セヴィリアの理髪師        2012.1.26

オペラの筋は、色々な人物のふるまいを解説するものが殆どです。それは日単位でいうと何日ぐらいが標準なのか、と考えてみると、実は1日なのです。一昼夜の出来事をオペラにプロットしたものです。古い時代のオペラから、新しいものまでそれは慣習です。ケルビーニ「メデア」も、モーツアルト「フィガロの結婚」も、ワーグナー「ローエングリン」も、あの長大な「ニュルンベルクの名歌手」も、R.シュトラウス「薔薇の騎士」も、プッチーニ「トスカ」も「トウーランドット」も皆一日単位を描きます。もちろん例外も多くありますが、余りに長いオペラで日時に無頓着になると観る側が退屈してしまうかも。もちろんロッシーニ作の3部作「アルジェのイタリア女」、「セヴィリアの理髪師」、「シンデレラ」、いずれも一昼夜の出来事。

ロッシーニは天才肌の作曲家で、ウイーンに行った時、ベートーベンから賛辞を受けたと言います。この時ベートーベンは自分の作風がウイーンで受けないのを嘆いたと言いますが。ロッシーニは長寿で、死んだのが1868年でしたから、明治維新まで生きたわけです。明治維新がいつかという複雑な問題がありますが、年号改元とすれば1868年10月ですから、ロッシーニ死去の1868年11月と僅か1ヶ月の差しかありません。ここで取り上げる「セヴィリアの理髪師」が25歳、「シンデレラ」が26歳、「アルジェのイタリア女」が21歳の作品だということを知れば、彼の天才ぶりが分かろうと言うもの。ベートーベンから「オペラ・ブッファしか書かない方が良い」とアドヴァイスを受けたと言いますが、確かに彼のオペラ・ブッファは、その分野で最高です(モーツアルトを除いて)。ちなみにあのワーグナーも実はロッシーニを称えていたと言います。ですから決してロッシーニを馬鹿にするなかれ。ロッシーニにしか出来ない音楽があり、それはオペラ・ブッファ(喜歌劇)と呼ばれ、音楽の一時保養所。

ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」は以前にモーツアルトの「フィガロの結婚」の項で書いた通りで、ボーマルシェ作の3部作の先頭を飾る戯曲です(「音楽のすすめ」第1章第33話「フィガロの結婚の演出」、そして「音楽のすすめ」第1章第21話「アルジェのイタリア女の逸楽」にも少し書いてあります)。もしこのストーリー全体を娘ロジーナの成長録として捉えるとか、あるいは孤児だったフィガロの成長録として捉えれば、それなりのコントラストを強調できます。最も変化したのは誰?様々な答えがあり得ます。勿論ロジーナも大きく様変わりしてしまいました。「セヴィリアの理髪師」では野心満々な娘であり、如何にして伯爵の心を掴むかという1点にその関心が集中しました。「まむし」と自ら言ってもですよ。それが第2部「フィガロの結婚」では、あのロジーナの姿はすっかり落ち着き、気品を備え、優雅な生活を一種のアンニュイをもって過ごす貴婦人に姿を変えています。それが第3部「罪ある母」では大逆転して、ロジーナはケルビーノの子を生んでしまいます。

こうもコロコロ各パーソナリティの性格が変わると、誰を応援すればよいのか迷うところ。伯爵はこの「セヴィリアの理髪師」では若々しく元気一杯で、若いロジーナを追いかけるのですが、「フィガロの結婚」ではせっかく結婚した夫人をないがしろにし、夫人の侍女スザンナを密かに追いかける、中年男の嫌らしさ丸出しです。それが第3部「罪ある母」では伯爵は居城を売り払って移住したいと考えています。この第3部はジョン・コリリアーノの作品がありますがこれは初演が1980年代という現代のオペラです。ここでは最初の2ツに注目しますと、「フィガロの結婚」では誰が主役かわからないのですが、この「セヴィリアの理髪師」の主役は間違いなくロジーナとフィガロです。どのようなストーリーの展開があるのでしょうか?



(207)モノローグ1.「セヴィリアの理髪師」のあらすじ
舞台はスペインのセヴィリア、時代はフランス革命前夜です。開幕のシーンは医者のドン・バルトロの邸。その屋敷の2階にロジーナが引っ越して来たばかりで、ロジーナの保護者を持って任じるドン・バルトロは手練手管を尽くしてロジーナと結婚して、その財産を物にしようと考えています。この「セヴィリアの理髪師」のドンチャン騒ぎも、何のコトはなく、お金だったのですね。不幸にして舞台は好色を持って知られるアルマヴィーヴァ伯爵がおさめる土地。さっそくロジーナを口説くため、伴奏する楽団を雇い、自らの思いを歌で呼びかけます。その時、自らが伯爵ということは伏せ、リンドーロという学生を気取ります。

やって来たフィガロが「私は町の何でも屋」という歌を歌い、自らの素性を明らかにしますが、そこで伯爵と出会い、交渉成立。フィガロは伯爵の利益代理人を勤めることにします。ロジーナは「今の歌声は」を歌い、自分は相手を手練手管を尽くして手に入れるわ、必要ならマムシになるわ、と堅い意思表明をします。ここで既にリンドーロの手中に落ちていることが分かりますね。こういう所を聞くと、これがあのモーツアルト「フィガロの結婚」に出て来る伯爵夫人の素性か、と思うと聴く方も複雑な気分です。フィガロがやってきますが、ロジーナはリンドーロ宛の手紙を既に書いており、それをフィガロに手渡そうとしますが、なかなか巧く行きません。今度は音楽教師ドン・バジリオがやって来て金になる仕事(ドン・バルトロと一緒に公証人の所へ行こうとする)をしようと、あれこれ吹き込みます。そして「悪口はそよ風のように」を歌います。始めはヒソヒソでも、やがて大声になるからという意味。別室に言って書類を整えるためその場を空けます。

兵隊に化けた伯爵がやってきて、ここに泊まる、と告げますが、ドン・バルトロはとんでもない、と怒ります。ドン・バルトロはドン・バジリオと一緒に公証人のところへ急ぎますが外は雷雨。ここで雷雨の音楽がかかりますが、この場面の音楽、どこかで聴いたことがありますね。そう、自作の「シンデレラ」の中で、王子様が嵐の中をシンデレラの家に急ぐところの音楽です。実際この「セヴィリアの理髪師」の音楽の中に「シンデレラ」の各所を思わせる音楽が飛び散っていますが、順番から言えば「セヴィリアの理髪師」の方が古いのです。大体「セヴィリアの理髪師」せよ、「シンデレラ」にせよ、はたまた「アルジェのイタリア女」にせよ、ロッシーニは20歳そこそこの若い時分に大概のオペラを物にしています。バックに流れる音楽はフルートかピッコロ(恐らく)が嵐を表しますが、なかなか効果的。

嵐のあと、伯爵がバルコニーを昇ってきますが、誤解したロジーナは怒ります。その怒りによってロジーナはドン・バルトロと結婚しても良いとヤケッパチになる所でした。そこで伯爵はロジーナに自分の身分を明かし、ロジーナの誤解を解くことに。ドン・バルトロが戻ってきて場をなじりますが、それも伯爵の名で場が解決され、おまけに伯爵がロジーナの財産など全部呉れてやる、と告げるので、万人めでたく幸福な気分で終幕を迎えます。元気でタフなロジーナの人生でした。これが次の「フィガロの結婚」になると登場人物達の性格がガラッと変わってしまいます。
千葉のF高



(208)モノローグ2.「セヴィリアの理髪師」の録音
一時期、そこで歌っているシミオナートのレコードを求めて探しまわったことがあります。ロンドン盤として出ているエレーデ指揮のレコードが欲しかったのですが、それはすぐには適わず。ちょっと横をみるとエベレスト盤のプレヴィターリ指揮でシミオナートが歌っているものがあって、それは今でも持っていますが、うんざりするようなエコーの強い音しか出ず、あまり聴きたくない音です。そこで歌っている歌手はジュリエッタ・シミオナートとジュゼッペ・タディでした。

上記は主にレコード(LP)の話です。最後に私が興味をもったLP屋は銀座の山野楽器でした。ああ、ここには珍しい品があるな、と感心したものです。CD時代になってからはひたすら石丸電気の5号館(整理が少々悪いですが、メチャメチャに種類がありました)の時代があり、それがソフト館に移り、3号館(ここに通った歴史は長い)に集中することになりました。それがある時突然店じまいの広告が出て、がっかりしました。本当にCDでは商売にならなくなったのですね。今は山野専門です。その山野も銀座本店です。千葉にあった山野は統廃合されて消えたため。これから何処に行けば良いのでしょうか。探す場所を探しています。ニューヨークでもオペラ専門店が多かったのですが閉店が進み、タワー・レコード等も無くなったあとは空しさを感じます。値段が少々高目になりますがリンカーン・センターのレコード売り場は、多くの人を引きつけます。そこに行けば、間違いなくオペラのCDがひしめいていますが。ニューヨークでは普通の大型店舗であれば、楽譜類も格安です。オペラのスコアなど、どうしてこんなにと思うくらい安い。

現在持っている「セヴィリアの理髪師」は、上記シミオナート(エレーデ指揮)盤、ヴィクトリア・デ・ロスアンヘレス(グイ指揮)盤、マリア・カラス(ガリエラ指揮)盤抜粋、ロバータ・ピータース(指揮)盤の各CD。そしてチェチーリア・バルトリによる初期のLD盤を持っています。ここでテレサ・ベルガンサ盤がありませんが、それは当時の私にとっての大スター、シミオナートに対する忠節心のせい、とだけお答えしましょう。またカラス盤はここでは抜粋盤しかありません。

色々な歌手に、プリマ・ドンナとしてのプライドを満足させながら、幼児をあやすようにして歌わせる事に成功したレコーディング・プロデユーサーは偉い!「セヴィリアの理髪師」の歌の一部で比較するためには、私が持っているのはアグネス・バルツア(Ms)、コンチータ・スペルヴィア(Ms)、ジェニー・トウーレル(Ms)、マリリン・ホーン(Ms)、マルゲリータ・カロージオ(Sp)、ルチア・ヴァレンティーニ(Ms)、リリー・ポンス(Sp)、ルイザ・テトラツイーニ(Sp)、シェリル・スチューダー(Sp)、テレサ・ベルガンサ(Ms)、チェチーリア・バルトリ(Ms)、そしてマリア・カラス(Sp)、コンチータ・スペルヴィア(Ms)と百花撩乱。音域もソプラノだったりメゾ・ソプラノだったりと幅広い。コレだけあれば「セヴィリアの理髪師」の20世紀はじめから現在に至るまでの歌い方の変遷をほぼ知ることができ、全体としての変遷(スタイルの変遷)も、全曲盤と抜粋盤を加えたものから全容がうっすらと分かると思います。そして漠然とながら分かるのはやはり昔の歌手は悠々と気まま(!)に歌い、現代の歌手は楽譜から逸脱することを避けようという姿勢を感じ取れますね。その厳格さが必ずしも音楽を歌う上でポジティブとならないのは不思議です。

思うにこれはカラオケ機器にある採点機能を用いると、それを完璧(100点)に歌うのはしばしば素人の場合であり、その歌を本職として歌う歌手の方は80点にも達しない、という事象と似ているかもしれません。採点機能というのが主としてテンポと音程だということを考え、何が我々をウットリさせるか、をも考え合わせると、テンポの微妙なずれ、音程の微妙なずれが大切な要素なのかも。音程とテンポさえ合えば良いというのは問題かも知れません。それだけで熱気とか、驚きとかを表現できないこともあるでしょう?楽譜というのもそれを演じる者にとっては、ヒントを得るための偉大な道具にすぎない、と言えば、言い過ぎでしょうか。

これは以前にベルリーニ「ノルマ」の項で書いたことですが、「ノルマ」作曲の過程で、予定した歌い手ジュディッタ・パスタの別荘に作曲家ベルリーニが籠り、パスタの意見を聴きながらベルリーニは何回も書き直した、という下りです。そのような条件では作曲家は歌手の喉を熟知しており、こう書いておけばこういう効果が得られるということが分かっていたでしょう。しかし現代において望むべくもないことです。山本リンダに「命くれない」を歌えというのが無理な注文なように、瀬川瑛子に「困っちゃうな」を歌えというのも無理です。楽譜は歌手の喉を想定せずに書かれ、歌手はそれを受け取ったらそれを金科玉条にする、というのも現実に止むを得ないだろうと思います。これら全てを考慮して各種CD録音盤を評価してみたいと思います。
千葉のF高



(209)モノローグ3.各「セヴィリアの理髪師」の特徴と楽しみ
(3-1)ガブリエレ・フェルロ指揮、1988年シュヴェツインゲン音楽祭実況、ミヒャエル・ハンペ演出、画像付き(LDからBDに焼き直したもの)、ANF-3513、全曲
ロジーナ:チェチーリア・バルトリ(Ms)
アルマヴィーヴァ伯爵:デーヴィッド・キュープラー(T)
フィガロ:ジーノ・キリコ(Br)
ドン・バルトロ:カルロス・フェラー(Bs)
ドン・バジリオ:ロバート・ロイド(Bs)
ベルタ:エディット・ゲブラー(Ms)

まず視覚を伴うものから。発売と時を同じうして買ったレーザー・ディスクです(ここで使用したのはそれをDVDに焼き直したもの)。カラスに対抗すべきバルトリですが、とにかく当時からバルトリについては、声が小さい等の意見が紹介されていましたし、その時の予想と、もっと最近のもの(前に書いた2000年チューリッヒ歌劇場での「コジ・ファン・トウッテ」)を比較するとナールホドと言いたいですね。「コジ」ではバルトリはすっかり体格がイタリア女特有の地母神のごとき形に変わっただけでなく、音程も高い方へシフトしてフィオルディリージ(Sop)を歌っていましたが、彼女のDVDデビューとも言える「セヴィリアの理髪師」のロジーナの時は真性メゾ・ソプラノでした(そのように聴こえます)。この「セヴィリアの理髪師」で目立つのはバルトリ自身の声と技術、キリコの演じるフィガロの声と見てくれでしょうか。これらは素晴らしい。

またロジーナのあり方を考えると、ここでバルトリのような顔も相応しいと考えます。決して清純なだけではありません。登場の場面からして堂々と振る舞い、声は力強く、そして若さと野心丸出しです。そして弱点はやはりアルマヴィーヴァ伯爵を歌うキュープラーでしょうか。まず声が余り無い上に語句を転がす技術も不足しています。当初から技術的には完璧に近いロジーナとの2重唱の場ではおかしくて吹き出しそうになりました。そしてバルトリはこれだけ優れた「セヴィリアの理髪師」を歌い、それをDVDに撮ったのですから間を挟まず他の相応しい曲を撮るべきでした。慌てて撮ったヒューストンでの「シンデレラ」ですが、あれも既に遅かった。CDだったら構わないのですが。画像を求める時代におけるマーケッティング計画の失敗です。だってあのフィオルディリージやシンデレラを観てしまってから、新たにバルトリ主演で何か(椿姫など)撮ろうという気にはならないのではないでしょうか。

なお演出担当はミヒャエル・ハンペでしたが、これを観ながらどこか別の曲の演出と似た所があると感じていました。一晩たってからフト思い立って調べてみたら、これはカラヤン指揮ザルツブルク音楽祭のモーツアルト「ドン・ジョヴァンニ」の幕切れの仕方でした。客席に向かってアノ人と指差す仕草。同じ演出家だから似ていて当然です。あと確かめたいのは、ハンペの演出で観られた手のひらを表側と裏側で交代させる場面ですが、あの仕草の意味は何でしたっけ?

(3-2)ヴィットリオ・グイ指揮、HS-2088、東芝EMI、全曲、1962年録音
ロジーナ:ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス(Sp)
アルマヴィーヴァ伯爵:ルイジ・アルヴァ(T)
フィガロ:(Br)セスト・ブルスカンティーニ
ドン・バルトロ:イアン・ウオーレス(Bs)
ドン・バジリオ:カルロ・カーヴァ(Bs)
ベルタ:ローラ・サルティ(Ms)

長い!この全曲盤を聴き終わった時の正直な感想でした。そして最初に気がついたのはグイのテンポ設定がやや遅いと言う点でした。正直言って、この録音から言えることはブルスカンティーニは巧く、そして嵐の場面ではグイのぐいぐいと押すようなテンポが適切だったという点です。アルヴァの歌う伯爵役の技術と声には、ああまたか、とあきらめの念を抱きました。それほど伯爵役って人材に乏しいのでしょうか。私の趣味で言えばいやしくも伯爵ですから、声になにか高貴さを伴って欲しかったのです。全体のバス、バリトンの重い声に押されず、高い声だけれど高貴さのある、そして英雄的な輝きを伴ってほしかったのです。例えば若々しいヘルデン・テノールの声、ジェームズ・キングのような声か、せめてフランシスコ・アライザのような声が欲しい。その思い詰めたような声の輝きで、ひたむきな、真の恋の声を聴かせてほしかったのです。私は伯爵が「フィガロの結婚」での伯爵とは違って「セヴィリアの理髪師」ではまだそういうひたむきさがあって良いと考えます。早々と「フィガロの結婚」の伯爵を思わせるような気軽な、お手軽な、その日暮らしの声である必要はないだろうと思うのです。どんな人だって青春の日には、真面目なものがあるだろうし、またあって欲しいと思います。

そして伯爵が楽団を雇って窓の下で歌う箇所、そのバックに鳴る音はマンドリンみたいなものでしょうか、その印象は薄い。ラインスドルフの時には、オヤこれはチェンバロの音だろうか、と考えるまでもなく、ここではハープの音でした。それも大型の、音をマイクで拾った音です。そして主役のロジーナを歌うロス・アンヘレス。ロス・アンヘレスの歌い方にはややがっかりしました。声に芯が見当たらないのです。もう少し行くと裏声になってしまうような、あやふやな声で音程を保っているのが聴き取れました。ただ一カ所(あるいは二カ所)で、これぞプリマドンナの声だぞ、と迫るようなスピントの効いた声を聴かせました。それは高い音だったし、強い声になるのも当然といえば当然かもしれません。そもそもロス・アンヘレスの声って生粋のソプラノというより、メゾ・ソプラノに近い声ではないかと疑う所以です。平均して低めの声の部分でよく歌っているようです。このあやふやな声は、本来オペラ・ブッファには向いていないのでは無いでしょうか。少なくとも現代の趣味からすれば危ない声だと判断されてもヤムを得ないだろうと思います。

そしてロジーナが既に手紙を書いてしまっている、という事が分かってフィガロがびっくりする場面、ここではロジーナの言語に注意したのですが、はっきり分かりませんでした。これはキイポイントですから語学も大切。思うにロス・アンヘレスは声で演技をやっていないのかも知れません。ですから、いついかなる場面でも穏やかな、安定した歌手として記憶されてしまいます。この場面で求められるのは安定より驚愕でしょう。生き生きした娘を描写するには。第2幕で時折感じるロジーナのモヤモヤとは、それですよ。反応がどの場面でもあやふやです。伯爵が酔っぱらって屋敷内にやって来るあたり、演技力があるのは分かりましたが、常に力がこもっていないと全体の評価は上げられないと思います。4重唱や5重唱では、後出のラインスドルフ盤の方がまとまりが感じられ、ロッシーニ・クレッシェンドもその方が明快でした。これは音色の対比というより、それを引っ張って行く指揮者の確固たる意思ではないか、と思います。もっともラインスドルフを従来から高く買っていた訳ではありません(ワーグナーの指揮ぶりなど)が、このロッシーニではこの人意思が堅いな、と感じました。終幕のシーンで視覚を想像してみたのですが、やはりロス・アンヘレスはにこやかな、安定した主婦の姿でした。そしてフィガロ役のブルスカンティーニは警官みたいに安定した力強いものでした。その代わり後出のゴッビで感じたような、これは面白い!という要素はやや薄い(真面目にフィガロをこなしている)。これを聴いて纏めると何とも長い曲だなあという印象。本当は「もう終わっちゃうの?」という位が良い出来映え(作品として、または演出として)の証明だと思うのですが。

(3-3)アルベルト・エレーデ指揮、POCL-3822/3、ロンドン、全曲、1956年録音
ロジーナ:ジュリエッタ・シミオナート(Ms)
アルマヴィーヴァ伯爵:アルヴィニオ・ミスチャーノ(T)
フィガロ: エットーレ・バスティアニーニ(Br)
ドン・バルトロ:フェルナンド・コレナ(Br)(Bs)
ドン・バジリオ:チェーザレ・シェピ(Bs)
ベルタ:リナ・カヴァルラーリ(Ms)

序曲からして正当派です。しかし開幕早々、伯爵が歌う声そのものの線の細さ、表現の幼い事などを考えるとどうしてこうなるの?と言いたくなります。ひょろっとしていて、姿は見ない方が精神衛生上マシ、と思いました。これ以上頼りのない伯爵を想像したく無いのです。伯爵に最初に会うのはフィガロですが、このフィガロは声楽的にみて完璧でした。他のキャストはみな立派。フィガロを歌うのはエットーレ・バスティアニーニですが、これも立派な声でした。ドン・バルトロはフェルナンド・コレナでしたが、他の立派なバスやバリトンに混じるとくすんで聴こえてしまいます。実際ドン・バジリオを歌っているのはチェーザレ・シェピですし、その堂々たる歌い口は、詐欺師や金銭欲に支配される者とは思えません。平たく言うと、この「セヴィリアの理髪師」のキャストは余りに立派過ぎるものでした。そこにシミオナートがロジーナ役で登場します。ロジーナでは従来歌わないはず(楽譜に書いてない)だった装飾音が多々あって、それを一掃したのがシミオナートだと聞きます。程度の問題ですが。それらの装飾音には、オクターブ高い音とか、あらぬコロラトウーラを追加したり(自分が持つあらゆる技術を披露したくなるのが人情)していますが、それを取り払らい、メゾ・ソプラノ版のオリジナル・ロジーナを復活したのがコレ。それがどんなものかを知りたければ、シミオナートを聴けば良いと言われました。果たしてどうだったでしょうか。

彼女の技術的な面での問題はありません。これに対抗できるのはバルトリでなければカラスぐらいなもの。但しこの音色の比較をしようとすると、ほんの少しだけ問題が生じそうです。つまりシミオナートの声が時に老けて聴こえる箇所があるのです。あれほどコロラトウーラが切れるのにやや残念。高音は問題ありませんし、彼女が毎日風呂場で高いハ音を出せるかどうか確かめているというその準備ぶりも信じられるものです。思い切り高い音を存分な長さだけ出していますよ。これは半分は彼女には本来向かない音を出そうとした証拠だと言えるかも知れません。メゾ・ソプラノがソプラノの声を出す場合につきものの現象。本当に音域に問題がなければ、弱声でそれを出せるはずだと私は思います。このCDでは幕の進行に合わせ、所々でチェンバロの音が聴こえます。

途中からミスチャーノの声が急に強くなり、場面に相応しい声に変わります。これは順番通り録音した場合ならようやく油が回ったことになりますし、逆に第2幕から録音した場合なら声を第2幕で使い果たしたのでしょう。チェンバロといえば思い出すのですが、この第2幕に入ってからの大騒ぎのアンサンブル(物凄いロッシーニ・クレッシェンドが聴けます。シミオナートの役は声が少し汚めでした)で、1963年のNHKイタリア・オペラの批評で、「なんと、ここでシミオナートのおばさままでフザケてしまった」と書かれていたことです。色々な雑誌を買い集めましたので、良く覚えていますが「レコード芸術」や「音楽の友」ではこの「ふざけた演出」が嫌いだったらしいのですが、「LP手帖」や「ディスク」という雑誌は素晴らしいという批評が書かれていました。私はこれらの記事から離れられず(当時私はまだ10代でしたので)、客観的な評価にならないことを意識しています。妻はこのCDを聴いて「何か冷たく歌っているように聴こえるわ」と批評を下しました。トリル等を考えなければそういう批評も貴重です。また私は海外でもこの「セヴィリアの理髪師」を一度観ました。それはロンドンで会議があった時の話で、日曜日だったかで、その晩にはコヴェントガーデンではオペラが無く、そのかわりイングシッシュ・ナショナル・オペラ劇場だけ開いていました。そこへ行ったらこの「セヴィリアの理髪師」だったわけ。主役のロジーナは知らない人でしたが、立派に歌っていました。

シミオナートによる「セヴィリアの理髪師」の切符を持っていながら(1963年、大学一年生)、それを近所の中年の女性に譲ってしまった(料金は取って)のも、今となっては馬鹿なことをしてしまった、と思います。値打ちを知らないと言うことは恐ろしいものです。彼女の最後期のベルカント・オペラに接する機会を永久に失ってしまいました。当時すでにシミオナートと聞いて頭に浮かんだのはアムネリスであり、エボーリ姫やアズチェーナでしたから、「セヴィリアの理髪師」のような役柄はそろそろ卒業に近かったとは思いますが、それは慰めの言葉。このころ、即ち私のオペラ開眼期にはソプラノやメゾ・ソプラノにたいしてはドラマティコを期待しがちでした。決して叙情的なオペラとか、細く長くのばすような声の芸術を楽しもうとは思いが至りませんでした。もっと強く、もっと大きくという要求のカタマリ。そして当時の雑誌では「セヴィリアの理髪師」の上演で一番喜んでいたのはシミオナートだろう、と批評されたと言います。しかし50代になったシミオナートを楽しむ最後のチャンスでした。当時はなにしろNHKイタリア・オペラでも「ラ・ボエーム」とか、「愛の妙薬」なんてシロモノには全く私の関心は向く事が無かったのです。例えばソプラノならドラマティコ、リリコ・スピント、リリコ、レジェーロという順がそのまま私の興味に反映し、特にリリコは全く関心の外。ここでソプラノ・レジェーロですが、これは単に音程だけでなく、技術を要することが分かったため、例外的に興味あり、でした。それが今では何かリリコの曲を聴いてみたいと思うように変わった次第。

(3-4)ラインスドルフ指揮、BVCC-35051、RCA(BMG)、全曲、1958年録音
ロジーナ:ロバータ・ピータース(Sp)
アルマヴィーヴァ伯爵:チェーザレ・ヴァレッティ(T)
フィガロ:ロバート・メリル(Br)
ドン・バルトロ:フェルナンド・コレナ(Bs)
ドン・バジリオ:ジョルジョ・トッティ(Bs)
ベルタ:マーガレット・ロジェロ(Ms)

これはラインスドルフの指揮だし、と少々引け気味に聴き始めましたが、あのロッシーニ・クレッシェンドとでも呼ぶ、畳み込むテンポを聴かされると、なかなか心地よいのです。序曲にツマづきそうになりましたが、その部分を除けばこのラインスドルフの指揮は魅力があります。なおこのCDは全曲と謳っていますが、実際にはレチタチーヴォをカットした編集になっていて、1枚のCDになっており、次々と出て来る歌を中心に据えたものです。これが最初からそうだったのか、それともこのCDの発売する時にそうしただけなのか、古い話なので忘れてしまいました。1958年の録音ですので、ステレオです。そこで歌うキャストもメットを中心として活躍した歌手の総覧になっています。フィガロをメリルが歌っていますが、メリルはどんな曲でも決してマイナス点にならない歌手として有名。ジョルジュ・トッティも堂々と歌っています。アルマヴィーヴァ伯爵を歌うのはチェーザレ・ヴァレッティですが、その声が少し貧相です。音自体が弱々しい雰囲気をしていますし、コロラトウーラの技術も余りないようです。今まで聴いた伯爵がみなそうなのでがっかりです。メリルは後出のティト・ゴッビほどではありませんが、それなりにコケットな表情付けをしています。

そしてロバータ・ピータースのロジーナには複雑な気分にさせられます。ピータースはベーム指揮「魔笛」の夜の女王を歌ったのが最後の華やかなキャリアだったと思いますが、その「魔笛」の評判が余りはかばかしいものでなく、凋落ぶりを強調した評論が席巻したことしか頭に浮かびません。私は疑うのですが、批評家達は本当にピータースを真剣に聴いた事は無いですね?どうもT氏のような大物批評家の言と趣味に引きずり回されただけではないのか、ヒョッとすると、考えられる最悪の場合ですが、実際に聴く前に、批評を書いてしまったことはありませんよね。録音計画が発表になると同時にダメの意見を出す人がいるのでは、と思っています。ここではピータースを実際に丁寧に聴いてその感想を記します。ピータースは本質的に伝統的なコロラトウーラ歌手であって、ロジーナの低音はやや苦しそうですし、音色の維持に苦労していることが分かります。しかし声がある高さ以上になるときは、パッと閾がはずれて高音を出し易くします。その高音は声楽的に素晴らしいものです。そしてさらに超高音域も出せるので、さあ行くぞ、という時はさらに閾を全開にして突き抜けて行きます。これは常にそうですから彼女の売りに違いなく、色々と聴いてみたくなります。「ルチア」とか「清教徒」を歌って欲しいとは思いませんが、ある種のコロラトウーラの多い曲目を聴いてみたいと思うのは私だけでしょうか。それを「しかし」と付け加えたくなりそうな人もいるのですよ。音色が変化せず短調だ、声が弱々しく、性格表現も力が無い、等々。しかし、各歌手には得意な曲とそうでない曲があって、それぞれサポート(録音エンジニアなどを含む)する人々もいるのですよ。あとは各自の好みの問題。決してそれが唯一の不可侵のものではないのです。私も心しておきます。第2幕の5重唱や4重唱はすばらしいキビキビしたテンポで進んでいて、コレばかりは他の指揮者が明らかにしなかったのを明らかにしています。なかなか快適です。

(3-5)アルチェロ・ガリエラ指揮、CDM-7630762、EMI、抜粋、1957年録音
ロジーナ:マリア・カラス(Sp)
アルマヴィーヴァ伯爵:ルイジ・アルヴァ(T)
フィガロ:ティト・ゴッビ(Br)
ドン・バルトロ:フリッツ・オーレンドルフ(Bs)
ドン・バジリオ:ニコラ・ザッカリア(Bs)
ベルタ:ガブリエルラ・カルトラン(Ms)

これを聴いて思うのは、ゴッビはフィガロを上手く歌っています。しかもゴッビは有名なアリアの箇所で急に音量が増すような印象です。ちょうどTVでコマーシャルの場面に切り替わった時感じるのと同様。ゴッビはまるで人を食うようにフザケています。とにかく音質がスカルピア(プッチーニ「トスカ」の悪役!)のごとく大きい。そして歌い方は実に堂々とした歌い方です。これなら何度でも聴きたくなります。ただし音質はアリア特有だと思えば良いのですが、「セヴィリアの理髪師」としては、少しドスが利きすぎているということも可能です。それはテノールのアルヴァの声が何とも貧弱にヘナヘナしているので、それと対比すると目立つのです。これではフィガロは伯爵など吹き飛ばすこともできたでしょうに。土建屋の親方のようなフィガロでした。

カラスも巧い。そしてカラスは巧く歌いすぎている、という印象です。考えてみるとカラスはどんな曲でも書いてある通りに歌っています。他の歌手達がそれぞれの喉の許す範囲内に納めて歌っていますが、カラスは異なります。ロジーナでもそれが言えます。それらを承知した上で言うのですが、カラスはこういう歌を歌っても楽しそうです。余りに真剣勝負で受けているためか、私の耳にはカラスは肩の力を抜いて居ないな、と思いました。歌い方の手本としてはゴッビもカラスも申し分ありません。但しオペラ・ブッファ(このオペラのような喜歌劇)で、日頃の忙しいビジネスでくたびれ果ててオペラ・ハウスにやって来た人が耳を休めようという場合、喜劇であればホッとできますが、こう真面目に取り組まれるとやっぱり耳をそばだてないとなあ、と独り言を言うのではないでしょうか。正攻法も過ぎると問題ありかも知れません。とまあ、文句をひねり出しつつも私は楽しみました。力が抜けないなんて贅沢な悩みです。ガリエラの指揮も堂に入ったもの。久しぶりのブッファ(!?)を楽しみました。どうしてこの曲ではスカラ座の聴衆のお気に召さなかったのか考えてしまいました。そしてこれがカラスの歌唱だということは伏せて妻に聴かせていましたが、妻はカラスだと察知したようです。ただしロジーナみたいな役はもっと楽しい声の方が良いわ、と感想を述べていました。

また筋は追えないが、単独の歌は以下の通り。(全曲盤とは別のテイク)
(3-6)今の歌声;セヴィリアの理髪師:アグネス・バルツァ(Ms)、ORFEO,C-171881A
ここでバルツアは元気一杯で、貞淑な主婦を予想させるようなたたずまいはまだ感じられません。自らの力を信じている段階。そのような力強い声です。1981年録音。

(3-7)今の歌声;セヴィリアの理髪師:ジェニー・トウーレル(Ms),NAXOS,8.1107.35
音が少し下がりましたが、音色は正統派でしたし、わりに音色がはっきりしています。これなら聴けると思いました。1946年の録音です。

(3-8)今の歌声;セヴィリアの理髪師:テレサ・ベルガンサ(Ms)、ロンドン、POCL2446
最もマトモなロジーナでした。その声には甘さが漂いますし、この声にしびれました。どこをとっても欠点がなく、十分にそれ自体が楽しい。1960年録音。

(3-9)今の歌声;セヴィリアの理髪師:マルゲリータ・カロージオ(Ms)、Historic Recordings,89616
装飾音が多く、特に高音で目立ちます。カロージオはカラスが代役になってデビューした歌手ですが、これは1949年頃の録音です。

(3-10)今の歌声;セヴィリアの理髪師:ルチア・ヴァレンティーニ=テラーニ(Ms)、KC00195CD,FONIT CETRA
声楽的テクニックと、音色の両方で頷けるロジーナでした。声がまず美しいので、人を引きつけます。惜しむらくは彼女は見てくれが余り良く無いですね。レコード向きですが、彼女がシミオナートの後継者として宣伝される訳がわかる気がします。1995年録音。

(3-11)今の歌声;セヴィリアの理髪師:チェチーリア・バルトリ(Ms)、ロンドン、FOOL,20492
上記ヴァレンティーニに装飾音を付けた感じ。少し声が小さめだということが分かります。技術的には万全です。もっとも現代に近い1988年の録音。

(3-12)今の歌声;セヴィリアの理髪師:マリリン・ホーン(Ms),LONDON,421891-2
ホーンがどんな声を聴かせるか耳をそばだてましたが、余りに正統的でしたので拍子抜けしたところ、最後に高音を出す代わりに唸るような低音を響かせました。若い時代のホーンです。1964年録音。

(3-13)今の歌声:セヴィリアの理髪師:ルイザ・テトラツイーニ(Ms),あらえびす音楽の友,OCD2100
まるで老婆が歌っているような音色で、がっかりしました。本人は必死なのでしょうが、ああやられたら「セヴィリアの理髪師」の評判に響きそう。1911年ごろの録音。

(3-14)今の歌声;セヴィリアの理髪師:シェリル・スチューダー(Sp)、EMI,CDC749961-2
装飾音の多い、その意味では古いスタイルの歌でした。ソプラノ・ヴァージョンだから仕方が無いでしょうが、音色から判断するとまるで中性的なのです。もう少し余裕が欲しかったし、その上で冒険して欲しかった。1989年録音。

(3-15)今の歌声;セヴィリアの理髪師:リリー・ポンス(Sp)、VAIA,1125
ポンスの歌は他に聴いていましたが、このロジーナまでフランス語とは恐れ入りました。と言うか、勉強不足ではありませんか。音楽は線の細さが目立ちます。セッコの多いロッシーニにフランス語は相応しく無いと思うのですが。1928-29年録音。

(3-16)今の歌声;セヴィリアの理髪師:マリア・カラス(Sp)、東芝,78312
これはセラフィン指揮で、映像のあるガリエラの指揮とは違います。あらためて聴くと、ここでカラスは装飾たっぷりに歌っているのが、そのくすんだ音色からも分かります。余り「セヴィリアの理髪師」というコトを考えなければ教科書になりますが。1954年録音。

(3-17)今の歌声;セヴィリアの理髪師:コンチータ・スペルヴィア(Ms)、EMI、CDH763499 2
大変古い時代の音であり、発声です。何しろ録音が1928年と言う時代もの。それにも関わらずスペルヴィアは魅力的だと思います。発声法が個性的なので、評価しにくいのですが、それでもこういう歌を聴いてみたくなります。

(3-18)激しい愛の火の;セヴィリアの理髪師:コンチータ・スペルヴィア(Ms)、EMI、CDH763499 2
これは前者の続きですが、声は鋭くなりますが、相変わらず評価しにくい。

(3-19)激しい愛の火の;セヴィリアの理髪師:テレサ・ベルガンサ(Ms)、ロンドン,POCL-2446
ベルガンサの録音ですが、スペルヴィアと同じ曲を歌っていると言われても、まるで別の歌みたいです。妻はこれを聴いて、丁寧で好きな歌い方だと申しておりました。1960年録音。

(3-20)それでは私じゃないの;セヴィリアの理髪師:マルゲリータ・カロージオ(Ms),HISTORIC RECORDINGS,80616
コロラトウーラの部分は尤もらしく歌っています。高音は思ったほど際立っていませんが、フィガロの登場後はフィガロを含め、魅力があります。1949年録音。

(3-21)私は町の何でも屋:セヴィリアの理髪師:ティタ・ルッフォ(Br),BMG,BOCC-2
古い音です。オーケストラの低音部の支えがもう少しあれば、と思うのですが、1920年代という録音年代を考えればヤムを得ません。歌に慣れすぎていて鼻歌風に歌うクセがあります。セラフィンが自分が特別だと信じる歌手に、カルーソ(T)、ポンセル(Sop)と並んでルッフォ(Br)を上げていました。

(3-22)序曲;セヴィリアの理髪師:レナード・バーンスタイン指揮、CBS、30DC551
音色は一様ですしテンポは遅めの上品なタッチ。その代わりロッシーニ・クレッシェンドの箇所で特別何か仕組もうとする時、高音部と低音部が別々に聴こえます。もっと融合して欲しい。どういうわけか、バーンスタインの指揮ぶりはスカラ座でのケルビーニ「メデア」など幾つかの例外を除いて、一般に私の好みとは少し差があるようです。1985年作成。
千葉のF高



最近の米国誌Opera Newsのメトロポリタン歌劇場上演録より:
今年1月号には古いサザーランドのベルリーニ「ノルマ」公演(1970年)の記事がでていました。その当時のキャストを見ますと、サザーランド(ノルマ)、マリリン・ホーン(アダルジーザ)、カルロ・ベルゴンツイ(ポリオーネ)、チェーザレ・シェピ(オロヴェーゾ)、そしてリチャード・ボニングの指揮でした。不思議な事に、あれほど大当たりした演目なのに、サザーランド/ホーンの共演はこの曲だけだったと言います。

今年2月号が今日到着しました。ここにロッシーニ「セヴィリアの理髪師」の公演予告が載っていましたが、ダイアナ・ダムラウというソプラノ主演で、あとまるでオックス男爵みたいな風貌のジョン・デル・カルロのドン・バルトロ、オッチョコチョイ丸出しのロディオン・ポゴソフのフィガロの写真をみることが出来ます。なにより、ダムラウのロジーナは久しぶりのコロラトウーラ版のロジーナだってことです。指揮はマウリツイオ・ベニーニで、2月に上演予定。

今年2月号にもうひとつ。先々月の話になりますが、2011年11月22日に、かの理想的なオクタヴィアン(10月記事、R.シュトラウス「薔薇の騎士」の拙文を参照)だった、セナ・ユリナッチがドイツのアウグスブルクで死去したそうです。すばらしいオクタヴィアンであり、まさにハプルブルク朝名残りの空気を持っていました。合掌。

(次回はマスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の予定です)


















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