マーラーと「大地の歌」の周辺  2011.9.22-11.28
マーラーについて

今から20年以上前のことですが、あるパーティの音楽を選ぶ際に、この「大地の歌」を候補に挙げました。しかしお目出度いパーティに「大地の歌」は相応しく無い、という友人達の意見で、その時はオクラに。特に第6楽章のメゾ・ソプラノの歌は気に入ってました。高く飛翔する場面があれば孤影悄然の姿もあり、本当に、当時の私は大好きでした。マーラーはユダヤ人ですが、終生怒りっぽく「泰然」という言葉から遠い人だった様です。写真を見るとナルホドと頷けます。ウイーン・フィルの指揮をやっていても、怒りっぽい点は逃げようも無かったのです。また20世紀初めにも関わらず、その指揮ぶりを示すレコードが皆無なのだそうです。アマチュアリズムの権化とも言えるマーラーの生きざまは聴く人を選ぶようです。大好き、という人と逆にアレは嫌い、と切って捨てる人の両方を知っています。マーラーは若き日にワーグナーの楽劇を指揮して成功した一方で、死ぬ間際にモーツアルトの名を叫んだというウワサも。項目の構成は下記の通り。
●200 モノローグ「大地の歌」
●201 モノローグ「大地の歌以外の全交響曲」
●202 モノローグ マーラー「歌曲」
●203 モノローグ マーラーCD番号一覧



(200)モノローグ「大地の歌」
「大地の歌」について
この「大地の歌」はマーラーの第9番目の交響曲に違いないのですが、敢て交響曲を名乗っていません。それは、マーラーはベートーベンやシューベルトなどの諸先輩が皆9番目の作曲をしたあと、その後も書こうとして、寿命尽きたという因縁話を気にしていたからです。しかしマーラーは "隠れ9番"「大地の歌」のあと、結局は第9交響曲を書いてしまったのですね。それは実質的に第10番交響曲でしたが、マーラーは自らの第9交響曲の初演を自分では指揮できず、ブルーノ・ワルターに任せました。やっぱり。その後で第10交響曲も書き始めたものの、未完のまま。先輩のアントン・ブルックナーも自らの第9番の作曲途中で亡くなっています。こだわったようですが、ブラームスは自分の1番がベートーベンの10番だ、と言ったそうですが、実はブラームスの最後の交響曲は4番でした。日本的考えでは4番は忌避したい所ですが、その4番とベートーベンの9番を合わせると13番になり、キリスト教国では恐ろしい数。どうしても声を使いたかったマーラーですが、交響曲に使われた合唱は、効果的なものと、余り効果が上がっていないものと両方あります。マジックを起こすには、私の好みでは、合唱はもっと低い声を重視しないとならないのではないか、と思っています。そうすると、マーラーというより、ワーグナーの合唱みたいになりますが。もちろん「大地の歌」は交響曲ではない、と感じる人もおられるでしょう。またそれはレコード芸術誌の本年12月号の記事に色々と書かれていますが、しかし従来の大勢では、「大地の歌」は交響曲であり、それにまつわるエピソードもここに記した通りだろうと思います。

大地の歌第1楽章(李白の詩:大地の哀愁を歌う酒の歌)
この冒頭を聴いて襲って来るのが素晴らしい交響楽の襲来。これには耳をそばだてさせる勢いを感じます。ワルター旧盤のクルマンの声はすばらしいし、生で素晴らしい音楽を聴かせただろうと想像します。と言うのは、今日の基準からすれば、このワルター旧盤の音は、既に過去のモノだろうと思うからです。音がくすむのみならず、音の連続性も切れている気がするのです。デッカ社は設立後わずかしか経っていない会社でしたが、その頃のデッカを聴くと、とかく音がヒリつく(私の調整が不十分なため?)。従って今日このクルマンの演唱を楽しもうとするなら、自己責任でどうぞ、ということでしょうか。もう一つワルターによるステレオ盤があるはずですが、それはミルドレッド・ミラー(メゾ・ソプラノ)を起用したもの。ただ、どう言う訳かこのワルター=ミラーのチームが特にメンションされることは稀です。ワルター盤でも2番目のユリウス・パツアークはクルマンほど魅力が無いようです。声域が少し合わなくなっている感じ。バーンスタイン指揮のジェームズ・キングはさすがにワーグナーを得意とした人だけあって、堂々としています。でもキングには少し手に余ったかな。これは主としてレナード・バーンシュタインの指揮に問題があるようです(私の耳には遅い!)。ジュリーニ盤のフランシスコ・アライサは、なかなか聴けます。これは1984年の録音といいますから、アライサがピークだった時代の声です。全体としてこれは(クルマンを除けば)一番かも知れません。最後の平松英子のは、オーケストラの演奏に重ねるのでなく、ピアノの響きの上に平松の声を重ねて聴かせます。こういうレコードは珍しく、面白く聴きました。平松は透明感のある声で、楽譜通り高い音もソプラノで聴かせてくれます。何かシュワルツコップが歌った場合を想像しました(この場合は)。このピアノ伴奏というのは実に面白く、むしろオーケストラより細部をくっきりと浮かび上がらせるような感じでした。平松は生の声を聴いたことがありますが、この線はナカナカ良い。

大地の歌第2楽章(銭起の詩:秋に寂しき者)
最初のソロはケルステン・トルボルイによって歌われます。何か歌いづらそうだな、と感じつつ聴きましたが、これは録音のせいかも知れず、何とも結論できません。全体としてはまずまずです。続くキャスリーン・フェリアのアルトは、やはりこの人はメゾ・ソプラノではなくてアルトだな、と思わせます。つまり高音が苦しそうなのです。これは隠しても仕方がありません。バーンスタイン盤はどういう訳か、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカーウによって歌われています。なかなか上手に歌っていますが、あまりワクワクするような歌ではありません。続いてブリギッテ・ファスベンダーでしたが、彼女は先日聴いた「薔薇の騎士」で感心した点がそのまま味わえます。声はスッキリとしていて、陰影も良くついています。最後の平松英子は、歌が始まる一瞬前に音程が下がったような気がしましたが、全体が割りに平凡でした。ピアノの方は相変わらず面白い。オーケストラはワルター指揮のウイーン・フィルも良いけれど、ジュリーニ指揮のベルリン・フィルが心地よい音を紡ぎ出していました。

大地の歌第3楽章(李白の詩:青春について)
これは小曲だけれど、一寸楽しむには最適です。出始めに現れるのは中国の墨絵。クルマンは、音が素朴というか真面目に歌うとこうなるよ、と言うような歌いぶり。これはパツアークだと声が引きつってしまうため、構えて聴くことになります。そしてジェームス・キングは若々しい声ですが、エネルギーが余ってまるでニューヨークのフラットブッシュ地区に住むアンチャン風。時としてチェーンを振り回す姿を感じました。アライサになると、遠慮の構えと、もっと声を出したい、という欲望の両方が出ていて、複雑です。それでもアライサは全体としての効果を挙げていました。平松英子は短い曲だけに、上手く処理しています。

大地の歌第4楽章(李白の詩:美について)
ワルター旧盤のトルボルイは女声だと言うことをウッカリすると忘れてしまいます。なかなか上手い。ただしこの曲は色々と変化するため、妻はこれについていくのに苦労した模様。フェリアーのワルター盤は、最初の曲のように高めのキイ音が目立たないためか、深々としていて良かったと思います。声が奥深いのです。フィッシャー=ディスカーウが女役を歌うバーンスタイン盤は、上手く歌っているのですが、シミジミとした味ワイは見つかりませんでした。ファスベンダーの声は自在に動くのですが、オーケストラとそれほど一体化せず。そもそもこの第4楽章に聴く李白の詩は、オーケストラの流れが大きく変化して、突然声から外れた音もでてくるため、まるでバラバラの印象を与えるのかも知れません。平松英子は、オーケストラ(実際にはピアノ)との対比を考えて歌っていたようです。あとで出る第6楽章が楽しみ。

大地の歌第5楽章(李白の詩:春に酔える者)
クルマンの歌が、なぜかここではダサイ感じになります。田舎紳士風です。もっと春に酔えば良いのになあ。逆にパツアークの歌いぶりがここでは心地よいのです。この部分は力が籠っていないとダメだなと考えました。このパツアークはその点申し分ない。ジェームズ・キングはもっとヘルデン・テノールらしく力が出ても良いと思いますが、悪くはありません。アライサはマトモにぶつかっているのが聴き取れ、気に入りました。キングよりマトモな歌い方(制御しようという意志が察せられます)です。平松英子は声は十分出ていますが、この歌に関しては私の考えるようなオーケストラ(部)と声の融合が余り満足なものではないと思いました。これは本人だけの問題ではありませんが。

大地の歌第6楽章(孟浩然/王維の詩:告別)
これは全体の半分を占める重要部分。古典的なトルボルイの歌ですが、格調高く、出身はスウエーデンですが、ドイツ語の語尾処理もキチンとしています。これはフェリアーの歌と比すと良く分ることなのですが、フェリアーは余りドイツ語の語尾がはっきりしません。これは何とも不満足なところ。オーケストラ部は深々とひびき、ワルターは旧盤でもデッカ盤でも申し分ないところです。どちらかと言うと、現在のところは旧盤のほうかと思います。ただ、旧盤の方はさすがに音が悪く、朦朧と響きます。たしかこの部分はこう歌っているはず、という記憶に助けられている気がします。オダンゴになってしまいがち。その点デッカ盤の方が上手く響かせています。妻はフェリアーのアルトを聴いて、凄い低音ね、と感心していました。フェリアーは楽譜を受け取ってみたとき、凄さに感激してしまったそうですが、我が家にあった「大地の歌」のフルスコアをみますと、確かにものすごく長い、延々と続く音の連続。歌手がこの連なる音を直ぐに理解したとすれば、大したものだと思います。

3つ目のフィッシャー=ディースカウの歌を評価する時は、まずバーンスタインの指揮のテンポが問題になります。私のその時の耳に従えば、余りに遅すぎるのです。勿論フィッシャー=ディースカウが丁寧なフレージングを選んでいることは重々聴き取れますし、最後の「Ewig、 ewig」を繰り返す辺りの絶妙なそれと、音量のコントロールの上手さも認めますが、上手すぎて、私にはついて行けません。このパートを担当した男声歌手という、怪し気な配役ぶりにも疑問が生じます。オズオズと聴こえますし、なんとか上手くやってやろうという、隅々まで注意の行き届くのが、届き過ぎとして私の耳には聴こえました。これはやはり女声が、声を張り上げ、絶望的に歌い上げなければ、と思うのですがいかがでしょうか?ここで「声を張り上げ」とか「絶望を歌い上げ」という表現しましたが、それは男声には望めない、なにか女声のみに許される表現のように思えるのです。つまりその根源には、女声はテニスの試合をやっていて、どうにもならないスマッシュを打ち込まれた際に、時たま見られる女性特有の仕方、あーっと最後にラケットを放棄してしまうような所、それと繋がっているような気がします。これは私の勝手な思い込みかも知れません。でも、私はそういう所を期待して「告別」を聴いてきました。別のバリトン歌手、例えばヘルマン・プライだったら別の印象になったかも知れません。一種の「青臭さ」が感じられる声が欲しい(「告別」という内容を考えるとまるで逆ですが)。おまけにテンポが終曲に向かってどんどん遅くなるのも気になります。

そしてブリギッテ・ファスベンダーですが、何となくあらゆる歌い方に万能型になって合わせますよ、という風に聴こえました。テンポは前出のバーンスタインよりずっと良いと思いましたが、アルト(メゾ・ソプラノ)としてもっと全面に出ても良かったのではないでしょうか。最後の部分はメゾがかなり表に出ていたので、これが出来るのなら、始めの部分でもそうやって欲しいなあ、というのが私の感想です。最後の平松英子は美しい声で歌っていますが、ただそれでもドイツ語の歌詞ではやや甘いかなあと言う所。何時の日か、ピアノ伴奏の部分を自分で自在に演奏できたら、というあらぬ雑念を抱きました。最後の箇所は余り上手く行っていません。ピアノが遅すぎ、ソプラノもまた遅過ぎると思います。第1楽章で平松はシュワルツコップの歌を思い出させるなんて言いましたが、いや、やはり違う、という結論に達しました。この部分、女声が破綻を来さないように、ゆっくりと美しくメロディーラインを作ることに、全神経を集中しているようでした。しかし私の考える「大地の歌」はそうではなく、声が割れても、少しぐらいキタナイ声になっても、情念の燃焼が聴き取れなければなりません。そう、「燃焼」というのが良い言葉のようです。「大地の歌」というのは本当に難しい曲だと思います。テンシュテットにはアグネス・バルツア(メゾ・ソプラノ)を起用した録音があります。何時の日かそれも聴いてみたい。
千葉のF高



(201)モノローグ「大地の歌以外の全交響曲」
交響曲第1番:巨人
第1楽章
タイタンと呼ばれるこの曲の冒頭は、演奏による差が目立つ曲です。まずワルター指揮で聴きますと、音は明瞭で音楽の線も意外な程明瞭です。ある人が、これに含まれる目立った不協和音を捉え、「頭がいたくなるような」と表現した旋律も、むしろこの時代の音楽としては当然という感じです。他方テンシュテット指揮で聴くと、まるで色調が違うのです。どこにもタイタンの面影は薄く、むしろ森の中を通り抜ける郵便馬車の味ワイがあります。それにこのCDは音がくすんでいて、まるでベールを一枚掛けて聴くようです。でもそれはそれとして、テンシュテット流の巨人を楽しみました。

第2楽章
再びワルターの「巨人」は逞しく、音の大小もくっきりしています。他方のテンシュテットは余りくっきり型ではないのですね。その代わり、実にシミジミした強弱の味ワイがあります。私はこれが気に入りました。ワルターのはいわば分析的な聴き方をする時に便利だし、テンシュテットのはフワフワのクッションの効いたソファで、極上のBGMとして聴くのに相応しいんじゃなかろうかと勝手に思いました。それに舞踏のリズムを感じますよ。

第3楽章
有名な黄金虫のメロディーのパロディーが続くところ。このリズムを、妻は絶対に黄金虫だ、と、申しますし、私が一寸待てよ、と一時中断に入りました。インターネットには両方の言い分の記事が出ていました。やはりあの調子を長調に戻せば、パロディーかな、という結論になりました。相変わらず舞踏のリズムが聴こえます。

第4楽章
ここでワルターの鮮烈な音は、かつてTVニュースで用いられていた、事故時にかかるテーマ音楽でした。その鮮烈さは最後まで持ちこたえています。もう一方のテンシュテットの方は、やはり遠くで演奏しているのを、はるか隔たったところで聴いているという感じ。途中の説得力の違いは、ワルターの勝ちと言いたかったのですが、最後まで続くゆったりしたテンシュテットのテンポにならされ、また、途中でハッとするような的確なテンポでリズムを刻むのを聴くと、これも良いのでは、と思った次第。

交響曲第2番:復活
第1楽章
この楽章は取り留めのない感じがします。第1楽章には次々と思わせぶりな音が出ますが、それをここでは余り展開していないのでは、と思いました。次楽章に期待しましょうか。実は私はiPodにマーラーの殆どの音楽を入れてあるのですが、それでも2番の交響曲だけは入っていないことに気がつきました。

第2楽章
遠景に森が左右に広がり、その100m程度離れた所にいる聴衆は、そこを行き来する貴族の馬車列をながめ、あるいはそこから響いて来るラッパ等の音を聴いている、という風景が目に浮かびます。そこを支配するのは舞踏の音楽です。それが次の楽想ではもう少し庶民的な踊りに変ります。私にはどうしても、これは舞踏の音楽という考えに捕われています。

第3楽章
これは水の流れを表す音楽として捉えました。緩急自在の流れですが、途中で巨岩に一度ぶつかります。水の音楽として考えると全てが納得行くのです。

第4楽章
何とも不可解な音楽でした。まるで学生がファンファーレを作曲せよ、という課題を背負って出来たような感じ。進めば進むほどマーラーらしく無いのです。リヒャルト・シュトラウスを少し先取りしたような音楽で、私としてはがっかりです。最後の教会の鐘の響きには心底がっくりしました。

交響曲第3番:夏の交響曲
第1楽章
ラトル指揮のバーミンガム響の演奏をまず聴きました。この演奏が夏を回顧するものだと誰かに聞きましたが、それを意識するのは後半です。出始め部分は、ヴェルディ「トロヴァトーレ」の一節(第4幕のアリア)を思い出させるところですが、それもホンの少しだけ。途中から海の精(ニンフ)が現れます。最初からこれはサイレーンの歌みたいだな、と思いました。それが途中から男性的な合唱にかわり、最後はトドがとどめを刺す、という感じに聴こえました。あのアキレウスを生んだニンフは、普通のニンフより神性が強いようですが(これは私の勝手な感じ方です!)、それでもあの恐ろしい男神(海神ポセイドン)には逆らえません。全曲の最後に、ふたたび海を飛び交うニンフ達のたてる泡音が聴こえます。私は勝手にここで、印象派の音楽みたいな解釈をしました。

これがテンシュテットの指揮になると、最初マジックが働きませんが、それでも水が流れる音がします。そしてデユカスの魔法使いの弟子みたいな、水が泡を立てる様子がよく伺えます。この曲の最後は、よくよく聴いてみるとオーケストラががなり立てて、尤もらしい結末になっています。

第2楽章
ラトルの方から聴いたのですが、大人しく柔らかな表現で通している様子です。これがテンシュテットになると、まるで印象派の絵画みたいな様相になります。水の泡がわき上がったり、それが静まったりするのが聴き取れました。テンシュテットという指揮者は東独から外に出ることが長い間抑えられ、西欧にデビューしたのが遅かったのですが、なかなかの腕前です。

第3楽章
ラトルから聴きましたが、序章という感じでした。ただ、マーラーはやはりここで水にこだわっているようで、相変わらず水泡が湧き出る様に響きます。途中に聴こえる突然の咆哮は意味がよくわかりませんでした。テンシュテットの方はラトルより安心して聴ける上、意味が良くわかりました。相変わらず水の泡が踊っています。そしてラトルで目立った咆哮はここでは聴かれませんでした。

第4楽章
ラトル盤の鮮烈な音が聴けます。対してテンンシュテット盤の方が音に関しては印象が薄い。これはメゾ・ソプラノの声が入りますが、テンシュテット盤の方では、口元にふっと浮かんだ笑みが感じられます。これはロッシーニのオペラに良くあるタイプの声を思わせました。ラトル盤では声そのものに対する印象が薄い。

第5楽章
ラトル盤から聴きましたが、全体に調子良く、テンシュテット盤より27秒も短いのです。全体が短いため、この27秒の差の影響は大きくなります。テンシュテットではバリトンが歌っている箇所をラトルではメゾ・ソプラノが担当しています。妻はこれを聴いて、まるでクリスマスの音楽みたい、と申しておりますが、確かにクリスマス・キャロルを聴いているようでした。

第6楽章
ラトル盤は打って変わっておとなしい音楽で始まります。それはやがて咆哮に転じ、さらに激しさを込めた音になりますが、相変わらずマントヴァーニ楽団のような、音を少しづつずらす方法(私自身はこれをマントヴァーニ風とよんでいます)が目立つようになります。最後の咆哮というか、おしまいに向かって大きな音を持続させるところは、まるでオルガンみたいです。そう、フランク等のオルガン・コラールで聴ける音です。そしてテンシュテットの指揮で聴くと、予想通り、やや遠くに音源が移りますが、マントヴァーニ風と揶揄したラトル盤ほど露骨ではありません。結果的にこの第6楽章はテンシュテットの方に好感をもちました。

交響曲第4番
第1楽章
ウイレム・メンゲルベルク指揮の古いCD盤(1939年)は、意外なほどオーケストラの音は鮮度を保っています。掛けた途端に家内が「ああ、これ」と声を出しましたが、それだけ今までこの曲を掛ける頻度が高かった証拠です。最初の旋律も耳慣れたものでしたし、所々に、オーケストラがホッとできる場所があって、実際それらを通過する度に私はほっとしました。次にワルター盤の評価ですが、これは少々手間がかかります。つまりワルター/ウイーン・フィルは音がデッドな印象があるのです。響くものが殆ど響かないため、シンバルの和音がフワーっと静まるのが聴き取れない。それでも聴いた後で耳に残るのは、楽しい音楽だ、という印象でした。オーディオ的には不完全ですが。そしてベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団によるものは、掛けた途端にきれいな音ね、と妻の言。実際ここまで聴いたメンゲルベルクやワルターはモノーラルであり、実況録音だったりして、余りよい音質ではありませんでした。その意味で、このハイティンク盤は我々が普段よく聴くCDの音質に近づいたものと言えるでしょう。その音楽は柔らかく膨らみ、決して荒々しい響きはありません.途中で一瞬ですがマーラー特有(?)の水音も聴こえました。私にとってはこのハイティンクのマーラーはホッとする音楽でした。最後に登場したのはテンシュテット。テンシュテットの指揮は音を小さめに、過度に明確化しないで柔らかく響かせます。特に最初の部分でおとなしく響くのです。やがて良く知られた旋律に至ると、そこでは飛んだり跳ねたりしますが、あくまでテンシュテット流の色づけの範囲内です。昨日聴いたハイティンクのホッとさせる音楽と、どちらがスキかは趣味次第。

第2楽章
メンゲルベルクで聴いたとき、メンゲルベルクという指揮者はロマンティックな人だという噂は本当だが、音楽はなかなか優れていたのでは無いかと思いました。強弱や、テンポの取り方は納得がいくのです。途中で急に明るくなったような箇所、まるで眠れる森の美女が目覚めたような箇所、は強調されて響きます。これはあとでテンシュテット盤でも少し聴き取れた点です。実際ここで聴くマーラーには、映画的な揺らぐような音があります。期待していたワルターのCDは、メンゲルベルクに似て異なるところがありました(実はワルター盤を聴いている最中にパワー・アンプが不調になったので、この後はサンバレーの真空管アンプ、SV-501SEで聴きました)。ハイティンク盤は音が鮮やかで、これぞステレオと言う感じに響きます。ただしテンシュテットのと比べると、テンシュテット盤がより輪郭くっきり、強弱はっきり、という感じでした。ハイティンク盤とどちらを好むかは、やはり聴く側の趣味の問題ですね。

第3楽章
メンゲルベルクの指揮はゆったりし、決して慌てません。こういうのを落ち着いて聴くのは心地よいものです。実況録音だということがバレバレですが、それもご愛嬌。どうしてメンゲルベルクはナチスにすり寄ったのだろう。返す返すも残念でなりません。お蔭でその最も円熟したであろう約10年間を、演奏禁止で失いました。ワルターのは時に気が張りつめていることが分かりますが、それはそれでワルターがしっかりマーラーと向かい合っていた証拠と考えます。古い実況録音なのでヒリヒリした音の悪さを時に感じますが、テンポの取り方など、よくよく考えた演奏だと思いました。ワルターのはアダージョというかレントみたいなスローテンポが含まれますが、比べてハイティンクのは飲み心地がもっとよくなります。ワルターはその締めくくりに向けて十分な説得力をもち、シミジミとした味ワイを出しています。それに比すと、ハイティンクのはずっと滑らかに音が流れます。素晴らしく音が滑らかなのだが、滑らかさは時として眠気をもよおすから始末が悪い。つまりハイティンクの指揮は心地よい甘いジュースのような、それで人々を捉まえるような所があると思いました。そういう聴き方も結構だと思う次第です。なお先に記したように、ワルターの所から、不調のアンプを避けるため、プリアンプの入力を交流出力のみとして(つまりここでは光出力を諦めて)入れることにし、そのCDプレーヤーにはミュージカル・フィデリティのA23CDを用いました。これはあらゆるCDを上手く鳴らしてくれるので安心して聴けます。プリアンプはサンバレーのSV-722、パワーアンプはサンバレーのSV-501SEです。最後のテンシュテットは音がゴージャスで分厚い。そしてテンポが速い。妻はこのテンポだと次の音が分かり易いから、今まで聴いた中では良い方だわ、と申しておりました。但し私にはこれはテンポが速過ぎる気がしました。音は繋がって聴こえるから良いものの、私は頭の中でこの音の意味は何だろう、と考えながら聴くもので、耳が追いつかないような気がしました。ワルターに聴いた、あの一音一音に意味を含んだ音とは対象的です。そしてハイティンクの甘い調べとも対称的。テンシュテットのはあくまでこれは指揮者の考える音だ、という主張が聴き取れます。気持ちよく終わりました。

第4楽章
ここから突然ソプラノのソロになります。余りにあっけなく変るような印象です。まずメンゲルベルクですが、このテンポは、この曲としては普通なのでしょうか。ただしジョン・ヴィンセントのよるソプラノ・ソロには違和感を感じてしまいました。違和感というのをもう少し具体的に言うと、声楽家ではなく、主婦が働きつつ鼻歌を歌っているような感じ。これ以外にヴィンセントの歌というのを聴いたことがありません。続いてワルターですが、これは楽器が少ないみたい、という妻の感想を書いておきましょう。何よりここのポイントはエリザベート・シュワルツコップがソロを歌うことでしょう。ここのシュワルツコップはあのカラヤン指揮のシュトラウス「薔薇の騎士」のマルシャリンを録画する3ヶ月前の5月のものです。シュワルツコップは一生懸命にマーラーを手に入れようとしていると感じましたが、出始めはすこしピンと来ません。その代わり、後半になると独得の膨らんだフォルテが聴き取れました。しかしこれは終わるのが少し速すぎます。ヴィンセントと比べると大体1分10秒くらい短い。またワルター盤のウイーン・フィルは音程が少し高いような気がしました。それが途中から音がまた沈んだような印象でした。ハイティンクのロバータ・アレグザンダースのソプラノ・ソロは可も無く不可も無しという感じです。ハイティンクが何かを訴えてくるようには、ここでは聴こえません。最後のテンシュテットではルチア・ポップが歌っていますが、彼女についてかねがね思っていた通り、ナカナカ良いのです。ものによってはシュワルツコップより上かも知れません。シュワルツコップの起用には、何か特別な意味があったのかも知れない、と詮索をするのですが、このマーラーではどうでしょうか。意味が無くても無理矢理意味を作っていったような感じといえば分かるでしょうか。私の耳にはポップの歌い方は実に細かく神経が行き届き、しかも楽天的でもないと思います。テンシュテットの指揮も、時として耳をつんざくような響きも含みますが、それは他の人でも同じこと、むしろその前後の滑らかさを考えた方が良いと思います。

交響曲第5番
第1楽章
まずショルティ。まさに突然天を切り裂くような金管が聴こえ、モーツアルトだったら耳を手で覆って逃げ出すと思われる音の洪水です。それは実は第1楽章から第2楽章まで基本的に同じトーンです。まるで戦争映画のBGMみたいです。そして戦いのあと、負傷した者達を運ぶところと聞き取れる箇所もあります。そしてテンシュテットの指揮で聴きますと、当初これなら大丈夫かな、と思わせるのですが、それでもトランペットがけたたましい。

第2楽章
第2楽章でこの音の羅列を聴いていると、もう耳が麻痺してしまいました。正直言って、これは少々堪え難いような音楽です。ショルティ指揮のシカゴ交響楽団ですと、その効果は絶大。アニメとかアクション映画がスキな人はこれを好むと思いますが。それは第2楽章になっても同様です。考えて見ると根源はトランペットにあり、弦楽部はぶ厚い和声をいろいろと変化させる方法でそれに対抗し、さらに打楽器が両者に対抗すべく、力一杯鳴らしているようなのです。力一杯鳴らすオーケストラを最大の音量で聴いて、カタルシス!とならない所が不思議なのです。

第3楽章
この評価は簡単でした。私はこれで初めてショルティに否定的な気分になったことを白状します。音楽でも何でもない、音の砲列と精神分裂の音楽という感じ。全てが原色で露な響き。この原色というのは、私が持っているのがデッカ自らの製品でないからかも知れません。これを聴いているのが堪え難くなってきます。テンシュテットの方がホッとします。穏やかに音を連続させるその音は、聴く者の耳を捕らえます。決してこれで音楽の素晴らしさに繋がるわけではありませんが、少なくともショルティを聴いたあと、このテンシュテットの指揮で聴くと、ああ本当は良い音楽なのに、とため息をつくことになります。

第4楽章
ここでショルティは今までの音に反省したかのように表情を変えます。ゆっくりと、細部は明確に、ロマンティックな表情づけもチャンとあります。こういうショルティだったら、私も大いに楽しみたいと思います。逆にテンシュテットの方は、ショルティよりこの楽章で1分間遅くなりますが、そこに今ひとつの表情付けが欲しいと思いました。これは妻も同感なようです。テンシュテットだと、特に後半が弱いのです。オーケストラの優劣が現れたのかも知れません。またここにあるワルター指揮によるアダージェット(この交響曲5番の第4楽章)はテンシュテットより3分間も短いのです。ワルターのは聴いていて私の耳にしっくりと同化しました。ああ、こういう何も抵抗もない、不満もない、という判断はその指揮者の頭の中の音楽が自分と同化したことに外なりません。それにこれは1938年のウイーン・フィルですから、ワルターのウイーンへの告別を意味します。最後にアダージェットを指揮するのはメンゲルベルクですがこれはワルターより更に古い。どうしても除けなかった雑音がチリチリしますが、その後ろから響く音は、決して貶めるようなものではありません。基本的にワルター同様で、ただ録音が1926年という格段の古さです。確実にその時代の古い音がします。即ちポルタメントが執拗に掛かってきます。ポルタメントをどう考えるかですが、いまそういう演奏を聴いたばかりの時、私は決してポルタメントを否定したくありません。

第5楽章
ショルティで聴きますと、相変わらずの調子が聴こえました。これは決して良い意味ではありません。全体にテンポがキビキビしていますが、それが全編そうで、煽り立てて行くのです。そして最後の3分の1のあたり、全くのショルティ節というか、ひそかに思っている本当の言葉を使えばオメデタイ音楽になっています。がっかりです。テンシュテット指揮のCDでは音楽がゆったりとして、ショルティ盤ではどうだっただろうか、と思った程です。しかもこれが交響曲第5番なのだ、ということを思い出させてくれました。第4楽章と同じモティーフです(少なくとも私の耳には!)。テンシュテットの指揮は、その瞬間の音に惑わされず、もっと遠い背景にあるものを聴かせるのが得意だ、と思った次第です。

交響曲第6番:悲劇的
第1楽章
テンシュテットを聴きながら、これを聴き通すことは難しいなあ、と考えながら聴いたのです。妻はマーラーって人は分からない、と批評しましたが、私にはまるでアニメ映画でプラスチックか、黒い鉄製の兜を被った顔の見えない兵士達が行進しているみたいに聴こえました。それもワルツとも違いますが3拍子ないし6拍子の連続です。そもそもこれはどんな意図をもって作曲されたのでしょうか。これを指揮しているテンシュテットにしたってこれで幸福でしょうか。

第2楽章
これもテンシュテットの指揮しかありませんが、まるで第1楽章との差が見つかりません。ただ僅かに違いが認められるのは、兵士達がくたびれてしまい、その歩調が乱れ気味になり、時々は遊んでしまっている、という感じです。

第3楽章
密やかな音で、それも持続音が多い構成です。マーラーは時としてこういうアダージョを書きますが、それもまた結局は、華やかなというより派手な音で終わりました。マーラーは精神分裂気味だったのでは、と余計な心配をしました。

第4楽章
最初の水しぶきが顔面に飛び散るようなフレーズに驚かせられます。ところがそれに続く音は例の鉛の兵隊の行進でした。無表情で見事なばかりにシンクロした行進です。それは低い音、おそらくコントラバスの響き、で支えられますが、どうしても私には無表情のプロイセンの兵隊の群れ、という印象から離れられません。後半は金管楽器が大派手に鳴らす音楽で、これは困ってしまいます。マーラーは本当に金管がお好き?あの金管楽器が全て木管楽器に取り替えられたら、音楽そのものの印象も変っただろうと思うところです。そして最後の金管の咆哮にトドメを刺されてしまいます。いったいマーラーは何を表現したかったのでしょう?

交響曲第7番:夜の歌
第1楽章
比較的馴染んだ曲ですが、ハッと気がつくと例によって兵隊の行進が続いています。兵隊好きな人にはこたえられないでしょうが、私には無理です。またクルト・マズアの指揮ぶりはまさに兵隊の姿をくっきりと示してくれます。ただしそれがテンシュテットの指揮になると音が柔らかになり、曲想も緩いものに変っています。それでもテンシュテット盤の途中でサキソフォンがブブーとジャズみたいに鳴らす箇所は、やはり同じかと思います。またそこで並んでいる兵隊は、プロイセンよりさらに無表情のプラスティック製の人形という感じでした。その差は、最初のマズアのCDの方で、より鮮やかでした。どこだったか思い出せないのですが、このテーマ曲のような旋律を、マーラーの交響曲シリーズのどこかで既に聴いたような気がしています。

第2楽章
マズアの指揮の方を先に聴きましたが、はっと気がつくと例の、ツン、ツン、ツンという兵隊の行進がまた出て来ています。ところがテンシュテット指揮の方では、それが目立たない様に音がくすみ、押さえられていました。途中で気がついたのですが、テンシュテットの方は、ナイチンゲールのさえずりだと言うことです。欧州の夜にはこの鳴き声がよく聞こえるのですが、なるほどそう思えば、頷けることがあります。後半の1/3程度進んだところで、夜のしじまに鳴き交わすのを、上手く表現しています。ウットリしていたら、金管が響いたのにはがっかりです。またロンドン響は、合奏時には目立つのですが、余り上手くありません。でも指揮者のお蔭で大筋は誤っていません。

第3楽章
インテルメッツォ(間奏曲)です。マズアの指揮も大人しく、鬼面人を驚かす、というものではありません。気がついたのですが、これは3拍子なんですね。ココまでのマーラーで必須条件だった2拍子は引っ込んでいます。家内はコレを評してまるで無表情で踊るムンクの舞踏会(「いのちのダンス」)ってところ、だと申しておりました。そもそも西欧音楽で3拍子が表に現れたのはヨハン・シュトラウスの頃からだとか、何かに書いてあるのを見たことがあります。実際、3拍子では兵隊達は転んでしまいます。逆に軍歌は殆ど全て2拍子ですが、あれを3拍子の曲に替えたらどうか、なんて笑い話を思いつきました。テンシュテットの方で特に新しいことはありませんでした。ただ音はクリアーに響きます。

第4楽章
マズアの指揮ははじめ穏やかですが、そのうちやっぱり、と思うに至りました。その点テンシュテットの指揮の方はあくまで柔らかく、音楽が別物のようにも思えます。妻は、これを聴いて、随分違うわ、と感想を述べました。テンシュテットの方だったら、私はこの第4楽章を近々にでも再度聴く用意があります。音の焦点がソフト・フォーカスなのです。マーラーではこういう行き方に共感します。

第5楽章
まずマズアですが、音が鮮明なため、華やかなファンファーレが高々と吹き鳴らされる場面を聴いていると、まるでリヒャルト・シュトラウスの世界みたいでした。それはそれで構わないのですが、ここでちょっとJ.S.バッハの同様のシチュエーション(祭典的という意味。私の勝手な思い込みです)の、管弦楽組曲の第3番冒頭と比べると、何かが違うのです。妻に言われて気がついたのですがテンシュテットの音が、マズアの音と違うのはなぜか、という問いに対し、テンシュテットの方はイギリス録音であり、有名なエイビー・ロードにあるEMIスタジオでの録音でした。妻はそちらの方が音が高いところまで広がっている様に聴こえると申しておりました。対するマズアの方は建て直した、新ゲバントハウスの音ですが、かなり現代的な音色。

交響曲第8番:千人の交響曲
第1部
圧倒的な迫力で押してくるのがインバルですが、その情熱をもっても伝えきれない何かがテンシュテットの方に見つかりました。それはインバルが音を大きくすることで、核心に近づける、と思ったのは誤りだったことを示しています。つまりテンシュテットは各フィナーレでは音を逆に押さえ、それからじわじわと近寄ってピークに至る方法を取っているからです。インバルではどうもこのオーバーな表現ではついて行き難いな、と思ったのですが、テンシュテットのCDを掛けた時、こちらの方(テンシュテット)が典雅な感じがする、と妻に告げました。妻はオルガンなんかもさっきの方(インバル)では聴こえなかった、と申します。実際テンシュテットのオルガンはあからさまであって、あれだけオルガンが朗々と響くのを聴くと宗教音楽だなあ、というところ。「来たれ精霊よ」と呼びかける声が未だに耳の中を駆け巡っています。もうひとつ、やはりエイビー・ロードで録音したのは正解ではなかったでしょうか。だからこその典雅な響きになったのだろうと思うところ。これは妻も同感だそうです。

第2部
ファウストの最後を描くこの第2部はどうして第1部と結びつくのか未だに分かりませんが、延々と精霊とかマリアを褒め讃えます。マリアの前にはグレートヘン自身が登場するという風に、ファウストを引用しています。このファウストというのは私がコンプレックスを感じているものです。話は知っているし、オペラならグノー「ファウスト」やボーイト「メフィストフェーレ」も舞台を観ていますが、それでもファウストの原文を一度も読んだことがないからです。ゲーテにこだわらなくても良さそうですが、コンプレックスはコンプレックス。それにしてもこの曲は長い。まるで罪人の告白をリアルタイムで聞くようでシンドイ。むしろ時々現れるマーラー第8交響曲第1部に登場する旋律や第7交響曲(マーラーの)に登場する旋律がチラっと聴こえて来るのがご愛嬌です。其れ以外にも彼方此方にチラチラと垣間「聴く」ことができます。インバルにしては終始大人しい指揮ぶりでした。それがテンシュテットになると、音楽が生き返ります。それは色々な箇所を指摘できるのですが、例えばソプラノのソロが勢いをもって天空を駆けるところです。どう言うわけか宗教の絡む音楽では声にスポーツ的快感とか、朗々と響かせることを敬遠する傾向があるのですが、このテンシュテットによるマーラーの8番では、遠慮なく朗々と響きますし、さらに力を得てもっと高空を飛ぼうとします。これが大変心地が良い(私には)。そして最後にパイプオルガンの堂々たる響きの中で終曲を迎えるのですが、これを聴いているとある種の感動を覚えました。"Hier ist getan"と繰り返される言葉を耳にして、昨日からどこの部分だろうと好奇心を持っていたのですが、なるほどここか、尤もらしいところだ、と納得。つまりマリアが救済する対象にはグレートヘンも含みますし、何ならマグダラのマリアだって含まれるのでしょう。随分長い曲だと思っていたのですが、今では目が覚めた思い。

交響曲第9番
第1楽章
マーラーには「大地の歌」がありますから、それを交響曲と捉えれば、それは第9番目にあたり、この第9交響曲は無いはずでした。しかし作曲家マーラーは作曲意欲を止めることができず、ついにこの曲に着手し、完成させてしまいました。ワルターの指揮によるものを最初に聴きましたが、これから聞き取れるのは、前世紀までに築いた楼閣が崩れる音でした。メチャクチャに破壊された町を想像させます。少し収まったのち、私の耳には教会の鐘の音がきこえましたが、あれは空耳でしょうか。ワルターはこれを録音したのが1939年で、それから大急ぎでスイスへ脱出しようとします。奇しくもそれはオーケストラの配置等が大改革された頃に当たります。つまりワルターの音もまた、ここで滅ぶことになりました。これがテンシュテットになるとどうか、は興味深いところでしたが、余りの差に驚きました。テンシュテットからはワルターで聴けた、ヨタヨタと町の戦跡をさまようあの音が聴こえないのです。確かに教会の音は聴こえましたし、その意味することも理解できましたが、周りの音が大きすぎるのです。最後までその思いは変わりませんでした。つまりテンシュテットのは、最新兵器を搭載した戦車で町を蹂躙していく姿です。

第2楽章
ワルター盤ですが、まず舞踏音楽から尤もらしいテンポで始まります。それが次の主題に入ると舞踏の楽しさや静寂な環境を破るような、雑音だらけの荒々しい場面に変わります。さらに次には酒に酔ったようなリズムの微意妙な揺れを感じます。最後にはスピードをアップした舞踏になりますが、それは、急げ急げと急かされるようです。この曲を聴きながら私は勝手に舞踏会を想像しましたが、別の解釈もできるでしょう。それがテンシュテットになると、上記ワルター盤の音の揺れを押さえるべく、貴族的な音楽になります。どこを取っても揺れることは少ないのです。それでも教会の鐘の音の残渣を感じることはできました。

第3楽章
これは逆にテンシュテット盤を先に聴きました。極めて優雅な音形を保っています。テンシュテットは音の乱れ等を押さえる方向で指揮しているようです。これがワルター盤になるとテンポ・ルバートが所々に掛かります(音が大きく揺れるということ)。決して長い時間ではないのですが、このテンポ・ルバートはその部分全体を支配するかのように響きます。これを好むかどうかですが、私は聴きながらテンポ・ルバートの意味を探っていましたので、自分の好みのチェックまで出来ませんでした。後半には美女が眠りから目を覚ますような場面がありますが、ここをテンシュテットは細い音で表現し、ワルターは太い音で響かせました。これも好みで左右されると思います。

第4楽章
かくして第9交響曲は完成したのですが、マーラーは健康の衰えをどうにもできず、その初演はブルーノ・ワルターにゆだねました。ワルターの指揮は実に味わい深く、オーケストラの音もまた太い。それが途中から長いなあ、という感じになってしまいました。なかなか幕が引かれず、心が残って終わるのが惜しい、という感じ。もはや戦争は遠くに去り、軍沓の音も聴こえません。実際にはマーラーはもう一つ書くつもりでしたが、客観的にこの第9番はマーラーの最後の作品です。どこが良いかと言うと、例えばヴァイオリンよりヴィオラ、フルートより尺八のような、味わいがあること。音が太くそこに耽溺させるような、古風な音なのです。時代を考えるとこれは単に録音がシャープにできなかっただけかも知れません。テンシュテットの方はワルターに似て非なる指揮ぶりですが、これもまたゆったり、楽しく聴くことができました。テンシュテットはどこでも決してマナジリを決するような指揮はしておりません。そしてマーラーの交響曲に共通ですが、これで最後かと思うとまた甦り、それを4重にも5重にも繰り返す。前半は本当に、どちらの指揮でも素晴らしい。そもそも最初に聴いたとき、ふとシェーンベルクの弦楽3重奏「清められた夜」を思い出したのですが、それは曲想が似ていたからでしょうか(単に私の勝手な想像)。

交響曲第10番(未完)
書こうとして、ついに生きているあいだに間に合わなかった曲。その楽譜は第1楽章のみしかありません。他の楽章はヒントのみ。冒頭の響きは間違いなく人々の心に残ります。そのままサッと終われば良かったのですが、まるでシミったれたように延々と続くそのあとの音楽が(私には)余計でした。この10番は長い上テンシュテット盤しか持っていません。出だしは柔らかく、9番で述べたようなヴィオラの響きを聴かせます。またそれを支える図太い低音もありますので、安心して聴いていられました。こういう響きは私好みです。しかし途中でディスクが清掃を要する、とお告げを出したので中断して再開。やはりこの曲は長過ぎるような気がします。マーラー最後の曲だから、と言いつつ聴きましたが、もしこれがマーラーの出発点の曲だったら文句が出そう。

 
マーラーの交響曲を中心にほぼ全部を聴き終えました。限られた録音だけ聴いたわけですが、マーラーの音楽がどんなものか、という点で若干でもイメージが持てたのではないでしょうか。そしてこの段階で、あなたはマーラーが好きですか?と周囲の人々に尋ねてみましょうか。実際、このスキかどうかという問いは実に難しいのです。私自身もしそれを問われたら、30%位の部分は好きだけれど、残りの部分は決してそうは言えないと答えましょうか。マーラーを聴く為にはある種の心の準備が必要です。私はまだ準備ができかねている段階にある、というのが正直なところ。家内が好奇心からマーラーの交響曲を全曲聴いてみたい、と言うのを聞いたとき、これは実際に聴いて見るに限る、と考えてスタートしたのがここのマーラー比較試聴です。大体マーラーの写真を見ると、ユダヤ人の特徴か、目が厳しくて近づき難い感じですね。また本人は徹底してアマチュアリズムの信奉者でした。米国の友人だった故Wlはマーラーとブルックナーは共にシューベルトの未完の交響曲10番の血を引いているんだ、と言いましたが、それならそのつもりでシューベルトやブルックナーにもアタックしてみなければ。

昔ニューヨークの友人C君は、自分はマーラーは嫌いだ、とはっきり断定しましたが、私はそうまで言い切れないところ。何しろC君はあのワーグナー「パルシファル」のLPを図書館から借りてきたものの、たった1枚聴いて返してしまったと言うのです。次の枚まで待てなかったのか?とは私の返した返事でした。結局ワーグナーを聴くための波長がC君にはまだ備わっていなかった(私が偉そうなことを言わせて貰えば)のでしょう。でもそれを図書館から借りて来たというのは米国人らしい率直で立派な態度だと思います。また当時競争状態にあったレコードとCD対LP、という問題を考えると、もう一つ問題があります。ワーグナーを聴くにはLPを取っ替え引っ替えしなければなりませんが、それを10面も処理しなければならないというのは辛い。曲の長さという物理的な条件、手間という実用的な面まで考えなければならない、ということでしょうか。音楽を楽しむということは、そのような面倒さをも背負い込むのです。これで交響曲のうち私が持っているものを全部聴きました。そこで次にマーラーの歌曲の世界を覗いてみましょう。

千葉のF高



(202)モノローグ マーラー「歌曲」
(1)リュッケルトの詩による5つの歌曲より
●「私はこの世に忘れられ」
ブルーノ・ワルター指揮ウイーン・フィル、ケルステン・トルボルイ/ブルーノ・ワルター指揮ウイーン・フィル、エリザベート・シュワルツコップ

これは2種類聴くことができます。まずケルステン・トルボルイ(Al)のソロによるものをブルーノ・ワルターが指揮したもの。トルボルイの太い声はゆったりと聴く者を包み込み、聴くことが楽しくなります。他方、エリザベート・シュワルツコップ(Sp)をソロに迎えたもの(どちらもワルター指揮ウイーン・フィル)は、聴いた途端細めだなと思います。声そのものの魅力ではトルボルイの勝ち。ただ、シュワルツコップの方には余りにも、余りにも精緻な声のヒダがあります。それも魅力です。
●「私は柔らかな香気を放った」
ブルーノ・ワルター指揮ウイーン・フィル、エリザベート・シュワルツコップ

上記と同じくらいの長さを持ちますが、声の特質も同様です。音楽としては特に印象に残るものではありませんでした。

(2)亡き子をしのぶ歌より
「太陽が昇るとき」
アドリアン・ボールト指揮、ウイーン・フィル、キルステン・フラグスタート

実にシミジミとした歌です。最後にチリンチリンと小さな鐘が鳴るのが聴こえますが、あれは四国88カ所巡りにある鐘のようなものでしょうか。悲しい鐘音です。
●「なぜ炎が」
アドリアン・ボールト指揮、ウイーン・フィル、キルステン・フラグスタート

オーケストラが低音をゆっくりと響かせるのが印象的です;最後にへばったような感じは否めませんが。
●「あなたの母親が」
アドリアン・ボールト指揮、ウイーン・フィル、キルステン・フラグスタート

主として中音ですが、時折ハッとするようなソプラノの高い音が混じります。
●「もう出掛けただけ」
アドリアン・ボールト指揮、ウイーン・フィル、キルステン・フラグスタート

全体を中音域に収めることに務めた、という感じの曲です。
●「この天気に」
アドリアン・ボールト指揮、ウイーン・フィル、キルステン・フラグスタート

風変わりな上下する音が印象にのこりますが、これは辞世の歌のようです。


(3)子供の不思議な角笛より
●「そこに美しいトランペットが鳴った」
ブルーノ・ワルター指揮ウイーン・フィル、エリザベート・シュワルツコップ

上記と同様の感想です。
●「歩哨の夜の歌」
サイモン・ラトル指揮、バーミンガム市交響楽団、サイモン・キーンリーサイド

相変わらずツンツンという2拍子の行進曲が耳ざわり。それにこのバリトン声も今ひとつです。
●「無駄な骨折り」
サイモン・ラトル指揮、バーミンガム市交響楽団、サイモン・キーンリーサイド

取り留めのない曲として聴いてきました。
●「この歌をひねり出したのは誰?」
サイモン・ラトル指揮、バーミンガム市交響楽団、サイモン・キーンリーサイド

子供遊びの音楽が途中で挿まれます。
●「美しいラッパが鳴るところ」
ブルーノ・ワルター指揮ウイーン・フィル、エリザベート・シュワルツコップ/サイモン・ラトル指揮、バーミンガム市交響楽団、サイモン・キーンリーサイド

ワルター盤は特に褒める箇所も他の箇所で聴くと同様です。ラトル盤では声の魅力が今ひとつ響きません。
●「死んだ鼓手」
サイモン・ラトル指揮、バーミンガム市交響楽団、サイモン・キーンリーサイド

舞踏用の音楽みたいです。交響曲の一部で感じたと同じく、どうもマーラーはこのツンツンいう軍沓に未練があるようです。
●「少年鼓手」
サイモン・ラトル指揮、バーミンガム市交響楽団、サイモン・キーンリーサイド

これも「死んだ鼓手」同様、あの2拍子が気になります。マーラーは精神分裂症だったと聞きますが本当にそういう感じ。
●「魚に説教するパドヴァのアントニウス」
サイモン・ラトル指揮、バーミンガム市交響楽団、サイモン・キーンリーサイド

またも途中で短いながらツンツンの響き。しかも太鼓がそれを補佐しています。
●「夏の交代」
サイモン・ラトル指揮、バーミンガム市交響楽団、サイモン・キーンリーサイド

早走りで通り抜けたみたいです。

(4)さすらう若人の歌より
●「私の恋人が結婚して」
アドリアン・ボールト指揮、ウイーン・フィル、キルステン・フラグスタート

まずフラグスタートの声に聴き惚れます。ワーグナーを歌って世界を制覇したフラグスタートの声は、このマーラーにはもったいないかも知れません。マーラー向きの声というと、それはトルボルイの声など、太く低い声ではないかと思うのです。
●「今朝、野原に出て」
アドリアン・ボールト指揮、ウイーン・フィル、キルステン・フラグスタート

朗々と響くフラグスタートの声は、やはりワーグナーみたいです。良い声ですがここの歌には少しもったいないかも知れません。
●「熱い刃を」
アドリアン・ボールト指揮、ウイーン・フィル、キルステン・フラグスタート

突然大きな声で天をつんざくので、驚かされます。やはりこれもワーグナーの声でした。
●「2つの青い目」
アドリアン・ボールト指揮、ウイーン・フィル、キルステン・フラグスタート

こういう歌も歌ったフラグスタートもいるということでしょうか。


千葉のF高



(203)モノローグ マーラー「CD一覧表」
上記で記したCDの番号を下に記しますが、ここに記したものを全て探せば、これで網羅できます。ただキルステン・フラグスタートだけは交響曲全曲との関わりがないため、ここに挙げた曲を追加する形になります。

「大地の歌」ワルター指揮、ウイーンフィル。トルボルイ、クルマン、東芝EMI、TOCE-8382、1936年
「大地の歌」ワルター指揮、ウイーンフィル、フェリアー、パツアーク、ポリドール、F35L-21008、1952年
「大地の歌」バーンスタイン指揮、ウイーンフィル、キング、フィッシャー=ディースカウ、K305、1966年
「大地の歌」ジュリーニ指揮、ベルリンフィル、ファスベンダー、アライサ、ポリドール、135G 50113、1984年
「大地の歌」野平一郎(Pf)、平松英子(Sp)、ミュージクスケイプ、MSCD-0012 2003年
交響曲第1番ワルター指揮、コロンビア響、SONY、SPCR-2333、1961年
交響曲第1番〜第10番、ロンドン響、マティス、ホップ、ゾーティン、EMI5 72942-4、1977/8年
交響曲第3番ラトル指揮、バーミンガム市響、東芝EMI、TOCE-55484-85、1997年
交響曲第3番メンゲルベルク指揮、コンセルトヘボウ響、ヴィンセント、フィリップス、PHCP-3396、1939年
交響曲第4番ワルター指揮,ウイーンフィル、シュワルツコップ、ワルター協会、00C37-7914/15、1960年
交響曲第4番ハイティンク指揮、コンセルトへボウ響、アレクサンダー、フィリップス、35CD-143、1983年
交響曲第5番ショルティ指揮、シカゴ響、XX-1015、エコーインダストリー、1970年
交響曲第5番メンゲルベルク指揮、コンセルトへボウ響、1970年
交響曲第7番マズア指揮、ゲヴァントハウス響、シャルプラッテン、32TC-33、1982/83
交響曲第8番インバル、フランクフルト放送響、日本コロンビア、1986年
交響曲第9番ワルター指揮、ウイーンフィル、東芝EMI 、TOCE-9097、1938年
キルステン・フラグスタート歌曲集, ボールド指揮、440-491-2、ロンドン、1957、1958、1959年

こうやって並べて見ると案外少ないものだ、と痛感します。現代ではもっと色々なマーラーの録音が残っています。しかしくり返し聴く可能性が大きい演奏はぐっと少ないものでしょう。これだけを実際に聴いてみるのに約70日間を要しました。ここで最後を飾るキルステン・フラグスタートは、熱狂的なファンから「神のごときフラグスタート」と呼ばれていたのですが、神なんて形容詞のついた演奏家はそう多くはありません。フラグスタート以外では、映画でスウエーデンの女優グレタ・ガルボが「神聖ガルボ帝国」と呼ばれ、またかのマリア・カラスがディヴィーナ(女神のこと)と呼ばれ、サザーランドがスチュペンダ(途方もない者)呼ばれたくらいか。

千葉のF高



これでマーラー「大地の歌」とその周辺の音楽が終了しました。次回は今年最後の音楽として、ガラッと向きをかえてヨハン・シュトラウス「こうもり」を予定しています。




















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