「カヴァレリア・ルスティカーナ」        2012.2.17

「田舎の騎士道」という意味のピエトロ・マスカーニの曲については、以前にも少し書きました(「音楽のすすめ」第1章第26話「カヴァレリア・ルスティカーナの絶望」)。この作者は存命中に色々なことがあり、ある時にはもてはやされ、ある時はののしられるという宿命を背負っていました。マスカーニという人は19〜20世紀の人ですが、第2次世界大戦終了時まで存命でした。そもそもこの「カヴァレリア・ルスティカーナ」という曲は、1幕物の新作オペラを募集していた時に、マスカーニが応募して当選したものです(ルジェッロ・レオンカヴァルロも後に「道化師」で応募したのですが、その音楽は注意を惹くものの2幕仕立てだったためボツ)。音楽は新鮮なもので、オペラとしてあらゆる技術が用いられています。特に装飾音を排除して生の音(ナマナマしいという意味)を聴かせます。次々と新しい響きが幻惑するので、誰の耳にもこれは新しいオペラだ、と響くのです。ただし、作者の心も技術も全て「カヴァレリア・ルスティカーナ」に集中してしまったからでしょうか、他の曲は作品としての評判も人気もサッパリでした。それでもマスカーニはこの曲のお陰で大金持ちになったと言います。

結局、マスカーニの功績は、お姫様や王子様が居なくてもオペラになることを示した点に尽きるのですが、そういうオペラを纏めてヴェリズモ・オペラと呼びます。ヴェリズモには「現実主義の」という意味が込められていて、この曲の意義は小さくありません。やがてそれは、庶民の日常生活を描くもの、という意味に拡大され、先輩達の曲、プッチーニ「ラ・ボエーム」なども指すようになりました。ただ乱暴に言えば、真正ヴェリズモ・オペラは「カヴァレリア・ルスティカーナ」に始まり、「カヴァレリア・ルスティカーナ」に終わった言えるかも知れません。色々な作曲家がこの分野に挑戦しましたが、はっきり言って、レオンカヴァルロの「道化師」を例外として、余り面白くありません。この「面白く無い」という表現は失礼かも知れませんので、余り「ショッキング」でない、と言い換えましょうか。実際この曲は原色ギラギラの油絵です。それに、奇妙な話ですが、世の中には「カヴァレリア・ルスティカーナ」を軽蔑することで自らの高尚さを保とうとする人もいるのです。解説しますと、流行る歌には、誰でも歌えそうだ、という要素があります。それを巧く纏めたもの、それが「カヴァレリア・ルスティカーナ」だろうと考えます。イタリアーノ(ナポリターナでもシチリアーノでも構いません)であって、旋律の点でも良い声があれば、素人でも歌えそうな曲、そぞろ歌心をそそる曲、それが「カヴァレリア・ルスティカーナ」だと思うのです。それを隠したい人は「あんなモノ」という言い方で斜めに見ています。私は「カヴァレリア・ルスティカーナ」も大好きです。

メゾ・ソプラノのジュリエッタ・シミオナートは戦後指揮者のトスカニーニと仲良しでしたが、彼女が「カヴァレリア・ルスティカーナ」を歌うと聞いて、「そんな曲をまだ歌っているの?」と険しい目をむけた、というエピソードが伝えられています。トスカニーニは大の反ファシスト党でした。そしてご察しのとおり、マスカーニはファシスト党との距離を保てなかった人です。大戦中は大いにもてはやされ、街のアコーディオン弾きも演奏したそうですが、結果的にそれらの記憶がマスカーニの人生を狂わせてしまったようです。戦後その財産は没収され、1945年8月に死んだ後に、ようやくそれが取り消されました。「カヴァレリア・ルスティカーナ」の歌は喉が衰えたソプラノにとっては救いの神になり得ます。音が低めだからですが、実際録音盤を見るとソプラノがサントゥッツァ役を歌うこともあるし、メゾ・ソプラノが歌う例もあります。歴代の歌手達の出す名唱集の類いを見てご覧なさい。声が衰えた時に「カヴァレリア・ルスティカーナ」が出てきますよ。余り高い音を要せず、音色の変化もほどほどしか無い為です。どんなに年とっても高い音は喉に力をこめれば出ないことはないのですが、美しい高音というのはピアニッシモなのに、それを出し難くなるのです。つまり、衰えた声になると、その高音のコントロールが効かなくなり、響きが汚くなります。隠遁中のマリア・カラスにもサントゥッツァでカムバックすれば、という話が出ましたが、なぜ「カヴァレリア・ルスティカーナ」なぞ?とケンモホロロの答えだったそうです。逆に言えばその程度のオペラ、とカラスは認識していたということ。これには必ずしも同意しませんが、もっと色々な技巧をこらして、どんなもんだ、と言えるような千変万化の曲(ノルマ、メデア、ヴィオレッタ等)の方により大きな魅力を感じていたのだろうと解釈しています。これは趣味の問題です。



(210)モノローグ「カバレリア・ルスティカーナ」のあらすじ
「カヴァレリア・ルスティカーナ」の舞台はシチリア島、筋の展開はある年の復活祭のお祭りのころで、ある殺人事件を扱います。そもそも殺人事件を扱うのはオペラとして異常です。ビゼー「カルメン」について言われていたこと(社交場たるオペラ・ハウスで殺人事件を取り上げるとは!)を思い出しますね。また、華やかな内容ならともかく、ウス汚い格好をした庶民が出てくるなんて!と。話は簡単で、村娘サントゥッツァが教会の付近でウロウロしています。なにか不安と心配で胸が一杯な風情。村男のトリッドゥを探しています。馬車屋アルフィオが、たしかトリッドゥの姿を見たが、という言葉に耳をそばだてるサントゥッツァ。トリッドゥの母親ルチアに向かい、サントゥッツァは「ママも知る通り」と歌って事情を説明します。トリッドゥを見つけたサントゥッツァは、何処に居たのか、と厳しく問いますが、トリッドゥは自分の勝手だろうと答えます。実はサントゥッツァとトリッドゥは結婚の約束をしていました。それなのにトリッドゥは同じ村の若いローラという娘(以前、トリッドゥは村娘ローラと恋仲でしたが、戦地から戻った時、ローラは馬車屋アルフィオと結婚していました。そのヤケボックリに火が付いたらしいのです)の所に居たようなのです。教会からは復活祭のミサの合唱が流れてきます。どうして教会に入らないのかというローラの問いに対し、サントゥッツァは教会には身に汚れの覚えが無い人しか入れないからだ、と答えます。トリッドゥは相手にしないようなので、ますます疑いの念をいだき、サントゥッツァは「呪ってやる!悪い復活祭を!」と叫びます。実はサントゥッツァはトリッドゥの子をお腹に宿していました。ここで考えなければならないのは舞台がマフィアの里シチリア島だってことです。保守的な風土ですから、このような不祥事は厳しく処分されます。つまりサントゥッツァは死を覚悟しなければなりません。

有名な間奏曲。この作曲コンクールでは1幕仕立てでなければならないので、マスカーニはトリックとして、この間奏曲を作りました。馬車屋アルフィオは、ローラはトリッドゥのところに居た、とサントゥッツァから聞かされ、怒心頭に達してしまい、復讐のナイフをもってトリッドゥと決闘することに。当時シチリアではこういう事は当然のことでした。決闘の前にトリッドゥは母親ルチアに「あの酒は強いね」と歌い、自分が死んだらサントゥッツァを保護してくれとルチアに頼みます。村中大騒ぎになった中で決闘が行われ、トリッドゥは死に、そしてサントゥッツァとルチアは気を失います。これがストーリー。心底からの悪者がいなくても、嫉妬と意地と体面のために起きた事件。何ともマフィアっぽく、ミラノでは起きそうもない事件。だから題名も「田舎の騎士道(カヴァレリア・ルスティカーナ)」と呼ばれます。
千葉のF高



(211)モノローグ「カバレリア・ルスティカーナ」の録音について
「カヴァレリア・ルスティカーナ」のCDは色々出ています。1枚に収まるので録音し易いし、会社もリスクを減らすことも出来ます。この曲はLP盤に収録しようとするとどうしても3面を要します(LPは片面30分が限度近い)。そこで「カヴァレリア・ルスティカーナ」はレオンカヴァルロ「道化師」と組み合わせて3枚組LPとして発売されていました。CD時代になると、この両曲は片面に詰め込めるので、量の問題が無くなり、別々に販売されるようになりました。そうすると量も減り、経費も安上がりですからゾクゾクと録音された?!サテ、これが問題なのです。CD化された元になった物は殆ど旧LPで録音したテープです。つまり旧盤の焼き直し。新規に録音されるのは稀です。ソプラノ達が吹き込もうとしないし、メゾ・ソプラノ達もなかなかコシを上げて呉れません。要するにオペラを楽しむ人達の趣味が少し変わってきたのかも知れません。チェチェーリア・バルトリは見向きもしないし、もっと重い声ならどうかと探しても、ジェーン・イーグレンとかドローラ・ザジックは歌いそうもないし。これが現状です。
千葉のF高



(212)モノローグ「カバレリア・ルスティカーナ」の演奏
(1)R.ムーティ指揮、W.マイヤー(サントゥッツァ)、J.クーラ(トリッドゥ)、ティティアーナ・トラモンティ(ルチア)、P.ガヴァネルレイ(アルフィオ)、ボローニャ市立歌劇場管1990年、ラヴェンナ・アルギェーリ劇場、リリアーナ・カヴァーニ演出、VHSをDVDに移したもの。画像付き。
リッカルド・ムーティの指揮振りは情熱的でしたが、音楽はそれほどでもありません。小さな劇場ですが、日本から見ればうらやましい限りです。好感を与えてくれます。この「カヴァレリア・ルスティカーナ」は演出付きでストーリー展開を知るには便利でした。演出には色彩感が抑えられているようで、それもモノクロ映画、あるいは大昔に撮った色あせたカラー映画の感じでした。あれは意図的なのでしょうか?そして俳優達の演技はかなりリアル。細かいところまで良くわかります。例えばルチアには殆ど歌う所もないし、一般に目立ちませんが、ここでは重要な役割を演じているのが明らかです。サントゥッツァは栗原小巻のような上背と体形のワルトラウト・マイヤーが演じます。ただし声が少し小さ目。サラッとしてクセがないのですが、この「カヴァレリア」という曲にはどうしても原色が必要なのです。実はこれを聴いたのは大昔にVHSテープに録画してあったのを偶然発見したので、それを掛けた次第。こういうコトは今後も時々ありそうですね。

ローラは外向的で目立ちたがり屋だと分かりましたが、あれとサントゥッツァとではケンカになりません。ここで馬車屋アルフィオは粗野な感じが出ていましたが、貴族的過ぎるよりマシ。教会前で礼拝が済んだあと人々がゾロゾロ出て来る所、そしてトリドウが陽気に人々にしゃべりかける箇所は、人々はあまりウキウキと歌えていません(楽しそうに歌って欲しいのですが)。そのあと、サントゥッツァがアルフィオに告げ口するシーンから後へ向かってどんどん演技が濃くなりました。さすがバイロイト音楽祭(ワーグナー「パルシファル」のクンドリー役)で鍛えたマイヤーの演技は堂に入っています。最後にトリッドゥがルチアに別れを告げるシーンがあり、そのあと叫びと悲鳴が聴こえ、そして人々が舞台全面に出て来て、まとまって静止画を作って(これは新しい)、終幕になります。結局このオペラ、誰が悪者なのでしょうか。そもそもはトリッドゥとサントゥッツァいずれもが原因になりそうです。だからこの「カヴァレリア・ルスティカーナ」という曲は聴く毎にやるせない気持ちにさせられます。

(2)R.ムーティ指揮、M,カバリエ(サントゥッツァ)、J.カレラス(トリッドゥ)、A.ヴァルナイ(ルチア)、M.マヌグエラ(アルフィオ)、東芝EMI, TOCE-9141、フィルハーモニア管1979年録音
スピーカーの近くで耳をそばだてると、何とも古い音なのです。なにか古い和菓子の表面がやや乾涸びたような感じ。粉っぽい表面仕様。しかもこれは最も録音年代が新しい盤です(比較に用いた盤はいずれも古いのですが)。確かに遠景の表現とか優れた所もありますが、歌手個人が歌う時に、さあどうだ、と胸を張って構えて歌うのはやや古いかもしれません。キャスティングは中々のもので、まず気がつくのがアストリッド・ヴァルナイのうたう母親ルチア役です。表現にドスが効いていますが少しオーバーではないでしょうか。なぜこのルチアの役にわざわざヴァルナイを採用したのでしょうか(もったいない配役)。モンセラ・カバリエのサントゥッツァはもう一段乾涸びているような気がします。そうして「カバリエ」というキャスティングにも、ヴァルナイと逆の意味の疑問(盲目的な配役)が出ました。カバリエは声が伸びていませんし、さりとて妖艶な脂気も感じません。伸びが悪い声です。もう少し小さい声で済む役の方が相応しい声でした。かつてはともかく、この録音時点ではヴェリズモに相応しいとは思えませんでした。この疑問は、馬車屋やローラに対しては何とも感じませんが、カバリエに対しては最後まで残りました。アルフィオが馬車で現れるところ、鞭のピシッと打つ音が激しく、これは痛そうでした。そしてホセ・カレラスの声と歌い方は、やや向こう見ずな感じで、それはむしろこのトリッドゥに相応しい声でした。これが余りに熟慮に富む声ではおかしくなります。カルロ・ベルゴンツイでは真面目すぎてダメでしょう。若々しく、思い切り良く、まだ青臭さが残っている必要があります。その点、カレラスは相応しい声でした。カレラスは独特なファンを抱えていますが、私もウイーンで聴いた時、日本人の追っかけファンがいました。またこの録音のために特に起用したのでしょうが、叫び声も重要ですね。最後のシーンにある「トリッドゥが殺された!」と言う叫び声は、他に聞いたことのないリアルでぞっとする声でした。少なくともこのシーンはムーティの勝利です。ムーティの指揮ぶりはオーソドックスでしたが、後半にそのテンポが確実に揺れ動いていました。その方が良いです。間奏曲は中庸でした。

(3)A.エレーデ指揮、R.テバルディ(サントゥッツァ)、J.ピョルリンク(トリッドゥ)、R.コルシ(ルチア)、E.バスティアニーニ(アルフィオ)、フィレンツエ5月音楽祭管、1957年録音、ロンドン、POCL-2557
これは伝統的な「カヴァレリア・ルスティカーナ」演奏の記録です。思い切りこれぞリリコ・スピントだ、と言える勢いのある声で歌うレナータ・テバルディを始め、歌手達は皆思い切りが良く、惜しげも無く声の洪水を聴かせます。トリッドゥを歌うユッシ・ピョルリンクの声は彼の良い時の記録だろうと思います。実はピョルリンク(スウエーデン人)の声の変遷はジョン・ヴィッカーズの声の変遷を思わせますね。ひらたく言うと、後になるほど少し汚い声に。力はありますが、声の調子が良い時はともかく、調子が崩れた時は少しハラハラしなければなりません。その原因は声に透明感がなく、さりとて黄金の輝かしさも持っていないことです。私はメットで合計3回(1979、1985、1986)ヴィッカーズの歌う「パルシファル」全曲を聴きましたが、その声の欠点は後になるほど明らかになったと思いました。そして私の耳は、ピョルリンクの声にも同様な気配を感じました。そして馬方アルフィオを歌うエットーレ・バスティアニーニの貴族的な声と比べると差を感じます。バスティアニーニの本領はやはりルーナ伯爵(ヴェルディ「トロヴァトーレ」)のような貴族が相応しく、馬方ではありません。声の大きさ自体がやや小さめな気がしましたが、しかも貴族の証、声に銀粉を含んでいます。テバルディはこの時(1957年)ですから声に不安がなく、彼女の持つ声の武器を最大に利用しています。あんなに大きく叫んで大丈夫かしらん、と心配するほど。もちろん所々に、テバルディ特有のやさしさは認められる訳ですが、それよりも叫ぶ方に耳が向いてしまいます。イケイケ、これならヴェルディ「仮面舞踏会」のアメリアでも歌えそうだ、と言いたくなります。ここで上目使いにジッと見つめるような女の情念を考えると、余りピッタリとは言えないのですが、構わないから声を誇れ、力を見せろ、という場合はこれで正解。幸いテバルディはこの時期なら声が十分出ましたし。

もう一つ言いたいのは、この録音はコーラスが素晴らしいこと。次々と繰り出される合唱は確かにこの曲の評判を高めています。確実にカタルシスが得られます。そのかわり最後の場面は音が少し抑え目でした。もっと大きくすることも可能。ムーティの指揮では大きさはオーバーですが、ヴェリズモ・オペラだと思えば許されるのではないでしょうか。でもエレーデの指揮ぶりは、なかなか堂に入ったもので、旋律は当初から伸縮自在でした。これは慣れた人がやると実に効果的です。ただ、あの間奏曲の部分で明らかにテンポが落ちるのはどうしてでしょうか。

(4)R.チェルリーニ指揮、Z.ミラノフ(サントゥッツァ)、J.ピョルリンク(トリッドゥ)、M.ロッジェロ(ルチア)、R.メリル(アルフィオ)、RCA管、1953年録音、RCABVCC-8885-86
最初に気がつくのは音の響きが古めかしく、AMラジオ放送そのままという感じです。それに輪をかけたのがトリッドゥが歌う最初の歌の音質。これは古いなと思いました。そもそもこの録音はモノラルなんですよ。1953年ですからヤムを得ないだろうとは思います。そしてジンカ・ミラノフの声の記録としては価値がありますが、セールス面では失敗だったようです。このころイタリア・オペラの録音は、このRCA(当時ビクター)レーベルのものが次々出来ましたが、売れ行きはいずれもはかばかしく無かった、と聞きます。その半分は音質面に、あまり注意を払わなかったせいではないか、と思うのです。トスカニーニ指揮のレコードの音質を思い出すのですが、ホロヴィッツとのライブ類が皆そうですね。それが一向に改善されていません。そしてミラノフ。彼女は自分の前に世界中がひれ伏すべきだ、と思っていたようですが、すでに時代はミラノフからカラス、テバルディへと変化している時でした。ミラノフは決してまずくはありません。抑えるべきポイントを知っているのは明らかです。この「カヴァレリア・ルスティカーナ」では最後のシーンで音量が少し足りない気がしましたが、これは指揮者の方の責任でしょう。トリッドゥをののしる場面なぞ、ぞっとする迫力があります。

ひとつ気になる点があります。それは間奏曲より後の部分で、いよいよクライマックスだよ、という場面でバックに流れる笛の音が、まるで「笛の音」という表現を裏付けるようなのです。旋律を正直にトレースしているだけ、という感じです。これはマズくはないかと思いました。そしてあっさりと終曲に向かいます。まるでサントゥッツァの存在感が感じられません。もう少し演出があれば、と思うのですが。これもRCAの録音方針だったのでしょうか。

ミラノフという人は、Hy氏は実際の舞台の体験からこれは巧い人だ、と書いていますが、T氏は例によって眼鏡越しです(否定的だという意味)。しかしオペラはやはり正直に聴きましょう。幸いRCA社は曲目は多く残してくれました。ヴェルディ「トロヴァトーレ」のレオノーラ、ヴェルディ「アイーダ」等の比較的強い声が多いですね。あとは如何にそれらと接するかです。そしてトスカニーニ指揮でヴェルディ「リゴレット」の第4幕もあります。ヴァーサタイルです。私が高校1年生のころ、レコード・カタログを覗くと例えば「アイーダ」ではEMIのカラス、デッカのテバルディ、そしてRCAのミラノフの3種類が並んでいましたし、ラジオ放送(!)で聴いて、ミラノフって巧いじゃないか、カラス、テバルディより良いかも知れない、という感想を持ったものです。

(5)T.セラフィン指揮、G.シミオナート(サントゥッツァ)、MD.モナコ(トリッドゥ)、AD.スタジオ(ルチア)、C.マクネイル(アルフィオ)、チェチーリア音楽院管、ポリドール、1960年録音、POCL-2557
今度はジュリエッタ・シミオナートのメゾ・ソプラノ(サントゥッツァ)、トゥリオ・セラフィンの指揮です。これは最初に買ったものでLP時代から数えると45年間も聴いてきました。その意味では私にはシミオナートの型がなかば染込んでいます。もっともこの曲は私だけでなく、妻も同様で、長野羊奈子さんのサントゥッツァと、ニューヨークで観たフィオレンツア・コソットの同役で「カヴァレリア」に接しています。ここではまずデル・モナコの歌で始まりますが、そのゴウ然と響く声は何とも英雄的です。トリッドゥというのはほんの少し小心の男かも知れない、という思いも少し出てきます。本当に巧く、あらゆる批判を跳ね返すような、立派な男の声でした。これで行くのかな、という思いと、それを表に出しすぎると逆になるし(小心な、貧弱な音と)、という思いが錯綜しますね。立て続けにサントゥッツァが出てきますが、その声の盤石なこと!1960年の録音なので、どこかに傷があるはずだ、と哀れな詮索もしてみましたが、そういう衰えた声はありません。ますます響き渡る立派な声でした。もしこれで行ききるのなら、新たなサントゥッツァのイメージを捜索しなければならないな、と考えた次第。

3番手にはコーネル・マックネイルの馬方アルフィオが登場します。これは私の持論なのですが、馬方には馬方に相応しい声のバリトンであることが必要です。なにもルーナ伯爵やドン・ジョヴァンニのような貴族である必要はないし、むしろそれは有害です。荒々しく粗忽さが備わっている必要があります。その意味で、この役割配置は成功です。「デッカの恥」なんて言った一部の批評家の言は、言い過ぎと思います。逆の意味で母親ルチア役がやや若過ぎるような気がしました。

シミオナートは声を千変万化させますが、トリッドゥとの対決の場面では恐ろしい鬼女の姿を表しています。もっともそれはデル・モナコのトリッドゥの逆上がシミオナートの呪いをしっかり受け止めていて、それが全体の印象を高めているのです。デル・モナコはテープ・レコーダを先生として諸役を練習した、と聞きますが、この対決場面は成功例。ただ、同じデル・モナコがエレーナ・スリオーティスのサントゥッツァと組んで録音した「カヴァレリア・ルスティカーナ」(これはLPのみしか持っていないので、比較試聴からカットしました)では余り面白くありません。これはどうしてか、分からず。デル・モナコの歌は注意深く聴くと、ほんのチョッとですが、諸所にアレで良かったのかな、と思う瞬間があります。しかし、そういう些細な欠点をアゲツラっていては全体を見失います。やはりデル・モナコのこの英雄的な声で表すトリッドゥは立派だと思いました。セラフィンの指揮は本当に巧いと思います。あちこち注意深く聴くと分かりますが、本当に堂に入っています。それは最終場面の構築ぶりでも同じ。全曲が原色キラキラなのですが、このセラフィンの指揮ぶりを聴くと、どんな細部でも太陽光が光っています。

(6)T.セラフィン指揮、M.カラス(サントゥッツァ)、JD.ステーファノ(トリッドゥ)、E.ティコツイ(ルチア)、R.パネライ(アルフィオ)、ミラノ・スカラ座管、1953年録音、東芝TOCE-8556
マリア・カラスの登場です。1953年の録音で、かなり古いので、心配はありました。カラスは自信がついた後、やりたい曲だけえり好みしたかったようですが、1953年頃には何でも良いから最新機器を用いて録音して欲しかったと見えます。勿論モノラルです。最初のテノール独唱はディ・ステーファノが歌いますが、巧い。どこも欠点がありません。私は昔はテノールとしてディ・ステーファノは好きでなかったのですが、今は違います。彼の声はいつ聴いても万全です。そしてオペラ開始後、カラスが登場してルチアに尋ねる場面では耳はカラスに釘付けになります。どう歌うのでしょうか。私自身も最近は滅多に「カヴァレリア」をカラスで聴く事が無かったのですが、このCDは日本で初登場だといいますから、聴き易いのではないかと期待しました。途中で気がついたのですが、元のテープに何か問題があったのでしょうか。開幕後初めの合唱のあるところ、音がまるで多重音源かと思うほどの具合の悪さを感じました。音がしっかり定位してくれません。時々ザーっという音も混じります。私の運が悪かっただけであって欲しいと思います。私がカラスに関して心配したのは、一点のみ、つまりカラスは偉そう過ぎないか、ということだけ心配して聴きました。これは妻も同様だったらしく、一人ふんぞり返って歌っていないか、と思っていたそうです。そうではありませんでした。勿論ディクションが明快なカラスは、これは尋ねている場面、これは心配でオロオロしてる所、と一つ一つ確かめながら進んで行きますが、期待通り。カラスは決して安っぽくはありませんが、プリマ・ドンナ風は無かったのです。ただこの立派なカラスを聴くと、なぜもっと自立して客観的に振る舞えなかったのだろう(オキテを破ってトリッドゥの子を宿している)と思うのです。でも、客観的な女性なんてオペラにはいませんね。

ロランド・パネライの演じる馬方アルフィオの声が過度に貴族的でなく、力もあって馬も言うことを聞きそう。またアンナ・マリア・カナーリの歌うローラの声にこれで馴染めるかな、と当初思いましたが、これがローラとトリッドゥの会話になる場面で、ローラの声が見事にも娼婦性丸出しだったので納得。あれ(娼婦)なら、サントゥッツァの敵ではありません。そしてサントゥッツァとトリッドゥのやり合うところ。ここでカラスがののしる声にはぎょっとさせられます。ディ・ステーファノも同様です。これはヴェリズモ・オペラを聴く際必要な要素。トゥリオ・セラフィンの指揮は正統派で、堂々としています。ここは重要なハイライトだから、と聴き手が頭の中に思うことを見事に実現して呉れます。そこでもカラスの声はやや細めに響きます。

思えばこの「カヴァレリア・ルスティカーナ」は1953年録音ですから、カラスは同年スカラ座でバーンスタイン指揮でケルビーニ「メデア」を上演しています。その海賊版は私にとって宝物のひとつ。あんなに激しいメデア、というより怒り狂う女性を知りません。実際のこの「カヴァレリア・ルスティカーナ」におけるトリッドゥとサントゥッツァの対決の場面にも、思わずまるでメデアだ、と思った瞬間がありました。それを考えると、ここでのカラスはとてつもない才能を持っている、と再認識。そしてカラスはこれをアテネ時代に歌ったことはありますが、イタリアに移住して以来、歌ったことはありません。妻は聴き終わってから、カラスのことだからもっとオモテに出て(出たがって)、太い声で圧倒するのかと思っていたわ、でも中々良いわ、と感想を述べました。私はそれに対して苦笑するのみ。

(7)A.ヴォットー指揮、G.シミオナート(サントゥッツァ)、G.D.ステーファノ(トリッドゥ)、O.ベジュアート(ルチア)、G.グエルフィ(アルフィオ)、ミラノ・スカラ座管、1955年実況録音、OperaDoro OPD-1230
いよいよ最終回で、これはスカラ座実況録音です。1955年ですからカラスは絶頂期でスカラ座でルキーノ・ヴィスコンティ演出のヴェルディ「椿姫」を歌っていますが、ここではカラスでなく、シミオナートに注目。「カヴァレリア・ルスティカーナ」に置けるサントウッツアはソプラノでもメゾ・ソプラノでも歌える珍しい曲です。この実況盤、やはり実況盤だからなあと思わせる音質です。天下のスカラ座なんですが、音は貧弱。ただ、途中で入る観客達の歓声などによってイタリアの聴衆はこの曲のどこが好きかという点が分かります。指揮者はアントニーノ・グイですが、その評価はオペラ進行のどの時点でするかに影響されそう。始めはまるでバラバラで、こういう指揮じゃ期待できないかと思っていましが、対決以降の後の部分ではピシピシと冴えています。これなら私も好きなテンポ。

シミオナートは登場後しばらくは、まあ聴いてみますよ、と構える程度でしたが、対決の場面では素晴らしく緊張感がありました。この叫ぶ行為は他の音に影響するため余りやりたく無いのですが、実況ですから避ける事ができません。そう思って「叫ぶ」を比較しますと、私の耳には昨日のカラスEMI盤と、このシミオナートのスカラ座実況盤が双璧です。馬方のアルフィオは粗野な感じ丸出しでしたが、気取った貴族趣味と違ってこれなりに尤もだと思いました。ただ、トリッドゥの母親ルチアの声に特徴が無く、冒頭のシーンなど、サントゥッツァとルチアを区別しにくい感じでした。こういうところ、声の対比というのは極めて重要ですね。ルチアとかローラという脇役は、声楽的に優秀であるかどうかより、主役と対比が付くことでは、と思いました。

そしてジュゼッペ・ディ・ステーファノの歌うトリッドゥ。全編若さを振りまいていますが、ディ・ステーファノ特有のクセ(○○レ、とか○○トなど語尾の膨らませ方と、音の引きずり方)は、やや掴みづらい。ただし、注意深く聴けば後半などはっきり聴き取れます。教会から出たばかりのあたり、ピョンピョン飛び跳ねるようで、若さが聴き取れます。サントゥッツァとの対決の場面ではシミオナートがピシピシと声を決めて来るのでディ・ステーファノの方も遠慮なくやり返していて、聴き物です。終幕のところでディ・ステーファノが引っ込む所では熱い拍手を歓声を浴びていました。オーケストラの畳み込むようなテンポのお陰で、これは成功した上演だったのだ、と分かった次第。

また関連するアリアは下記の通り。
(8)ルチア「お母さん教えて」、P.マスカーニ指揮、G.シミオナート、1940.4.16録音
シミオナートは第2次世界大戦以前から歌い始めたため、非常に古い録音が残されており、ここでは作曲者のマスカーニ自身が指揮しています。2002Phono Enterprise、Italy
これは珍しい作曲者自身の指揮によりシミオナートが歌った戦前の録音です。思ったより音はクリアでした。シミオナートの声は聴き取り易く、普通の比較に耐えられます。でももうチョッと発声に改善の余地がありそうです。シミオナート故に出る注文です。

(9)「ママも知る通り」G.バンブリー(Ms)、ヤーノシュ・クルカ指揮、ベルリン放送響、1962年録音、ポリドール、POCG-3030
これは聞き慣れた曲ですが、バンブリーのメゾ・ソプラノの声も表現も最もマトモな類い。結果的に、どうやら歌劇役者としてバンブリーは無視されているような気がしますが、これは私が日本に生活していて、日本から大概の情報が手に入るからかも知れません。またもT氏の影響が大きいのではと思います。フレーズの切り方、各音符のトップへの入り方等、結構なものでした。

(10)「ママも知る通り」V.D.ロス・アンヘレス、不詳、Regis RRC 1232
サントゥッツァはソプラノが歌いますが、歌い方としては、アリア集を大過なく歌うという点に注意が行っているようです。声は甘く柔らかく、これだけ聴いていれば決して文句も出そうもありません。しかし全曲を組み立てようとすると、ちょっと待て、と言いたくなります。しかし、まろやかで可愛らしいサントゥッツァでした。

(11)「ママも知る通り」A.バルツア、H.ワルベルグ指揮、ミュンヘン放送管、ORFEO C171881A
メゾ・ソプラノ版です。バルツアは少し声を引きずるように歌っています。声自体はまったく自由に出ていますし、文句ありません。その変わり、ややテンポが遅いかな。そしてあらゆるフレーズを滑らかに歌っていますが、決してサントゥッツァがそのように歌うとは思えないのです。でも大変美しいサントゥッツァです。
千葉のF高


以上です。この曲をまとめて聴いて、私の色々な勉強になりました。
次回はドニゼッティ「ランメルムーアのルチア」を予定しています。


















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