「コジ・ファン・トウッテ」のCD比較        2011.4.29
音楽学者のアルフレード・アインシュタインが「七色の泡のような」と表現した「コジ・ファン・トウッテ(女は皆こういうもの)」。これもまたモーツアルトの天才ぶりを実感させる佳曲です。決して無我夢中にさせるような楽節も、汗をかくような楽節もありませんが、「コジ・ファン・トウッテ」はそれを超えた、ゆったりした、生活もゆとりのある(その代わりムダを省いている)人のための音楽と言えるのではないでしょうか。生産力の衰えを、諦観をもって受け入れられる人の為の音楽。恐れずに言えば、「コジ・ファン・トウッテ」は、作曲された年代の約30年後に席巻する所謂ビーダーマイヤー様式を予感させる音楽(こんなことを言って済みません)。この作曲は最後の「魔笛」と「皇帝ティトの慈悲」の直前で、「ドン・ジョヴァンニ」より後です。モーツアルト34歳。








(177)モノローグ 「コジ・ファン・トウッテ」について

「コジ・ファン・トウッテ」と言うオペラは、他のオペラ「魔笛」とか、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」などと比較すると、お遊びの要素が多く、筋立てもおとぎ話の型式を踏んでいます。どう考えても昨日まで顔を合わせていた相手を取り違えるなんて、起きるはずがありません。またデスピーナが化けた医者とか、公証人というのも有り得ない話です。それにも関わらず、「コジ・ファン・トウッテ」というオペラは傑作なのです。特徴を考えて、そのつもりでフォローされることをお勧めします。

「コジ・ファン・トウッテ」の性格
オーケストラの響きが素晴らしい。何かそよ風にゆれる草原の昼下がりのような風情。気がついたのですが、グラインドボーン劇場では、小道具を使い回ししているのかも知れません。これと殆ど同時期に録画した「フィガロの結婚」で、フィガロ役のクヌート・スクラムがしていたカツラの髪型と、ここの「コジ・ファン・トウッテ」のフェランドとグリエルモ役の髪型が同一のような気がしました。本当?カツラだと全く同じように見えますね。作曲された当時から、この「コジ・ファン・トウッテ」は余り評判が良くなくて、20世紀に入ってからアルベルト・アインシュタイン(物理学者)の従兄弟のアルフレード・アインシュタイン(音楽学者)がこれを高く評価する文を出してから、皆々「コジ・ファン・トウッテ」を褒めそやし始めたというエピソードがあります。実際、感覚的にこの音楽はやや長いと思います。

「コジ・ファン・トウッテ」の筋立て
第1幕
時代は18世紀、場所はイタリアのナポリ近郊の、海を見下ろせる邸宅。ここに軍士官のグリエルモ(Br)とフェランド(T)の2人が、邸宅に住むそれぞれの恋人フィオルディリージ(Sp)とドラベルラ(Ms)(この両者は姉妹)の貞節を信じ、讃えますが、老哲学者のドン・アルフォンゾはせせら笑います。そしてカケをすることになり、両士官は髭を蓄えたアルバニアの士官に化けて、それぞれ相手の女性を口説き落としてみようということになります。

突然両士官とも、命令で戦争に行くことになったと告げられ、姉妹はそれでは毎日手紙を書いて、と頼みます。老哲学者は船は何処と聞かれますが、既に遥か彼方に。そこで「風穏やかに」を3人で歌います。邸宅では女中のデスピーナが両姉妹から元気の無い理由を聞いて、それなら男に仕返しした方が良いと言います。そして姉妹はアルバニア士官達に紹介され、両士官は愛の告白をしますが、姉妹は共に頑固。

第2幕
さらに求婚者達は毒を飲んで、死んで行くフリをしますが、デスピーナが医者に化けて出てきて、姉妹に求婚者達を介抱させます。さらにデスピーナは「女も15歳になったら」と歌い、恋の道を教えます。それでも姉フィオルディリージは相変わらす貞淑で、すでに陥落したドラベルラをなじりますが、結局は自分がフェランド(本当はドラベルラの相手)と抱き合う格好に。それを秘かに見ていたグリエルモは怒り狂い、老哲学者は「女は皆こういうもの(Cosi fan Tutte)」だから、と慰めます。

結婚式の準備をしていると、そこに仮面を脱いだ両士官が登場し、フィオルディリージとドラベルラは自分達は死に値することをした、と後悔します。さらに両士官が衣装を替え、花婿姿で戻って来て、全てを水に流しましょうということになり、元のサヤに収まる、というお話。

千葉のF高








(178)モノローグ「コジ・ファン・トウッテ」録音の比較

ここで比較に用いた録音は下記の通りです。

1975年盤(画像付き):ジョン・プリッチャード指揮、ロンドン・フィル、東芝EMI、TOLW-3553-4
エイドリアン・スティック演出
フィオルディリージ へレナ・ドーゼ(Sp)
ドラベルラ シルヴィア・リレアンストランド(Ms)
グリエルモ トマス・アレン(Bs)
フェランド アンソン・オースティン(T)
ドン・アルフォンゾ フランツ・ペトリ(Bs)
デスピーナ ダニエル・ペリエ(Sp)

1962年盤:カール・ベーム指揮、フィルハーモニア管、TOCE HS-2088、東芝EMI
フィオルディリージ エリザベート・シュワルツコップ(Sp)
ドラベルラ クリスタ・ルートヴィヒ(Ms)
グリエルモ ジュゼッペ・タディ(Bs)
フェランド アルフレード・クラウス(T)
ドン・アルフォンゾ ワルター・ベリー(Bs)
デスピーナ ハンニー・シュテフェック(Sp)

千葉のF高








(179)モノローグ「コジ・ファン・トウッテ」の演奏について


LDでの演奏(画像付き):
ジョン・プリッチャード指揮、ロンドンフィル
グラインドボーン音楽祭の実況録画です。フィオルディリージとドラベルラの姿から、経済的には困っていない階級だということは直ぐに分かりますが、どうやって自分達だけで生計を維持しているのか等は不明です。デスピーナはかなり歳を食っているような感じですが、声はピシッと出しています。これは注意深く聴いたので安心して言えるのですが、彼女が特に高い高音を歌おうとした時は、必ずその音は出て来ます。それもしっかりと。このあと、フィオルディリージとドラベルラがそれぞれ長いアリアを歌いますが、これが本当に長い。また姉のフィオルディリージの声を聴いていると、レオンタイン・プライス(Sp)に時折感じられる音かな、とも思いました。少し乾涸びているのですよ。さらにフェランドの声も注意深く聴いていると、歌い損じている所が諸所に見られます。声が出ないで、無理しているようです。やはり「コジ・ファン・トウッテ」の評判が芳しくなかったのは、あれこれあったからだな、と思った次第です。

最後の場近くになると、音楽が耳慣れたものになりますが、それでもフェランドの声が時々裏返っていますし、演出の構成もどこかから借りて来たような印象でした。「コジ・ファン・トウッテ」の印象を確かめるにはCDに録音したカール・ベーム指揮のモノがあるので、それを聴いた上で再評価してみましょう(後出)。

CDでの演奏:
カール・ベーム指揮、フィルハーモニア管
シュワルツコップ等のCDを試聴して見ました。ベームの指揮はキビキビしていて、しかもタップリ遊び心が見えます。ベームの指揮がグラインドボーンのジョン・プリッチャードより格上だったと記してはマズいでしょうか。妻は「このCDの方が、音がしっかり聴こえるわ」と申しておりました。そして、第1幕第2場の終わり近くにある、3重唱「風穏やかに」に聴かれる、貴族の香りとも言えそうな雰囲気に満ちた箇所。そしてベームの選択したテンポの素晴らしさ!実際「コジ・ファン・トウッテ」のエッセンスを表す場所を一つだけ挙げるなら、ここでしょう。何か波のような、風音が密やかに聞こえます。そしてオーケストラの演奏が何となく古楽器風でした。というのはオーケストラが大きな音を立てて各プロットを終えようとする時、高音の弦楽器は一瞬早く鳴りはじめ、最低音部の弦楽器は逆にそれより一瞬遅く一番低いところにドーンと落ちるように聴こえたからです。そしてこの構成は私の好みのひとつ。

おまけにベーム盤にはくっきりしたチェンバロがついています。チェンバロってこのような小じんまりした規模の演奏には是非欲しいですね。グラインドボーンでもチェンバロは付いていますが、音がオーケストラに埋没しているように聴こえました。ベーム盤ではそれが「後から付けた音」みたいに際立って聴こえますし、その方が聞き取り易い。加えてソリスト達の立派なこと。シュワルツコップの年齢を考えつつ聴いたのですが、彼女はこのCDを録音した1962年には47歳です。一口に47歳と言いますが、その時点でコレだけ歌えたのは驚異的です。さらにその翌年に録音したオッフェンバック「ホフマン物語」のジュリエッタ役も聴いてみましたが、一生懸命に発声を保ち、与えられた音を出しているのが分かりました。国内外の諸ソプラノをざっと概観しても、47歳でEMIのような大会社にCDを残すソプラノはシュワルツコップ位しか思い当たりません。やっぱり努力の人だなあ、と思いました。

最後の場面ではドラベルラの歌が延々と続きますが、ああいうところ、何とかしてはマズイでしょうか(ホンの少しカットすると聴きやすくなります)。偽の婚礼準備の進行中のところを味わってみましょう。フィオルディリージの歌を聴きながら、背景の音楽の質を吟味すると、いつもの風の音がします。やはりコレですね。喜劇としてはスッと終わってしまいました。改めて考えたのですが、如何にして高音楽器から低音楽器へ音のウエイトをすっと移すか等で問われる指揮者の度量は重大です。勿論その指示に答えられないオーケストラだったら問題ですが。

「コジ・ファン・トウッテ」に関わる話1
昔読んだメゾ・ソプラノのジュリエッタ・シミオナートの伝記を思い出したのですが、シミオナートは「コジ・ファン・トウッテ」に余り興味が無かったようです。自分は世の中に出たいのに、何時までドラベルラを歌わせるんだ、という意味の言葉で劇場側に抗議したとか。概して今でも言えることですが、イタリアではモーツアルトは流行らないのですね。フィガロもドン・ジョヴァンニも、タミーノも、はたまたフィオルディリージも、全く関心を呼ばないそうです。夜の女王だけは、イタリア人の高音好きを考えると、受けるかも知れませんが。先日仲間達が仕事でミラノに行った時、スカラ座の切符をまとめて購入できた、と聞きましたが、あの時の出し物はフランシス・プーランクの「カルメル派修道女との対話」だと言いますから、余り流行らなくて、切符も売れ残っていたのかも知れません(行けなかった者のヒガミ)。スカラ座の先進的なことは万人の認めるところですが、問題はその切符を買う公衆かも。まあ我々日本人だって、余り聴かないオペラってあるのですから、人のことは余り申せません。

「コジ・ファン・トウッテ」に関連する話その2
N.モーツアルト協会という組織がありますが、定員626名と定められていて、欠員が生じない限り、新規参入はできないそうです。つまりモーツアルトのケッヘル番号の最後が626番(「レクイエム」)であることを踏まえているのです。そのことを思い出していたら、もう一つ思い出しました。

「波の会」推奨という「コジ・ファン・トウッテ」が関定子さんらによって上野の文化会館小ホールで上演されたことがあります。波の会というのは、美しい日本語を歌おうという趣旨の団体で、海外で活躍中だった歌手を含め、殆どの日本の歌手達がそれに参加しています。その時の印象ですが、やはり美しい日本語と、そうでない日本語の違いに気をとられ過ぎて、少し生硬かったかな。美しい日本語で歌うことと、モーツアルト風のホワッとした雰囲気や逞しさを出すのとでは、何かが引っかかって差が出るようです。ベートーベンでは無いのだし、もっと遊んでも良かったのに。美しい日本語で、例えば「このよるのとばりは」と歌うとき、言葉だけを捕らえれば確かに「一音一音を正確に歌え」と助言できますね。でも全体の雰囲気を高めようと言う時、かえってそれが足かせになる可能性だってある訳です。諸外国から賞状を貰うような秀才の場合、落とし穴になるかも。微細な言葉の陰影や響きに気を使うのと、全体の雰囲気を盛り上げるように気を使うのを比較すると、日本ではどちらかと言うと後者が巧くないような気がします。言葉尻に顕微鏡を当ててアゲツラウより、言葉で組み立てる音楽のダイナミズムをもう少し重視したい。この分野のシロートに過ぎない私が何を言っているんだろう?

秋の葉がじわりじわりと赤みを増し、やがて全山紅葉に至る、その変わりゆく風情を追いかける、というストーリーは私も大好きです。その表現法を考えてみましょう。私のは、一本の太筆でエイヤーっと山を描き、その太筆で全山の紅葉を一気に描いてしまおうというもの。誤差30%を許容して、細かいことをゴジャゴジャ言わず,全体を言い当てているかどうかを問うのです。音のトーンが妥当かどうか、それが妥当なテンポで進行しているかどうか、どこにフォルテを、どこにピアニッシモを配置するか、そして音発生源からの距離を大きくとるか小さくとるか(ズームポイント)、あるフレーズに紗を掛けるか、全体のトーンを引きずった場合どうするか、等をまず考えます。それから細部の仕上げに注意を向けます。最初から細部にのみ目を配った絵ではないのです。他方、細部の各瞬間のバランスのみに気を取られ、ミクロな世界の調和を尊ぶのが日本の多勢ではないでしょうか。太筆書きの方法の方がより真実に近づけるだろうと勝手に思っております。音楽が死んでしまってはもったいない。

確認しますと、私が好きなのは全体をまず把握し、それから細部を割り当てよう、という方法。これを逆に、個別の問題に過度に捕われると、全体を見失ってしまうかも知れません。日本の歌手の多くが見失っているような気がしたので書かせて頂きました。もっともこれはオペラだから言えることなので、国産オペラの数がとぼしい現状では、ズームポイントの拡大縮小なんて言ってもダメですね。声楽(リート等)歌手とオペラ歌手の違いもあるし。

再度「コジ・ファン・トウッテ」演奏について
このCD盤(ベーム)「コジ・ファン・トウッテ」の白眉として選んだ箇所、第1幕第2場の3重唱「風穏やかに」を再度聴き、LD盤(プリッチャード)で画像も確認してみました。今度はチェンバロが両方の盤から聴こえましたし、それぞれ立派な音楽を響かせていました。そう、まず音楽の構成や構造を身につけてから聴かないと、フェアな比較は出来ないですね。両方とも立派な出来映えでした。ベームの方は歌手達の節制の効かせ方が素晴らしく、ゆったりとした音の流れに身を置くことができます。そしてプリッチャードの方は、あの静止した3名、左からフィオルディリージ、ドン・アルフォンゾ、ドラベルラが並び、正しく、この場面を観せ、聴かせています。まるで印象派の絵画みたいなこの配置には感心しました。やはりオペラを比較検討しようという時は、何か視覚に訴えるスベを備えておくと、本当に助かりますし、理解の向上にも役立ちます(良く知っているオペラなら話は別ですが)。さすがグラインドボーンと言うことでしょうか。こうなって見ると、ベーム盤DVDも見てみたい気がします。私が「コジ・ファン・トウッテ」まで書く日が来るとは思わなかった!

最近の演出について
最近2000年2月にチューリッヒ歌劇場で行った「コジ・ファン・トウッテ」の公演のVHSテープを観ました(今ではこれはBDに移してあります)。ニクラウス・アルノンクール指揮で、ユルゲン・フリムの演出です。
キャストの詳細は下記の通り。
フィオルディリージ チェチーリア・バルトリ
ドラベルラ リリアーナ・ニキテアヌ
デスピーナ アグネス・バルツア
グリエルモ オリバー・ヴィドマー
フェルランド ロベルト・サッカ
ドン・アルフォンゾ カルロス・ショーソン

チューリッヒ歌劇場は小さいので、ワーグナーやR.シュトラウスのフル・オーケストラはピットに入らない等と言われています。但し今回の出し物はモーツアルトですし、演出に工夫を加え、小さな空間を大きく見せようとしていました。これはバルトリを聴かせる為の上演だったようです。そのバルトリですが、歌は相変わらず巧いのですが、「見栄え」に問題ありです。どう見ても個性的な顔立ちですし、沢山の贅肉をまとっているようです。初録画とも言えるロッシーニ「セビリアの理髪師」での初々しさが忘れられないのですが、20年も経つとだいぶ変わってしまいました。座るときは、まるで中年のご婦人達特有のヨッコラショという感じで座っています。それも大阪のおばちゃんのように足を広げてアー、シンドと言う感じ。ジュリエッタ・シミオナート(Ms)はこういうことに厳しく、「あのソプラノさん、足を投げ出しちゃって」とか「王女だったら決してあんな座り方はしない」等の皮肉を込めた感想を述べたそうですが、これを観たらどう言ったでしょうか。半分はヤッカミだとしても、そう言われかねない立ち振る舞いです。

そもそもバルトリがフィオルディリージ役を歌ったのも驚きのひとつ。彼女はなかなか大劇場に出ないのですが、メットに初出演した時は、たしかデスピーナ役でした。デスピーナはソプラノですが、デスピーナというのは格好の役でした。しかし、ここでバルトリはフィオルディリージ(ソプラノの役)に転向したのでしょうか。これは危険です。バルトリの声の質感がどう聴いてもメゾっぽく、決してソプラノには聴こえない(私の耳には)のです。実際ドラベルラ役のリリアーナ・ニキテアヌとの2重唱を聴くと、声の分担が殆ど聴き取れない。これは歌っているどちらか一方が無理しているからだと思います。むしろニキテアヌの声質の方がソプラノっぽい。そうまでしてソプラノを歌いたい?このチューリッヒでは会場にグレース・バンブリー(違ったかも知れませんが、誰でも良いのです)が座っていましたが、バンブリーというのはメゾ・ソプラノだったのが、ソプラノに挑戦してアイーダやノルマやメデアを歌うようになり、いつの間にか消えた歌手ですね。あの2の舞にならなければ良いのですが。私の耳には、バルトリの歌うソプラノ声域は、とても本職に対抗出来ない代物でした。

そしてデスピーナ役を歌うアグネス・バルツア(Ms)。もう60歳に近い時と思われるのですが、実はこの「コジ・ファン・トウッテ」を見終わる直前に、偶然にもバルツアがオクタヴィアンを演じるカラヤン指揮のR.シュトラウス「薔薇の騎士」のテープを観たばかりでしたから、全盛期のバルツアと盛りを過ぎたバルツアを比較できたのです。さすが全盛期には高音から低音まで自在でしたが、衰えた後では高音だけなら素晴らしい瞬間も聴けましたが、全体としてはデスピーナ向き。この役はソプラノでもメゾ・ソプラノでも可ですから。また彼女は姿勢が良いのです。顔を拡大してみると皺が目立ちますが、バルツアに限らず、あまり無理しないで、自分の声に最も相応しい曲目を選ぶのは賢明だと思います。

最近聴くバルトリの曲目はソプラノが多いですね。ノルマ(アリアのみ)からアミーナ(全曲)まで歌っています。そしてそれらはいずれも、私の耳には無理の塊。喉を狭く閉じて、無理矢理に引き出したような高音です。それは決して聴いて心地よい高音では無いと思います。バルトリはもっとその声を尊重して、それが最大に発揮できる領域で活躍して欲しい。恐らくはデスピーナが最も相応しい役ではないでしょうか。そしてこのチューリッヒの演出家ユルゲン・フリムの演出は余り好きな方ではなかったことを付記します。それはドン・アルフォンゾとしてカルロス・ショーソン(B)を選んだのも、そのまずさの上書きをしています。なにより「コジ・ファン・トウッテ」の上演では、もっとエレガントで、美しく、夢のような雰囲気を尊重して欲しいなあ。

千葉のF高


またも米国の古い友人夫妻から大地震のお見舞いが届きました。「あの日本が無くなってしまうなんて。多くは知りませんが、あなたが無事でありますように。あなたの古い友人Ke&Dy」とあります。本当に今回の大地震は世界中を騒がせています。


(「コジ・ファン・トウッテ」の節の終り。次回は「後宮からの逃走」です)














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