もっとモーツアルトを楽しもう(4)       2011.8.16
(191)モノローグ「近くにあったモーツアルトのCD(4/4)」
ザルツブルク音楽祭におけるショルティ指揮「魔笛」、ウイーン・フィル
もうDVDになっているかも知れませんが、前記のように私は1990年を境に、新しい画像付きのものの購入をしていないので、私にとってはこれが珍しく響きます。私が過去に貯め込んだVHSテープやLDの山を整理しました。随分あったので、その山を見ると呆然としてしまいます。LDは余り無いだろうと思っていたら、結構な山をなしています。古いVHSテープの方は殆どの品は処分すれば良いようなものですが、米国で仕入れたテープ類は懐かしく、また珍しいものが多いので、捨てられません。また自分で録画したものでも、例えばザルツブルク音楽祭での「魔笛」(ゲオルク・ショルティ指揮)などは簡単には捨てられません。また当面問題になっているモーツアルトでは「フィガロの結婚」や「コジ・ファン・トウッテ」も見つかりました。古いけれど捨て難い。LDにある曲でも、音楽祭の録音はやはり捨て難いのです。

「魔笛」ですが、はじめはショルティの指揮が遅いなあ、と不満を感じていましたが、たちまちにそのペースに巻き込まれました。「魔笛」は演出が複雑になりがちなので、こういうのがこれから増えるんだろうと考えるとうんざり。ところが、その演出の中にも取り込まれてしまいました。ただし扮装にはやはり不満があります。ザラストロ役は、まるで声の無い人でしたし、ある瞬間にある角度から見せた時、初めて分かったのですが、この人は姿勢が悪いのです。クビを前に突き出しています。またタミーノは貴族だっていうことを強調するためか、白いおしろいを顔に塗りたくっていました。その顔は余り好きでない顔。またパミーナの顔も良くなく、言ってみればタミーノとパミーナの組み合わせは英国の田舎邸で働く比較的若い夫婦といった感じ。タミーノ達が神殿に到着した辺りの箇所は、普通は省かれるところが多いと思うのですが、このザルツブルク版では省いていません。しかも、聞き慣れない台詞が延々と続きますし、そういうのは無くても良かったなあ、と思いました。やはりオペラに於ける監修という仕事も重要だなあと感じた次第(ここではオペラを楽しむという立場の人を意識しています。自ら作曲するなら別でしょう)。

そこで面白かったのはパパゲーノ。パパゲーノは第2幕ではオーケストラまで降りて来てショルティの弾くチェレスタの横に立っていましたし、ああいう演出は面白い。唯一変わった演出だな、と思ったのは最後の場面で一同が一斉に立ち並ぶシーンで、パパゲーノとパパゲーナはついに現れなかったことです(少なくともそれに気づきませんでした)。夜の女王は最初のアリアの所で音色がさえず、がっかりしましたが、2番目のアリアのところではすっかり回復し、最高音Fを堂々と響かせていました。誰だろうと思ったら、ルチアーナ・セッラでした。セッラなら歌えて当然だし、もっと宣伝しても良かったのに、と思います。3人の童子達ですが、天井から吊るした風船の上に乗って立っていたようで、一人はオッカナびっくりで、オズオズと歌っていました。声ではなく、態度が怖ず怖ずしている様に見えたのです。ここで注意して聴いたのは、モノスタトスに77回の鞭打ちを命じるザラストロの場面で、モノスタトスが「あの小僧が」と言ってタミーノを訴えるところ、その歌詞を注意深く聴いていたら、「Knabe」と言っていました。Knabeとは童子を表す言葉ですが、童子は言葉の遊びだとしても、少なくとも20歳に満たないはずですから、これからタミーノの年齢が17〜18歳だろうと思うに至りました。なるほど、と思う次第。

もう一つ疑問に思ったのが、パミーナは夜の女王の娘ですが、娘というのは歳をとるものですね?つまり夜の女王は歳を取らない特殊な生まれではなく、歳を取ったら死ぬのでしようか?すると女王も普通の人間と変わらない?夜の女王だけでなく、昼の王様も同様。そう考えるとパパゲーノとパパゲーナが一緒に森の中に逃げ込んだという結末は、彼らにしては賢明な行為だったと言えそう。こういう妄想に浸れるだけで、モーツアルトは面白くなります。

ベルリン歌劇場でのバレンボイム指揮「フィガロの結婚」について
「フィガロの結婚」実況、1999年6月2日、ベルリン歌劇場、指揮ダニエル・バレンボイム、演出トマス・ランブホープ、これはBSで放送されたものがVHSに録音してあったのをDVDに録画し直したもの。
 
フィガロ:ルネ・パーペ
 スザンナ:ドロテア・レシュマン
 伯爵:ロマン・トレケル
 伯爵夫人:エメリー・マギー
 ケルビーノ:パトリシア・リズレー
 マルチェリーナ:ローズマリー・ラング
 バルバリーナ:イヴォンヌ・ヴォイド
 ドン・バジリオ:ペーター・シュライヤ

これは少し古いので、余り期待しないまま聴き(観)直しました。まずベルリン産だということ(ここは超モダーンな演出が多い)、さっと見える舞台装置等が見栄えしないためです。案の定、冒頭のシーンではフィガロもスザンナも、どこの女中と番頭だろう、と思いました。スザンナは丁度、日本の女優の富士真奈美のような姿と印象を持っています。マルチェリーナはあれでも構わないのですが。これに拍車を掛けたのが伯爵夫人でした。いやしくも伯爵夫人が、ああいう安物の毛皮をまとうものでしょうか?そして歌っていない時に白い歯を見せるのもいかがなものか。ケルビーノだけがまともです。それも早熟丸出し。伯爵も何とも車夫馬丁風。伯爵だけでなく、全体に「典雅さ」が欠けています。それにも関わらず、この「フィガロの結婚」の舞台をついつい注目して観ていました。また「分別のないころは」なんてアリアは無くても可だというかつての私の判断は正しかった、と念を押してしまいました。伯爵夫人ロジーナの素性を考えれば、あの仕草だって構わないのですが、それでは余りに幻滅ですし。

モーツアルトとベートーベン
これは面白いテーマですが、恐れ多くて、ようやりません。正直言って、ベートーベン唯一のオペラ「フィデリオ」を取り上げますと、全てのモーツアルトのオペラとこの「フィデリオ」を比較すれば良いわけです。最後のシーンを比較するとすぐに分かるのですが、「フィデリオ」ではオペラというより、合唱の響きに作曲家の神経を集中しています。それは完全に交響曲第9番の合唱と同様です。でもあそこで聴かせる音楽はモーツアルトにもあるのではないでしょうか。例えば「魔笛」の最後のフィナーレの音楽はそのままベートーベンに移植可能では?そういえば昔、日生劇場の開幕の時に、合唱曲はオペラの終幕に相応しいんだ、とを示唆した評論家がいたような気がします(私の意見と一致しました)。そしてロッシーニの音楽もそれなりに面白いと思います。決して軽蔑しません。言わんやワーグナー、ベルリーニ、ヴェルディも面白いし、リヒャルト・シュトラウスだって面白い!要するに聴き方もその積もりで研鑽を積む必要があるのです。もし面白くないオペラにぶつかったら、それは演出のせいかも知れないので、しばらく執行猶予を頂いて、さらに同じ曲の別演出バージョンを聴いてみる必要があるかも。それでも好きになれない時こそ、本当に相性が悪いと言えるのではないでしょうか。

さてモーツアルトの「魔笛」に引かれて、
「魔笛の主題による12の変奏曲Op66」(フィリップス、UCCP-9568)というのが、ベートーベンの作品として出ています。これは格好ですから、まずは聴いてみましょう。モーリス・ジャンドロンのチェロ、ジャン・フランセのピアノによる変奏曲です。これを改めて聴いてみると、やはりモーツアルトとベートーベンの違いが良く分ったような気がしました。ベートーベンは変奏曲の名手です。たった一度モーツアルトに会っています。その時「うまいもんですな」とつれない返事しか呉れないモーツアルトに、是非変奏曲を作らせてくれ、と頼み込み、モーツアルトがある主題を与えたところ、ベートーベンはその場で変奏曲を作ったそうです。しかし変奏曲の名手も、元々の音楽(この場合は「魔笛」)には適わなかった、と言えそう。ベートーベンのゴツゴツした音楽と、モーツアルトの流麗な音楽との違いは私だけでなく、側で聴いていた妻にも分かったようです。ここではモーリス・ジャンドロンのチェロ、ジャン・フランセのピアノを用いました。

モーツアルトを代表する音楽とは
これは大層ムヅカしい問題ですが、ケッヘル番号を並べてみると、オペラの名作が続出したのは30歳ごろからですね。つまり終期に至ってようやく本領発揮に至ったわけです。ピアノ協奏曲を聴くとオペラの前触れのような旋律を聴くことができます。それにモーツアルトのオペラってそんなに多くはありません。子供時代の作品はありますが、それはそれ。一番古い時代の「後宮からの逃走」から始まり、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ・ファン・トウッテ」、「魔笛」と続くありさまは壮観と言えます。結局モーツアルトはここを目指していたのですね。例えばK467のピアノ協奏曲は有名ですが、あの作曲の翌年にはオペラの名作「フィガロの結婚」が生まれています。最後の作品群に注目するなら、やはりモーツアルトを代表するのはオペラであり、ピアノ協奏曲はそのための前駆だと言っても、良いのではないでしょうか。それでもやはりこの 日本では声楽曲を敬遠する向きがあるのは残念です。それは世の中全体で、オペラって何だ、という雰囲気があるのですよ。しゃべれば済むのに、わけの分からない歌詞で歌ったりするから遅くなるし、それにそもそもオペラって不純だ、余計な要素があり過ぎだ、純粋音楽ではない、等々(「音楽のすすめ」第1章を参照)。確かに、それも尤も。でも、やはりオペラって良いなあ。大好きですよ。

繰り返しになりますが、そのためには、真に優れたオペラ作品とその演奏に接することです。それに尽きます。作品がすぐれ、演出がすぐれ、役者がすぐれていること、が条件です。あまり気乗りしない演出等で時間をつぶすのは、私だったら避けます。面白くなかったら、さっさと出てしまいたい(やってみたいのですが、実際には切符代が惜しくて、ようやりません。記憶にあるのはたった2回だけ。メトロポリタン歌劇場とカーネギー・ホールから出てしまいました)。そういう方法で演出家等を鍛えるのも面白い(きっと!)。少し辛い言いようですが、相手はプロですから、あらゆる批評に耐えられなければなりませんし、彼等に遠慮する必要はありません。その代わり、プロフェッショナルでない人々の演奏には、非情なことは一切言わないのがスマート。

千葉のF高



(192)モノローグ 「その他拾い物のテープについて」

ヴェルディ「運命の力」全曲はローマ国立歌劇場の1958年の実況録画で、テバルディ、コレルリ、バスティアニーニ、ドミンゲス等のそうそうたるメンバーです。しかもテバルディにとって、1958年3月の声というのは絶頂期だったと言えそうです。我々はマリア・カラスの絶頂期の録音としては幾つか海賊盤を持っていますが、ここにテバルディにもそのような録音があった訳です。これは米国出張のおり、ニューヨークで買って来たものです。テバルディの顔も分かるかどうかという程度の朧な画質なので、画像を期待するとがっかりするでしょう。音はなんとか海賊盤のレベルに達しています。またテバルディは他の録音と比べると、少し違うようで、音を保つ為か、別の音が挟まれているようでした。テバルディのアリアに注目しますと、最初のアリアでは、普段聞き慣れない音が途中に聴こえました。「アー」と言わないで「アー、アー」と歌うのです。実際に舞台で歌うことの大変さは承知していますが、その聞き慣れない音がくせ者だったといえそう。そしてテバルディ本人は殆ど演技をしていません。

1963年のファイアーストーンのテレビ番組の録画で、ジョーン・サザーランドのリサイタルのような形式のものを観ました。最初のベルリーニ「清教徒」のアリアはまずまず。ロッシーニ「セミラーミデ」とかヴェルディ「椿姫」もありましたが、やはりサザーランドを好むかどうかはアナタ次第。これも米国出張で買ったもの。

千葉のF高







これで「もっとモーツアルトを楽しもう」の項は終わりです。次回は「薔薇の騎士」。
















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