前出の「音楽のすすめ」第18話「薔薇の騎士の豪奢」も参照のこと
リヒャルト・シュトラウス「薔薇の騎士」 2011.7.31〜2011.10.20
「薔薇の騎士」は現代のオペラです。それは20世紀になってから最初の音が鳴り響いたことを考えれば分かることです。作曲を終了してから約20年後に録音したのが、ここに記してあるヘーガー指揮のSP盤です。20年前というのを感覚的に捉えるのは簡単で、今と比較するなら丁度「川の流れのように」が世の中に出たころに当たります。オペラは元々娯楽だったのです(ワーグナーなどは尤もらしい理屈をこねて総合芸術などと呼んでいます)が、この曲もまた娯楽の要素をたっぷり含んでいます。

「薔薇の騎士」については今までにも述べていますが、旧時代の最後の灯りを表す装置や衣装を惜しげも無く使い、その時代のウイーンの最上級貴族たちの空気を伝えます。声の使い方には何ら奇妙さはないのですが、ただこれは男女の役割が逆転している音楽劇です。当たり前ですが、この点を予め承知しておかなければなりません。また途中あちこちでウットリする美しい旋律がありますから、最後まで御聴き下さるように。シュトラウスは本当にイタリア人が嫌いだったみたいです。この曲のセリフの中には、イタリアを貶めるようなものが多く、あれ大丈夫かしらん、と困ったこともあります。イタリアにしてみれば、そもそも音楽とか、料理とか、立ち振る舞いの作法等はいずれもイタリアで誕生し、それが北方の猛々しい狩猟民族の国々に伝わったものだという自負があるんじゃないでしょうか。



(196)モノローグ  画像ぬきの「薔薇の騎士」
(1)全曲盤:古い声による「薔薇の騎士」
ロッテ・レーマン(Sp)、マリア・オルツエフスカ(Ms)、エリザベート・シューマン(Sp)、リチャード・マイル(Bs)、ヴィクター・マアディン(Br)、アニー・ミカルスキー(Ms)、ロベルト・ヘーガー指揮、ウイーン・フィル、1933年録音

大変有名な、古い録音ですが、その代わりSP録音に付きものの、省略が多々あります。例えばイタリア人歌手の登場の場が(少なくとも私の持っている版では)抜けています。声の対比はまず順当だと思います。むしろレーマンが貴婦人らしかならぬ情熱を見せるので、あららというところ。オルツエフスカのオクタヴィアンはどうという声ではありませんが、レーマンとの声の対比を考えればこれで良いと思います。時計のシーンはあまり強い動機になっていないようです。シューマンのゾフィーは、何ともいえない清らかさと、探究心を秘めていて最高のゾフィー。なぜか全体を聴き終わった時の印象は、古いワイン酒場の酒蔵でうたた寝をしていた若造給仕の見た夢、という感じ。カットは多いのですが、この「薔薇の騎士」というオペラ、初めての人に楽しんでもらうためなら、こういうカットも許されると思いました。


(2)抜粋盤:古い声による「薔薇の騎士」
2重唱「まるで夢のよう」、エルナ・ベルガー(Sp)、リーゼ・スティーブンス(Ms)、フリッツ・ライナー指揮、RCAヴィクター管(実は1951年のNYメットの開幕公演実況)、1951年録音、特製非売品

戦後の録音ですが、それを考えればベルガーの声もスティーブンスの声も立派なものです。この人達の生の声を聴いてみたかったと思いました。

(3)抜粋盤:古い声による「薔薇の騎士」
マルシャリン〜「彼を行かせてしまった」、アストリード・ヴァルナイ(Sp)、ヘルマン・ヴェイゲルト指揮、北ドイツ・トンキュンストラー管、ウイーン実況、1951年録音、メロドラムMEL16504

ここでヴァルナイはひごろ親しんだヴァルナイの声で通して歌ってしまいます。ヘタではないのですが、「薔薇の騎士」を楽しめるか、と問えばそうでもないと思います。これは元々リサイタルを録ったものですが、その次の曲は「エレクトラ」の「一人、全く一人」だったのですが、それを聞き逃してしまったくらい、同じ発想の曲でした。つまり、区別し難かったのです。


(4)抜粋盤:円熟した声による「薔薇の騎士」
リーザ・デラ・カーザ(Sp)、セナ・ユリナッチ(Ms)、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、スカラ座響、1952年録音

これは「薔薇の騎士」第2幕の冒頭部分です。ミラノ公演と書いてあるので、恐らくは戦後あったスカラ座への引越公演の一部ではないかと思います。ますます音が朦朧としていますが、それでもまだゾフィーを歌っていたデラ・カーザの声は全盛の花を咲かす直前のような素晴らしい力が満ちています。目立つ箇所で、一寸だけ音階が高いところを響かせていますが、若気の至りというか自信満々だったという証し。ユリナッチの方は言うまでもなく、この両人ががっぷり4つに組んで誇らかに歌うのを聴くのは心地良い。ただオックス男爵の到来をしめすような音が出た途端に、この録音テープはプツンと切られていました。それにデラ・カーザは美しい立ち姿で有名ですね。同じリヒャルト・シュトラウス「アラベラ」は定番でもあります。

(5)全曲盤:円熟した声による「薔薇の騎士」
マリア・ライニング(Sp)、セナ・ユリナッチ(Sp)、ヒルデ・ギューデン(Sp)、ルートヴィッヒ・ウエーバー(Bs)、アルフレード・ペル(Br)、アントン・デルモータ(T)、ヒルデ・レッセル・マイデン(Ms)、エーリッヒ・クライバー指揮、ウイーン・フィル、1954年録音、ロンドン POCL-2043/5

これは最も私の好みにあった演奏だと思いました。テンポがエキセントリックでないのです。マルシャリン役のライニングと、オクタヴィアン役のユリナッチの声の対比がもう少しあれば(途中でどっちがどっちだか分からなくなることがあります)。そしてライニングの声にホンの少し翳りのようなモノを感じたので、あれが完璧だったらなあ、というところ。でも時計の場に向かってライニングの声はどんどん良くなって行きますし、そういう声がどうこう言うことではない、何か滅び行く貴族世界の影が感じられて、ナカナカ良いと思います。没落を、匂うような媚態の中で演じる感じが何とも良いのです。デルモータの歌うイタリア人歌手の役もきかせます。

第2 幕でギューデンは力一杯に歌っており、確かに元気な町娘の素性を明らかにします。ここで目立つのは、ユリナッチのオクタヴィアンで、それは高貴な血統を明らかにするもので、声につやがあり、水晶のような音の骨格(但し無色透明ではない)を示しています。これは第1幕でははっきり分からない箇所です。ファーニナル役のペルはやや声が古い人だと言うことを明らかにしてしまいます。指揮者は、ワルツの場面は颯爽としていて、これぞウインナ・ワルツと言いたくなります。このCDは全体として聴きやすいのですが、スピーカーの側に耳を寄せて聴くと、シャリシャリした音が目立ちます。やはり古い録音だと思います。

第3幕。これはトロリとした味ワイのあるカ所です。全ての登場人物がそれぞれの決着をつけるところ。マルシャリンもオクタヴィアンもゾフィーもはたまたファーニナルもオックス男爵もそうです。そして全ての結果がみえたとき、婉然とこの音楽は終了します。クライバーの指揮を聴いていて、最後の締めくくりのテンポは正しいものでした。酒場でオックス男爵が「サア行くぞ!」と叫ぶ付近の背後のリズムだけ、やや遅めに感じられました。さあ、これからどんな「薔薇の騎士」の世界が続くのでしょうか。

(6)全曲盤:スタンダードと考えられる「薔薇の騎士」
エリザベート・シュワルツコップ(Sp)、クリスタ・ルートヴィヒ(Ms)、テレサ・シュッティッヒ・ランダル(Sp)、オットー・エーデルマン(Bs)、エバーハルト・ヴェヒター(Br)、ケルステン・マイヤー(Ms)、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、フィルハーモニア管、1956年録音、Brilliant Opera Collection 9085

これは「薔薇の騎士」の標準とも考えられているものです。第一幕の開幕からルートヴィヒの声が心地よく響きます。ルートヴィヒの声は時代によっては(後の時代になると)少し大仰なクスんだ感じが強くなりますが、ここでは少しオズオズとした青春の声を残しています。返してシュワルツコップの声がやや激しく響くため、ギョッとするところ。シュワルツコップはそれを自覚していて、次第に美しい声で適切な表現をするようになって行きます。ルートヴィヒのやりとりは、どちらが主役が分からない程、うまく絡み合っています。イタリア人歌手を担当するニコライ・ゲッダは声が細く、やっと歌えたという感じでした。ここまででは、アントン・デルモータの方が遥かにこの役に相応しい。と言うのは、イタリア人歌手という想定は、ある意味でイタリアを馬鹿にするもの、与えられた旋律は美しいが、内容空虚だと(作曲者は)言いたいのだろうと思うのです。デルモータはそういうウラの意味に無頓着に朗々と響かせていましたが、ゲッダは声も出ていない。シュワルツコップのここでの声から判断される年齢は、やはり作曲家が想定した32歳と言うのがピッタリ。流石シュワルツコップです。その頭の良い歌手に全面的に拍手を送りたいと思います。開幕当初の激しさは、これで32歳というのはカマトトだと感じましたが、後半でぐっと年齢相当になりました。女性の厄年ですね。かつて「源氏物語と音楽」の章で書いた六条御息所だと私は考えます。そう考えると前に聴いたロッテ・レーマンのマルシャリンの歌い方が激し過ぎると言うのも、これは当然だったかと改めて感じています。そしてカラヤンは万事ソツがない。決して余計なことを織り込まないし、淡々とこなしている様です。むしろココまでではエーリッヒ・クライバー指揮のものの方が、ウイーンの伝統を伝えているようです。

第2幕はシュッティッヒ・ランダルの出番ですが、彼女は最初はしおらしく、遠慮しいしいの、恥ずかしがり屋だろうと思いましたが、後半になっても一向に改善されませんでしたので、これはランダルの資質の問題だろうと思いました。結局だれがゾフィーを歌えば良いのでしょうか?結局ここで再々度エリザベート・シューマンに登場願い彼女に歌ってもらったら、というのが夢です。実際シューマンの声そのもののもつ銀のような声質、あれはこたえられない。ただしその写真をみないこと。ヒルデ・ギューデン(当時の)でも良いと思います。ファーニナルの館の中では大騒ぎですが、そこに侵入者たるオックス男爵の手下たちが、整然と口を揃えて歌うのでちょっととまどいを感じました。それに言っているセリフが「あのイタリアの連中」という表現ですから、余り良い印象ではありません。絶対にあれはカラヤンがわざとさせたものですね。そして終幕部にあるワルツ。これはまるで向こうの部屋で演奏しているみたいな音です。これはクリームとシャンペンで装飾したフランス料理を思わせています(エーリッヒ・クライバーのは、明らかにワインをきかせたウイーン料理でした)。私自身はウイーン風の方が好きです。なお最初の部分は派手に鳴らしていますが、そのあとでまるでチャンバラをやっているような音が続きます。これは映画的迫力を生んでいると思います。どうもチャンバラというのは定式的な動作でもあり、そこで気分を一新する役割もするようです。そう言えば水戸黄門とか、一昨年観た「ヘンリー6世」の芝居でもチャンバラが演じられていますね。

第3幕。これは面白い幕ですが、後に聴くカール・ベーム指揮のものを思い浮かべると未だ不足あり。しかし展開する場面の音楽としてはカラヤンのは一流でした。カラヤンは映画で成功したかも。あれこれ陰謀じみた茶番劇がつづき、最後にオックス男爵がオクタヴィアン、マリアンデル、マルシャリンと数え始めると、それをマルシャリンが「シッ」と強い声で押さえる場面がありますね。これは痛烈なものでした。マルシャリンとか上流貴族の世界では決して漏らしてはいけないことです。それをオックスも納得していた模様でした。そして最後にゆっくりと幕がおりる直前の音楽、あれもいかにも策謀師、といっては悪ければ演劇の黒幕、のようなリヒャルト・シュトラウスの十八番なのです。

(7)全曲盤:もう一つのスタンダードの「薔薇の騎士」
マリアンネ・シェッヒ(Sp)、イルムガルト・ゼーフリート(Ms)、リタ・シュトライヒ(Sp)、クルト・ベーメ(Bs)、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカーウ(Br)、ルドルフ・フランクル(T)、ジークリンデ・ワーグナー(Ms)、カール・ベーム指揮、ドレスデン響、1958年録音。

ひそかにこれが最高かも、と思っていた「薔薇の騎士」。まず何といってもベーメの歌うオックス男爵が良いのです。クルト・モルなんかより遥かにメリハリが利いています。ただ序曲の出始め部分が少しですが速すぎてしくじっています。あれが無かったらこの録音はお勧め。第1幕では、シェッヒとゼーフリートの対比が良く付いていました。ゼーフリートって何ということないようなソプラノですが、それがなかなか上手いのです。シェッヒの方は周辺が静かで、従って本人も声を張り上げる必要が無い場合、例えば第1幕終わりの「時計の場」、これだけだったらなかなか良い素質の声を持っていました。イタリア人テノール歌手の役はフランクルという余り聴かない名前ですが、いってみれば芸大を首席で卒業したばかりのテノールという感じです。この役は目立つ役で、イタリア嫌いの作曲者の意図とは違って、聴衆が期待する所ですから(パヴァロッティが歌ったこともあると聞きます)、もう少し聴き手をぐっと惹き付けるようなエンターテイナーの要素が欲しいところ。あの旋律は日本でよく歌われる「ふるさと」〜「つつが無きや友垣」を彷彿とさせます。

第2幕はベームの趣味なのか、カラヤンみたいに未練たっぷりな指揮をしないので、あっと言う間に終わってしまいます。シュトライヒはここで登場するわけですが、特にずば抜けていないようです。ただ慣れていて、万全に歌うコツを知っている歌手のようです。ワクワクするような、何か緊張を強いられるような部分はありません。「無難」のひと言です。しかし欧州の歌劇場のように日夜歌劇上演が行なわれている所では、その無難さというのが重要な要素なのです。ワルツの場面を含め、もう少し遊びたい人は不満を感じるかも知れません。でも繰り返して聴いていると、これが良く聴こえるようになりますよ。

第3幕は全体として大成功だと思います。忘れてました。フォン・ファーニナル役はディートリッヒ・フィッシャー・ディスカーウが歌っています。私も今ごろ気づいた。流石のフィッシャー・ディースカウもこの役では大したことができないようです。子供達のパパ、パパと叫ぶ声が元気一杯ですが、これも3度目のパパ、パパの歌い終りの部分になると、フト子供の表情が目に浮かんだのですが、「退屈だコレ」と言っている様です。直観的にそう思いました。子供に「薔薇の騎士」はそりゃ難しいと思いますよ。ゼーフリートとシュトライヒの声質の違い、その音量の違いは良く伝わってきます。シェッヒはやはりああいう合唱部分で埋没しないためにはひと工夫必要かもしれません。総決算の場面はたっぷりと余裕を持って響き渡りましたので、このCDは取っておきましょう。

(8)全曲盤:シュワルツコップの1960年盤と同時に録った「薔薇の騎士」
リーザ・デラ・カーザ(Sp)、セナ・ユリナッチ(Ms)、ヒルデ・ギューデン(Sp)、オットー・エーデルマン(B),ジュゼッペ・ザンピエーリ(T)、エーリッヒ・クンツ(Br)、ヒルデ・レッセル・マイダン(Ms)、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウイーン・フィル、1960年録音、

これは後出の1960年のカラヤン盤と同じ時期に録音されたもの、と言うより本来このザルツブルク音楽祭では大半をデラ・カーザが歌ったのです。シュワルツコップは初日のみの出演でした。勿論オーケストラは前と同様のカラヤン指揮ウイーン・フィルです。デラ・カーザの声はシュワルツコップより若い。それは表現の諸処に見られることです。第1幕ではユリナッチのオクタヴィアン役が素晴らしく、高貴な響きを聴かせますが、それは貴族とは言え、まあ17歳の少年とは思えないほどのものでした。それと組んだデラ・カーザですが、やはり年上ですがそれも30歳に達したかどうかギリギリという声でした。シュワルツコップの声は32歳がピッタリでしたが、デラ・カーザの声はかなりそれより若く聴こえます。それは一所懸命つま先立っていますが、もっと遥かに年取ってみると、オイオイそんなにしてもムダだよ、と声を掛けたくなるような必死の30歳ないし28歳くらいの声でした。シュワルツコップの方はもうダメかもしれない、という一種の諦めを秘めていますが、デラ・カーザの諦めきれない気分が聴き取れるのです。この違いは「時計の場」で明らかにされます。この盤が優れているのは、イタリア人歌手を歌うジュゼッペ・ザンピエーリの声でした。これは素晴らしい声で、前出(実況録画で無い方のカラヤン盤)のニコライ・ゲッタとは比較にならない程上でした。

第2幕。これはチョッと言いたい所があります。それはヒルデ・ギューデンが登場するシーンの当たりで、ギューデンは思い切り声を張り上げていますが、やや場違いな感じを持ちました。それは貴族になりたくて仕方がない娘が、夢が叶うというので無我夢中になっているように聴こえるのです。実際そうなんですが、しかし「薔薇の騎士」というオペラ全体としてみると、これはまずいのです。誰だって気がつきますよ。しかもテンポを落として高音を張り上げていますが、それは限界に近い声です。生まれながらの貴族と、婚姻によって貴族になる人間の違い、といえば良いでしょうか。カラヤンがここをどんな顔をして指揮していたか知りたい所です。あとはカラヤン流です。チャンバラはそれほど意識しませんでしたが、やはりああいう映画風のシーンではカラヤンは派手に指揮しています。そしてワルツの最後のところ、ここではリズムを少し崩してウイーン風に指揮しています。

第3幕は全てが予想通りでした。但しギューデンの登場する場面では、やはり声が目立ち過ぎます。新興貴族(というより、成り上がり貴族)たるファーニナル役の声はいかにも、そう言う風の人も居るだろうという感じ。おしまいのぶぶんは、申し分なく、押さえたギューデン他の声で出来ていました。これは良かった。

(9)抜粋盤:やや朦朧とした音質、シュワルツコップの白鳥の歌の「薔薇の騎士」
エリザベート・シュワルツコップ(Sp)、リーザ・デラ・カーザ(Sp)、トマス・シッパーズ指揮、NYメトロポリタン歌劇響、1964年録音

「薔薇の騎士」第1幕の幕切れ「時計の場」。恐らくこれは1964年に1度だけ上演した「4人のプリマ・ドンナ」と銘打った公演の晩の記録だろうと思います(この2人の他には、ジョーン・サザーランドの「椿姫」第1幕、レナータ・テバルディの「ラ・ボエーム」第1幕)。音質が朦朧としていますので、想像力が問われます。シュワルツコップの高音で音が少し震えているのが聴き取れました。実際この翌年、一度だけまたメットで「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・エルヴィラを歌い、あと地方公演を一度やって、それでシュワルツコップの米国公演は終了しています。

(10)全曲盤:カラヤン臭さの極みの「薔薇の騎士」
アンナ・トモワ・シントウ(Sp)、アグネス・バルツア(Ms)、ジャネット・ペリー(Sp)、クルト・モル(Bs)、ヴィンソン・コール(T)、ヘルガ・ミュラー・モリナーリ(Al)、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウイーン・フィル、1982年録音

これがカラヤンの最終的な答えか、と思うとやや残念。それはカラヤンの指揮はますます美しくピアニッシモを響かせますし、歌手達のコントロールもそれにそっているのですが、どこか本質的な点で私は疑問を持ったのでしょう。カラヤンはテンポを落としています。第1幕のマルシャリンとオクタヴィタンの場面は、バルツアの技巧が思ったより上手かったのですが、直ぐに感想を取り替えたくなります。それはバルツアが思うように歌えないことを意味しますね。つられて「時計の場」ではトモワ・シントワも入魂とはいえない出来映え。当初のベッドの中ではトモワ・シントワの声はオクタヴィアンとコントラストが良く付いていたし、これはいけるか、と思ったのですが。トモワ・シントワの声は、言ってみればマシュマロのような声で、栄養も満点に染み渡った感じです。

第2幕では「チャンバラ」が余り目立ちません。思うにクルト・モルの演じるオックス男爵が上手く無いと思いました。決して声がないわけではありませんが、オックス男爵のような声は単にバスという音程だけの問題でなく、そこに込められたキャラクターを聴き取れるかどうかだと考えるからです。そう思って聴き直してみると、徹頭徹尾あまり性格のはっきりしない歌手だと思いました。ここでゾフィーがデビューするので、注意深く検討しつつ聴きましたが、声は大変素直ですがあまり強い性格を秘めているような歌手ではありません。カラヤンの指示でしょうが、ペリーはここで思い切り焦点をオーケストラに当てていてカラヤンは、ソプラノが出しゃばることを禁じています。そういう演出を受け入れられる人なら、このカラヤン盤「薔薇の騎士」は最高の美しさと最高の技術水準で支えられたものとして受け入れられると思います。だってあの1960年録音のデラ・カーザがマルシャリンを歌った盤では、ヒルデ・ギューデンがこれこそ声を限りに、大喉を明けてゾフィーを歌っているのですよ。あれから22年もたったから、カラヤンの美学も変更されたのでしょう。ワルツのテンポに少し遊びが見られます。

第3幕は、ほぼ全員が上手くありません。クルト・モルはもっと楽しく歌って欲しいし、ペリーは声をもう少し張り上げても良いのではありませんか。一番まずいのはマルシャリンがオックス男爵を語気を荒げて止める場面、あそこで元帥夫人はちっとも怒っていないのです。そして終幕に向かってテンポが遅くなります。こういう、鉛のように重い空気で時の進む「薔薇の騎士」をどうお考えですか?

(11)管弦楽版:声の入らない「薔薇の騎士」
アンタル・ドラティ指揮デトロイト交響楽団,1983年録音、ロンドンPOCL-3138

オーケストラ版の「薔薇の騎士」。こういう類いの録音は多くありますし、実際ちょっと「薔薇の騎士」を楽しもう、という場合には格好の品だと思います。解説も何もなくても、「薔薇の騎士」って音楽を楽しんで下さい。

(12)抜粋盤:新しい声による「薔薇の騎士」
ルネ・フレミング(Sp)、バーバラ・ボニー(Sp)、スーザン・グラハム(Ms),
クリストフ・エッシェンバッハ指揮ウイーン・フィル、1998年録音、ロンドンPOCL-1910

これは私が持っている中で最も新しい録音年月日のもの。フレミングもボニーも、現代の歌手から選べばこれも正解でしょうか。最近思うのですが歌手の技量を確かめたいと言って買うような歌手が少なくなったようです。突然の飛び入りができるか、それも標準以上の成果を出せるか、あらゆる指揮者に上手くよりそえるか、等々の経済的理由を満足させないとなりません。バーバラ・ボニーはいつかみたTV番組の中で、オーディションを受けにきた男性に対し、もしあなたが指示されたことを気に入らない場合は、自分の流儀で歌ってしまうことよ、というモノでした。これは賢い。スーザン・グラハムのオクタヴィアンは印象が薄い。

千葉のF高



(197)モノローグ  画像付きの「薔薇の騎士」
(13)全曲盤:視覚を伴うスタンダードの「薔薇の騎士」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ウイーン・フィル、ルドルフ・ハルトマン(演出)、エリザベート・シュワルツコップ(Sp)、セナ・ユリナッチ(Sp)、アンネリーゼ・ローテンベルガー(Sp)、オットー・エーデルマン(Bs)、エーリッヒ・クンツ(Br)、ヒルデ・レッセル・マイデン(Ms)、ジュゼッペ・ザンピエーリ(T)、1960年ザルツブルク音楽祭実況録画

第1幕。これは「薔薇の騎士」の基本に当たる演奏です。あらゆる「薔薇の騎士」は良しにつけ、悪しきにつけ、これとの比較で判断されます。音楽は当然のように堂々と鳴り響きますし、それはショルティのようにアレ?という瞬間もありません。シュワルツコップは万全の声をしていますし、声だけを取り上げれば元帥夫人も、オクタヴィアンもオックス男爵も万全でした。特にシュワルツコップは声だけの問題でなく、姿形まで標準たるものでした。ザルツブルクはお金を掛けても大丈夫な所。あらゆる表現を丹念に行なったという感じ。ユリナッチのオクタヴィアンは声だけ聴いていた時は気にならなかったのですが、姿を観てしまうと、少し大柄かなというところ。コヴェント・ガーデンでのアン・ハウエルスと比べると、その違いに気がつきます。しかし再度目をつぶって音楽だけに集中しますと、声ではユリナッチの勝ちだということを確信しました。シュワルツコップのやや痩せぎす気味の姿は始めからマルシャリンそのものでした。昔みた映画に「エカテリーナ2世」というのがありましたが、あそこでのエカテリーナ役、あるいはもっと古い映画に「パルムの僧院」というのがありましたが、あのサンセヴェリーナ公爵夫人の最後のシーンの姿は、やはりマルシャリンに通じるものがあります。思うにマルシャリンはカツラを被ればバレエ「白毛女」ではないか、とも思いました。妖怪です。そういえばシュワルツコップはある年齢を超えたとき、もう公開の場には出ない、と宣言したそうです(シュワルツコップは2006年死去)。オックス男爵もその演技はピッタリでした。あの「スペインのような堅苦しさ」と揶揄するようなセリフで演じるエーデルマンのそれは、あとでみたハウグランドのオクタヴィアンが文字通り「スペイン風の堅苦しさ」を見せていたのと比較するとおかしくなります。

第2幕はショルティのコヴェント・ガーデン版の元になったものと見受けられますが、ここでカラヤンの指揮が速いこと、ぐいぐい押して迫るところなど、なかなか快適ですし、テンポの速いのも結構。私はここでカラヤンにことさら辛く当たるのは、イジワルでしかないと思います。オクタヴィアンの画像(大柄なせい)にややとまどいを感じていた私ですが、イスに座る様(サマ)、あるく様など、堂に入ったものを感じました。ここで声だけをジッと聴くと素晴らしいという賛辞しか出て来ません。オックス男爵もここでは素晴らしい舞台効果を挙げています。音だけを聴くと、エーデルマンには物足りなさを禁じ得ないのですが、この画像付きの映像はすばらしく、オックス男爵そのものになっています。要するにオックスは悪人ではなく、田舎で繊細さを磨くこと無く暮らして来たので、彼にとっては当然のことがここでは全て否定されてしまうのです。家来たちが幕中でいうセリフに「ここはトルコか、それともフランスか」というセリフがありますが、問題をはらむかもしれません。ここに於けるゾフィーも素晴らしい声でした。シュトラウスのためと言うのではありませんが、イタリア人の家令をさも軽蔑するがごとく言うセリフがありますが、国籍と皮膚の色で差別しない方が良いのでは。

第3幕:またもや猛烈といえるほどの速いテンポで進みます。このテンポは心地が良い。オクタヴィアンが姿を見せますが、やはりショルティやクライバーの指揮した盤と比較するとカラヤン盤のセナ・ユリナッチは大柄だと思います。声だけとれば申し分なく、貴族の血さえ感じられるのに。あらゆるテンポは速めにすすみます。そして再び確認することになりましたが、元帥夫人を演じるシュワルツコップはこの役にドンピシャです。これはどうにもならない。他の表現も可能だとは思いますが、可能というのと絶対そうだというのは違うのです。衣装も、言語も、姿も完璧です。演技自体でもシュワルツコップは決して走らないのです。ジョーンズが走っていたのとは違う。さきほどセナ・ユリナッチの体が大柄だと申しましたが、自分が歌わない場面でのユリナッチの演技をみて下さい!キチッとしています。椅子に座る時は刀をどう始末するか、等々、隅々まで眼が行き届いています。さすがです。そして声には銀のスジが感じられます。これも高貴の証し。エーリッヒ・クンツのファーニナルは適役でした。最後にああやって締めるのですね。マルシャリンの退場の場面は短いけれど、あそこに長い芸歴が現れています。

(14)全曲盤:カルロス・クライバーによる「薔薇の騎士」
カルロス・クライバー指揮、ミュンヘン歌劇場響、オットー・シェンク(演出)、ギネス・ジョーンズ(Sp)、ブリギッテ・ファスベンダー(Ms)、ルチア・ポップ(Sp)、マンフレート・ユンク(Bs)、ベンノ・クッシェ(Br)、グートルン・ヴェヴェツオウ(Ms)、フランシスコ・アライザ(T)、1979年バイエルン国立歌劇場実況録画

第1幕はやや暗く、広間を広くとってあります。ファスベンダーの顔と声を最初に聴き出したのですが、やや大きい体形ですがこれなら17歳の男の子に化けられるだろうと思いました。ジョーンズは例の通り髪の毛を長く垂らしたスタイルでした。確かにあの髪型はジョーンズのやや老け顔を隠す為に有効だと思いますが、ただ貴族の奥方という設定に合うのかな、と思いました。ヘア・ドレッサーに外出するための髪型をセットして貰う時も、いつまでもそのままの格好だったからです。ジョーンズは広い室内を走るように移動していましが、あれはボツ。声は特徴がなく、動作が加わって初めて、全てが理解されるという歌手でした。「イタリア人歌手」役は上り坂のフランシスコ・アライザが務めましたが、おっかなびっくりという感じで歌い、2度目のくり返しのカ所では声が裏返ってしまいました。アライサとしては痛恨の一声。またここではマンフレート・ユンクのオックス男爵の姿にがっかりしてしまいます。喜劇になっていないというか、その存在自体が喜劇です。

第2幕は素晴らしい装置で、これは演出に目を奪われます。ポップのゾフィーは清純な声を出し、それも最上の声でしたから、これは素晴らしいと思いました。その代わり演技が紋切り型で、これは減点ものです。あんなに激しい演技をしなくても、もう聴衆はあなたの味方ですよ。ここの最後にワインのシーンがあるわけですが、もう少し余裕がほしかった。1にも2にも、ゾフィーが大人しく、弱々しいふりをすること、これが肝要です。ゾフィーの声は完璧に近い。ペンノ・クッシェといえば、ニューヨークで「魔笛」のパパゲーノを演じた人として記憶に残っています。また全ての装置、衣装には端々に「青銀色」が感じられました。そのツモリになってあらためて聴くと、本当に青銀色なんですよ。ここでクッシェのファーニナル役は適役でした。カラヤン盤クンツの流儀を引いています。

第3幕。これは舞台装置としては平凡でした。つまりギョッとさせようとか、度肝を抜くとかいう要素は薄いのですが、全体で作り上げようという姿勢が感じとれました。なにより見直したのは、ファスベンダーの歌うオクタヴィアンでした。彼女は今まで、例えばアグネス・バルツアと比してあまり話題に乏しい為か、やや影の存在のような印象がありました。ところがこの「薔薇の騎士」3幕をみたところ、彼女はダントツに上手いことがわかりました。声はむらなく、色彩感も十分。どうしてこの人を放っておいたんだろうという所です。私は彼女のオクタヴィアンを生で観聴きしたのが最初の「薔薇の騎士」でした。ミュンヘンです。その後何回か聴く機会がありましたが、いつもまあハウスキャストかな、等と失礼なことを言って来ました。反省します。調べて見るとファスベンダーはバルツアより約10年年上です。ファスベンダーの顔をよくよく見ると、なにかブルネットの色彩を感じますが、ベルリン生まれと書いてあるだけなので、分かりません。この幕の基調となる色彩はゴブラン織りのようなものであり、色だったような気がします。それはそれで良いと思いますが、再びここで不満を挙げるとすればギネス・ジョーンズの衣装と髪型です。やはり指揮者等とのやり取りの結果、彼女の髪型には眼をつむったのでしょうか。衣装は、まるでその時代の旅行着でしたので、これは減点したいところ。声もあらゆる音域を出していますが、出し方が単調です。

(15)全曲盤:ショルティによる比較的新しい声による「薔薇の騎士」
ショルティ指揮、コヴェント・ガーデン響、ジョン・シュレジンジャー(演出)、キリ・テ・カナワ(Sp)、アン・ハウエルス(Ms)、バーバラ・ボニー(Sp)、オーク・ホクグランド(Bs)、ジョナサン・サマーズ(Br)、デニス・オニール(T)、1985年ROH実況録画

第1幕:この全曲上演は、どうしても上記カラヤン盤のそれと比較することになります。コヴェント・ガーデンの音がザルツブルクとは違って響きます。ザルツブルクでは音が広大に広がって、まるで音の洪水を聴かせるようなところがありますが(妻はこれを音の何かを振りまく様、と言っています)、コヴェント・ガーデンのはもっと小ジンマリと中央部にまとまって聴こえるのです。シネマスコープと古風な画面の違いと言えば良いでしょうか。そして劇になっての音もまた、ショルティのは音が小ジンマリしていて、あまり広がっていません。まずキリ・カナワですが、声全体にマスクをしたような発声で、透明感を狙うタイプでは無いようです。アン・ハウエルスのオクタヴィアンはやや小柄ですが、仕草等、少年っぽさをだすことに成功しています。最も、耳だけで聴こうと目を閉じますと、何が良いのだか分からなくなります。少なくとも視覚にこだわると、このオクタヴィアンは成功です。言ってみれば、演出家のシュレジンジャーの成功でしょう。つまらなかったのがホクグランドの歌うオックス男爵でした。この人は顔が無表情で、手先や身体では色々と表現していますが、その途中でフト視線に注目すると、まったく表情が死んでいるのです。耳だけで聴くとまるで学生の練習みたいでした。残念ながら、この人を採用した人間に問題あり。キリ・テ・カナワは最後、ただ茫然と立ちすくむという感じでしたが、あれはもっと悩む姿を見せなければダメ。

第2幕:この幕は素晴らしい展開が見られますが、それはこれが視覚を伴う為だと認識しています。これは決して間違えてはいないつもりです。音だけを聴く場合の判断と視覚をともなう場合の判断。これをしっかりしていないと間違いを起こします。私はこのショルティ盤の「薔薇の騎士」第2幕の視覚面は、すばらしいと申し上げます。オクタヴィアンを演じるハウエルスの挙動とか、オクタヴィアンを演じるバーバラ・ボニーもまさに適役でした。実はここではボニーのセリフや挙動(指示通りの)の中には、随分思い上がった成金だなあ、と思わせる場面がありました。それでも全体としては成功していると思います。ここにおけるオクタヴィアンとゾフィーの2重唱は、これ以上ないようなウットリさせるもの。ハウエルスの容姿は、姿を見るかぎりですが、申し分ないものでした。ファーニナルを歌うサマーズですが、残念ながら彼は背が高過ぎると思います。ファーニナルという小心者の成り上がり貴族を歌うには、見てクレが少々悪い。それに、常に浮かべる微笑は、見るたびにイヤな気分になってしまいます。

第3幕:場末の酒場にしては随分立派な舞台装置でした。先人達の知恵を参考にして進化したのでしょうが、色々ないたずらの仕掛けが良く分るように解説(演出で)されていました。ハウエルズはここでは女装からスタートするので、そうなると大したこと無いか、とも思いました。ただし全体が終了する時は、このメゾ・ソプラノは座付きかも知れないけれど、ナカナカ立派な歌手だと思いました。ここに現れるボニーは眼に妍があって、余り好きな感じはしません。テ・カナワは素晴らしく美しい衣装(シュワルツコップと競える!)で登場しましたが、その歌い方等を良く吟味すると、プリマ・ドンナというには、やや気が退けるという印象。演出が明るすぎやしないか、と思った次第。美しく整理して、気持ちよく終わったという印象の「薔薇の騎士」でした。

千葉のF高



ここで取り上げた以外にも、LPならばバーンスタイン指揮の全曲盤(ルートヴィヒのマルシャリン、1971年録音)、ヴァルヴィーソ指揮の抜粋盤(クレスパンのマルシャリン、1964年録音)を持っていますが、ここでは比較対象から除外します。このオペラ全体を聴き終わって感じたこととして、まるでロッシーニの「セヴィリヤの理髪師」みたいに主役級が早口でさえずる場面が多いですね。「薔薇の騎士」というオペラの上演を万全に行なう為には、まずドイツ語に十二分堪能なことが必要だろうと思いました。外国人があのレチタティーヴォ・セッコを完璧に歌うのは大変なことです。実際にはモーツアルト「フィガロの結婚」が考えられますね。あれならストーリーも何となくR.シュトラウスを彷彿とさせます。この「薔薇の騎士」という最大のエンターテインメントをいかがお聴き頂いたでしょうか。

次回はオペラを離れ、マーラーの交響曲「大地の歌」を取り上げます。2011.10.20


















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