「後宮からの逃走」        2011.5.30
(画像付きだけで観る場合)
実は私はモーツアルト「後宮からの逃走」の舞台を観たことがありますが、余りに古く、それを観た場所も今となっては、もう明らかではありません。ここではCDでなく、始めから画像付きのDVDを観ることにします。ですから試聴と言っても従来やって来た試聴とは質的に違うことにご注意ください。

このDVDには、CDとDVDの各音源を好む人を比較する文章が付いていました。その結論だけを先に言えば、誰しも演出を楽しみたく、それも特定の演出家の名前付きで観たいもの、ということでした(この人は演出畑の人らしい)。CDなど耳だけの音源の、演技抜きの演奏は、演出家の出番がないから、余り価値がないだろう、というご意見。私の個人的意見としては、やはり想像力を働かせる余地のあるCDも尊重したいところですが、それは演出家のアイデアに拘束されたくない、という意思があるため。私の意見としては、演出をはっきりと指定することは、その範囲内で全てを処理し、解釈せよ、と迫るようなものです。何十種類もの演出のDVDを揃えていて、その中から好きなものを選べるならともかく、自分の感性に合わない場合は例えDVDでも目をつぶって聴くでしょう。その方が自分のオペラを(頭の中に)作れるからです。自分の感性に合致することが肝心です。でも、ここに付いていた所見は、立場が明解なので、そのような意見もある、ということを伝えてくれました。

実際の舞台を観ているときは、演出に極端な異議がある場合を除き、大概はブラボー(ブラーヴァ)で終わってしまうのですよ。そのテープやDVDを後でもう一度掛け直してみると、大したことないな、というしっぺ返しも多くあります。他方、そういう演出でも繰り返して観ているうちに、取り憑かれてしまうこともあります。もちろん出演した歌手達が有能で優れている場合は、その歌手達の癖を予め承知していれば、私が危惧するようなことはありません。その有能かどうかを見極めるための材料の一つは、レコード録音させて貰えた歌手、という点でした。大金が掛かるので、レコード会社も慎重にならざるを得なかったと思います。それが今日ではやろうと思えば、誰でも、いつでも、比較的安価に録画できます。その気楽さに裏切られることが心配と言えば心配。








(180)モノローグ「後宮からの逃走」について

「後宮からの逃走」の性格
基本的に全員が幸せに終了するため、喜劇に分類されます。ただし言語はドイツ語。かなり高音が含まれ、コンスタンツエを歌うのは相当な苦労を伴います。コンスタンツエはスペイン人であり、彼女を救出に来たのもスペイン人です。もう一人高音を担当するソプラノがいますが、声質が少し違い、また英国産です。彼女の婚約者も英国産。これらをコントロールするのはオスミンという捕虜監視役ですが、オスミンにはコミックな役割しか与えられておりません。トルコ太守は俳優が担当しますので、歌ったりはしません。

「後宮からの逃走」の筋立て
トルコの海賊に拉致され、幽閉されていたコンスタンツエ(スペイン人)を救出するため、その婚約者ベルモンテがトルコの館に忍び込み、またもう一組いた英国人の捕虜達(ブロントヘンとペドリルロ)と一緒に、トルコ太守(パシャ)に逆らい、あやうく首を切られそうになります。しかしトルコ太守は、自分はベルモンテの父親とは犬猿の仲だったことを明らかにし、さらにそれにも関わらず解放してやる、と告げます。それを聞いてコンスタンツエらは帆船に乗ってその地を離れる、というハッピー・エンドのお話。

千葉のF高








(181)モノローグ「後宮からの逃走」録音データ

1980年録画、バイエルン国立歌劇場実況、グラモフォン:UCBG-9114
カール・ベーム指揮、バイエルン国立歌劇場管、アウグスト・エファーディング演出

コンスタンツエ エディタ・グルベローヴァ(Sp)
ブロントヘン レリ・グリスト(Sp)
ベルモンテ フランシスコ・アライサ(T)
ペドリルロ ノルベルト・オルト(T)
セリム トーマス・ホルツマン(語り)
オスミン マルティ・タルヴェラ(Bs)
千葉のF高








(182)モノローグ「後宮からの逃走」演奏について

さてこの「後宮からの逃走」は、モーツアルト26歳の作品です。最初の出世作「フィガロの結婚」まで約5年間あります。まず序曲ですが、音楽自体はやはりモーツアルトだと思わせましたが、意外にも短い。それにベームの姿をじっと見ると、ベームはかなり人間臭い指揮者だったのではないだろうか、と思いました。つまり酒飲みで、女好きで、嫉妬深い、なにかそのような要素が顔面にアリアリと現れていた、と見ました。 カラヤンみたいにカッコをつける指揮者だったら、ツンとすました顔で指揮するんでしょうが。

ここではCDでなく、最初から画像入りのDVDを観ましょう。最近までお蔵になっていたらしいカール・ベーム指揮による、ミュンヘン国立歌劇場の実況です。指揮者登場の場面など、よろよろと現れたため、すぐにベームとは分からなかった次第。このあと約1年後にベームは死去します。実質的にその最後の(と思しき)モーツアルト劇の記録がこれだと思います。ミュンヘン国立歌劇場は実際にその場に座って聴いたことのある所なので、あの豪華なシャンデリア等が大写しになったりすると、胸がときめきます。ただその音に注目すると、このDVDのデフォールトでは、少し高音が強調されているような気がしました。

第1幕
ここではベルモンテ役を演じるフランシスコ・アライサ(T)とオスミン役(Bs)を演じるマルティ・タルヴェラの2人で開始されます。まずはアライサだけ長々と歌い、それに続きタルヴェラのレチタチーヴォ・セッコが長々と続きますが、その形に慣れるまでに少し時間がかかります。アライサは若い時分ですし、声は絶好調でした。ただし長いアリアの締めくくり部分で、フラッとフラット気味になるようで、気になりました。でもアライサですね。どうしてもロッシーニ「チェネレントラ」の王子様と比較してしまうのですが、両者とも若い!仕草も声も。両役ともそっくりです。腕を少し曲げてスキーをするような格好とか。これからあとは次第にワーグナーを歌ったりしますが、そんな事をしなくても、と思うのは私だけでしょうか。アライサの声は、やや重いけれど、スペイン産のホセ・カレラスみたいに「無理しているなあ」ということはありません。

それが突然雰囲気が変わるのが、トルコのパシャ(太守)(トーマス・ホルツマン)が船に乗って到着した時から。あの音楽にトルコ行進曲の雰囲気を感じました。パシャの表情はまるで死んでいますが、それに従う者達は違っています。パシャとたった二人で残されたのはエディタ・グルベローヴァ(Sp)の歌うコンスタンツエ。このコンスタンツエをよく聴いてみると、スープラ・アクート(超高音)が多く、やはり難役だろうな、と思います。そういう特殊な箇所はあのアリア全体で2カ所程度。でもコンスタンツエのアリアには高いDより高い音は含まれていません。その代わり最高音直前の音が延々と続くのです。ふくよかな頬の膨らみを備えたグルベローヴァの声はそれらをクリアーしています。ただそんなに驚く程の高音ではありません。グルベローヴァには余り演技力は無いようです。それほど悲しそうでも無く、胸かきむしる、という雰囲気も持っていません。

第2幕
ここの先頭にはマルティ・タルヴェラの入浴シーンがありますが、その付き添いを演じるブロントヘン役のレリ・グリスト(Sp)の声に特に注目しました。グリストはある時期、スーブレット風コロラトウーラ歌手として優れた実績を残していましたし、モーツアルト「魔笛」の夜の女王も歌っています。確かにここに聴くグリストの声はキビキビしていて、音の階段を形成するのに十分な素質を示しています。この「後宮からの逃走」ではその種の歌手を二人も使っていますから、どうなるかと興味津々でした。しかし途中からコンスタンツエ役のグルベローヴァが歌い出すのを聴くと、その違いが良く分かりました。即ち、コンスタンツエの方は脂が乗っているのです。つまりイタリア風の声でした。そしてブロントヘンの方はドイツ風の声。こう申せば分かって頂けるでしょうか。大昔からコロラトウーラ歌いという種類の歌手に対する評価が芳しくなかったのですが、それはドイツや日本ではドイツ流が主流だったからだと思います。ドイツ等で軽蔑の対象とされたのは脂の乗ったイタリア流の歌唱でした。ドイツの歌手達は意識的にドイツ流に歌いましたがその流れを汲むのがグリストでした。あの技術と声があれば、夜の女王も歌えると思いますが、その代わり「ランメルムーアのルチア」の主役を歌うことは稀ではないでしょうか。短い声で、単色で、その代わりコロコロ転がすからです。

一方のコンスタンツエのイタリア声は緩やかな起伏が見られ、何より声の陰影を尊重します。ここで「陰影」と申し上げた点は、イタリア流のものです。対してブロントヘンの声は軽やかで敏捷な女中さん声(モーツアルト「フィガロの結婚」のスザンナ等)。昔ジョーン・サザーランド(Sp)が登場した頃、「でも彼女のコロラトウーラにはコロラトウーラ本来の軽やかさが無い」と言われ、忌避する人がいました。しかしここで改めて、グリスト、グルベローヴァを対比させますと良くわかるのですが、それはドイツ流とイタリア流の違いだろうと勝手に思っております。サザーランドのあの声(そして図体で)で、声をコロコロ、キビキビと転がしたら、それは見モノです。グルベローヴァの歌い方だって、基本的にはイタリアの香り。それを歌手に関する自分の好みを、まるで客観的な評価基準であるかのように考えてはまずい!

グルベローヴァは全体にイタリア風で歌っていますが、ただそれでも途中一カ所で、例の女給さんのような発声(上からグイと押し付けて、声を震わせるもの。チャルダッシュ風)が感じられました。私もまたグルベローヴァ嫌いを引きずっていて、批評はし難いのですが、でも私はグルベローヴァの声をそれなりに高く評価しています。決してそれがキビキビした声とは思いませんが、基本的にサザーランドと共通の土台に乗っていると考えます。ここでは「陰影」を楽しみましょう。もちろんグリスト流のキビキビした歌もまた。グルベローヴァの歌うアリア「あらゆる拷問も」は本当に長い!でも、コレがあるから「後宮からの逃走」も新鮮にソプラノ達を惹きつけるのでしょう。

マルティ・タルヴェラのオスミンが番人役を果たすべく頑張っています。そこでノルベルト・オルト(T)のペドリルロ役は一計を案じて、タルヴェラにワインを大量に飲ませ、夜半まで寝させておきます。フランシスコ・アライサが登場し、オルトと共に女性陣との再会を喜びますが、そこで男性陣は、女性陣がトルコ勢に既になびいてしまったのではないかと疑い掛けます。いつもの方法で、いつもの通り、その疑いは晴れ、めでたくこの2組の恋人達は夜中にハーレムを抜け出そうとします。

第3幕
ところが2組はハーレム脱出を見つかってしまい、死を覚悟したところ、意外なセリムの温情で無事脱出できたというハッピーエンド。「死ぬ死ぬといいながら、なかなか死なないわね」とは妻の弁です。その長大なアリアがあったり、オスミンの今こそ、とほくそ笑む場面があったのち、セリムが静かに登場し、ベルモンテの父親の話(ベルモンテの父親はセリムの最大の敵だった)を聞かせ、それにも関わらず寛大になって、ついには捕虜達を解放してしまうのです。

その裏には、セリムは今でこそトルコのパシャですが、もともとはスペインのキリスト教徒だった、ということがあります。そしてベルモンテもコンスタンツエもスペイン人。ブロントヘンとペドリルロはイギリス人という設定になっています。何となくロッシーニ「アルジェのイタリア女」を思わせる話ですね。つまりいずれも、モーツアルトの生国オーストリアとは別の土地で起きた話ですし、また本国とは無関係の国籍の人間の話としてまとめられています。しかもここではトルコの太守が人類愛を歌い上げ、それに対してスペイン人達が厚くお礼を申し上げていますね。このオペラ全体が、災いを生み出さないように設計されています。終曲部ではやはりモーツアルトだなと思わせる音楽になっていますが、途中のアリアが少し長い。アライサのベルモンテはここでは音程が不安定になったりしません。

全体を通してみると構成部分のうち、アリアが少し長いのが気になります。あれをもう少し刈り込んだら、と思う私ですが、いかがでしょうか?その代わり、通常レチタチーヴォ・セッコを用いる所は、最初から台詞で短く済ませ、それなりの対策をとっています。ミュンヘンでの公演で登場した歌手達を見ますと、セリムに俳優ホルツマン(ドイツ)を起用しているのは当タリ。コンスタンツエのグルベローヴァ(チェコ)は少し脂気のあるトロみたいな感じ、対するブロントヘン(米国)はキリキリ型コロラトウーラ。前者の歌は全体として、高音の続くところが多く、これでは盛りを過ぎた人は怯むだろうな、ということを納得。

男性陣のうちベルモンテ役のアライサ(メキシコ)はまだ若かった時代の証しをしっかり示しています。そしてオルト(ドイツ)は実際に、この時期アライサの良きライヴァルですが、よく歌っています。オスミン役のマルティ・タルヴェラ(フィンランド)はあの背の高い巨体を活かし、コミックな役柄を巧みに演じていました。タルヴェラは本当はワーグナー「ニーベルンクの指輪」のファーゾルトとか、モーツアルト「魔笛」のザラストロを立派に歌っていますが、ここではそれをひけらかしていません。ベームの指揮もこれで良かったのでは無いでしょうか。鋭角型の指揮者のものと比較してみたいところです。

千葉のF高








(183)モノローグ「後宮からの逃走」に関わる別の話

私がモーツアルト「後宮からの逃走」が高音を含む曲だと理解したのは、ジョーン・サザーランドがこの曲を拒否した時からです。サザーランドの伝記(La Stupenda:Briann Adams, Hutchinson, Australia,1980)によると、1978-1979年のシーズンにニューヨークのメトロポリタン歌劇場はサザーランドに対しこのモーツアルト「後宮からの逃走」を歌うように依頼しました。サザーランドはこの曲をピアノで練習しましたが、最終的に「この曲を歌うには15年遅かった」と述べて断りました。

その代わりレハール「メリー・ウイドウ」を歌うことをメットに提案しましたが、メットはそれを拒絶。サザーランド曰く、声は出てもそれが長く続くと美しくない声になってしまう、という話。結果的にサザーランドのメット出演はここで断絶してしまいました。数年後に復帰しましたが、既にサザーランドの声はあまり高音のないものに絞られました。そして私もあれほどメットに通ったにも関わらず、サザーランドのメットの舞台を経験する事はできませんでした。丁度その期間中に私の在米期間が重なっていたため。

それでも1980年代になってようやくメットはサザーランドにベルリーニ「清教徒」を歌わせ、そしてロッシーニ「セミラーミデ」も。そしてドニゼッティ「ランメルムーアのルチア」の再演も。別の話として、サザーランドはヴェルディ「リゴレット」のジルダ役とかベルリーニ「夢遊病の女」のアミーナ役はもう捨てたい、と言っています。こういう話を聴く度にため息が出ます。歌手は寿命が短く、常に年齢を考慮しなければなりません。サザーランドの寿命はコロラトウーラ歌手としては驚異的に長い方ですが、それでもやはり黄昏は来ます。案外メットはそれを狙っていたのかも知れません。でも結果的に思うのですが、「後宮からの逃走」はそれほどショウピースでないので、止めておいて正解でしたよ、サザーランドさん。

このように、「後宮からの逃走」は特に高音が続くシーンがあるので難しい曲です。あとは見栄えと演出で決まります。

千葉のF高


(「後宮からの逃走」の節の終わり。次回はオペラ以外のモーツアルトを特集します)














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