歌っています。指揮者は独得のリズムを刻み、それに合うように歌手達を訓練したのではないでしょうか。古楽器にあうリズムというのは、ハッキリとしたリズムで、声もまた古楽器の一部にあたるという考えなのでしょう(他の誰よりもしっかりとリズムを刻んでいます)。それを受け入れられる人はこの演奏を楽しめます。私も次第に引き込まれました。

(9)1993年盤(抜粋盤):ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内管
キリ・テ・カナワ(Sp)を聴いていると思うのですが、彼女の歌は少しオーバーかも知れません。しんみりと歌うし、それなりの真実味もあるのですが、「魔笛」には合わない。世の中の怨念や、恨みつらみを盛り込んだ、演歌みたいな歌ではパミーナらしくない。もっとサッパリした声で、しかも思い詰めて歌わないと。イルムガルト・ゼーフリート(Sp)と比較すると私が何を言いたいかはお分かり頂けると思います。このCDの終わり近くで、オラフ・ベーアが歌うパパゲーノの声がすこし震えているように聴こえましたが、私の聴き方がおかしいのかもしれません。それはオン・マイクで歌うと目立ち、オフ・マイクで歌うとカバーされて見えなくなります。エヴァ・リンドのパパゲーナの声は良く通っており、問題ありません。またモノスタトスを歌うアルド・パルディンの声は随分キタナイ声になっていますが、それは役柄でしょう。少年合唱団の声はテルツ少年合唱団が巧みに歌っていました。これは逸材だったと思います。そしてザラストロを歌うサミュエル・レイミーの深々とした低音にはしびれます。

千葉のF高


「魔笛」の画像その1
ベルイマン監督の「魔笛」

「魔笛」の楽しさを味わうのに最適なのは、筋がどんどん進む演出ではないか、と思います(特に余り慣れていない場合)。即ちモーツアルトに多いレシタティーヴォ・セッコの早口で喋る箇所を、本当に早口で喋らせてしまうのです。その方が時間も短くなって退屈せずに済む(本当はレシタティーヴォ・セッコにはそれなりの良さがあるのですが、それはオペラに慣れてからにしましょう)。特に子供達にオペラを観せるなら、レシタティーヴォ・セッコの省略はテです!スウエーデンのベルイマン監督の映画「魔笛」がありますが、あれがイチオシでは無いでしょうか。よく考えられた劇進行と、演出です。昔私がニューヨークに行った時、Alからベルイマン監督の「魔笛」を観るように勧められたのですが、当時はまだ持っていませんでした(「音楽のすすめ」第2章 第29話「ウオルドーフ・アストリア・ホテル」を参照)。後で買って観たらナカナカのシロモノでした。そこで使われる言語はスウエーデン語です。基本的にドイツ語もスウエーデン語も同じ言語から進化した従兄弟同士ですが、Nein, nein(ナイン、ナイン)となっている所をネイン、ネインと発音するので、時々そうだった、これはスウエーデン語だったんだ、と苦笑しています。

ベルイマン監督の映画では序曲が遅く、どうしたんだろうと思いますが、いざ開始した時、舞台を右に左にと逃げ回るのは、ぬいぐるみになった(漫画チックな姿ですが)竜と、それに追いかけられて逃げ回るタミーノ。まずはこの演出で子供達の目が開きます!そして3人の侍女たちの満面笑みを浮かべた合唱と、それに続く夜の女王の登場。この場面では背後にあるウズ状の星空は夜の表現にピッタリ合います。そして見るからに楽しそうなパパゲーノの登場と、総勢が舞台から客席に向かって並んで歌う歌の場面!これにはやられた、と思いました。オペラでは堂々と歌手が客席を見ることは滅多に無いので。タミーノは歌わなければならない義務感が少し見えましたが、あとのメンバーは歌うことが楽しくて仕方がない、という風情。

そして天から気球が降りて来ますが、その中に3人の童子に扮した少年達が乗っています。童子を演じる子供達の思いっきりの笑顔を見て、これは相当な訓練をしたな、と思いました。あのシーンは大好きです。まだ小学校にも行っていないような年齢と判断しました。大きく口を開けているし、本当に歌っているんだろうな、と思った次第。

この後は、音楽は素晴らしいのですが、ザラストロの仲間に引き入れようとする一方的なお節介に、イライラします。まるで秘密結社に引き込もうとする拉致騒ぎみたい、というのが私の本音です。でも童子達が出て来てパミーナを説得しようとする場面とか、夜の女王が再度登場してタミーノを叱る場面は素晴らしい。特に夜の女王はこの第2幕のアリアで、スタッカートを強調して歌っているのに気がつきました。そうでなければイケナイのです!第1幕はレガートに、そして第2幕は激しいスタッカートで、と使い分けなければいけません。ここの処理は全くの正解でした(但し、あの歌の味付けにはチョッと抵抗がありました)。純声楽的に見たとき、ビルギット・ノーデンというソプラノが本当にあの音色になるのかどうかは分かりません。私の耳には、高音部になるとエコーが聴こえましたし、弱い声なのかもしれません。夜の女王だけでなく、他のキャストも本当にああいう声が出ていたかどうかは疑問です。でもコレは子供でも楽しめる「魔笛」、しかし決して子供相手だからと言って手抜きの無い「魔笛」。その場合、トリックは許されるのでは無いでしょうか。

それにザラストロを除く全キャストは生き生きとしていますし、観ていても楽しい。あのバイキンマンを思わせるような帽子を被ったモノスタトスだって楽しい。パパゲーノの言うような、そんな説教は聞きたくない、それよりも食べたいし、寝たいし、女房が欲しいよ、という主張は実は勝手にプロットを変更されたモーツアルトの抗議だったのではないでしょうか。だから最終場面で幕が降りる時、パパゲーノとパパゲーナはドウしたんだろう、とフト湧く疑問に答えるべく、カーテンが着地する直前に、そのカーテンの前に両人が現れ、それも多くの生まれた子供達を引き連れて、舞台を食っていました。ああこれは楽しい世の中だなあ、と言うところ。これが「魔笛」。キャスト達の見せる極上の笑顔と最後のシーン、これですね。ザラストロは姿格好からして力がありません。モノスタトスのことを「あの嫌らしいムーア人」などと言っているのは今日的ではないし。

途中で出て来る多くの歌、例えばパミーナが歌う「恋する男は」とかタミーノの「おお永遠の夜よ」、「多分彼はパミーナに逢えたな」とか、あるいはグロッケンシュピールを鳴らしてモノスタトス一同を骨抜きにしてしまう箇所等(その一部にシューベルト「童は見たり」と聴こえて来る)は、本当にモーツアルトが天才だという証明です。最後に気がついた箇所を2つ。それは第1幕でザラストロがモノスタトスに77回のムチを与えようと言う場面がありますね(翻訳の付いているものとして、ショルティ盤とフリッチャイ盤で確認)。映画の画面上に出る翻訳は確実に555回のムチと出ていました。あれは間違いではありませんか。同様に、第2幕で夜の女王が登場したあと、ザラストロはパミーナと対話するのですが、そこでパミーナはザラストロのことを父上と呼ぶ対話プロットが出ていますが、原文では単にHerrと呼びかけているだけですから、額面通り受け取ると間違います。尤も修道院等では長老のことを皆、父上と呼ぶのかも知れません。このレーザーディスクは、間違いが見つかれば書き直してくれるそうなので、それに期待しましょう。

ベルイマンの映画でパパゲーノを歌っているホーケン・ハーゲゴートの顔を見ていると、私は米国YYY機構のC君を思い出して懐かしく思います。30年前に初めて逢った当時のCの顔に似ているからです。その後30年の間に、Cはすっかり体脂肪がたまり、体の外観も変ってしまいましたが、初めからああだったのではなく、もう少し締まっていた(太めだとしても)のです。Cがモーツアルトが一番好きと言っていましたが、それはオペラ「魔笛」を含むものだったのでしょうか。それでは最後に、バイエルン歌劇場で録画したウオルフガング・ザヴァリッシュの指揮したものを通して聴いて(観て)みましょう。



「魔笛」の画像その2
バイエルン国立歌劇場の「魔笛」

最後に登場するのはバイエルン国立歌劇場の「魔笛」の実況です。これはザヴァリッシュの指揮が少し速すぎるのではないでしょうか。序曲からして、雑だなあという感想を持ちました。まず現れるタミーノ役のフランシスコ・アライサ(T)はロッシーニ「シンデレラ」を好演するなど、この時期は絶頂期だったようです。本人は進んでワーグナーに興味を示し、ローエングリン役や、「マイスタージンガー」のワルター役まで歌っているので、これが悪影響をもたらさなければ、と願っています。そしてパパゲーノ役はウオルフガング・ブレンデル(Br)ですが、顔がホーケン・ハーゲゴート(Br)に少し似ています。童子達は少年合唱団員ですが、古い宮廷衣装を着て現れます。これは勢い、ベルイマン監督の映画と比較したくなりますが、声の質はバイエルンの勝ち、ただし歌いぶりは明らかにスウエーデンの勝ちです。空中船の操縦も含めるなら、絶対にスウエーデンの勝ち。ザヴァリッシュのせっかちぶりは、グロッケンシュピールの演奏にも現れ、せっかく鳴っているのに、音だけで気持が籠らないようです。

ここの夜の女王はエディタ・グルベローヴァ(Sp)ですが彼女の声に少し疑問を持ちました。つまり最高音の音が余り出ていないのです。特に2度目のアリアで、最高音域に入った途端、弱々しい声でカバーしています。これはまずいと感じました。これなら前出のシェリル・スチューダー(Sp)やスミ・ジョー(Sp)の方が上。ここでパミーナを担当しているルチア・ポップ(Sp)もクレンペラー盤では夜の女王を担当していたので、このバイエルンでのポップの声を注意深くききましたが、ポップの方がグルベローヴァより望ましい発声だったと私は思います。余り感心しなかったのはクルト・モル(Bs)の歌うザラストロ。ここではまるで湯上がりに小唄を歌っているような感じを持ちました。2人の武士達も声が無くて面白くなく、パパゲーナ役のクドルン・ジーベル(Sp)は全くのヘタ。このあたり、演出に問題あり、と思います。ただしパパゲーナと遭遇したパパゲーノの表現は素晴らしく、これは見ものでした。あのまま森の中に逃げるのだろうか、と思ったところ、終幕で再び子供達が大量に現れ、子沢山になったパパゲーノ達をうまく表していました。
千葉のF高

それにしてもパパゲーノ達は、そのあと、どこに行ってしまったのでしょう?パパゲーノがザラストロの集団の中で暮らすなんて考えられないし、最後のシーンにも特に登場しなくても可だろうと思うのです。解説を読むと、パパゲーノとパパゲーナはサアーッと森の中に消えて行った、とあります。それで良いのです。野生児パパゲーノの生き方です。一つ心配なのは、パパゲーノは鳥刺しですが、今まで夜の女王が買ってくれましたが、女王がいなくなって(本当?)毎日の生活のカテをどこで得たのでしょうか。また3人の童子達のMentor(導師)は誰だったのでしょう。そして魔法の笛も、グロッケンシュピールの効力は誰が持ち主でも(ザラストロ側でも夜の女王側でも)続くのでしょうか。最後に私が得た印象は、このオペラ「魔笛」の主人公は間違いなくパパゲーノです。

有り得ない(時代がバラバラです)私流の「魔笛の」配役
タミーノ:フランシスコ・アライザ
パミーナ:イルムガルト・ゼーフリート、またはマリア・スチューダー
パパゲーノ:ヘルマン・プライ
夜の女王:シェリル・スチューダー、またはクリスティーナ・ドイテコム、
ザラストロ:ゴットロープ・フリック
弁者:ハンス・ホッター
パパゲーナ:スミ・ジョー
3人の童子:ウイーン少年合唱団
指揮者:ヘルベルト・フォン・カラヤン、またはゲオルク・ショルティ
管弦楽:ウイーン・フィルハーモニー



(「魔笛」2/2の節の終わり。次回は「コジ・ファン・トウッテ」です)














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